触れたのは、読めない想い
陽射しが、庭先の木陰をゆらゆらと揺らしていた。
風の音が遠くから届いては消え、屋敷の中には、夏の匂いを含んだ静けさが満ちている。
もうすぐ、夏休みも折り返し。
アレン様とオリバーさんが屋敷を訪れてから、数日が過ぎていた。
『能力を調べるための準備を進める』
そう言われて以来、まだ具体的な知らせは届いていない。
その間にも、カロンは何度か王宮へ呼ばれていると聞いた。
きっと、そのたびに話が進んでいるのだろう。
(……慎重に、選んでくれてるんだよね)
そう自分に言い聞かせても、胸の奥のざわめきはなかなか静まらなかった。
風がカーテンを揺らすたびに、心の中の不安までそっとかき混ぜられるようで。
その日も私は、涼しい風の入る窓際で本を読んでいた。
けれど、目で追う文字はなかなか意味を結ばず、ただページの上を流れていくだけだった。
そんな時だった。
「フィオラ様、こちらにお手紙が届いております」
執事が恭しく差し出したのは、一通の封筒。
やわらかな銀色の封蝋で留められ、陽射しを受けてほのかに光っている。
手に取った瞬間、胸の奥に小さな波紋が広がった。
誰からのものか、宛名を見るまでもなく、直感でわかってしまう。
封を開け、慎重に中身を取り出す。
そこには、見慣れた綺麗な文字で短い文が綴られていた。
――君の心が不安で埋まっているなら、そばにいたい。
少しだけ、会えないかな?
その文を目にした瞬間、息を呑む。
長い言葉じゃない。
けれど、その奥にある想いが、真っ直ぐに胸に届いた。
(……シリウス)
今の私が、不安でいること。
そのことにシリウスが気づいていることに、驚いた。
そして今の私が、誰かに「会いたい」と言ってもらえることが、これほどまでに救いになるなんて――思ってもいなかった。
胸の奥が、ほんの少し緩む。
張りつめていたものが、静かに溶けていくような感覚だった。
(……会いたい、か)
そっと封筒を胸に抱きしめる。
迷いも、戸惑いも、そのまま抱えたままでいい。
でも今だけは、シリウスのその気持ちに、ほんの少しだけ甘えたい――そう思った。
* * *
そして――シリウスに返事の手紙を送ってから、数日後。
私はゆっくりと揺れる馬車の中で、指先でカーテンの端をなぞりながら、流れていく街の景色をぼんやりと眺めていた。
窓の外では、夏の陽射しが石畳を照らし、木々の影が淡く揺れている。
それなのに、胸の奥は落ち着かなくて、どこかソワソワしていた。
(……シリウスの屋敷に行くのって、そういえば初めてだ)
レオンとシリウスとは入学してすぐに同じクラスになり、打ち解けるのも早かった。
席も近くて、休み時間に他愛ない話を交わすことも多かった。
けれど、誰かの屋敷を訪ねるなんて、思えばこれが初めてだ。
(……それに、あんな手紙をもらって、断る理由なんてなかった)
『君の心が不安で埋まっているなら、そばにいたい。』
あの短い言葉が、心の奥に今も残っている。
文字の一つひとつに、まるで温もりが宿っているみたいで。
読んだ瞬間、胸の中の冷たい空気が少しだけ和らいだ気がした。
(よく考えたら……ゲームの中でも、シリウスの屋敷に行く展開なんてなかったな……)
前世でプレイしたシリウスルート。
彼の秘密や、抱えていた“もう一つの顔”に触れるイベントはあったけれど、彼の家を訪ねるシーンは一度もなかった。
だからこそ、今こうして彼のもとへ向かうこの時間が、予想外で、でもどこか、嬉しかった。
しばらくして、御者がゆるやかに手綱を引いた。
「フィオラ様、到着いたしました」
車輪が止まる音とともに、外の世界が一瞬、静まり返る。
扉の隙間から差し込む夏の光が、馬車の中をやわらかく照らした。
窓から白を基調に繊細なシルバーの装飾が施された屋敷が目に入る。
陽光を受けてわずかに輝くその佇まいは、どこか冷たく、そして気品に満ちていた。
(……そういえば、シリウスの家も“公爵家”なんだよね)
彼自身がそういうことをまったく誇らしげに語らないから、つい忘れてしまう。
けれど、こうして目の前にすると――やはり、彼の生まれも“特別”なのだと実感した。
そのとき。
「来てくれて、ありがとう」
馬車の扉が開き、夏の光の中に立っていたのは、空気ごと柔らかく変えてしまうような笑みを浮かべたシリウスだった。
いつもの学園の制服姿ではなく、ラフな服装。
風に揺れる白いシャツと、淡いグレーのスラックス。
貴族らしい威厳よりも、彼らしい穏やかさと涼やかさが漂っていた。
(……なんだか、少しだけ違って見える)
そう思った瞬間、胸の奥がほんの少し熱くなるのを感じた。
(――なんだろう、この感じ)
いつもの彼なのに、どこか違って見える。
気づけば、言葉がこぼれていた。
「久しぶり、シリウス」
胸の高鳴りを誤魔化すように微笑んだつもりだったのに、彼の前に立つと、自然と柔らかい笑みが浮かんでいた。
その笑顔を受けて、シリウスもほんのわずかに口元を緩める。
それから彼に促されるまま、屋敷の中へ足を踏み入れる。
白とシルバーを基調にしたアーヴィン家の屋敷は、静謐で、どこか澄んだ空気を纏っていた。
重厚さよりも、清らかさや静けさを感じる造りで――それが、彼の雰囲気に不思議なほどよく似合っている。
通された廊下には人の気配がほとんどなく、歩くたびに、靴音が小さく反響する。
(……そういえば、使用人の姿がない……)
少しだけ不思議に思っていると、前を歩いていたシリウスがふと立ち止まった。
「こっち」
短く言って振り返るその横顔は、いつも通り穏やかで――けれど、どこかほんのりと緊張の色を帯びていた。
それが気になって、胸の奥が少しざわつく。
彼に続いて進むと、目の前に広がったのは陽光がやわらかく降り注ぐ中庭だった。
白いパラソルと、蔦の絡まるおとぎ話に出てきそうなソファが二つ。
風が通るたびに、咲きこぼれる花々の香りがふわりと漂う。
(……こんな場所があるなんて)
まるで屋敷の奥に隠された、秘密の庭みたいだった。
「……ここ、普段はあまり人を通さない場所なんだ。今日は……フィオラと、静かに話したくて」
穏やかな声でそう言うと、シリウスはソファの一つに腰を下ろした。
その仕草に誘われるようにして、私も少しだけ迷ったあと、隣に座る。
風がふっと抜けて、花の香りがふたりの間をすり抜けていった。
沈黙が続く。けれどそれは、気まずいものではなく、互いの呼吸をゆっくり整えるための静けさだった。
やがて、シリウスがソッと息を吸い込み、真っ直ぐこちらを見た。
「……先に、ひとつ。謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「え……?」
「……この前、王宮で。君の父上の“心”を読んだこと、内緒にしてて……ごめん」
柔らかい声だった。
でも、その奥にあるのは冗談や軽さではなく、真摯な痛み。
シリウスの青と琥珀の瞳は真っ直ぐで、少しも逃げていなかった。
「アレン様たちに頼まれたことでも……本当は、フィオラには最初に伝えておくべきだったと思ってる」
静かに、それでも確かな想いがこもった言葉。
胸の奥に溶けるように届いて、私は小さく息を吐いた。
「でも、それは……私のためだったんだよね?」
思わず、問いかけるように呟く。
その瞬間、シリウスはわずかに目を瞬かせてーーほんの一瞬だけ、視線を逸らした。
その仕草が、答えの代わりのように見えた。
「……そうだよ。でも――」
言い淀むように唇を閉じたあと、彼は再び、私を見た。
その瞳が、ほんのわずかに揺れている。
「結果的に、心を読んだことで……君の不安を、余計に大きくしてしまったでしょ?」
その声音は静かだった。けれど、はっきりと“後悔”の色を帯びていた。
普段なら決して表に出さない感情が、その表情の端々に滲んでいる。
冷静で、いつも淡々としているシリウスが――今は、明らかに苦しそうに見えた。
「……そんな顔、しないで。それは、シリウスのせいじゃない……」
反射的に、少し強い声が出た。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(……私のせいで、シリウスがこんな顔をしている)
そう思うだけで、息が苦しくなる。
沈黙の中、シリウスは視線を落とし、軽く握っていた手をほどくようにして小さく息を吐いた。
「俺はただ……フィオラの役に立てると思ったんだ」
まっすぐで、どこか震えるような声だった。
淡々とした口調の奥に、不器用で――けれど確かな温もりがあった。
(……私、また誰かを巻き込んでる……)
アレン様も、オリバーさんも、カロンも。
そして、シリウスまでも。
(私が【破壊】なんて能力を持っていなければ、きっと――)
自分を責めるような思考が、じわじわと胸の奥からせり上がってくる。
喉の奥が熱くなって、呼吸が少しだけ浅くなった、そのとき。
――静かに、それでもはっきりと遮る声が落ちた。
「違うよ」
ハッと顔を上げる。
シリウスが、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
その瞳は驚くほど真剣で、少しも揺れていない。
「……俺の能力で、フィオラを少しでも守れる可能性があるなら――」
一度だけ言葉を切り、彼はゆっくりと息を吸った。
「俺は、自分からだって“巻き込まれにいく”」
その声は、静かで、けれど強かった。
まるで、心の奥に直接届くように響いた。
胸の奥がかすかに震える。
温かくなるはずなのに、どこか切なくて――目の奥がじんわりと滲む。
(どうして……そんな風に言ってくれるの……?)
その想いが、痛いほど嬉しくて、息が詰まった。
「そう言ってもらえるだけで……嬉しい」
精一杯の気持ちでそう返すと、シリウスはわずかに目を細めて、静かに私を見つめた。
その視線は、まるで触れてはいけないものに、ソッと手を伸ばすようで。
「……フィオラ」
名前を呼ぶ声が、どこまでも優しく響く。
夏の風に溶けていくようなその声音に、胸の奥がじんと熱くなった。
「君が俺を見てくれるとき、話してくれるとき、触れてくれるとき。――そんな瞬間、君がどんなことを思っているのか、もっと知りたいって思ってる自分がいる」
息が止まる。
その言葉の意味を、彼は最後まで言葉にしない。
けれど、伝わってくる。
この静けさの奥に潜む、確かな“気持ち”が。
「今、俺の心の中が君にも聞こえたらいいのに。……伝えたいのに、どう言えばいいのか、わからない」
シリウスは、照れたように小さく笑った。
けれどその笑みには、どこか諦めのような影が滲んでいた。
その一瞬の表情に、胸の奥がきゅっと痛む。
本当は、伝わってしまっていた。
彼の想いの全部が、言葉よりもずっと、深く。
――けれど私は、何も言えなかった。
声にすれば、何かが壊れてしまいそうで。
ただ、そっと目を伏せたまま、心の奥で名前を呼んだ。




