約束の花は、温かく揺れて 2
廊下を抜けると、木々の匂いがふわりと漂う中庭に出た。
枝葉の間から射し込む陽射しは柔らかく、私の影とオリバーさんの影が並んで伸びていく。
その歩幅は自然と揃っていて、胸の奥が落ち着かない。
「……あの、オリバーさん。どこに行くんですか?」
「温室だよ」
「温室って……何かのお手伝いですか?」
問いかけると、オリバーさんはどこか楽しげにフッと唇を緩めた。
「いや、ただの寄り道だよ。……フィオラちゃんに、渡したいものがあるんだ」
「……私に、ですか?」
「最近、ずっと気を張ってたでしょ? 学園祭に、あの騒動に……。心配ごとが多かったから、少しでもリラックスできる時間を一緒に作れたらなと思って」
どこまでも優しい声音が耳に届く。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなり、鼓動がほんの少し速まっていく。
――けれど、オリバーさんはアレン様の専属護衛騎士。
私がアレン様の婚約者候補だからといって、こんなにいつも気にかけてもらうのは……どうしても、申し訳なく感じてしまう。
私はオリバーさんの整った横顔へと、恐る恐る視線を向け、口を開いた。
「あ、あの……私、大丈夫ですよ……? 私がアレン様の婚約者候補の一人だから……その、いつも気にかけてくれてるんですよね?」
その言葉に、オリバーさんはピタリと足を止めた。
振り返った瞳が一瞬だけ驚きに揺れ、すぐに真剣な色を帯びる。
「それは違う」
低く、けれどはっきりとした声。
そして、少し間を置いて続けられた。
「……これは、俺が好きでやってるだけだよ」
真っ直ぐすぎる言葉に、胸の奥がふっと大きく揺れる。
視線を合わせていられなくて、思わず目を逸らした。
けれど、視線を外した先でも、頬に残る熱だけはどうしても誤魔化せなかった。
そんな私に視線を一度だけ落とすと、オリバーさんは「よし、行こう」と優しく呟き、再び手を引いて歩き出した。
胸の奥に灯った熱を隠すように、私はただその背中に従うしかなかった。
やがて辿り着いたのは、以前もオリバーさんと訪れた温室。
それは、ほんの少し前のことなのに、扉の前に立つだけで、不思議と懐かしさが胸に広がっていく。
オリバーさんがゆっくり扉を押し開けると、静けさがふわりと流れ込んできた。
中には誰の気配もなく、まるで時が止まっているかのようだった。
高い天井ガラスから降り注ぐ光はやわらかく拡散し、土と緑、それから花々の甘やかな香りが鼻をくすぐる。
湿り気を帯びた温かな空気は、冷えた心をそっと包み込むようで――ただここにいるだけで、胸の奥が少しずつほぐれていくのを感じた。
「ここに座って、ちょっとだけ待っててくれる?」
柔らかな声が落ちる。
私が小さく頷くと、オリバーさんは穏やかに微笑んでから、温室の奥へと歩いていった。
私は近くにあったベンチに腰を下ろす。
葉の擦れる音や、遠くで水が滴るような音。
静かな世界の中で、胸の前で自然と手を重ねていた。
(……オリバーさん、私に何を渡したいんだろう)
少しだけ緊張している。けれど、不思議と楽しみにしている自分もいた。
やがて、ゆっくりと近づいてくる足音。
「お待たせ」
穏やかな声とともに、オリバーさんが姿を現す。
その手には、白に近い淡いピンク色の花が一輪。
光を透かす花びらがふわりと揺れ、まるで宙に浮かぶように淡く輝いていた。
「これ、フィオラちゃんに」
差し出された花に、思わず息を呑む。
顔を上げると、オリバーさんはいつものように柔らかな笑みを浮かべていて――その優しさが、胸の奥をそっと揺らした。
(……もしかして、今までで一番“乙女ゲームのヒロイン”みたいな瞬間かもしれない)
光を受けて淡く透ける花びらが、手のひらにすっぽり収まりそうなほど小さく、儚い。
私は吸い寄せられるように、ゆっくりと手を伸ばした。
――けれど、指先が触れる直前。
脳裏を過ったのは“ユスティア・フロス”の真っ白な花びら。
ぞくり、と背筋を冷たいものが駆け抜け、心臓が強く跳ねた。
反射的に、私は手を引っ込めてしまう。
「……っ、ご、ごめんなさい……!」
俯いたまま、慌てて声を絞り出した。
オリバーさんは花をそっと引き戻し、わずかに目を細めながらも、静かに微笑む。
「……やっぱり、怖いよね」
その声は、咎めるでも呆れるでもなく、ただ理解と受容だけが滲んでいた。
その優しさが逆に胸に触れて、息が詰まりそうになる。
「あれから……花に触れるのが、少しだけ……」
言葉を選ぶように、私はぽつりぽつりと吐き出す。
「見ているだけなら綺麗だと思うのに……触ろうとすると、胸の奥がざわついて。……どうしても怖いって思ってしまって」
口にした瞬間、喉の奥が熱くなり、涙が滲みそうになる。
けれどオリバーさんは否定もせず、ただ静かに頷いてから、隣に腰を下ろしてくれた。
「そっか。じゃあ、触れなくてもいい」
優しく、包み込むような声色が続く。
「これはね、贈るためじゃなくて……ただ、ここにいる時にフィオラちゃんのことを思って、“似合うかな”って俺が選んだ花なんだ。だから、見てくれるだけで十分嬉しい」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
私は静かにオリバーさんの手元の花を見つめた。
ふんわりと淡い色、柔らかな形。
見つめているうちに、恐怖よりも“嬉しい”という気持ちの方が少しずつ勝っていく。
気づけば、そっと指先を伸ばしていた。
「……綺麗、ですね」
小さく呟きながら花を受け取ると、オリバーさんは一瞬だけ驚いたように目を見開き――それから、柔らかく笑みを深めた。
その笑顔は、いつもの穏やかさよりも少しだけ近くて、甘い。
胸が不意に熱くなり、私は思わず視線を逸らしてしまう。
「やっぱり、その花はフィオラちゃんに似合うね。……髪色にもよく映えてる」
ふわっとした甘い言葉が、まるで香りのように胸に染み込む。
心臓の鼓動が早くなるのを、誤魔化すことはできなかった。
オリバーさんは私の手から花を取ると、そっと耳元に添えてくれた。
逸らしたはずなのに、彼の視線を感じて耐えきれず、私はぎゅっと目を瞑ってしまう。
「ねえ、少しだけ髪に触れてもいいかな?」
驚いて、思わず目を開ける。
そこには、少し照れたように微笑むオリバーさんがいた。
どう返せばいいのか分からず、喉が詰まる。
けれど、なんとか小さく頷くと、オリバーさんはクスッと笑い、静かに手を伸ばした。
近づく指先は一瞬だけためらったように見えたけれど、すぐに優しく髪へと触れる。
中庭の夕暮れを映すガラス越しの温室。
空気がぴたりと止まり、まるでその瞬間だけ時間が存在しないみたいだった。
「……やっぱり、この花を選んでよかった」
撫でるように髪をすくい、指でそっと解く。
その温度がじんわりと残り、胸の奥が熱を帯びる。
「っ……」
言葉にならない声が喉に詰まる。
一方のオリバーさんは、余裕の笑みを浮かべたまま髪を整えると、柔らかに囁いた。
「光に当たる度に、フィオラちゃんの髪……花びらみたいに揺れるね」
至近距離。耳元で落とされた低い声。
あまりに近くて逸らしかけた視線が、ふと引き戻されてしまった。
「この花を……俺が君を守る約束の花にしたい。怖くなった時、大丈夫って思い出せるように」
オリバーさんはそう言いながら、耳元に添えた花にそっと指を滑らせる。
心臓が限界まで早く打っているのが、はっきりと分かる。
「オ、オリバーさん……」
「フィオラちゃん、ドキドキしてくれてる?」
見たことない少しだけ悪戯っぽい笑み。
けれど、その瞳の奥はどこまでも真っ直ぐで。
「……俺は、本気だよ」
ぽつりと落とされたその言葉が、胸の奥に深く染み込んでいく。
ただでさえ早い鼓動が、さらに加速していくようだった。
(……こ、こんなの、どうやって落ち着けるの?!)
オリバーさんの手はもう髪から離れているのに、まだそこに触れられているような感覚が残っている。
胸の奥をざわつかせていた余韻は――“ユスティア・フロス”の恐怖さえ遠ざけてしまう。
今はただ、この淡いピンクの花が、優しく心を満たしていた。
そして、気づけば自然と声がこぼれていた。
「……オリバーさんのおかげで、花がまた好きになりました」
その小さな感謝に、オリバーさんはふわりと優しく頷い
「じゃあ、元気がない時は……花を持って、フィオラちゃんに会いに行くね」
軽やかに放たれた冗談めいた言葉。
それなのに胸の奥で、どうしてか“本当にそうしてくれる”と信じられてしまう。
(……次こそは、怖がらずに受け取りたい)
私の耳元に添えられた淡いピンクの花。
それはきっと、ただの贈り物じゃない。
静かに揺れるその花が――私の心の中で、小さくても確かに"まだ名前の付かない感情"の蕾を咲かせ始めていた。




