夏休みの約束、そして温室へ 1
いつもより少し遅めの朝。
窓の外では蝉の声が響き、夏の訪れを告げている。差し込む陽射しは強いはずなのに、ダイニングの窓辺にいると風が時折カーテンを揺らし、涼しげな影を落としていった。
テーブルを挟んだ正面には、丁寧にパンにバターを塗るカロンの姿。
伏せた睫毛が長く影を落としていて、その仕草は大人びて見える。
(フィオラも長いけど……カロンの方がずっと長いんだよね……)
そんな呑気なことを考えながら眺めていると、私の視線に気づいたのか、カロンが顔を上げて首を傾げた。
「……姉さん、ジャム欲しいの?」
「えっ、う、うん!」
慌てて頷くと、カロンは手を伸ばし、果実のジャムを私の皿の前へとそっと置いてくれる。
私がジャムを手に取り、「ありがとう」と礼を言うと、彼はにっこりと笑みを返した。
その仕草があまりにも自然で、けれどどこか絵になっていて――まるでゲームのワンシーンみたいだと、胸が高鳴った。
夏休みが始まって、数日。
父は、ずっと仕事で家を空けている。前触れもなく急に出ていき、それきり帰ってきていない。
だから、夏休みに入ってからは――こうしてカロンと二人、並んで朝食をとるのがすっかり日課になっていた。
「姉さん、今日何か予定ある?」
「今日も特に何も予定ないかな」
夏休みに入ってから、本当に暇を持て余すばかりの私は、苦笑い気味にそう答えた。
その時、扉からノックの音が響く。
メイドの一人が応対に向かうと、すぐに「ご主人様ではなく、お嬢様宛てで」と執事の声が聞こえてきた。
やがて、控えめな足音とともに執事が私のもとへ近づき、丁寧に告げる。
「お嬢様。王宮から使者の方がお見えです。アレン様より“本日、王宮へ来ていただきたい”との伝言を預かっております」
「……っ」
夏休みの間に王宮へ来てほしい――そう言われてはいた。けれど、実際に呼び出されると、やっぱり胸の奥がざわつく。
ついに何かが動き出すような気がして、背筋がひやりとする。
「……わかった。すぐに支度をするって伝えて」
私はゆっくりと立ち上がり、そう答える。
執事が静かに頷いて下がると、向かいに座るカロンが落ち着いた声で口を開いた。
「アレン様と……約束してたの?」
「詳しい日にちまでは決めてなかったんだけど……夏休みに入ったら話したいことがあるって。アレン様も、オリバーさんも」
そう冷静に答えながらも、胸の奥はざわついていた。
何が起きるのか、何を聞かされるのか――。
アレン様やオリバーさんを怖いと思っているわけじゃない。
けれど、確かに胸の奥がきゅっと縮まり、呼吸が浅くなるのを自覚する。
「……俺も、一緒に行くよ?」
不意に落ちたカロンの声。
顔を上げると、彼は真っ直ぐこちらを見つめていた。
その瞳は普段と変わらない穏やかなのに、奥底に宿る真剣さを感じる。
(カロンはやっぱり、優しいな……)
その優しさに触れただけで、胸の奥に渦巻いていたざわめきが、スッと薄れていくようだった。
私は小さく首を横に振り、カロンへ向けて言葉を絞り出す。
「ありがとう。でも、大丈夫」
自分でも驚くくらい、その声にはわずかな強さが宿っていた。
そんな私にカロンは、一瞬だけ目を細め――「そっか」と小さく呟いて立ち上がる。
そして、用意してあった私の帽子を手に取り、そっと差し出してくれた。
「じゃあ、せめて……見送らせて」
その声に頷き、帽子を受け取る。
深く息を吸い込み、吐き出して心を整えると、私はゆっくりと玄関へ向かった。
重たい扉を開けた先、強い日差しに照らされた石畳の上には、すでに王宮の使者が待っていて、一台の立派な馬車が、静かに佇んでいた。
私の姿に気づくと、王宮の使者が丁寧に頭を下げ、馬車の扉を開ける。
私は小さく息を吸ってから、振り返り、カロンの方へ視線を送った。
何も言わず、彼は真っ直ぐなオパールの瞳で私を捉えていた。
その眼差しに、胸の奥がほんの少し和らぐ。
「カロン、いってきます」
「……いってらっしゃい」
短いやり取りなのに、背中をそっと支えられたような気がした。
その力に導かれるように、私は馬車へと足を踏み出す。
(……きっと、大丈夫)
自分にそう言い聞かせながら。
夏の朝を切り裂くように、王宮へ向けて馬車は静かに走り出した。
* * *
王宮に到着すると、馬車はゆっくりと速度を落とし、静かに止まった。
やがて外の扉が開け放たれ、夏の日差しが鋭く差し込んでくる。
「ありがとうございます」
差し伸べられた手を取って、足元に気を配りながら馬車を降りる。
影の中から光へと踏み出したその瞬間――目の前に立つ人物を見て、思わず息を呑んだ。
「よう。よく来たな、フィオラ」
迎えに現れたのはアレン様。
けれど、そこにいるのは私が知る「学園の先輩」ではなかった。
深い藍色の正装に、銀糸で精緻な刺繍が施され、胸元では王家の紋章が燦然と輝いている。
陽光を受けてきらめく銀の髪と、真紅の瞳が生み出す気配は、紛れもなく“王子”としての威厳そのものだった。
そして、その隣に控えるのは――
「フィオラちゃん。……来てくれてありがとう。待ってたよ」
オリバーさん。
変わらぬ穏やかな笑みを浮かべながらも、その身に纏うのは護衛騎士としての礼装だった。
黒を基調に金の縁取りが施された装いは、普段の柔らかさに鋭さを添え、彼の存在感を際立たせている。
(……二人とも、学園で会う時とは全然違う……)
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
夏の陽射しよりも眩しい光景に、私はしばし立ち尽くしてしまった。
「……あの、お二人とも……その姿、とても、似合ってます」
胸の奥からようやく絞り出した言葉に、アレン様がクッと喉を鳴らして笑った。
「ありがとう。学園の制服姿にはもう見飽きてるだろ? だから今日は、王宮らしい服装で迎えるって決めてたんだ」
「二人で張り切りすぎちゃって、ごめんね」
オリバーさんまで楽しそうに肩を竦める。
その軽やかな空気に、張りつめていた緊張がふっと解けていくのを感じた。
(……正直に言えば、学園の制服姿も全然見飽きてないんだけど。むしろ、毎日見てても飽きないくらいには、二人とも……)
心の中だけでそっと呟きながら、今日しか見られないだろう二人の姿を、目に焼きつけようと思った。
「じゃあ、行こうか。今日は話したいことも沢山あるからな」
「今日は、ただゆっくりしていってね」
「はい……ありがとうございます」
小さく頷くと、自然と二人の間に挟まれるような形になる。
堂々と背筋を伸ばし、先を切り開くように歩くアレン様と、隣で静かに歩幅を合わせてくれるオリバーさん。
その二人に導かれながら、私は王宮の奥へと歩みを進めていった。
王宮の中庭を抜け、奥へと続く白い回廊を進む。
磨き上げられた石畳は西陽を受けて淡く光り、まるで導かれるように足を運ばせた。
やがて視界の先に、巨大なガラスのドームが姿を現す。
天井まで届く透明なアーチは陽光を受けてきらきらと輝き、まるで異世界への入口のようだった。
「ここだ」
アレン様が扉の前で立ち止まり、私を振り返る。
真紅の瞳は真剣さを湛えながらも、不思議と温かさを含んでいた。
「今日はこの温室で……お前と話したい」
「……分かりました」
小さく頷いた私の隣で、オリバーさんが音も立てずに扉を押し開ける。
その瞬間、ふわりと草と花の香りが溢れ出し、頬を撫でていった。
外の喧噪から切り離されたその空間は、緑の濃淡と花々の彩りが調和し、どこか懐かしく、心を包み込むように温かい。
一角には、丸い小さなテーブルと椅子が三脚。
すでに私たちを迎えるかのように、そこに静かに用意されていた。
「ここで、大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
オリバーさんが引いてくれた椅子に腰を下ろす。
向かい側には、並んで座るアレン様とオリバーさん。二人の存在が向かいにあるだけで、胸の奥がきゅっと引き締まる。
静かな沈黙を破ったのは、アレン様だった。
「まず、この温室についてだが――」
低く落ち着いた声に、自然と背筋が伸びる。
「以前にも話したが、“ユスティア・フロス”は、この温室でしか栽培されていない希少な品種だ」
その口調は淡々としているのに、言葉の一つ一つが重く響いた。
「俺たちは、この温室の管理記録を確認した。そして――」
言葉を切ったところで、今度はオリバーさんが穏やかに続ける。
「その中に、フィオラちゃんの父上……ノイアー公爵の名前が記されていた。そう伝えたこと、覚えてるよね?」
「……っ」
胸が強く跳ねる。
けれど私は視線を逸らさず、二人の言葉に耳を傾け続けた。
「もちろん、記録だけで“何かをした”と断定することはできない。……ただ、改ざんされている可能性が高いのも事実だ」
アレン様の言葉が、静かに胸をざわつかせる。
父が――もしかしたら“あの花”に関わっているかもしれない。
そう考えるだけで、冷たいものが背筋を這い上がってきた。




