静かに揺れる、君との未来 3
教員棟の奥。
人の気配がほとんどない廊下を、私の靴音だけが静かに響いていた。
夕方の光が細い窓から差し込み、床に長い影を落としている。
目的の部屋の前で立ち止まり、私は一度だけ深く息を吸い込んだ。
(……ちゃんと、確かめなきゃ)
胸の奥でそう呟いたものの、指先がわずかに震えているのが分かる。
心臓の鼓動が、まるで音になって廊下に響いてしまいそうだった。
それでも――もう、戻るわけにはいかない。
トン、トン、トン。
静かな空気を破って、ノックの音が響く。
数秒の間を置いて、聞き慣れた穏やかな声が返ってきた。
「どうぞ」
その声に導かれるように、ゆっくりと扉を開ける。
部屋の中は、夕暮れの光が差し込む静かな空間。
整然と並ぶ書類と、淡い香草の香りが漂っていた。
机の向こうでラフィン先生が書類を整え、顔を上げる。
微笑んだその表情は、いつも通り柔らかく、けれどどこか、人の温度を感じさせなかった。
その笑みを見た瞬間、背筋を冷たいものが撫でていく。
「こんにちは、フィオラ君。今日は、一人でここに?」
「はい……先生に、聞きたいことがあって」
私の言葉に、ラフィン先生はわずかに目を細める。
その表情は、笑っているようで、どこか探るようでもあった。
「聞きたいこと?」
「……アレン様のことです。やっぱり先生、何か知ってるんじゃないですか?」
思わず、声が強くなる。
けれど、ラフィン先生は一切動じず、薄く笑みを浮かべた。
「随分と直球だね。でも……嫌いじゃないよ、そういう率直さ」
「っ……!」
「そうだね……もし仮に、私が何かを“していた”としたら。……君は、どうするつもり?」
穏やかな声。
それなのに、心臓を冷たい指で掴まれたような感覚がした。
「……やめてもらえるようにお願いします」
絞り出すように言うと、ラフィン先生はフッと笑う。
その笑いは柔らかいのに、どこかで“愉しんでいる”ようだった。
「ふふ……やっぱり、そう言うと思ったよ。優しいね、フィオラ君。でも、“やめて”というのなら、それなりの“見返り”が必要だと思わない?」
「……見返り、ですか?」
ラフィン先生の指先が、机の上の万年筆をゆっくり転がす。
カチリ、と小さな音が響くたびに、部屋の空気が少しずつ張りつめていく。
「……そう。例えば、君が【破壊】の能力を持っていると公表する、とかどうかな?」
その言葉を聞いた瞬間、息が止まった。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れるような感覚が走る。
「……それだけ、ですか?」
「ああ。君がするのはそれだけ。……ただし、その後は、全て私に任せてくれれば、ね?」
ラフィン先生は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
けれど、その瞳には一片の温度もなかった。
ただ、深く澄んだ闇がそこにあった。
「もちろん、君の安全は保証するよ。――“第二王子の婚約者"として。その立場を私なら用意できる」
(……“第二王子”って……やっぱり……)
脳裏に、忘れかけていた名前が過る。
アレン様の異母弟――セシル=ヴェンツェベルク。
前世のゲームでは、彼の名だけは何度も登場していた。
けれど、物語の裏で暗躍する“影”としてしか語られなかった存在。
(どうして……今まで、この名前を思い出さなかったんだろう……)
ラフィン先生の声が、静かに続く。
「【破壊】は、これからの時代を変える鍵になる。君がそれを持っているということ――それは、この国にとっても、君自身にとっても価値のあることだと思わない?」
優しい口調なのに、その言葉の一つひとつが喉を締めつけるようだった。
「もし協力してくれるなら、君の周りの人間にもう【干渉】は使わない。アレン殿下の身体にも、余計な負担はかけない。……本当は君の能力を使った“暗殺計画”もあるが、白紙にしてあげよう」
穏やかに笑いながら、ゾッとするような言葉を紡ぐ。
「悪い取引じゃないでしょう?」
胸の奥が、冷たい手でゆっくりと掴まれる。
息を吸うたびに、氷が喉を滑り落ちるようだった。
(……私が能力公表して、セシル様の婚約者になれば……アレン様を、みんなを救える……?)
一瞬だけ、それが正しい道のように思えてしまう。
頭の中で、ラフィン先生の声が甘く響く。
(……もしかしたら、それは“ハッピーエンド”なのかもしれない……)
ほんの一瞬、頷こうとしたーーその時だった。
ーーガタン。
扉の向こうから、低く鋭い声が響いた。
「……誰が、そんなふざけた話を許すって?」
低く、鋭い声が空気を切り裂いた。
一瞬で、部屋の温度が下がる。
私は、思わずその声のする方へと振り返った。
扉の向こうに立っていたのは、見慣れた真紅の瞳。
「アレン、様……」
ゆっくりと、しかし確かな足取りでこちらへと歩み寄ってくる。
その一歩一歩が、まるで空気ごと圧してくるようだった。
いつもと同じ威厳ある歩き方。
けれど、私は気づいてしまった。
(……顔色が悪い)
吐息がわずかに乱れ、額には薄い汗。
それでも、その瞳の奥に宿る光は、いっさい揺らいでいなかった。
「お前……【破壊】を公にするとか、政略に巻き込むとか……正気か?」
低く抑えられた声。
けれどその奥に潜む怒りは、部屋の空気を震わせるほどだった。
アレン様の真紅の瞳が、ラフィン先生をまっすぐ射抜く。
ラフィン先生は、その殺気を受けても眉一つ動かさず――むしろ、楽しむように口角を上げた。
「何のことでしょうか? 殿下には関係のない話かと思いましたが?」
その声音は、あくまで柔らかく、穏やか。
けれど、その穏やかさが余計に不気味で、空気をさらに張りつめさせる。
アレン様の視線が、鋭く光った。
まるでその一瞬、周囲の空気すら焼き切るような熱を帯びていた。
「俺に関係ない?王位継承権にもこいつを巻き込んでおいて、そんな言葉で誤魔化せると思うなよ」
静かに響いたその声に、空気が震えた。
私は立ちすくんだまま、ただアレン様を見つめるしかなかった。
いつもは冷静で、どんな状況でも余裕を崩さない彼が――こんなにもはっきりと怒っている。
「こいつの能力を勝手に覚醒させようとして……そのうえ、自分の思い通りに動かせると思ったのか?」
吐き捨てるような低い声。
それは怒号ではなく、鋭く研ぎ澄まされた刃のようだった。
アレン様は、私のすぐ前に立った。
その姿勢は迷いがなく、まるで私を庇うように両肩の前に立ちはだかる。
「もう、こいつには――お前たちを近づかせない」
脅しではなかった。
その声音には、静かな怒りと、確固たる“意志”だけが宿っていた。
その宣言に、ラフィン先生はフッと目を伏せる。
まるで待ちわびた舞台の幕が上がったかのように、薄く微笑んだ。
「ふふ……さすがですね。さすがは未来の国王陛下。
ですが――“フィオラ君の能力”は、殿下にはどうしようもできませんよ?」
その穏やかな声が、逆に氷のように冷たかった。
胸の奥がひやりと冷たくなり、喉がきゅっと締めつけられる。
その時――
アレン様の手が、静かに私の肩に触れた。
それは、何も言わずに「大丈夫だ」と伝えるような、温かな手だった。
けれど同時に、その温もりの奥に、強い緊張と痛みが混じっているのを感じた。
「……アレン様……」
呼びかけた声が、わずかに震える。
それでも彼は、振り返ることなく静かに言った。
「行こう、フィオラ」
短く、それでいて優しい声音。
その響きに導かれるように、私は小さく頷いた。
「……はい」
アレン様の手が、そっと私の指を包む。
そしてそのまま、引かれるように歩き出す。
すれ違う空気がまだ冷たく、二人の足音だけが廊下に静かに響いていた。
彼の手は少し冷たくて、わずかに震えている。
それでもその温もりは、確かに私のためにそこにあった。
言葉にできない想いが、胸の奥で静かに脈打っていた。




