君のための、ひとさじ
学園祭の準備が本格的に動き出した、ある日の昼休み。
無事に企画が通り、私たちのクラスの出し物は【カフェ】に決まった。
今日はそのカフェで販売予定の試作品を、クラスメイトではなく――“攻略対象のみんな”と一緒に試食することになっていた。
(普通に考えたら「なんで?」って展開なんだけど……こういうの、すごく乙女ゲームっぽい!)
そう思って胸が少し高鳴ったのも束の間。
いざ蓋を開けてみれば、現実は甘くなかった。
「ごめん、今ちょっと手が離せない!」
「これ、誰か押さえててくれ!」
「材料が邪魔だから、そっちに移動頼む!」
飛び交う声と慌ただしい足音。
誰もが準備や片付けに追われていて、自然と私が“配給係”を任される流れになってしまった。
「え、えっと……じゃあ、順番に食べさせるね?」
戸惑いながらも、私はスプーンを手に取り、一人ずつのもとへ歩み寄る。
最初に向かったのは、生徒会関連の書類を片手に机へ広げていたアレン様。
周囲の慌ただしさとは無縁のように、いつも通り余裕を纏っている。
「アレン様、あーん……」
差し出すと、彼はふっと口角を上げ、何のためらいもなく口を開いた。
緊張で手が震えそうになりながら、私はスプーンを彼の唇へそっと運ぶ。
形の整った唇がそれを受け取った瞬間、真紅の瞳が細められ、柔らかな光が宿る。
「……フィオラに食べさせてもらうなんて、まるで彼氏になったみたいだな」
「えっ……な、何を言って……!」
心臓が跳ねて、顔が一気に熱を帯びる。
そんな私の様子を楽しむように、アレン様は口元を緩め、さらりと囁いた。
「馬鹿、冗談だよ」
(……っ……心臓に悪すぎる……!!)
しばらくの間、胸の鼓動は落ち着いてくれなかった。
次に視界に入ったのは、一生懸命に荷物を運んでいるルカくん。
抱えているのは、重そうな箱ばかりだ。
(可愛らしい見た目なのに……力強いんだな)
こちらに気づいた彼は、汗ばんだ額を袖で拭いながらも、無邪気な笑顔を向けてくる。
私はそっと近づき、スプーンを差し出した。
「ルカくん! はい、あーん」
いつものようにノリよく返してくれると思ったのに、ルカくんは目を丸くして固まった。
「……えっ、ぼ、僕が? ……あーん?」
戸惑いながらも、小さく口を開ける。
そこへ、私はスプーンをそっと運んだ。
ぱくりと口に含むと、ルカくんの顔が一瞬で耳まで真っ赤になる。
「な、なんか……先輩にそういうのされるの、すっごく……照れる……」
もぞもぞと呟く声が、やけに可愛らしく響いた。
(……ルカくんも、こんなふうに照れるんだ)
いつも甘えてばかりの彼の、意外な一面に。
胸の奥が、きゅんと甘く高鳴った。
続いて、黙々と片付けをしていたカロンの元へ向かう。
彼の周りだけが、まるで別世界のように整えられていた。
「カロン、食べる? あーん」
声をかけると、カロンは一瞬だけ目を瞬かせ、それから優しい瞳で私を見つめながら、静かに口を開いた。
その仕草に、ふと小さい頃、よくスプーンで食べさせてあげたことを思い出し、胸が少しだけ懐かしくなる。
スプーンを口に運び終えると、カロンは柔らかく咀嚼し、そしてほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「……姉さんが、俺以外にも“あーん”してるの……あんまり嬉しくないかも」
「えっ……」
思わず息を呑んで顔を上げる。
けれどカロンはすぐに、何事もなかったかのように優しい笑みを浮かべ、そっと私の頭を撫でた。
(それって……どういう意味……?)
嫉妬なのか、冗談なのか。
揶揄いにも本音にも聞こえるその言葉を、私は理解できずにただ立ち尽くしてしまった。
すると、ちょうどテーブルを拭き終えたレオンが、悪戯っぽい笑みを浮かべながら私の前に立った。
そして何の前触れもなく、自ら口を開けてぐっと身を乗り出してくる。
「えっ、あーん?」
あまりにも自然にせがまれて、思わず手が勝手に動いた。
慌ててスプーンを差し出すと、レオンは子どもみたいに元気いっぱいに口を開けて待っている。
その姿が可笑しくて、思わず小さく笑みが零れた。
パクりと食べたレオンは、途端に満面の笑顔を浮かべて大声で叫ぶ。
「フィオラからのあーん、最高!!……っていうかさ、フィオラって、将来いいお嫁さんになれそうだよな!」
「えっ!?」
不意の一言に、心臓が跳ね上がる。
けれど次の瞬間、レオン自身も自分の発言に気づいたらしい。
「……あっ、な、何言ってんだ、俺……っ!!」
顔を真っ赤にして慌てて後ろを向くレオン。
その反応があまりにも可愛くて、私はまた笑い声を抑えられなかった。
(……やっぱりレオンって、可愛いな)
次に視線を向けたのは、静かにアレン様の書類整理を手伝っていたシリウスだった。
彼は騒がしい周囲に影響されることもなく、穏やかな空気をまとっている。
私がソッと近づくと、すぐに気づいたように顔を上げる。
引き込まれるような左右で色の違う瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
「シリウス、はい」
声が震えないように気をつけながら、スプーンを恐る恐る口元へ運ぶ。
シリウスは一切躊躇することなく、それを静かに受け取った。
そして、口に含んだ瞬間にふわりと瞳を細める。
「……君に食べさせてもらったから、特別に美味しく感じるのかも」
「……!」
その言葉は、ひどく淡々としていて。
けれど小さな声なのに、まるで直接胸の奥に落とされたみたいに響いた。
思わず心臓が、ドキンと大きく跳ねる。
落ち着かない鼓動を抱えたまま、私は彼の横顔を見つめることしかできなかった。
そして最後に向かったのは、周囲を気遣いながら忙しそうに立ち回っていたオリバーさんだった。
「オリバーさんも、どうぞ」
スプーンを差し出すと、彼は少し困ったように眉を下げ、苦笑を浮かべる。
「俺、甘いのはちょっと苦手なんだよね……」
「えっ……」
しょんぼりと肩を落とした私に、オリバーさんはふわりと笑みを深めた。
「だから、代わりに俺がフィオラちゃんに食べさせたい。……いいかな?」
「もちろん!……って、えっ!?」
戸惑う間もなく、オリバーさんは私の手からスプーンを受け取り、自然な仕草で構える。
そして、優しい声で囁いた。
「ほら、あーん」
「~~~っ!!」
思わず体が固まる。けれど、逃げ場のない微笑みに押され、ぎこちなく口を開いてしまった。
スプーンがそっと唇に触れる。甘さよりも、近すぎる距離と彼の優しい眼差しの方が、ずっと強烈に胸を打つ。
(な、なにこれ……私、何してるの!?)
熱が一気に頬へ駆け上がる。
視線を逸らそうとしても、オリバーさんの穏やかな笑みに縫い止められたまま、ただ必死に心臓の音を誤魔化すしかなかった。
その時、不意に後ろから軽やかな声が降ってきた。
「これは楽しそうだね」
振り返ると、そこにはいつの間にかラフィン先生の姿があった。
白い指先で顎を軽く支えながら、楽しげにこちらを見ている。
「その試作品、私も味見していいかな?」
「えっ、あ……ええと」
(……担任の先生だし、断るわけにもいかない)
自分にそう言い聞かせ、私は一定の距離を保ちながら、そっとスプーンを差し出した。
ラフィン先生は、わずかに目を丸くした後、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「……ふふっ、君に食べさせてもらうのも、悪くないね」
軽やかに響くその声。
けれど、その奥に潜む得体の知れない気配が、私の背筋を薄ら寒くさせる。
「……っ」
頬が一気に熱くなる。照れなのか、それとも緊張からなのか、自分でも分からない。
(ラフィン先生……やっぱり、この人も“攻略対象”なのでは……?)
胸の奥に、小さなざわめきが残り続けた。
無事に全員へ食べさせ終えたあと、私はそっと胸に手を当てた。
(……こんなに胸が騒ぐなんて、思ってなかった)
揶揄うように。
真っ直ぐに。
照れながら。
優しく。
ひとりひとり、みんな違う反応で、私の心を揺らしてくる。
(……初めて、“乙女ゲーム”の気分をちゃんと味わった気がする)
“誰に”なんて決めたくないのに。
私はまだ“誰のルート”にも入っていないはずなのに。
――それなのに、どうして。
こんなにも、甘くて、苦しい。
私はまだ知らなかった。
人の心が、こんなにも簡単に揺れてしまうものだなんて。




