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温もりに、ほどけていく

 



 学園祭三日目の朝は、曇り空で始まった。

 空一面を覆う鈍色の雲はどこか重たげで、校舎の前に響く賑やかな準備の声さえ、その灰色に呑み込まれていくように感じられる。


 私はふと足を止め、そっと空を仰いだ。


 昨夜、カロンに花びらのことを打ち明けてから、不思議なほど急に眠気に襲われ、気づけば朝を迎えていた。

 今朝、恐る恐る尋ねてみると「安心したから眠くなったんだよ」とカロンは柔らかく笑ってくれた。


(……たしかに、ぐっすり眠ったはずなのに)


 それなのに、疲れは少しも抜けていない。

 頭の奥がまだ重く霞んでいて、身体も心もどこか地面に引きずられているようだった。

 その違和感が、曇り空と同じく胸の中にじっと淀んでいる。


「……大丈夫。今日を乗り越えれば、学園祭は終わる」


 小さく、自分に言い聞かせるように呟く。

 制服の胸元をぎゅっと握りしめ、不安を振り払うように足を進める。

 廊下を抜け、教室の扉を開けると、中ではクラスメイトたちが楽しげに準備を始めていた。


「おはよう、フィオラさん!」

「今日も頑張ろうね!」

「フィオラさんのメイド姿、可愛いって評判らしいよ」


 順々に掛けられる声に、私も笑顔で返す。

 三日目だというのに、みんなの顔には疲れの色がなく、むしろ昨日より生き生きして見えた。


(……うん、大丈夫。私も……大丈夫)


 心の中でそう唱えながら、ぎこちなく体を動かす。

 けれど、胸の奥に残る重さは消えなくて、呼吸もどこか浅い。

 笑顔を作るたびに、ほんの少しだけ頭がくらりと揺れるのを誤魔化すように、私はスカートの裾を握りしめた。


 その時、ふと教室の隅から向けられる視線に気づく。

 レオンが、真剣な表情でじっとこちらを見ていた。

 その視線に、すべてを見透かされるような気がして、私は思わず逸らしてしまった。


(……レオンには、気づかれないはず)


 胸の奥でそう呟きながらも、手のひらにはじんわりと汗が滲んでいる。

 心臓の鼓動がやけに速くて、誤魔化すように深く息を吸った。

 けれど、その息さえ胸の奥で重く引っかかるようで、余計に苦しくなる。


 もし、あの視線がレオンではなくシリウスのものだったら――

 きっと今頃、私は「全部話して」と言われていたに違いない。

 その想像に、胸の奥がひどくざわついた。



 * * *


 昼過ぎ、三日目もカフェは相変わらずの人気だった。

 賑わいに紛れて動いていたはずなのに、気づけば足取りは重く、視界の端はじんわりと霞んでいく。


(……少しだけ、休もう)


 客足が途絶えた隙を見計らって、クラスメイトに声を掛けてから私は教室を出た。

 レオンとシリウスの二人は今日も厨房担当のため、私が抜け出したことに気づかれる心配はなかった。


 ほんの少しの休憩。

 そう思えば、誰にも迷惑をかけないはずだと自分に言い聞かせる。


 カーテンの隙間を抜けて、廊下を歩き、階段を下りて――ようやく人通りの少ない渡り廊下へたどり着く。


 外は厚い雲に覆われ、涼しい風がひやりと頬を撫でた。

 人気のないその場所で、私は壁に背を預け、息を整えるように深く呼吸を試みる。

 けれど胸の奥は重く、呼吸は浅いまま。


 やがて膝に力が入らなくなり、私はそっとその場にしゃがみ込んだ。


 不意に肩が震える。

 息がうまく吸えなくなっていく。次第に手足が冷たくなって、喉の奥に何かが詰まったような違和感だけが広がった。


(……苦しい、息が……)


 視界は霞み、指先はかすかに震えている。

 声も出せず、助けを呼ぶことすらできない。


(……これも、バッドエンドの一つなのかな……)


 思考がぐるぐると回る中、その場にしゃがみ込んでいるしかなかった。


 ――誰にも気づかれないようにと選んだはずの場所。

 それなのに。


 足音がひとつ、控えめに近づいてくる。

 思わず体が強張ったその瞬間。


「……フィオラ」


 耳に届いたのは、聞き慣れた声。

 顔を上げれば、そこにはレオンが立っていた。


 いつもの太陽みたいな笑顔ではなく、真剣なまなざしで私を見下ろしている。


「……レ、オン。だい、じょうぶ……だから、戻っ、て……」


「ごめん、それは無理」


 静かに、けれど強く。

 そう言いながらレオンは膝をつき、そっと私の肩に手を添えた。


「無理に喋らなくていい。俺がそばにいるから」


 その低く落ち着いた声が胸の奥に染み込んでくる。

 気づけば私は、彼の腕の中に引き寄せられていた。

 ふわっと包まれるような感覚。胸元に頬が触れた瞬間、緊張していた全身が少しずつ解けていく。


(……レオン?)


 不思議だった。

 さっきまで喉を締めつけていた息苦しさが、少しずつほどけていく。

 頭の中でぐるぐると渦巻いていたものが、スウっと消えていく。

 思考も、視界も、胸の鼓動も、ゆっくりと穏やかになった。


(……これって、もしかして……)


 レオンが私に能力を使っていることに、気づくのは簡単だった。


 【精神操作】。

 名前だけだと恐ろしくて、怖い能力のはずなのに――彼が使う【精神操作】は、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、レオンの温かさと優しさそのものが、能力に混じって流れ込んでくるようで。

 そのぬくもりの中で、私はようやく深く息を吸うことができた。


「……落ち着いた?」


 耳元にそっと落とされる声に、私はゆっくりと頷いた。


「うん。ありがとう、レオン」


 顔を上げると、レオンはホッとしたように笑った。

 けれど、その笑顔の奥で、彼の顔色がどこか青白いのに気づく。

 私は恐る恐る手を伸ばし、彼の頬にそっと触れた。


「レオン……顔色……」


「……あー、やっぱり? 俺、使い慣れてないんだ。能力……」


 ポツリと溢れた声は、思いのほか弱々しい。

 困ったように笑いながら目を逸らし、彼は肩をすくめた。


「……かっこ悪くて、ごめんな」


 その一言に、胸の奥がギュッと締め付けられる。

 誰かを守ろうとして、自分を削ってしまう――そんな不器用さが、どうしようもなく眩しかった。


 少し乱れた前髪の奥で揺れる視線は、真っ直ぐではなくて。

 だからこそ、こっちを向いてほしいと強く願ってしまう。


 私は首を横に振って、強く否定する。

 その仕草に、レオンは一瞬だけ目を瞬かせ、それから少し照れくさそうに笑った。


「そっか」


 小さく呟くと、伸ばした手で私の髪をそっと撫でる。

 指先が優しく流れて、どこかくすぐったくて――でも、それ以上に温かかった。


 二人の間に、静かな沈黙が流れていた――その時だった。


 廊下の奥から、規則正しい足音がこちらへと近づいてくる。

 レオンがハッとして顔を上げ、私の肩に回していた手を慌てて離した。


「……フィオラ」


 真紅の瞳が射抜くように私を捉える。

 振り返ると、そこには険しい表情を浮かべたアレン様が立っていた。

 その隣には、冷静な眼差しを向けるオリバーさんの姿もある。


「……やっぱり、無理してたんだな」


 低く落とされたアレン様の声は、叱責というよりも切実な心配そのものだった。


 オリバーさんは一歩前に出て、疲労を隠せないレオンをちらりと見やる。


「レオン……随分消耗してるね。慣れないのに、能力を最大限使ったんだろ?」


 図星を突かれたレオンは、苦笑を浮かべて目を逸らす。


「能力を使う時は無理するなって、この前言ったばかりだろ。……まったく、考える前に動くのは相変わらずだね」


 呆れ混じりのお説教。それでも、その声には確かな優しさが滲んでいた。


 そんな二人のやり取りをよそに、アレン様は静かに歩み寄ってくる。

 そして真紅の瞳をまっすぐ私に向け、逃げ場を与えない声で言った。


「……全部、話してもらうぞ。フィオラ」


 穏やかでありながら、決して拒めない響きを持つその声。

 私は小さく喉を鳴らし、ただ頷くしかなかった。


「じゃあ、行くか」


 アレン様の静かな声が落ちた瞬間、私は無意識に足がすくむのを感じた。


「えっ、どこに……?」


「生徒会室だ。少し、落ち着いて話そう」


 柔らかいけれど、逆らう余地を与えない響き。

 私が返事をできずにいると、レオンが苦笑気味に口を挟んだ。


「すみません、オリバーさん!俺、ちょっと休ませてもらってもいいですか? ……フィオラは、アレン様にちゃんと話せよ」


「レオン……」


 その顔には、本気の心配と、それを隠すような軽さが同居していた。

 胸がじんわりと熱くなり、私は小さく頷く。


「ゆっくり休んでね。本当に……ありがとう」


「おう! フィオラも、絶対ちゃんと話すんだぞ」


 念を押すように笑って言うと、レオンはオリバーさんに肩を借りながら廊下を去っていった。

 その背中が見えなくなるまで、私は無意識に目で追っていた。


 すると、アレン様が横で静かに口を開く。


「無理に話せとは言わない。けど……フィオラが何か気づいているなら、俺たちもそれを知らなきゃならない」


 真紅の瞳に射抜かれ、息が詰まる。


(……アレン様は、気づいてる)


 内緒にしておきたかったのに。

 でも――私がひとりで抱え込める範囲を、とっくに超えてしまっている。

 それを、認めざるを得なかった。


「……わかりました」


 小さく答えると、アレン様は静かに頷いた。

 そして私たちは、言葉少なに並んで歩き出す。


 普段なら人の声が響くはずの廊下。

 学園祭の喧噪から切り離されたその道は、不自然なほど静かで。


 その静けさの中で、私の心臓の鼓動だけが――やけに大きく響いていた。




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