学園祭、ざわめく放課後 2
学園祭初日の終了時刻が、残りわずかに迫っていた。
カフェはアレン様たちが来店してからさらに注目を集め、閉店間際まで行列が絶えなかった。
ようやく一息つけると、私はカーテンの奥――厨房スペースに戻る。
途端に、熱気がふわりとまとわりつき、思わず額に手を当てた。
「……ふたりとも、大丈夫?」
恐る恐る声をかけると、レオンが額にかかった前髪を乱暴にかき上げ、ニッと歯を見せる。
「ぎりっぎりセーフ! あと一時間続いてたら、さすがに倒れてたかもな」
「……それ、笑いごとじゃない」
低く返したのは、奥の調理台で黙々と皿を拭いていたシリウスだった。
いつも通り無表情だけれど、その声音には隠せない疲労が滲んでいた。
「……無理しないでね。あと少しだから、頑張ろ?」
二人に歩み寄りながら、私はそっと笑った。
ほんの少しでも、元気を届けられたらと思って。
「……フィオラがそう言うなら、もう少し頑張る」
ぽつりと返るシリウスの声に、自然と頬が緩む。
その言葉通り、彼の皿を拭く手が、ほんのわずかに速くなった気がした。
「なあ、シリウス。俺にもそのくらい優しくしてくれよ。じゃないと倒れるかもしれないぞ?」
「……レオンは元気そうに見えるけど」
「やっぱり俺には厳しいじゃん!」
軽口を叩き合う二人のやりとりに、疲れた空気が少し和らいでいく。
その瞬間――ふわり、とカーテンが揺れた。
「おやおや。ずいぶん楽しそうだね?」
柔らかい声に振り返ると、そこにはラフィン先生が立っていた。
にこやかな笑みを浮かべているのに、場の空気がひやりと張りつめる。
「ラフィン……先生」
「手が足りてないなら、少しくらい手伝おうと思ってね。担任として、困ってる生徒を見過ごすわけにはいかないから」
柔らかく告げると、ラフィン先生は何気ない仕草でワイシャツの袖をまくり、迷いなく流し台へ向かっていった。
その動作はあまりにも自然で――だからこそ、逆に引っかかる。
「先生、家事とか……するんですか?」
思わず疑問を口にすると、先生は小さく肩をすくめ、軽い調子で答えた。
「んー、それなりにだけどね? 皿洗いは慣れてるよ。……色々と、事情があってね」
冗談めかした口ぶり。けれど、その笑顔はどこか作り物めいていて、掴みどころがない。
まるで何かを隠しているような気配――けれど、それを問い詰めるには根拠が足りなかった。
沈黙を破るように、ラフィン先生がふっとレオンとシリウスに目を向ける。
「それより、人気者の二人が裏方なのは驚きだね」
口調は担任らしい世間話。
まるで今までの出来事など忘れてしまったかのように。
だが、その笑みの奥に何が潜んでいるのか、私にはどうしても読み取れなかった。
ラフィン先生に話しかけられても、シリウスは頑なに口を閉ざしたまま。
やむなく、レオンが短く答える。
「本当は俺たちも接客予定だったんですけど……想像以上に混んだんで、裏方になったんです」
素っ気なく吐き出されたその言葉は、普段のレオンらしくない冷たさを帯びていた。
彼にとってラフィン先生は、自分の能力を干渉してきた“かもしれない存在”。
その疑念が消えない限り、警戒心を緩めることなどできないのだろう。
(……さすがに、この場で能力を使うとは思えないけど)
心の中でそう呟いた時、ラフィン先生は不意に、ふっと口元を緩めた。
「……そう。じゃあ、君たち目当ての子達は可哀想だったね」
軽口めいた言葉。けれどその声音は妙に柔らかく、逆に胸の奥をざわつかせる。
それだけ告げると、先生は再び洗い物に向き直った。
かちゃり、と皿の触れ合う音。
水音と重なるように、沈黙が私たちを縛る。
レオンも、シリウスも、私も――言葉を失ったまま。
ただ、張りつめた空気だけが、終わるまでずっとその場を支配し続けていた。
* * *
夕方、空がオレンジ色に染まり始めた頃。
片付けもすっかり落ち着き、あれほど賑やかだったお客さんたちの声も、今は遠くで微かに響くだけになっていた。
「……ふう、やっと終わったな」
レオンが大きく伸びをして、肩をぐるぐる回しながら息を吐く。
テーブルを拭き終えたシリウスも、黙ったまま小さく頷いた。
――あの後、ラフィン先生はすべての皿を洗い終えると「この後、見回りがあるからここまでで失礼するよ」とだけ告げ、あっさりと去っていった。
そして先生の姿が完全に見えなくなった瞬間、私たちはまるで示し合わせたように同時に「はぁっ」と息を吐いて、気づけば、三人そろって吹き出していた。
笑うつもりなんてなかったのに、あまりにもタイミングが合いすぎて可笑しかったのだ。
(……あれは、さすがに誰でも笑っちゃうよね)
肩の力が抜けていくのを感じながら、私は近くの椅子を一つ戻す。
学園祭初日の光景が、ゆっくりと胸に蘇る。
(……思ったより、あっという間だったな)
乙女ゲームのような特別な“恋愛イベント”は起きなかったけれど、確かに楽しかった。
みんなとの会話も、視線も……ひとつひとつが思い出になって胸に残っている。
それを思い返すと、自然と笑みがこぼれて。
私はその余韻を噛みしめながら、最後の片づけに手を伸ばした。
教室の隅に寄せられていた机を元の位置へ戻そうと歩み寄った時。
ふと、床の下に光を反射する小さなものが目に入った。
「……?」
しゃがみ込んで拾い上げたそれは、紙でも布でもない。
指先に触れた瞬間、ひんやりとした感触が伝わる。
――間違いない。それは、花びらだった。
(え……まさか、これって……)
思わず胸がざわつく。
この教室に花は飾っていなかったはず。
念のため周囲を見渡してみるけれど、落ちているのはその一枚だけ。
そっと手のひらに乗せると、白い花びらは淡い光に透けて見える。
まるで、今にも溶けて消えてしまいそうで――それでも確かに、そこに在る。
その儚さとは裏腹に、胸の奥ではざわめきが強く根を張っていく。
「……全然、分かってなかった」
思わず、ポツリと一人呟いた。
花びらをポケットにしまいながら、窓の外へ視線を投げる。
夕焼けの光に包まれた学園は、ただ穏やかで、何も起きていないように見える。
(――だからこそ、怖い)
今日、この教室に“花”を落とした“誰か”が確かに来ていた。
それがラフィン先生なのか、あるいは別の人物なのか。
分からないままではいられない。
けれど、分かってしまうことの方が、もっと怖い気がした。
「姉さん、もう終わる? 帰ろう」
振り返ると、教室の入り口にカロンが立っていた。
優しい声に呼ばれて、胸の奥で渦巻いていたざわめきが、ほんの少し和らいでいく。
「……うん」
私は短く返事をして、自分の心を隠すように、カーテンを静かに閉めた。
それからレオンとシリウスに「また明日」と別れを告げ、カロンと並んで廊下を歩く。
夕暮れの光が差し込む廊下は静かで、ついさっきまでの学園祭の賑わいが嘘のように、人の気配がほとんどなかった。
――なのに。
背後から、じっと見つめられているような感覚がした。
(……気のせい、かもしれない)
そう思おうとしても、背中の皮膚がひやりと冷える。
鼓動が一瞬強く跳ね、私はゆっくりと振り返った。
けれど、そこには誰もいない。
静まり返った廊下。小さな風すら動かず、影だけが伸びている。
胸の奥に張りつめていたものが少し緩み、私は安堵のように小さく息を吐いた。
「……姉さん、どうしたの?」
不意に立ち止まり振り返った私を、カロンが心配そうに覗き込む。
その視線に申し訳なくなり、私は勢いよく首を横に振った。
「何でもないよ。気のせいだったみたい」
再び歩き出そうとした、その瞬間。
足元に――ひらりと白い花びらが落ちているのに気づいた。
(……え? さっきまでは、なかったはず……)
視線の主が見えなかったことよりも。
そこに残された一枚の花びらの方が、よほど恐ろしかった。
背筋を冷たいものが這い上がり、私は思わず足に力を込めた。
心臓の鼓動が、やけに速く耳に響いてくる。
(……カロンに気づかれたら、余計に心配させちゃう……)
そう思った瞬間、私はそっとしゃがみ込み、足元の花びらを拾い上げた。
指先に伝わるひんやりとした感触が、不気味に鮮明だった。
そのまま、何事もなかったかのように制服のポケットへと滑り込ませる。
胸の奥に残るざわめきを、必死に押し隠すように。
「……姉さん?」
小さく首を傾げるカロンの声に、私は慌てて笑みを浮かべた。
「ごめんね。ちょっと、足が止まっちゃっただけ」
そう取り繕って歩き出す。
けれど――ポケットの中で二枚になった白い花びらは、まるでそこで脈打っているかのように存在を主張し、冷たく重く感じられた。




