寄りかかる心に触れた日
翌日の昼下がり。
窓の外から差し込む陽射しは少し強く、鳥のさえずりが遠くで揺れている。
熱を帯びた夏の空気が、部屋の中にゆるやかに満ちていた。
本のページをめくる手がいつしか止まり、瞼がだんだんと重くなる。
心地よい静けさとぬるい風に包まれて、私はいつの間にか、夢と現の境を漂っていた。
――そして、ふと目を覚ます。
自分の頭が、柔らかい何かに預けられていることに気づいた瞬間、胸がドクンと跳ねた。
慌てて上体を起こそうとしたその時――
「……おはよう、姉さん」
低く、優しい声が、耳元をくすぐる。
いつもの穏やかさの中に、ほんのわずかな温度の違いが混じっていて、それだけで心臓がさらに早鐘を打った。
「……お、おはよう」
声が裏返ったのが自分でもわかって、思わず目を逸らす。
ちらりと横目で見れば、カロンは膝の上に開いた本に視線を落としたまま、口元にかすかな笑みを浮かべていた。
「無理に離れなくてもよかったのに」
その言葉は、揶揄うようでいて、どこか本気の響きを帯びていた。
「……迷惑かなって、思って……」
「迷惑なんかじゃないよ」
即座に返された言葉が、思っていた以上に優しくて。
胸の奥がじんわりと温まる。
けれど次の瞬間、カロンの視線が私に向けられ、その瞳にほんの少しの影が落ちた。
そして、まるで空気を入れ替えるように、静かに話題を変える。
「昨夜、父様と話したよ」
その一言に、心臓が小さく跳ねた。
自然と背筋が伸び、指先に力がこもる。
「……うん。私も、少しだけ話した」
「そっか。……俺も、色々と教えてもらった」
淡々とした口調の裏に、微かな緊張が混じっている。
いつも穏やかな弟の声が、今はどこか慎重に響いていた。
“色々”――その言葉に込められた重さを、私の心は逃さなかった。
温室の管理記録のことも、改ざんした犯人のことも、ラフィン先生のことも。
きっと全部、もう知っているのだ。言葉にはしなくても、そう感じ取れた。
やがて、カロンは目を伏せ、ぽつりと続けた。
「実は、父様から――俺をノイアー公爵家で引き取った理由も教えてもらったんだ」
その一言に、思わず息が止まる。
カロンの指先が、本の角をそっとなぞる。その仕草が妙に慎重で、言葉を選んでいるのが伝わってきた。
「それは、私がお父様にお願いしたから……」
「うん。もちろん、それもあるって言ってた」
短く頷いたあと、カロンは静かに言葉を継ぐ。
「でも、父様は“それだけで”誰かを引き取るような人じゃないでしょ?」
その声音は穏やかで、それでいて驚くほど真っ直ぐだった。
胸の奥に、小さな鼓動が打ち鳴らされる。
「俺が、父様の前で初めて能力を使った時……“この子なら、娘を【破壊】の能力から助けてくれるかもしれない”って。そう思って、俺を迎えたって」
その瞬間、カロンが顔を上げた。
真っ直ぐに、逃げ場のないほど澄んだ瞳が、私を射抜いた。
「……それなのに、全然姉さんを救えなくて――ごめん」
「え?」
思わず声が漏れた。
なぜカロンが謝っているのか、すぐには理解できなかった。
(救えなかった? そんなこと、ないのに……)
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
理由も分からないまま、涙がこみ上げてきて、すぐに否定したくなった。
「カロン、そんな――」
そう言おうとしたのに、言葉が喉の奥で溶けてしまう。
声にならない。俯いた視界が滲んで、ただ膝の上で手を握りしめた。
その私の様子を見て、カロンは小さく息を吐き、ほんの少しだけ笑った。
けれど、その笑みには痛みが滲んでいた。
「助けるどころか……俺のせいで、姉さんを危ない目に合わせたこともあった。あの時のこと、今でも鮮明に覚えてる」
言葉の端がわずかに震える。
それがどんな“時”を指しているのか、私はすぐに思い当たって、胸の奥が静かに熱くなった。
「違う! 私……カロンにいつも救ってもらってる!
不安になってる時、真っ先に気にかけてくれるのは、いつもカロンだよ……私が弱いから……!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
その響きが部屋の空気を震わせるのを感じながら、私はハッと息を飲み、小さく吐き出した。
(……今の私は、全然フィオラらしくない)
ゲームの中のフィオラはずっと、明るくて、前向きで、誰からも好かれる“ヒロイン”だった。
その“像”を壊さないように、ノーマルエンドを目指して、嫌われないように、好かれすぎないように——そうやって過ごしてきたはずなのに。
でも、本当はずっと不安だった。
堂々と笑っていられる“フィオラ”にはなれなくて、胸の奥でこぼれそうになる声を、何度も飲み込んできた。
(……だから、きっとカロンにも、こんな気持ちにさせてしまっているんだ)
そう思った瞬間、喉の奥がつまって言葉が出なくなる。
その時だった。
スッと肩口の空気が動き、次の瞬間、私は静かな力に包まれた。
それは、優しくて、でも確かにそこにある力。
拒む隙などなく、自然と、そうなるべくしてそうなったような——そんな温もりだった。
「……そんなことないよ」
耳元で、低くて優しい声が落ちる。
「姉さんの存在が、俺を何より強くしてくれるんだ。……もしかして、自分が俺の迷惑になってるって、思ってる?」
私は答えられなかった。
胸の奥が熱くて、喉の奥が詰まって、言葉がうまく出てこない。
「……姉さんは、気づいてないかもしれないけどさ」
カロンが、そっと腕に力をこめる。
「その泣きそうな顔を見てるだけで、俺も泣きそうになるんだ」
ドキリとした。
そんなふうに言われて、思わず息を詰める。
鏡を見たわけでもないのに、自分の顔が今、どんな表情をしているのか分かってしまった気がした。
「俺ね、姉さんに“強くいてほしい”なんて、一度も思ったことないよ。怖がってもいい。頼ってもいい。……俺だけには、そうしてほしい」
その言葉が、静かに胸の奥へと落ちていく。
これまでずっと“姉として守らなきゃ”って思ってきた。
けれど今は、私の方が――確かに守られている。
「……俺、姉さんが誰よりも特別なんだ。あの日、俺を迎えてくれてありがとう」
その一言が、まるで心の奥をそっとなぞるように響いた。
カロンの言う“特別”が、家族としてのものではないことくらい――私でも、気づいてしまった。
目の前にいるのは“弟”としてのカロンじゃない。
温かくて、静かで、それでいて確かに――どこか違っていた。
腕の中にいるだけなのに、心がどんどん熱くなっていく。
苦しいわけじゃない。でも、息が浅くなる。胸の奥が、熱を持ったまま落ち着かない。
「……カロン」
名前を呼ぶだけで、喉が震えた。
その一言に、どんな意味を込めたかったのか、自分でもわからない。
答えを返す代わりに、彼はふっと息を吐き、そっと腕をほどいた。
すこしだけ距離ができる。
けれど、それでも私の手を取るようにして、静かに見つめてくる。
「……ごめん。何度も勝手に触って」
そう呟いた彼は、ほんの少しだけ目を伏せた。
その仕草は反省にも見えたけれど、どこか迷いを抱えたようでもあった。
沈黙が一瞬、落ちる。
けれど、彼はすぐに顔を上げて、まっすぐな瞳で言葉を紡いだ。
「でも、嘘じゃないから」
低く落ちたその声には、まだ熱が残っていた。
胸の奥を静かに揺らすほどの、まっすぐな想いが滲んでいる。
そして――カロンは視線を逸らし、少し遠くを見つめるように言った。
「これからはちゃんと、自分の手で姉さんを守るから」
静かな口調。
けれど、その言葉の奥には確かな決意と覚悟が宿っていた。
「だから……お願い。ずっと俺のそばにいてよ」
その声は柔らかくて、優しい。
けれど、どこにも逃げ場のないほど真っ直ぐで――まるで心の奥に直接響くようだった。
弟であり、家族。
でも今、目の前にいるのは――そんな枠の中では到底おさまらない、“一人の男の子”だった。
胸が高鳴る。呼吸が浅くなる。
知らない鼓動が、彼に向かって響いている気がした。
(……この気持ちは、知らないままでいたかったのに)
胸の奥でそっと溢れたその想いは、夏の陽射しよりも静かに、熱く、切なく広がっていった。




