おやすみの代わりに言えたなら
学園祭二日目は何事もなく、無事に幕を閉じた。
校門を出る頃には、ほんの少し冷たい風が頬を撫でていく。
制服の裾を押さえながら門を抜けると、西の空はすでに茜色を過ぎ、群青の帳がゆっくりと降り始めていた。
昼間まで残っていた笑い声の残響や、人々のざわめき、屋台の甘い香り。
それら“賑わい”から離れた今、自分の足音だけが妙に際立って響く。
(……きっと、大丈夫)
今日一日の光景を胸の奥で反芻しながら、私は小さく息を吐いた。
いつもと変わらないはずの帰り道が、どうしてだか現実から一歩だけ遠くに感じられるのは――ポケットに隠した、あの白い花びらのせいだろうか。
屋敷に帰ると、私は足早に自室へ戻り、制服の上着を脱いだ。
窓のカーテンを閉めると、外の気配を断つようにベッドへ腰を下ろす。
制服のポケットから取り出したのは――二枚の、白い花びら。
拾ってからというもの、昨日も今日も何もできず、ただ入れたままにしていた。
手のひらに広げてみても、見た目は何の変哲もない花びら。
それなのに、胸の奥をじわじわと不安で侵食してくる。
(……どうして……こんなに怖いんだろう)
指先に伝わる感触は確かに花。けれど、どこか違う。
時間が経っているのに、萎れることもなく瑞々しいまま。
その神秘的な姿が、不気味さを余計に際立たせていた。
(まるで……バッドエンドを迎えるために必要なアイテムみたい)
ガーデンパーティー、遠足、学園祭。
本来なら楽しいはずのイベントの記憶に、白い花びらが影のように貼りついて離れない。
ヒロインとしての私は、どこか中途半端で……このままではバッドエンドに一直線な気がしてしまう。
(……こんなことなら、誰かのルートに入ってしまえばよかったのかも……)
今更しても仕方のない後悔が胸を満たした、その時。
トン、トン――。
控えめなノックの音が、静かな部屋に響く。
「……姉さん、起きてる?」
聞き慣れた声に、思わず顔を上げた。
「……カロン?」
花びらをポケットに戻し、急いで扉を開けると、そこにはカロンが立っていた。
手には二つのマグカップと、クッキーを並べた小さなトレー。
ふわりと漂う、甘くて優しい香りに思わず肩の力が抜ける。
「これ、姉さんの好きなミルクティーとチョコチップクッキー。……少し疲れてるんじゃないかと思って。……一緒に食べない?」
差し出された言葉には、優しさと心配が同じくらい混じっていた。
「ありがとう、カロン。……ちょっとだけ、考えごとしてたの」
そう答えて彼を部屋へ招き入れると、カロンは「そっか」と小さく返事をして、静かに足を踏み入れた。
私は気持ちを切り替えようとカーテンを開け、月明かりを取り込む。
振り返ると、カロンはすでにベッドの端に腰を下ろしていて、じっとこちらを見ていた。
オパールのような瞳に月の光が映り込み、本物の宝石のように淡くきらめいている。
その視線がまっすぐで、隠し事なんてできない気がして、胸がふっと熱くなった。
「……姉さん、何か僕に隠し事してない?」
「えっ……そんなこと、ないよ」
反射的に言葉を返したけれど、自分でも声がわずかに震えているのがわかった。
カロンはその一瞬を見逃さず、静かに目を細める。まるで全部わかっているような顔。
胸の奥がきゅっと締めつけられて、私は自然に「ごめん」と小さく呟いていた。
「謝らないで。僕こそ、ごめんね。……ただ、姉さんが心配なだけなんだ」
その声は驚くほど優しくて、なのに深く染み込んでくる。
心の奥にある不安を、ひとつ残らず見透かされているような響きだった。
「姉さん、何かあったなら……ちゃんと話してほしい」
真剣な眼差しと柔らかな声が重なり、私の心をそっと揺さぶる。
けれど私は、思わず視線を逸らした。
(……話したくない。また白い花が落ちていたなんて……今ここで言ったら、カロンまでバッドエンドに巻き込んでしまう気がする)
私が黙り込むと、カロンはそれ以上問い詰めなかった。
ただ静かに立ち上がり、トレーからマグカップをひとつ手に取ると、私の前にそっと差し出してくる。
「……温かいうちに、どうぞ」
ふわりと甘い香りが立ちのぼり、張りつめていた胸の奥に少しずつ染み込んでいく。
受け取ったマグカップの温もりが、冷えていた指先を優しく包み込むようだった。
カロンは余計なことは言わず、ただ静かにそこにいて、私が口を開くのを待ってくれる。
その沈黙が、逆に心を落ち着けてくれる。
(……こんなふうに優しくされると……隠し続けるのも、辛い……)
最初は飲み込んで、胸の奥に押し込めておこうと思った。
けれど、オパール色の瞳にじっと見つめられているうちに、少しずつ言葉が解されていく。
「……カロン。……本当はね、昨日……学園で、白い花びらを見つけたの」
声にした瞬間、胸の奥がずしんと重くなる。
けれど同時に、その重さを手放せたような安堵も広がっていった。
私は制服のポケットに手を入れ、そっと取り出す。
二枚の白い花びらが、掌の上に並ぶ。
「……これが、その時に拾ったの」
月明かりに透けるように淡く光り、静かに揺れる花びら。
私はそれを、まるで罪を告白するように、カロンの前へ差し出した。
差し出した白い花びらを見た瞬間、カロンの瞳が大きく揺れた。
驚きに言葉を失ったように、しばらくその場に固まってしまう。
けれど、それはほんの一瞬だけだった。
「……そっか。姉さん……教えてくれて、ありがとう」
次に浮かんだのは、穏やかな微笑みだった。
その言葉と共に、私の手のひらごと花びらを包み込むように、そっと両手で覆ってくれる。
「ひとりで抱え込まないでくれて……嬉しいよ」
柔らかい声。
驚きよりも、心からの安堵と優しさが滲んでいた。
(……カロン……)
胸の奥がじんわりと熱くなり、涙がこみ上げそうになるのを慌てて堪える。
けれどその温もりは、さっきまで私を縛っていた恐怖を少しずつ溶かしていった。
そしてカロンは、真剣な眼差しで私を見つめる。
宝石のようなオパールの瞳が、月明かりを受けて一層強く輝いた。
その視線に射抜かれ、私は思わず息を呑む。
そして、静かな間を置いてから、カロンは口を開いた。
「でもね、姉さん」
次に発せられたカロンの声が、わずかに低く落ちた。
「もし、どうしようもなくなった時は……俺が全部、元通りにしてあげる」
「……え?」
驚いて思わず変な声が出ると、カロンはいつもと変わらない穏やかな微笑を浮かべた。
「冗談だよ。……でも、僕は“元に戻す”の、得意だから」
笑顔のまま、冗談めかして笑うカロン。
けれど、その瞳の奥に――ほんの少しだけ、冷たくて底知れぬ色が滲んだ気がした。
(……きっと、冗談じゃない)
でも、その本音を追及するのは怖くて、私は逃げるように口を開いた。
「……カロンってば。頼もしいけど、ちょっと怖いこと言うね」
「え、そうかな? 僕としては、姉さんが笑ってくれるなら……何でもしたいんだけどな」
さらりと、けれどどこか本音じみた言葉。
私は曖昧に笑いながら、手のひらにじんと残る冷たさを感じていた。
「大丈夫。姉さんは、ひとりじゃないよ」
そう言ってカロンは、そっとブランケットを私の肩に掛けてくれる。
その言葉は飾りではなく、真心からのものだと分かって――胸の奥がじんわり温かくなった。
安堵の吐息を漏らした瞬間、重たくなったまぶたがふわりと閉じていく。
そうして私は、カロンの気配に包まれながら、静かなまどろみに落ちていった。
* * *
安らかな寝息が、部屋の静寂に溶けていく。
カロンはそっと手を伸ばし、フィオラの柔らかな髪を指に絡めた。
「……姉さん」
掠れるほど低く、誰にも届かない声。
「いざという時は……全部、俺が“元に戻す”。絶対に、姉さんが悲しまないように」
その横顔に浮かんでいるのは、誰にも見せたことのない――ひとつの執着。
「……だから、どうか。俺だけを見ていて」
囁きと共に、フィオラの頬を優しく撫でる。
それは、大切な宝物に触れるかのような、慈しみに満ちた仕草だった。
そして、机の上に置かれた二枚の白い花びらへと視線を移す。
カロンはそれを静かに手に取り、ぎゅっと握りしめた。
月明かりの射す部屋に背を向け、ひとり静かに扉を閉じる。
残されたのは、無垢な寝息と――彼の胸に燃える密やかな誓いだけだった。




