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その指先の温もりに甘える理由

 



「お待たせ。ちょっと確認してたんだけど――」


 ノックの音とともに、軽やかな声が響く。

 入ってきたのは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべたオリバーさんだった。


 けれど、部屋の中に漂う張りつめた空気を感じ取ったのか、彼はすぐに小首を傾げる。


「……あれ?なんか、空気が重いね。どうしたの?」


 アレン様が簡潔に事情を説明すると、オリバーさんは小さく目を丸くした。

 そして、何かを思いついたように指先を顎に当てる。


「なるほどね。つまり――【破壊】の覚醒には、強い負の感情が関係してるかもしれないってことか」


 その瞳がちらりと私に向けられる。

 思案を含んだその目には、いつものように優しさが宿っていた。


「……だったら、試してみようか」


「試す……って?」


「うん。ここは防音も防振も完璧だし、安全面は心配いらない。――もし“強い恐怖”を思い浮かべたら、【破壊】が少しは反応するかもしれない」


 軽い口調の裏に、確かな覚悟が滲む。

 オリバーさんが本気で言っているのが伝わってきた。


(……“恐怖を思い浮かべる”……)


 その言葉を繰り返した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 頭の中に浮かんだのは――ガーデンパーティーで感じた、あの息の詰まるような光景だった。



「そんな……実験みたいに簡単に言うけど、大変なことになったらどうするんですか!」


 思わず、カロンの声が鋭く響いた。

 普段は冷静で穏やかな彼が声を荒げるのは珍しく、その一言が空気を一層張りつめさせる。


 けれど、オリバーさんは一歩も引かず、穏やかな笑みを浮かべたままだった。


「その時は――君と俺の能力(ギフト)を使えばいい」


 淡々とした声色。

 けれど、その金色の瞳には、ひと欠片の迷いもなかった。


「大丈夫。ちゃんと、守る準備はできてるよ」


 柔らかく笑いながらも、その言葉には確かな力が宿っている。

 私の胸の奥に、じんわりと熱が広がった。

 この人は本当に、怖いくらいに“優しくて強い”。


 オリバーさんはちらりとアレン様に視線を送る。


「……いいよね、アレン?」


 それは短く、しかし重みのある問い。

 アレン様はしばらく無言のまま、オリバーさんと視線を交わした。

 やがて、低く、静かに言葉を落とす。


「――ああ。だが、判断はフィオラに任せる。もちろん、責任は俺が取る」


 その声は穏やかだったのに、胸の奥を確かに震わせる力があった。

 命令ではなく、選ぶ余地を与える――そんな言葉に込められた想いを感じ取って、私は息を詰める。


 アレン様の言葉が落ちたあと、室内には静寂が訪れた。

 誰も口を開かない。

 けれど、全員が私の答えを待っているのが、痛いほど伝わってくる。


 胸の奥で、鼓動がゆっくりと早まっていく。


(怖い……それでも、もう逃げたくない)


 私は小さく息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げた。


「……やってみます」


 その言葉は震えていた。

 けれど、確かに前を向いていた。


 アレン様が短く頷き、オリバーさんが静かに口角を上げる。

 カロンは少しだけ唇を噛みしめたが、すぐに私の隣へ歩み寄り、無言で頷いた。

 その瞳には、誰よりも強い“信頼”が宿っていた。


「では、何が起きるか分かりませんので、フィオラ様以外は壁際に」


 老人が穏やかに指示を出す。

 アレン様たちはそれぞれ静かに後ろへ下がり、重厚な石壁に背を預けた。


「……フィオラ様。全員の位置を確認したら、恐怖を思い浮かべてください」


 静寂。

 重く、透明な空気が部屋を満たしていく。


 私は深呼吸を一つして、静かに目を閉じた。

 胸の奥に沈んでいた“恐怖”や“焦り”、そして“孤独”を、そっと思い浮かべていく。


 ――あの日、見た悪夢の記憶。

 燃え上がる空。砕け散る大地。崩れ落ちる塔の影。

 世界の音がすべて消えた中で、私は一人きり、瓦礫の中心に立ち尽くしていた。

 手のひらの上には、黒く濁った光。

 それが何かを壊すたびに、胸の奥が冷たく締めつけられていく。


(やだ……絶対、あんなバッドエンドは……)


 ぎゅっと手に力が入った、その瞬間。


 ――ピシッ。


 何かがひび割れるような、小さな音が静寂を裂いた。


「……え?」


 目を開ける。音のした方に視線を向けた。

 オリバーさんの片耳に揺れる、アイオライトのピアス。

 そこに、細い線のようなひびが走っていた。


「っ……!」


 息が詰まる。

 それが自分のせいだと、瞬時に理解した。


「オリバーさん、ごめんなさい……っ!」


 心臓が跳ね上がる。

 焦りと後悔が一気に押し寄せて、呼吸が浅くなる。


 その瞬間、胸の奥からあふれ出した感情が――“能力”を動かした。


 ――バリィンッ。


 鈍い音とともに、足元の床石が細かくヒビ割れていく。

 空気が揺れ、視界の端で光が歪んだ。


「――っ!」


 それが自分の力だと分かった瞬間、全身が強張る。

 息を吸うことすら怖くなった、その時。


「大丈夫、僕に任せて」


 落ち着いた声が響いた。

 その声が、すべてのざわめきをすっと鎮めていく。


 カロンの掌が軽く動くと、淡い金色の光が空気を包み、

 砕けた床が――音もなく、ゆっくりと元の形に戻っていった。

 オリバーさんのピアスも、何事もなかったように淡く輝きを取り戻す。


 私は、その場から一歩も動けなかった。

 ただ、自分の指先がかすかに震えているのを見つめる。


(……私の中に、本当にこんな力が……)


 喉が乾いて、呼吸はさらに浅くなる。

 恐怖と驚きと――それ以上に、どこか“ゾッとする実感”が胸を締めつけた。


「……間違いありません。今のは、明らかに能力(ギフト)が覚醒しかけました」


 老人が静かに断言する。

 淡々とした声なのに、その一言が胸の奥に重く響いた。


「完全な覚醒ではありませんが、ピアスも、床も――あの反応は確かに【破壊】によるものでしょう」


「……少しだけだが、これでわかったな」


 アレン様の低い声が部屋を満たす。


「カロンの言っていた通り、“強い負の感情”が覚醒の条件という仮説は、どうやら正しそうだ」


 私は、まだ胸が締めつけられていて、何も言えないまま俯いた。

 指先が、ほんの少し震えている。


「……今日はここまでにしよう。無理はさせたくない」


 その穏やかな声に、張り詰めていた空気がゆっくりと緩んだ。

 深く息を吐いた瞬間、堰を切るように胸の奥が熱くなる。


「……オリバーさん……本当に、ごめんなさい……」


 堪らず、言葉が溢れた。

 しかし、オリバーさんは驚いたように目を瞬かせ、それからふわりと笑って首を横に振る。


「気にしなくていいよ。カロンがすぐに戻してくれたし、なにより――これで少しでもフィオラちゃんを守る方法が増えれば、俺は嬉しい」


 その声はいつも通り優しくて。

 けれど、その微笑みの奥に、ほんの少しの“痛み”が混じっているように見えた。


 胸の奥が、きゅっと痛む。

 カロンが床もピアスも元通りにしてくれたというのに、ざわめきは消えなかった。


(……もし、今カロンがいなかったら。もし“もの”じゃなくて、“人”を傷つけてしまったら……)


 ぐるぐると、最悪な想像が頭の中を巡る。

 息を吸うたびに、胸の奥の重さが深く沈んでいく。


 その時だった。


「――カロン」


 不意に、オリバーさんの声が静かな部屋に響いた。


「フィオラちゃんは、俺が責任を持って屋敷まで送る。だから……少し、時間をもらってもいい?」


 穏やかな声音。

 けれどその奥に、はっきりとした意志の強さがあった。


 カロンは、一瞬だけ私を見て――僅かに眉を顰める。

 その視線の奥にある感情を読み取ろうとしたけれど、何も言葉が出てこなかった。


「……わかりました」


 静かに落ちたその返事には、何かを飲み込むような気配があった。

 それでもカロンはそれ以上何も言わず、ほんの少しだけ視線を逸らす。


 オリバーさんはそんな彼に、柔らかく微笑みを返した。

 そしてアレン様の方へ向き直り、いつものように穏やかに言う。


「アレン、少しだけ中庭を散歩してきてもいいかな? フィオラちゃんと、二人で」


 アレン様は一度だけ私の顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。


「……ああ。あまり長くならないようにな」


「うん、ありがとう」


 そう言って、オリバーさんは私の前に立ち、そっと手を差し出した。

 その指先に触れた瞬間、ふっと胸の奥が軽くなる。


「行こう、フィオラちゃん」


 その声は、いつもよりも少しだけ優しく響いた。

 私は小さく頷き、立ち上がる。


 まだ、心の中の不安は消えていない。

 けれど――今だけは、この手の温もりに、縋っていたかった。

 ただそれだけで、少しだけ前を向ける気がした。



 * * *



 風が、やわらかく頬を撫でた。

 日が傾き始めた王宮の中庭には、穏やかな夕暮れの光が満ちている。

 空の端はオレンジと群青の間を揺らぎ、咲き残った夏の花々が、静かな風に身を委ねて揺れていた。


 その中を、私は黙ったまま――オリバーさんの手に引かれて歩く。

 何も言えず、何も考えられず、ただ、指先に伝わる温もりだけが、今の私を現実に繋ぎとめてくれている。


(……もしかしたら、私は……大切な人を傷つけてしまうかもしれない)


 胸の奥が、きゅっと縮む。

 あの時の光景がフラッシュバックする。

 床に走った亀裂。そして、割れたピアス。

 もしあれが“物”じゃなく“人”だったら――。


(……怖い)


 こんなにも“誰かに触れること”が怖いなんて、思いもしなかった。

 それでも――


(今、オリバーさんの手を離したら……)


 きっと私は、もう立っていられない。

 また、前を向けなくなる。


 不安が、波のように胸の奥で広がっていく。

 それでも、繋がれたこの手の温もりだけが、確かな光のように私を支えていた。


 そんな私の心を、まるで見透かしたように――オリバーさんが、ふと立ち止まった。

 振り返った彼の瞳は、夕暮れの光を受けて優しく滲んでいた。


「……フィオラちゃん。怖い?」


 その問いかけは、責めでも憐れみでもなく、ただ、包み込むような声だった。


「自分の能力ギフトが、誰かを傷つけるかもしれないって……そう思ってるんだよね?」


 私はすぐには言葉を返せなかった。

 胸の奥がぎゅっと縮こまるように痛くて、声が出なかった。

 けれど静かに、首を縦に振る。


 その瞬間、堪えていた涙がふわりと滲み、頬を熱くした。


「……はい」


 絞り出すような声が喉からこぼれ落ちたと同時に、オリバーさんの腕がそっと私の背にまわる。

 包み込まれるような温もりが、心の奥まで染み込んでくる。


「大丈夫だよ。君が、誰も傷つけたくないって心から思ってるなら……大丈夫」


 その声は静かで、やさしくて。

 まるで壊れそうな私の心を、ひとつずつ撫でるようだった。


「もし不安なら、俺のそばにいて。万が一、何かが起きても……絶対に守る。何度でも止めてみせる」


 断言するその声音には、揺るがない強さが宿っている。


「フィオラちゃんが自分を信じられないなら……俺が君を信じる。ずっと、隣で」


 その言葉が、真っ直ぐ胸に届いた。

 温かくて、苦しくて、嬉しくて、どうしようもなくて――


「っ……」


 私は顔を伏せ、オリバーさんの胸元にしがみつく。

 夕暮れの空気の中で、彼の体温がじんわりと伝わってくる。


「……ごめんなさい、オリバーさん……っ」


 震える声でこぼれたのは、謝罪ではなく――ずっと抱えていた弱さそのものだった。


 前世の記憶を思い出してから――

 どんなに辛くても、怖くても、人前で泣くことはずっと我慢してきた。

 涙を見せたら、弱くなる気がして。立ち止まってしまう気がして。


 それなのに。


 オリバーさんの前でだけは、いつも堪えられなくなってしまう。

 涙を、止めたくても止まらない。


 オリバーさんは、何も言わなかった。

 ただ私が泣き止むまで、静かにそばにいてくれた。


 温かい胸の中で、私は肩を震わせながら泣いた。

 その間ずっと、彼は私の髪を撫で、背をさすり、何も言葉を求めず――まるで、私の涙ごと包み込むように抱きしめてくれていた。


 時の流れが、少しだけ緩やかに感じた。

 泣くことすら許された時間が、こんなにも優しいなんて知らなかった。


 やがて、呼吸が少しずつ整っていく。

 オリバーさんはその変化を感じ取ったのか、そっと腕の力を緩めた。

 そして、優しく私の顔を覗き込む。


「……落ち着いた?」


 その声は、風に溶けるほど柔らかかった。


「はい……ありがとうございました」


 まだ少し涙の跡が残る目を擦りながら、小さく頷く。

 その瞬間ようやく私の世界に、少しだけ光が戻った気がした。


 するとオリバーさんは、静かに微笑んで――そっと、私の手をもう一度握った。


「……じゃあ、そろそろ帰ろうか」


 柔らかくて、確かな声。

 その手は、最初に引かれたときと同じように温かくて、優しくて。

 でも今は、その温もりが胸の奥まで真っすぐ届いていた。


 二人、静かに並んで歩き出す。

 夕焼けが空をゆっくりと茜に染めていく。

 風がふわりと頬を撫で、揺れる木々の葉音が遠くで響いていた。


(……私は、まだ気づいていないふりをしていたい……)


 この手の温もりに、胸が震える理由を。

 それを言葉にしてしまったら、きっともう戻れない気がする。


(……だから、もう少しだけ)


 もう少しだけ、この優しさに甘えていたい。

 この瞬間を、壊したくなかった。


 私は握られたその手に、そっと指を重ねる。

 夕暮れの光が、二人の影を静かに長く伸ばしていった。




ここまでお読みいただきありがとうございます。

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