信じることを選んだ夜
ルカくんとの特別な一日を終え、私は屋敷へと帰宅した。
重たい扉を静かに閉めると、外の賑やかなざわめきが嘘のように消えていく。
広い廊下には、夏の夕方の名残を含んだ空気が漂っていた。
使用人たちの気配も遠く、屋敷全体がゆったりとした静寂に包まれている。
(……カロンも、まだ出かけてるのかな)
そう思いながら、私はポケットにそっと手を差し入れた。
指先が触れたのは、ルカくんからプレゼントしてもらったあの髪飾り。
冷たくて、小さなそれが、まるで今日の記憶を閉じ込めているみたいだった。
自室に戻り、明かりを灯す。
オレンジの光が鏡台をやわらかく照らし出す中、私はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
そして、ポケットから髪飾りを取り出し、そっと耳元へ添える。淡いピンクの花が、自分の髪色に柔らかく馴染んでいく。
その優しい色合いが、どこか今日のルカくんの笑顔を思い出させた。
(……今日、ルカくんと一緒に街を歩けて、本当に楽しかったな)
その想いがじんわりと胸に広がっていく。
気づけば、鏡の中に映る私は、いつのまにか微笑んでいた。
「……嬉しい、な」
ぽつりと漏れた声が、静かな部屋に小さく響く。
一人なのに、頬がふわりと緩んで、また笑ってしまった。
――こんなふうに、自室で一人笑うなんて。少しだけ、変かもしれない。
その時、廊下のほうから――小さな足音が聞こえた。
そして次の瞬間、背筋をかすめるような“気配”がした。
音はすぐに途切れたのに、胸の奥だけが妙にざわつく。
(……え?)
鏡越しに、そっと部屋の後ろを振り返る。
けれど、そこには誰の姿もない。
(……気のせい、かな)
そう自分に言い聞かせながら、もう一度鏡の中を見つめ直す。
その瞬間――
コン、コン、コン。
扉を叩く音が、静かな部屋に響いた。
(カロンが……帰ってきたのかな?)
けれど、帰宅してすぐにわたしの部屋を訪ねてくるなんて珍しい。
胸の奥にわずかな違和感を覚えながら、ゆっくりと立ち上がる。
扉の前に立ち、軽く息を整えてから返事をした。
「……はい」
すると、すぐに低く落ち着いた声が返ってくる。
「久しぶりだね、フィオラ」
その声に――胸の奥がふわりと揺れた。
嬉しいはずなのに、なぜか少しだけ不安を煽られる。
ゆっくりと息を呑み、扉の取っ手に手をかける。
軋む音とともに扉が開いた瞬間、夜の空気が部屋へと流れ込んだ。
そこに立っていたのは、深い色の外套に身を包み、穏やかな眼差しを向ける――父だった。
「入ってもいいかな?」
「……はい」
小さく頷くと、父は静かに部屋へと足を踏み入れた。
その仕草には無駄がなく、まるで“昨日までずっとここにいた”かのように自然で。
けれど私は、なぜだか息を詰めてしまう。
父はそんな私の様子に気づいたのか、穏やかに微笑んだ。
「そんなに構えなくてもいいよ。今日は少し……話をしに来ただけだから」
「……話って、もしかして……」
問いかけた声がわずかに震えた。
その時、父はゆっくりと窓の方へ視線を移す。
レースのカーテン越しに差し込む月の光が、静かに父の瞳を照らした。
その光は穏やかで――けれど、どこか“覚悟”の色を帯びていた。
「フィオラ。――温室の管理記録の件は、もうアレン殿下たちから聞いているんだろう?」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷える。
「……はい」
「驚かせてしまったね。でも、誤解しないでほしい。私は――温室には出入りしていない」
父の声は、いつもと変わらず穏やかで、どこまでも静かだった。
けれど、その穏やかさが、逆に緊張を深めていく。
「……殿下から私の名が記録にあったと聞いて、目的が“お前”だとすぐに悟った。 だから、何かが起こる前に先に動こうと思ったんだ」
その声に、嘘はなかった。
けれど――胸の奥に沈んでいた疑念は、簡単には消えてくれない。
「……それで。温室の記録を改ざんした人は、わかったんですか?」
一番知りたかった問いに、父はしばらく黙ったまま私を見つめた。
その眼差しには、静かな確信と僅かな後悔が混じっていた。
「……ああ、わかったよ。簡単だった――犯人は、王宮の中にいる」
その言葉に、胸の奥が凍りつく。
父は静かに椅子を引き、窓際に腰を下ろした。
月光を背にしたその姿は、どこか疲れ切って見えた。
「ただ、証拠がなかなか集まらなくてね。今のままでは、私でもどうすることもできない。……お手上げ状態なんだ」
「……お父様……」
声を出した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
それでも父は静かに続けた。
「陛下に頼んで、王宮の温室で“あの花”を見せてもらった。本来なら、あれは生命力が強いだけで――静かに咲き、何の害も持たないはずの花だ。だが今は、“誰か”がその特性を理解し、意図的に利用している」
そこで父は、ゆっくりと私に向き直る。
真っ直ぐな視線。その奥に、月の光でも照らせない影のような感情が揺れていた。
「……フィオラ。お前の能力も同じだ。“国を脅かす力”になり得る。それを知っている人間が意図的に暴走を引き起こそうとしているのなら、それはただの偶然でも悪戯でもない。――明確な“狙い”がある」
喉の奥がヒリつき、冷たいものが背筋を這う。
「……誰が、そんなことを……?」
思わず漏れた声に、父はわずかに目を伏せた。
そのまま何かを言いかけて、言葉を飲み込む。
まるで、その名を口にすること自体を恐れているようだった。
「……申し訳ないが、今は言えない。だが――“次の王をよく思っていない者たち”が動いている。それだけは、覚えておいてほしい」
父の言葉は静かだった。
けれど、その奥には確かに――ひそやかな怒りの熱が潜んでいた。
「アレン殿下は優秀で、能力を継承した正統な後継者だ。……だが、それをよしとしない者も、王宮にはいるんだ」
「……ラフィン先生も、ですか?」
問いかけると、父は短く息を吐いた。
わずかに目を細め、その表情に影が落ちる。
「恐らく、彼は王宮内の“誰か”と手を組んでいる。ただの教師として学園に送り込まれたにしては、不自然な点が多すぎる。……能力への干渉という力を、もしかしたら“試している”のかもしれない」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
ふっと吹き込んだ夜風がカーテンを揺らし、月の光が淡く部屋を照らした。
「……本当は、父親としてお前に余計な不安を与えるつもりはなかった。だが正直に言うと、私は完全にお前を守り切れる自信がない」
そう言って、父は静かに微笑む。
どこまでも優しく、けれどその笑みには寂しさが混じっていた。
「だから、これだけは伝えておく。私は――どんな時でも、お前の味方だ」
その声音に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
けれど同時に、言葉にできない不安も滲んでくる。
私は、喉の奥で息を飲み込みながら、父の瞳をまっすぐに見つめた。
(……この人を、父を、信じたい)
その想いだけが、静かに胸の中で灯っていた。
「お父様、ありがとうございます」
ようやく絞り出したその声に、父は静かに目を細め、フッと穏やかに笑った。
「礼など、いらないよ。……お前は、私の大切な娘だからね」
その言葉が、胸の奥に温かく染み込んでいく。
何よりも信じられる、たった一つの言葉のように思えた。
すると父は少しだけ視線を外し、窓の外へと目を向けながらぽつりと続ける。
「このことは、カロンにも伝えようと思う。この家の次期当主として、知っておくべきことがたくさんあるからね。……だが本音を言えば、フィオラ、お前だけはできるだけ巻き込みたくなかった」
その声音には、娘を想う“父”の苦しさが滲んでいた。
「いえ、私もノイアー公爵家の娘ですから」
小さく微笑んでそう言うと、父の目がわずかに和らぐ。
けれど、それ以上の言葉はなく――ただ静かに、椅子から立ち上がると、私のそばへと歩み寄った。
そして、そっと手を伸ばし、私の頭に触れる。
その手のひらの温もりが、まるで子どもの頃に戻ったように懐かしくて、胸がきゅっと締めつけられた。
「フィオラ。何があっても、自分を信じなさい」
父の声は、穏やかでありながら、どこか祈るようでもあった。
「たとえどんな能力を持っていても……お前がその力で“誰かを守れる”なら、それはきっと、その力を授かった意味になる」
その言葉が胸の奥に深く染み渡っていく。
私は小さく頷いた。
すると、父の手がそっと頭から離れる。名残惜しそうに指先が髪をかすめ、静かな声が続いた。
「……私はまた、しばらく屋敷を離れることになる。
今の王宮は少し騒がしい。お前も気を抜かず、警戒を怠らないでくれ。何かあれば、すぐにお前のもとへ飛んで行くよ」
その声は、最後まで優しかった。けれど、どこか遠くへ行ってしまうような響きもあった。
私はそっと頭を下げる。
「……お気をつけて、お父様」
父は一度だけ頷き、ゆっくりと扉の方へ歩いていく。
扉が開き、廊下の明かりが差し込む。その背中がゆっくりと闇に溶けていくまで――私はただ、じっとその姿を見送っていた。




