カモミールの余韻と弟
昼休みの終わりを告げる鐘の音が、カモミールの香りと共にふわりと優しく響いた。
「……あっ、もう時間だな」
レオンが大きく伸びをしながら、名残惜しそうに空を仰ぐ。
「そろそろ戻らないと」
私も、そっと頭にのせた花冠へ手をやりながら、みんなに声をかけた。
楽しかったひとときに、後ろ髪を引かれるような思いを抱きつつ、私たちは歩き出す。
わいわいと賑やかに、誰かが冗談を飛ばせば、すかさず誰かがツッコミを入れる。
そんな笑い声に包まれながら――この温かい時間を胸いっぱいに刻みつけて、私たちは校舎へと戻っていった。
そして、校舎に入りかけた時。
レオンがふと思い出したように声を上げた。
「そういえば! もうすぐ学園祭の準備が始まるな!」
「……ああ、そういえば」
シリウスが短く相槌を打つ。
「今年はどんな催し物があるんだろうね」
オリバーさんが柔らかく微笑んで続けると、カロンとルカが顔を見合わせて、小さく「楽しみだね」と呟いた。
「俺は運営の仕事があると思うと……気が重いけどな」
アレン様は肩をすくめながら、けれど楽しそうに言う。
その声に合わせるように、みんなの表情がわくわくと輝いた。
(……学園祭)
その言葉に、胸の奥がざわついた。
もちろん、このイベントも前世でゲームを通して経験済みだ。
(学園祭は……全員のバッドエンドを回収したイベント……)
笑い声と華やかな雰囲気に包まれたはずの時間。
けれどその裏で、心はすれ違い、誤解は重なり、気づけば破滅への道へ転がり落ちていく。
私は、その運命を痛いほど知っている。
「姉さん、どうしたの?」
みんなの楽しそうな顔を眺める中、胸の奥に学園祭への不安がじわりと広がっていったその時、カロンがそっと耳打ちしてきた。
こういう時に気づいてくれるところ、本当に気の利く弟だといつも思う。
「……学園祭、無事に終わるか気になって」
「そうだね。でも」
カロンはわずかに唇を緩め、いつもの優しさに少しだけ茶目っ気を混ぜて続けた。
「僕は学園祭より、姉さんの眉間の皺の方が気になるよ?」
そう言って、わたしの額にチョンッと指先を当てる。
軽い仕草なのに、妙に心臓が跳ねた。
弟にからかわれたはずなのに、今のカロンはどこか大人びて見えてーー。
胸が不意に熱くなり、思わず頬が赤く染まっていくのを感じた。
「そ、そんなことより!!」
私は誤魔化すように、咄嗟に話題を変える。
そんな私の様子に気づいているのか、カロンは小さくクスッと笑った。
「カロンはあれから、ラフィン先生と大丈夫なの?」
“あれから”――ガーデンパーティのこと。
あの時、カロンは結果的にラフィン先生を裏切る形になった。だからこそ、ずっと心配でたまらなかった。
カロンは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに、けれど確かな強さを宿した笑みを浮かべる。
「うん。あれから会ってもいないし、平気だよ。……僕はもう、“姉さん”だけを見るって決めたから」
その言葉と一緒に向けられた真っ直ぐな視線は、あまりにも強くて、温かくて。
それが嘘じゃなく、本当の想いなのだと胸の奥で確信する。
「そっか……よかった。でも、何かあったら絶対、次はちゃんと言ってね」
「それは、僕だって同じだよ」
互いに小さな笑みを交わす。
私が思わず笑うと、彼も照れくさそうに目を細めて、ほんの少しだけ頬を赤らめていた。
ふと、胸の奥で引っかかっていた疑問を思い出し、ぽつりと口を開いた。
「……ねえ、カロン。ちょっと気になってたことがあるんだけど」
「うん?」
「ガーデンパーティの時……自分のこと、“俺”って言ってたでしょ? あれって……」
私が小さく首を傾げると、カロンは苦笑を浮かべ、観念したように頷いた。
「……覚えてたんだ。……本当は、普段“俺”って言ってるんだよ。でも、姉さんの前だと……つい、いい子ぶっちゃって」
不器用に吐き出された言葉が、なんだか愛おしくて。
私は自然と微笑んでいた。
「ふふっ、そっか。でもね、私はどんなカロンも大好きよ」
その一言に、カロンは目を大きく見開き、まるで心を撃ち抜かれたみたいに固まった。
そして、額に手を当てて、深いため息をつく。
「……姉さんって……昔から魔性なとこあるよね」
「えっ!? それってどういう意味?」
心当たりのない“魔性”という言葉に、私は思わず聞き返す。
けれど、その答えをカロンから聞く前に――
「フィオラ! カロン! 早くしないと授業遅れるぞ!」
レオンの大きな声が、青空の下に響き渡った。
「すぐ行きます!」
カロンは振り返り、軽く手を挙げて応える。
それから私に向かって、クスッと笑った。
「……それは、また今度教えるね」
そう言い残し、先に校舎の中へと入っていった。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐く。
(ゲームのフィオラは、一人ぼっちだったけど……)
今の私は、もう一人じゃない。
みんながいてくれる。温かな眼差しで、そっと支えてくれる。
だから、きっと――これから訪れる学園祭も、ゲームとは違う未来が待っている。
私は小さく深呼吸をして、顔を上げた。
眩しいくらいの青空の下。
温かな陽射しと、優しい風に包まれながら。
「フィオラ!! 早く! 本当に授業遅れるぞ!」
再びレオンの声が飛んできて、私は思わず笑ってしまった。
その声に背中を押されるように、私はみんなを追いかけ、校舎の中へと歩みを進めた。
──小さな希望を、胸に抱きながら。




