静かに揺れる、君との未来 1
夏休みが明け、学園に少しずつ賑わいが戻り始めた頃。
中庭には笑い声が響き、風に揺れる制服の音が、またいつもの日常を思い出させてくれる。
授業に課題に、新しい学期の始まりと共に、私はすっかりその流れに飲み込まれていた。
気づけば、あの王宮での訓練も、しばらくできていない。
【破壊】という言葉が、少し遠い出来事のように感じてしまうほどに。
そんなある日の昼休み。
私はレオンとシリウスと並んで、中庭から校舎へ戻る途中だった。
ちょうど角を曲がった、その瞬間――
「あっ……!」
思わず声が漏れる。
視線の先にいたのは、アレン様。そしてそのすぐ傍には、いつも通りのオリバーさん。
「フィオラ。偶然だな」
アレン様は穏やかな笑みを浮かべて、こちらに歩み寄ってくる。
けれど、その笑みの奥に、微かな影が差しているのを感じた。
するとほんの一瞬、彼の瞳が揺れる。
「アレン様……?」
そう名前を呼びかけた次の瞬間、アレン様の足元がふらりと崩れた。
「っ――アレン!」
オリバーさんが素早く腕を伸ばし、彼の身体を支える。
その衝撃に、周囲の生徒たちのざわめきが一気に広がった。
アレン様は苦しげに眉を寄せ、片手で額を押さえながら、ゆっくりとその場に膝をついた。
「え……!?」
思わず息を呑む。
私たちは慌ててアレン様のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
最初に声を上げたのは、シリウスだった。
その問いかける声は、普段の彼からは想像できないほど強張っている。
「……ああ、ちょっと眩暈がしただけだ」
心配そうに覗き込むシリウスに、アレン様はいつものように微笑もうとした。
けれど、その額には薄く汗が滲み、唇の色も悪い。
肩越しに見えるその横顔には、疲労と痛みが確かに刻まれていた。
「最近、ずっとこんな調子なんだ。……勝手に“視えて”しまって」
掠れた声が、夏の風にかき消されるように静かに響く。
(……“視えてしまう”……?)
その言葉を聞いた瞬間、脳裏に――前世の記憶が蘇る。
あのゲームのバッドエンド。
アレン様は、最初こそ“民を守るために”と、自らの意思で【未来予知】を使っていた。
けれど、それはいつの間にか、自分の意思とは関係なく“視えてしまう”ものへと変わっていった。
未来が押し寄せるように頭に流れ込み、彼はただ受け止めることしかできなくなった。
止めようとしても止まらず、視たくもない光景まで、容赦なく瞼の裏に焼きついていく。
やがてその負荷が、彼自身を蝕み始めた。
心も、体も、少しずつ壊れていく――まるで未来そのものに呑み込まれていくように。
そして最後には、ヒロインと離れ、王位継承権を奪われ、孤独の中で倒れ、誰にも看取られずに――その命を落とすのだ。
(まさか……同じ道を、辿ろうとしてる……?)
似たような状況に、冷たいものが背筋を駆け上がる。
見慣れたはずの笑顔が、急に遠くに感じた。
王子として、誰よりも強く在ろうとする人。
でも今の彼は――まるで、崩れ落ちる寸前の光のように脆く見えた。
胸の奥で、何かがきゅっと締めつけられる。
「本当に、大丈夫だ」
そう言って、アレン様はゆっくりと立ち上がろうとした。
しかし、足に力が入らないのか、わずかに膝が震えている。
近くの壁に手をついても、体を支えるのがやっとのようだった。
そんな彼の前で、オリバーさんが静かに膝をつく。
普段の柔らかな雰囲気とは違う、低く落ち着いた声で告げた。
「なあ、アレン……もう、無理しないほうがいい」
その声音には従者ではなく、長年の友としての重みが宿っていた。
アレン様は何も返さず、目を閉じて小さく息を吐く。
わずかな沈黙のあと、再び顔を上げたその瞳には、まだ深い疲労の影が残っていた。
それでも彼は、いつものように口元を緩める。
「お前たち、悪かったな。こんなところを見せてしまって」
それは、いつもの軽やかな笑み。
けれど、今はその笑顔がどこか痛々しく見えた。
「アレン様……もう大丈夫なんですか?」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
その震えが、今目の前の不安によるものなのか、それとも――前世で見た“彼の最期”の記憶によるものなのか、わからない。
アレン様は、そんな私の様子を気遣うように、穏やかに微笑んだ。
そして、ふらつきながらも立ち上がると、少しだけこちらを見て、淡々と口を開く。
「大丈夫だ。ちょっと、予知が強めに視えただけだ。すぐに……」
――その瞬間。
真紅の瞳が、かすかに光を帯びた。
息を呑むほどの鋭さが走り、彼の言葉が途切れる。
血の気が引き、表情から生気が失われていく。
まるで――どこか遠く、見えない未来を見ているような目だった。
「アレン様……?」
不安が胸を締めつける。
思わず一歩、彼に近づこうとした――その時。
――カシャン。
軽い金属音が響いた。
気づけば、オリバーさんが私とアレン様の間に、すっと立ちはだかっていた。
その動きは驚くほど滑らかで、まるで反射のようだった。
「ストップ」
低く、鋭い声。
その声に思わず足が止まる。
オリバーさんは一歩も引かず、真剣な眼差しでアレン様を見据えていた。
その横顔は、いつもの柔らかい笑みとはまるで違っていた。
「これ以上、アレンと君を近づけるわけにはいかない」
「え……?」
戸惑う私の横で、レオンが声を上げる。
「それってどういう意味ですか?!」
オリバーさんは短く息を吐き、言葉を選ぶように続けた。
「……今のアレンは、望んでいないのにフィオラちゃんに関する予知が次々に“視えてくる”状態なんだ。何が引き金になっているのかはまだ分からない。けれど――これ以上、君と一緒にいるのは危険だ」
その声には、いつもの穏やかさはなかった。
真っ直ぐで、容赦のない現実だけが響いていた。
「オリバー……? 俺は、まだ――」
意識が戻ったのか、アレン様が何かを言いかけたが、オリバーさんが静かに言葉を遮る。
「アレン。俺はお前の“専属騎士”だ。今はお前を守ることが、俺の最優先だって、わかるだろ?」
その言葉に、アレン様は短く目を伏せた。
唇を強く噛み、わずかに震える息を吐く。
そして――いつものように冷静な表情を取り戻す。
「……すまない、お前たち。今日は、ここまでにしておこう」
「……っ、アレン様……」
「また、改めて話そう」
それだけを告げて、アレン様は踵を返した。
オリバーさんが無言でその背を守るように続く。
去り際、背中越しに、ほんの微かな声が届いた気がした。
それは確かに、私の名を呼ぶ声。
けれど、彼は振り向かず、ただ静かに遠ざかっていく。
伸ばした指先は、空を掴むように宙を彷徨う。
私は、その場から一歩も動けず、ただアレン様たちの背を見送ることしかできなかった。
アレン様たちが去ったあとの廊下は、まるで音を失ったように静まり返っていた。
さっきまでざわめいていた生徒たちの姿も、いつの間にか消えていた。
残されたのは、私の胸の奥に残るざらついた不安と、ひどく冷たい沈黙だけ。
(……何、これ……? こんなに静かだったっけ……)
そのなんとも言えない違和感を、言葉にできないまま立ち尽くしていたとき――
「フィオラ君、どうかしましたか?」
不意に背後から声が落ちた。
「――っ!」
反射的に肩が跳ねる。
振り返った先にいたのは、いつものように穏やかな笑みを浮かべたラフィン先生だった。
白衣の裾が、風のない廊下でふわりと揺れる。
それだけで、空気が少しひやりと変わった気がした。
「……ラフィン、先生?」
名前を呼ぶ声が、少しだけ震える。
先生の瞳は相変わらず柔らかいのに、その奥に映る光はどこか冷たい。
私のすぐ隣で、シリウスとカロンが同時に一歩前へ出た。
その動きは、ごく自然で――けれど明確な“警戒”の意志を帯びていた。
「先ほど、アレン殿下とすれ違ったんだけど……ちょっと様子が変だったね」
ラフィン先生は何でもない世間話のように口にした。
けれど、その声音には、どこか愉悦を含んだような響きが混じっていた。
「……先生は、何か知っているんですか?」
思わず問い返す。
私の声は、自分でも気づくほど強張っていた。
先生はゆっくりと首を傾げ、わざとらしく唇の端を上げる。
「いいや?ただ……あれは“能力の使いすぎ”のように見えたから、少し心配でね」
その“心配”という言葉には、温度がなかった。
瞳の奥では、楽しんでいるように光が揺れている。
まるで――誰かの“壊れていく姿”を、心の底で待ち望んでいるかのように。
「もしかして、君のせいだったりしてね」
何気ない一言のように告げられたその言葉が、刃のように胸に突き刺さる。
その瞬間、オリバーさんの声が脳裏に蘇った。
『フィオラちゃんに関する予知が次々に“視えてくる”状態』
(……アレン様の能力が暴走してるのは……本当に私の、せい……?)
冷たい何かが、胸の奥を締めつけた。
段々と鼓動が速くなり、呼吸が浅くなる。
「フィオラ!」
レオンの鋭い声が現実に引き戻す。
「先生の言ってることは、気にしなくていい」
シリウスも私とラフィン先生の間に立つようにしてそう言った。
その横顔には、静かな怒りが宿っていた。
「……この人は、フィオラの“心が乱れる”のを楽しんでるだけだ」
続けて言ったシリウスの言葉に、ラフィン先生の唇が、わずかに愉快そうに歪む。
その笑みは、私たちの担任とは思えなかった。
「……ねえ、フィオラ君」
静かな声が、空気を震わせた。
ラフィン先生は柔らかい笑みを浮かべたまま、音もなく一歩、私のほうへ近づく。
「そんなに怯えないで」
穏やかで、どこか優しく響く声。
まるで子どもを宥めるようで――けれど、その優しさの中に、冷たいものが潜んでいた。
「大丈夫、フィオラ君。私は何が起きても、君の味方だから」
その言葉は、触れれば溶けてしまいそうなほど柔らかいのに。
背筋を、ひやりと冷たい指先が撫でたような感覚が走った。
隣を見れば、レオンが今にも食ってかかりそうな表情をしている。
一方で、私の前からシリウスは一歩も動かず、ただラフィン先生の一挙一動を見逃すまいと目を細めていた。
(……シリウスの目が、本気だ)
その沈黙の中、ラフィン先生はふと視線を廊下の窓の外へ滑らせた。
程よい日差しが差し込み、彼の横顔を照らす。
「……三人は、壊れるものを“美しい”と思ったことはないかな?」
「……え?」
思わず息を呑む。
「一度壊れたものは、本来なら元には戻らない。――だからこそ、壊れる瞬間は特別で……尊いんだ」
その声は、祈るように静かで、それでいてどこか恍惚としていた。
まるで“壊れること”そのものを心から愛しているかのように。
「私は能力も、同じだと思うんだ」
そう言うと、ラフィン先生は、ゆっくりとこちらに視線を戻す。
「【破壊】は、きっと何かを“壊す”だけではなく、何かを“特別”にしてくれる」
微笑んだその顔は、聖職者のように穏やかで、どこまでも静か。
けれどその瞳の奥には、底知れぬ“狂気”が、確かに揺らめいていた。




