夏が来る、その前に
放課後の図書館は、ひんやりとした空気と静けさに包まれていた。
窓から差し込む西陽が机の影を長く伸ばし、ページをめくる音や椅子の軋む音だけが控えめに響いている。
テスト前だからか、席はいつもより少し多めに埋まっていた。
それでも、全体に流れるのは落ち着いた静寂だ。
「……えっと、この公式を使えば、次の問題も解けるはずだよ」
「お、さっすがフィオラ先生! じゃあ、これはどう?」
小声ながらも楽しげに、レオンが問題を指さす。
彼のノートは“グシャグシャ”というほどではないものの、ところどころに謎の落書きが混じっていて――す見るたびに、思わず本気で心配になってしまう。
「それ、さっき教えたばっかりだよ。もう忘れたの?」
「ええっ!? いやいや、わざと忘れたフリしてただけ! フィオラに教えてもらいたくてさ!」
焦りながら笑うレオンに、私は小さくため息をついた。
「……ふざけてると、本当に間に合わなくなるよ? テストが終わったら夏休みなんだから。今は頑張ろ?」
「うん! 夏休みはめちゃくちゃ楽しみだからな! とりあえず、フィオラに教えてもらったとこだけでも完璧にする!」
軽口を叩きながらも、目はどこか本気。そんな彼に、つい笑みが零れる。
問題に向かうレオンの横顔を眺めつつ、私も次のページを開こうとした――その時だった。
「ねえねえ、先輩たち。何してるの?」
ふわりと軽い声が響き、机の横からルカくんがひょこっと顔を覗かせた。
「ルカくん?」
「たまたま、図書館の前を通りかかったら二人の姿が見えて……あ、カロンも一緒だよ」
声に合わせるように、ルカくんの後ろから落ち着いた足取りでカロンが現れる。
私と目が合うと、彼はいつものように柔らかく微笑んだ。
それから視線を机の上へ移す。
広げられた参考書と、レオンのノートに並ぶ雑な字や落書き。
カロンは一瞬だけ目を細め、静かに口を開いた。
「姉さんたちは、……テスト勉強中?」
「うん。レオンに数学を教えてて……」
そう答えた途端、ルカくんの眉がぴくりと動き、細めた視線がレオンに注がれる。
「へえ“勉強”ね。……ねえレオン先輩。勉強にしては、ずいぶん楽しそうに見えたけど?」
「あ、ああ? まあな! フィオラの教え方がわかりやすいから助かってるんだよ」
レオンが慌てて頭をかきながら笑うと、ルカくんはニヤリと唇の端を吊り上げた。
「ふーん……ほんとに“勉強だけ”だったのかな?」
「ちょ、ちょっとルカくん!」
頬が熱くなる。揶揄われているのはレオンなのに、なぜか赤くなっているのは私だった。
そんな空気をすっと和らげるように、カロンの声が割って入る。
「姉さん、無理してない? あんまり根を詰めすぎると疲れちゃうよ」
「ありがとう、カロン。でも大丈夫。ちゃんと休憩も挟んでるから」
「……そう。ならいいんだけど」
柔らかい笑みを浮かべながらも、カロンの視線にはわずかな鋭さが混じる。
その鋭さが私の横へと一瞬だけ向けられた瞬間――レオンの肩がピクリと震えたのを、私は見逃さなかった。
「……随分、賑やかだね」
低い声が空気を切り裂くように落ちる。
奥の書棚から静かに現れたのはシリウスだった。
本を数冊抱えたまま、淡々とこちらへ歩み寄ってくる。おそらく、いつものように読書をしていたのだろう。
「なんだ、シリウスも来てたのか! さすが図書館好き!」
「……たまたま。けど、君たちの声が聞こえたから、来てみた」
その淡々とした返しに、ルカくんがくすりと笑いを漏らす。
「うわあ!シリウス先輩まで来ちゃったら……これ、もう勉強じゃなくてお喋りタイムじゃない?」
その声が思いのほか大きく、図書館中に響いてしまった――その瞬間だった。
「ルカ。……もう少し静かにな?」
優しくも、わずかに苦笑を含んだ声が落ちる。
ハッとして振り向いた先に立っていたのは、一際目を引く銀髪を揺らすアレン様と、穏やかな笑みを浮かべるオリバーさんだった。
「よう。……ずいぶん楽しそうな集まりになってるじゃないか?」
「アレン様、オリバーさん……!」
驚いて立ち上がろうとした私を、アレン様が軽く片手を上げて制した。
「そんなに驚くな。俺たちも偶然、図書室の前を通りかかっただけだ。……で、声が聞こえてきたから覗いてみた」
「ちゃんとテスト勉強してるなんて偉いよ。……俺もそろそろ勉強しなきゃいけないかな」
オリバーさんは柔らかに微笑んで、場の空気を和ませる。
(……よく考えたら、この中で私とレオン以外は、いつも学年上位なんだよね)
そんなことをぼんやり思っていたら、話題はいつの間にかテストから脱線して、机の周りは抑えた声ながらも賑やかに盛り上がっていた。
「というかさ……」
ふいにルカくんが小さな声で切り出す。
「……みんな、夏休みの予定って、もう決まってる?」
「え?」
妙に真剣なトーンの割に、内容は子供っぽくて、思わず聞き返してしまう。
「だって、来週にはテストも終わるでしょ? ほら、意外と夏休みってすぐ来ちゃうからさ」
その一言に、ふっと場の空気が変わる。
誰もが試験のことばかり考えていたから、先の話は少し新鮮だった。
「……確かに。夏休み、何するか全然考えてなかったな」
レオンが肩を落としてしみじみ呟くと、シリウスも小さく頷く。
「俺は夏は苦手だけど……うちの領地は涼しい。帰るのは少し楽しみだ」
「いいなあ! 俺は泳ぐぞ!湖か、川か……いや、どうせなら海がいい!」
勢いよく声を張るレオンに、ルカくんが目を輝かせてすぐに乗っかる。
「じゃあ、みんなで一緒に行きます? 海とか行ってみたいな! もちろん、フィオラ先輩も水着着てくれるよね?」
「えっ……!?」
突然の無茶ぶりに、思わず声が裏返る。
ルカくんの笑顔は人懐っこいのに、その視線にはなぜか“断らせないぞ”という圧が隠れていて、言葉が喉で詰まった。
その時――救いの声が差し伸べられる。
「こら、ルカ。あんまりフィオラちゃんを困らせないの」
柔らかい笑みを浮かべながらオリバーさんが諭す。場の空気がすっと和らぎ、私は小さく息を吐いた。
「けど……いいな。夏の思い出ってやつか」
ふいにアレン様が椅子の背に肘をかけ、遠くを見るように呟いた。
その声色にはほんの少し羨望が混じっていて、私は意外に思わず目を向ける。
「お前たちが、どんな夏を過ごすのか。ちょっと気になるな」
「アレン様は……どこか行かれるんですか?」
王族の夏休みは想像がつかなくて、純粋な疑問が口からこぼれた。
問いかけにアレン様はわずかに目を見開き、それから考えるように視線を伏せる。
「んー……俺は学園に通っている間に溜めた公務があるから、残念ながらあまり休みはないんだ。でも――合間を縫えば、少しくらいは付き合えるかもな?」
何気ない調子で放たれたその一言に、胸がどきりと跳ねる。
気づけば場の空気は完全に“テスト勉強”から逸れて、夏休みの話題でいっぱいになっていた。
「ねえ、姉さんは……? どこか行きたいところ、ある?」
カロンが、誰にも聞こえないくらいの声で私に問いかけてきた。
その声音はまるで内緒話のようで、昔を思い出して少し胸が温かくなる。
(……私が行きたいところ、か……)
考えかけたその時、ふと窓の外に視線を向けた。
夕闇が静かに校舎を包み込み始めていて、はっとして壁の時計を確かめる。
「……えっ、もうこんな時間!?」
思わず声を上げると、周囲もざわめいた。
長く感じた放課後は、気づけばあっという間に過ぎ去っていたらしい。
慌てて図書館内を見渡せば、いつの間にか私たち以外の生徒の姿はなくなっていた。
残されているのは机に散らばった参考書と、ほんのり冷えた空気、そして小さく揺れるランプの光だけ。
静けさが余計に遅い時間を実感させ、胸の奥がひやりとした。
「みんな、そろそろ帰ろうか」
オリバーさんの穏やかな声に、私たちは一斉に頷いた。
図書館を出ると、廊下にはもう人影もなく、静けさが漂っていた。
気がつけば夕陽は沈みきり、窓の外には夜の気配が濃く広がっている。
「……にしても、結構遅い時間になっちゃった」
ルカくんが笑いながら背伸びをし、レオンは大きな欠伸を堪えるように口を押さえる。
その横で、シリウスがふっと息を吐き、低く呟いた。
「……図書館にいたはずなのに、思い返すと夏の話ばっかり残ってるな」
「ははっ、わかる! でもそういう時間が一番楽しいんだって!」
「レオン先輩……勉強したことが残ってないとテストやばいんじゃ……」
ルカくんの突っ込みに、レオンが「うっ」と言葉を詰まらせる。
そこへ、カロンがスッと声を差し込んだ。
「……レオン先輩とルカが楽しそうなのはいいけど、姉さんまでつられて勉強そっちのけになったら困るな」
柔らかい口調のはずなのに、その視線は二人ではなく、真っ直ぐに私へ。
どこか嫉妬を帯びたその色に気づいて、私は思わず視線を逸らしてしまった。
その時。
「――フィオラ」
低く、けれどよく通る声が背中から響く。
振り向くと、アレン様が少し歩みを早め、私の横に並んでいた。
「少しだけ、話がある」
低く落ち着いた声に、思わず足が止まる。
胸の奥がざわりと揺れて、私は驚いて問い返した。
「……どうしたんですか?」
アレン様は歩みを緩め、真紅の瞳を私に向けたまま、後ろのレオンたちへと視線を移す。
「お前たちは少し、先に行っててくれ」
短くそう告げると、誰も逆らえない威圧感が漂った。
その空気に少し息を詰めかけた時――反対側から、柔らかな気配が寄り添う。
「そんなに怖い話じゃないから、安心して」
オリバーさんが静かに歩み寄り、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
張りつめた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
「ただ……近いうちに、少し時間をもらえるかな?」
その声に、心臓が大きく跳ねる。
何についてなのか――言葉にされずとも分かってしまったから。
「……わかりました」
小さく頷くと、アレン様の瞳がわずかに細められた。
柔らかさを纏いながらも、鋭さを隠さない視線がまっすぐに私を射抜く。
「……ありがとう」
その一言が、妙に胸の奥に深く残った。
余韻に包まれる私の横で、オリバーさんがふっと微笑む。
張りつめかけた空気をやわらげるように、穏やかな声が落ちた。
「それじゃあ、今日はもう遅いから。気をつけて帰ってね、フィオラちゃん」
「じゃあ、またな」
アレン様も短く言い残し、二人は踵を返して並んで歩き出す。
背中が遠ざかっていくのを、私はしばらくじっと見送った。
夕闇に溶ける影。頬を撫でる風は、もう夏の匂いを含んでいる。
(……きっと、大丈夫。そう信じたい)
心の中でそっと唱えた、その時だった。
「フィオラ先輩!これ以上遅いと置いてっちゃいますよー!」
明るい声が廊下の先から響く。ルカくんが大きく手を振り、その隣にはレオンとシリウス、そしてカロンの姿もあった。
そこには、当たり前のように笑い声が混じり合っていて――胸の奥のざわめきが、ほんの少し薄らいでいく。
背後には、まだ答えの見えない“何か”が静かに潜んでいる。
けれど今の私は、ただその笑い声のする方へと歩いていった。




