これって聖地巡礼なのでは? 2
神父はこちらに気づくと、穏やかな笑みを浮かべながら近づいてきた。
深く頭を下げ、小さく会釈をする。
「いらっしゃいませ、ノイアー公爵」
低く落ち着いた声。人当たりの良さそうな態度に、初対面の者なら誰もが安心してしまうだろう。
「急に邪魔して申し訳ない」
父が淡々と応じると、神父は柔らかな笑みをさらに深めた。
「とんでもありません。ノイアー公爵のような方にお越しいただけるなんて、光栄です。本日はどのようなご用件で?」
「彼が少し怪我をしてね。娘と一緒に送らせてもらったんだ」
父の視線がさりげなくカロンへ向かう。
神父は目を細め、まるで慈愛に満ちたような声音で言った。
「そうでしたか。それはありがとうございます。……カロン、怪我は大丈夫ですか?」
「……はい」
カロンが小さく頷くと、神父は満足げに微笑んだ。
一見すれば、優しく誠実な神父。
けれど私は知っている。
――この男こそが、カロンの両親を殺した張本人。
そして、彼を“教会”という檻に縛りつけ続けている元凶。
一歩前に出た神父は、変わらぬ微笑みを浮かべたまま言った。
「カロンのことは、我が子のように思っていますからね。……本当に、可愛い子です」
神父が穏やかに口にしたその一言に、ぞわりと背筋を冷たいものが這い上がった。
柔らかい笑みの奥に潜む何か。
カロンを“慈しむ”と言いながら、その実、彼を檻に閉じ込め続ける支配者の言葉にしか聞こえなかった。
(……っ! 今すぐ何か言い返したい……!)
けれどここで感情的になれば、ストーリーはまた大きく歪んでしまう。
私は唇を噛みしめ、拳を握りしめてぐっと堪えた。
(……早く穏便に済ませて、元のシナリオに戻さないと)
そう必死に思った矢先――。
「そうそう。先ほど、彼が娘の怪我を治してくれたからね。何かお礼をしないと」
父の口から飛び出した、まったく予想外の言葉。
「えっ?!」
思わず声が裏返った。
こんな展開、ゲームのどのルートにもなかった。
横を見ると、カロンも驚いたように目を大きく見開き、父を凝視していた。
三大公爵家のノイアー家が彼の能力を知った――それはつまり、国にバレたも同然ということ。
カロンを手放したくない神父にとっては、致命的な状況だ。
その証拠に、神父の眉がぴくりと動いた。
けれど、すぐに笑みを取り繕い、優しげな声で口を開く。
「お嬢様、大丈夫でしたか? ……カロンも、よく手当をしてくれましたね」
(……やっぱり、“精神操作”の効果を信じてる)
神父の能力は“精神操作”。
けれど、その力は強くない。今のカロンには、もうほとんど効いていない。
――おそらく彼は、効いているフリをしてやり過ごしているのだろう。
一方、父はというとその事実を何か見抜いた上で、あえて神父に話を振り、仕掛けているように見える。
(ゲームでは脇役だったのに……お父様、いったい何者?)
私の知っている展開とは違う“何か”が、静かに、けれど確かに動き始めていた。
空気が張りつめたまま、ほんの数秒。
――何かが起きる。そう感じていた。
ここから先はゲームのイベントが進むはずで、私はその瞬間を待っていたのに。
父の口から落ちてきたのは、まったく予想外の一言だった。
「無事に彼を送れたし、私たちはそろそろ帰ろうか」
(えっ……嘘でしょ?)
私の脳内が一瞬でフリーズする。
音が消えて、頭の中に父の言葉だけがこだまする。
(今、何て言った? ここで……帰る? いやいや冗談でしょ……!?)
「それでは、私たちはこれで失礼するよ」
父が軽く別れの挨拶を口にした。
あまりにもあっさりとした声音に、思わず間の抜けた声が漏れそうになるのを必死で飲み込む。
ついさっきまで場の空気をピンと張り詰めさせていたのに――。
その張本人である父が、まるで何事もなかったかのように背を向けようとしている。
(えっ、本当に……ただお礼がしたかっただけ……?)
いや、そんなはずがない。
三大公爵家の当主である父が、カロンの能力を見て、見ぬふりをするわけがない。
このまま何も言わず立ち去るなんて、到底あり得ない。
ーーけれど。
今、目の前の父は、本当に“何もなかった”かのように歩き出しているのだ。
私は頭の中がぐるぐると混乱して、何が正解なのかまったくわからなくなっていた。
父の背を追い、重たい空気を振り払うように歩き出す。
ふと気になって振り返ったその先――。
そこにいた神父の顔は、取り繕った笑みの奥でわずかに揺らいでいた。
まるで「どういうことだ」と言いたげに、驚きと焦りを隠しきれない表情でこちらを見ている。
(……やっぱり、動揺してる)
きっと今、彼の頭の中ではこう言い訳しているはずだ。
“カロンがした怪我の手当は、ただの応急処置で、能力を使ったわけではない”――と。
神父にとっては、今は都合のいい解釈をしておく方が安心だろう。
精神操作まで使ってカロンを縛り付けてきた彼にとって、カロンがこの教会からいなくなることは死活問題なのだから。
一方で私は、無理やり“ゲーム通り”の展開に修正されている今の状況に、ほんの少し怖くなった。
まるで見えない手で物語を無理やり軌道に戻されているような違和感。
誰の意思も選択も関係しない、と突きつけられているようで心臓がザワつく。
(……このまま、本当に何もせず帰るの?)
心の奥で鳴り響く警鐘。
振り払うように、ぶんぶんと頭を横に振ったそのとき。
父の大きな手が、ふわりと私の頭に置かれた。
「フィオラ、どうした? 大丈夫かい?」
その優しい声に、胸がきゅっと締めつけられる。
私はとっさに、にこりと笑って答えていた。
「……はい! 大丈夫です! 帰りましょう!」
──本当は、大丈夫じゃないくせに。
言葉とは裏腹に、心の奥ではずっと「このままでいいの?」という声が止まなかった。
(……これがゲームだったら、絶対ここでセーブしてたのに)




