雨音に紛れて
気づけば、学園祭を目前にした放課後が、静かに訪れていた。
準備の忙しさの余韻がまだ残る中、私は忘れ物を取りに、ひとり教室へ向かっていた。
中庭を横切ると、空はいつの間にか薄く曇り、吹き抜ける風には湿り気が混じっている。
いつもなら生徒たちの声で賑やかなこの時間も、今日は妙に静かでーーその静けさが、ほんのり肌寒く感じられた。
ポツ、ポツ。
それは、ほんの数秒の出来事だった。
(……雨、降ってきた……!)
慌てて屋根のある渡り廊下へ駆け込む。
ほんの数歩の距離だったのに、制服にはすでにいくつもの水滴が滲んでいた。
「うっ……まさか、こんなタイミングで……」
降り始めた雨音に紛れて、小さくぼやいたその時。
視界の端で、黒髪がふわりと揺れる。
「……フィオラ?」
低く落ち着いた声が、静かな雨音を割った。
顔を上げると、そこにはシリウスの姿。
「傘、持ってなかったんだね」
「うん……シリウスも?」
「同じ。朝は晴れてたから……油断した」
そう言って、濡れた前髪を指先で払いながら、微かに笑う。
仕草の間に覗いた青と琥珀のオッドアイは、雨に濡れた光を映して、淡く揺れていた。
その瞬間、思わず息を呑む。
いつもより近くに感じる横顔に、ただ目を奪われ、視線を外すことができなかった。
しとしとと降る雨の音が、屋根を静かに叩く。
それが妙に心地よくて、ふたりの間にゆったりとした沈黙が流れた。
「……俺、雨は嫌いじゃないんだ。周りの音が静かで、心が落ち着く気がするから」
ぽつりと落ちたシリウスの言葉に、胸の奥で何かがピタリと止まる。
(……この言葉、前にも……聞いたことがある)
声の調子、間の取り方、遠くを見つめる横顔。
その全てが、記憶と重なっていく。
(……あの時と、同じ……!)
蘇るゲームの記憶。
シリウスルート、バッドエンド直前。
静かな雨の中で、彼はまったく同じ言葉を口にしていた。
その後に訪れたのは、心のすれ違いと、どうしようもない結末。
ゲームのフィオラはシリウスを信じられなくなり、彼はそれを黙って受け入れて――そして二人は、遠ざかっていった。
(……これって、まさか……)
胸の奥がざわつき、落ち着かない。
無意識のうちに肩に力が入り、呼吸は浅く、速くなる。
(でも……違う。今は“ゲーム”じゃない……私は、もう知っているはずなのに……)
頭ではそう分かっているのに。
心は思うように追いついてくれない。
手のひらがじわりと冷たくなっていく――まるで、悪夢に引き戻されるように。
「フィオラ、大丈夫?」
隣から落ちてきた静かな声に、私はハッと我に返った。
気づけばシリウスがほんの少しだけ身を寄せ、真剣な瞳で私の顔を覗き込んでいた。
「だ、大丈夫。……ちょっと雨にびっくりしただけ、かな……?」
なんとか笑顔を作って答える。
けれどその笑みが、どれほどぎこちなく不自然か、自分でも痛いほどわかっていた。
シリウスはしばし黙って私を見つめていたが、それ以上は何も追及しなかった。
ただ静かに視線を外し、私の隣で同じように雨音を聴いている。
沈黙が、なぜか心の奥にじんわりと広がっていった。
ただ雨音だけが響く時間は、不安を和らげるようでいて、同時に少し心細くもある。
その静けさを破ったのは、隣に立つシリウスだった。
「……ここ、雨の音がよく響くから。嫌なこととか、流してくれそうだよね」
低く穏やかな声が、静かな空気に溶けていく。
その言葉が、ふわっと心に染みわたっていった。
耳に届く雨音は、さっきまでのざわつきとは違って、優しく、心を撫でてくれるみたいだった。
私は深く息を吸い込んで、胸の奥に絡みついていた黒い影を、少しずつ手放すように吐き出す。
「……うん、そうかも。ありがとう、シリウス」
そう口にした瞬間、自分でも驚くほど声が柔らかかった。
シリウスは小さく目を伏せ、静かに頷くだけ。
たったそれだけのやりとりなのに、不思議と肩の力が抜けて、心が軽くなるのを感じた。
しばらく続いていた雨は、やがて静かに弱まっていく。
雲の切れ間から、わずかに光が差し始めた頃。
私たちはまだ並んで立っていた。
言葉はなくても、不思議と前よりも近くに感じられる。
屋根を叩く雨音が小さくなり、代わりに、しんとした静けさが世界を包み始める。
その穏やかさに、心がようやく落ち着きかけた――まさにその時だった。
「――きゃああっ!!」
突き刺すような女子生徒の叫び声が、校舎の方から鋭く響いた。
その声は、雨上がりの空気を震わせる。
「……っ?!」
思わず息を呑む。
隣のシリウスも、眉を顰めて即座に動いた。
「フィオラ、行こう」
短く告げる声に、私は強く頷く。
次の瞬間、二人で一斉に走り出した。
雨でぬかるんだ中庭を駆け抜け、校舎の影に飛び込む。
冷たい風に濡れた制服が張り付いて、胸の鼓動がやけに速くなる。
そして、辿り着いた先――
数人の女子生徒が怯えたように集まり、輪になって立ち竦んでいた。
その輪の中心に、何かがある。けれど彼女たちは近づけず、ただ震えているだけに見える。
「どいて!」
その時、鋭く響いたのは、よく聞き慣れた声。
見慣れたオレンジ色の髪が揺れ、レオンが迷わず人垣をかき分けて飛び込んでいく。
その勢いに続くように、アレン様、カロン、ルカ、そしてオリバーさんまでもがその場に駆けつけてきた。
私とシリウスも急いで輪に駆け寄る。
「……これは」
その中心に倒れていたのは、一人の女子生徒だった。
ぐったりとした身体。閉じられた瞼。意識はないようだ。
けれど、かすかに胸が上下していて、規則正しい呼吸があるのを確認して、ほんの少しだけ安堵する。
……だが。
私は自然と彼女の足元へ視線を落とした。
――そして、凍りつく。
(……白い、花びら……?)
彼女のスカートの裾に、ひらりと一片。
そしてもうひとつ、淡い光を宿したように白い花びらが地面に舞い落ちていた。
小さく、白く、形の整ったその花弁。
それはガーデンパーティーの時、そして遠足でレオンの傍らに残されていた、あの白い花と同じものだった。
喉の奥がひゅっと詰まる。
背筋を冷たいものが駆け抜ける。
(まさか、また……)
そう思って周囲に目をやったその時、少し遅れて駆けつけてきたラフィン先生の姿が目に入った。
「……っ!」
女子生徒が倒れているのを見た瞬間、先生の表情が揺らぐ。
大きく目を見開き、息を呑むように立ち尽くす。
ガーデンパーティーの時も、遠足の時も、余裕の微笑みを崩さなかったラフィン先生。
その先生が、今は露骨に動揺していた。
さらに、白い花びらへと先生の視線が落ちる。
その瞳に一瞬、強い焦りの色が閃く。
(……ラフィン先生……?)
困惑と焦燥を押し隠しきれないその表情。
それはまるで、自分の知らない“何か”が動き始めたことを悟ったかのように見えた。
本来なら、誰よりも冷静で、誰よりもこの異変に詳しいはずの人なのに。
(もしかして……この状況を引き起こしたのは、先生じゃない……?)
冷たい空気が、足元からじわじわと這い上がってくる。
胸の奥が重く沈み、呼吸が浅くなる。
(じゃあ、一体、誰が……)
予想もしなかった現実に、制服の裾を握りしめる手が小さく震えた。
視線の先では、白い花びらが静かに舞い落ちていく。
先生ではない“何者か”が、確かに動き出している――。
その確信だけが、私の胸の奥に冷たく残った。




