優しさと違和感のあいだで
翌朝。
目を覚ました瞬間から、胸の奥に小さなざわめきが残っていた。
昨日の疲れのせいか、それとも――
(……あの花びらのせい、かな)
ベッドから身を起こしながら、私は制服のポケットにしまった二枚の白い花びらを思い出す。
意味なんて分からない。けれど“偶然”で片づけられるものではないと、直感が告げていた。
胸の奥にざらつきを残したまま、私は登校した。
校舎に入ると、二日目の準備に追われる笑い声があちこちから響いてきた。
すれ違う生徒たちも皆元気そうで、その明るさにこちらまで力をもらえるようだった。
その賑やかさに自分を溶かし込むように微笑んで、私は小さく息を吐いた。
(……大丈夫。今日も楽しもう)
そう心で繰り返すたび、奥底でふっと影が揺れる。
それでも誤魔化すように、私はメイド服のエプロンを整えた。
――学園祭二日目の幕が上がる。
遠い気配はまだ静かに息を潜めているけれど、確かに“何か”が近づいていた。
教室に入ると、すでに数人のクラスメイトが準備を始めていた。
昨日の大忙しを経験したせいか、今日は最初から動きに無駄がなく、どこか張り切っているように見える。
私はエプロンの紐を結び直しながら、軽く教室を見回した。
(……あれ?)
レオンとシリウスの姿が見当たらない。
昨日はよく働いてくれていた二人だからこそ、その不在が少し気になった。
「おはよう、フィオラちゃん。……あの二人なら、さっき裏の倉庫に備品取りに行ってくれたよ」
声をかけてくれたのは、近くの席の女の子。
私は「ありがとう」と小さくお礼を返す。
(じゃあ、ちょっと迎えに行こうかな)
そう心の中で呟いて、私は足を倉庫の方へと向けた。
人気の少ない校舎裏の倉庫は、驚くほど静かだった。
物音ひとつせず、誰もいないかと思ったその時――中からひょいっと顔が覗いた。
「うおっ!? ……フィオラか。ビックリした~。おはよ!」
箱を片手に笑顔で手を振るレオン。
そのすぐ後ろには、黙々と備品の箱を抱えたシリウスの姿があった。
「二人とも、おはよう! 手伝いに来たよ」
「マジか! 助かる! この箱、案外重くてさ」
レオンが気軽に笑う。
私はすぐに隣に並び、箱を抱えようとした――けれど。
ひょいっとシリウスがそれを奪い取り、自分が抱えていた箱の上に重ね、軽々と持ち上げる。
そして何事もないように、スッと前を歩き出した。
「……無理しないほうがいい」
「えっ……ありがとう。でも、私、元気なのに……」
短く落とされた言葉。
それがやけに優しく響いて、胸の奥をそっと撫でられたように感じる。
私は思わず、その背中を目で追ってしまった。
「なあフィオラ、少し顔色悪くないか? 昨日あんなに忙しかったんだし、今日は無理すんなよ?」
「そうかな……? 大丈夫、だと思うんだけど……」
レオンの心配そうな視線に、私は曖昧に笑って返す。
でも――自分でも、さっきから呼吸が浅い気がしていた。
(……やっぱり、何かが起きるのかもしれない)
胸の奥が、恐怖と不安でぎゅっと締めつけられる。
それを打ち消すように、私は大きく息を吸い込み、笑顔を作った。
「それより、早く行こう! 今日も頑張ろうね!」
「おう! 看板娘、頼んだぞ!」
「……本当に、フィオラは無理しないで」
明るく拳を上げるレオンと、静かに言葉を添えるシリウス。
二人の声を背に、私は教室へと戻っていった。
――いつもと変わらない風景の中に。
けれど、確かに忍び寄ってくる“何か”を、肌の奥で感じながら。
* * *
学園祭二日目のカフェは、一日目の大盛況の余韻もあって、想像以上の混雑ぶりだった。
次々と運ばれる注文。笑顔で応対するクラスメイトたち。甘い香りに満ちた教室。
そのどれもがきらきらと眩しくて――けれど、私にはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
まるで夢の中に立っているみたいで、自分という存在だけがそこに溶け込めていない気がする。
(……どうして、こんなに息がしづらいんだろ)
胸の奥がじんと痛む。呼吸は浅く、ひとつひとつが重い。
頭のどこかで「疲れてるだけ」と囁く声がする。けれど、視界の端がふっと霞むたびに、そのざわめきはますます強くなっていった。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしてます」
笑顔を貼りつけて、何度目かわからない言葉を繰り返す。
その声は自分のものなのに、どこか遠く、他人事みたいに耳に届いていた。
「……フィオラ、大丈夫?」
不意にかけられた声に、ハッと顔を上げる。
そこにはレオンが立っていて、いつもの太陽のような笑みは影を潜め、代わりに少し困ったような曇った表情を浮かべていた。
「あっ……ごめん。私、今……ぼーっとしてた?」
「うん、ちょっとだけ」
返す声は優しくて、けれどどこか真剣で。
いつもの軽さが影を潜めたその響きが、不思議と胸に沁みた。
「なあ、少し休もうぜ。ほら、そこ空いてるだろ?」
気づけば、彼の手に引かれてカーテンの裏――控えの席に腰を下ろしていた。
「……ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
「大丈夫って言うやつほど、大丈夫じゃないんだよ」
軽く笑いながらも、レオンの手が私の手をそっと包み込む。
その温かさに、不安で揺れていた心がほんの少しだけ落ち着いていく。
「何か不安があるなら、俺が支える」
その言葉に胸が跳ねた。
でも、不思議と心臓の鼓動はさっきより静かで、呼吸も深く、ゆっくりと整っていく。
(……さっきまで、あんなに苦しかったのに)
不安が嘘みたいに、心の中心に自分が戻ってくる感覚。
胸の奥に広がるのは、じんわりとした安心だった。
「ほら、元気出ただろ?」
「……うん。なんか、少し落ち着いた気がする」
私の答えに、レオンはニカッと笑って立ち上がる。
「ならよかった! やっぱ俺、癒し担当だからな! じゃ、俺はそろそろ厨房に戻る。……でも、無理だけは絶対するなよ?」
そう言ってひょいっと手を振ると、颯爽とカーテンの向こうへ消えていった。
残された私は、胸の奥にまだ残る温かな余韻に、そっと手を当てた。
味わうように一息ついた――その時。
背後から視線を感じて、思わず肩が震える。
振り返った先に立っていたのは、いつからそこにいたのか分からないラフィン先生だった。
胡散くらい笑みを浮かべながら、軽い口調で口を開く。
「お疲れ様。……だいぶ盛況みたいだね」
その言葉と共に、教室を一通りゆっくりと見渡す。
けれどすぐに、淡い水色の瞳が私を射抜いた。
逃げ場を塞ぐような、妙に絡みつく視線。
「フィオラ君。……少し顔色が良くないように見えるけど、大丈夫かな?」
「えっ……あ、はい。たぶん、ちょっと疲れが……」
その言葉に、喉がひどく渇いた。
同時に、心臓がドクンと速さを増し、胸の奥を乱暴に叩く。
答えながら、自分の声がわずかに震えているのをはっきりと自覚した。
「無理は禁物だよ」
柔らかくて優しい声音。
その響きだけを聞けば、ただの心配にしか思えない。
――私の能力を狙っている人物の言葉だなんて、とても。
ラフィン先生はいつもの余裕のある笑みを浮かべたまま、再び口を開いた。
「疲れてるときは、思わぬものが入り込みやすくなるからね。……心も、体も」
その言葉は何気ない世間話のように軽く、けれどどこか含みを持って胸の奥に沈んでいく。
先生はふっと笑みを深めると、「気をつけてね」とだけ残して踵を返した。
返事を待つこともなく、まるで最初からその一言だけを言いに来たかのように。
あとに残ったのは、優しさでも冷たさでもなく――ただ、いつまでも解けない“疑問”のようなものだった。




