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遠くなった笑顔に、そっと触れたくて 1

 



 その日も私は、いつものようにカロンと並んで学園へ向かっていた。


 朝の光が窓から差し込み、磨かれた廊下をきらめかせる。

 すれ違う生徒たちの談笑、遠くから響く笑い声。

 軽やかな靴音が重なり合い、何気ない朝の旋律を奏でていた。


 一見すれば、昨日までと何ひとつ変わらない、穏やかな光景。


 けれど、私の胸の奥には、拭いきれない影が残っていた。

 それは静かに、けれど確実に広がっていく。


(……やっぱり、あれって……)


 そう思いながらも、答えは見つからないまま午前の授業が過ぎていった。

 そして、休み時間――午前の授業が終わった後。

 レオンとシリウスは教師に呼ばれて、珍しく私は一人で、教室へと戻っていた。


 人通りの少ない渡り廊下。

 磨かれた床に差し込む陽光が、私の影を細長く伸ばしている。


 その時、前方に見覚えのある人影が目に入った。


(……オリバーさん?)


 窓際に寄りかかり、外をぼんやりと眺めている。

 背筋は緩やかで、姿勢も柔らかい。いつも通りの優しい雰囲気。


 なのに、どうしてだろう。昨日から、彼の輪郭だけが僅かに滲んで見える。

 違和感という名の棘が、胸の奥を掻きむしる。


 声をかけるか迷った。

 結局、私は気づかないふりをして通り過ぎようとした――その瞬間。


「こんにちは、フィオラちゃん」


 風に紛れるようにして、穏やかな声が私を呼び止めた。

 胸が思わず、大きく跳ねた。

 振り向くと、そこには柔らかい笑みを浮かべるオリバーさんの姿があった。


(……でも、目が笑ってない)


 胸の奥で、ぞくりと冷たいものが走る。

 私はできるだけ平静を装い、口を開いた。


「……こんにちは、オリバーさん」


 けれど、その声は自分でも分かるほど震えていた。


 オリバーさんは、それを咎めることも、不思議がることもなく。

 ただ、変わらぬ笑顔を形だけ浮かべたまま、黙って私を見つめていた。


 沈黙が重くのしかかる。

 彼の眼差しは風のない湖面のように静かだった。


 私は初めて、オリバーさんという存在を「怖い」と思ってしまった。



 その後も、私は学園内のあちこちで、何度もオリバーさんの姿を見かけた。


 中庭の片隅。

 講堂へ向かう回廊の先。

 図書室へ続く階段の影。


 どこにいても、必ず視線の先に彼がいた。

 遠くから、ただ静かに私を見つめている。

 声をかけてくるわけでもなく、表情を変えることもなく。

 柔らかな微笑だけを浮かべて――けれど、その瞳は何も映していない。


 まるで、心を置き忘れた人形みたいに。


(オリバーさん……どうして……)


 何度も声をかけようとした。

 けれど、喉の奥で言葉が凍りついてしまい、足も思うように動かない。


 結局、私は彼の姿をただ追いかけ、何度も何度も、見送るしかできなかった。


 そうして気づけば、放課後になっていた。

 私はついに、オリバーさんに声をかけようと決意し、一人で彼の姿を探す。


 校舎を歩きながら、胸の中は不安と恐怖、そしてどうしようもない後悔でいっぱいになる。


(もっと早く向き合っていれば……何かできたかもしれないのに)


 それでも今、私がしなきゃいけないのは彼を助けること。


(早く……オリバーさんを、助けなきゃ……)


 強くそう思った、その瞬間。


「フィオラちゃん」


 背後から、ふわりと降るような声が響いた。

 はっとして振り返ると、そこにはオリバーさん。


 窓明かりに照らされた横顔は、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべていた。

 けれど、その笑みが、今はぞくりと背筋を冷やすほど恐ろしく感じられた。


「少しだけ、時間ある?」


 オリバーさんは、まるで何でもない世間話を切り出すように、ごく自然な声音で問いかけてきた。


「疲れてるみたいだったから……少し、話せない?」


 柔らかな口調。

 その優しさは、たしかに本物のように聞こえる。

 けれど――その瞳の奥に、ひやりとした冷たさが潜んでいる気がしてならなかった。


 私は彼を探していたはずなのに。

 その声に呼び止められた瞬間、胸の奥で防衛本能が鋭く疼き、無意識に“逃げなきゃ”と叫んでいた。


「……はい」


 喉が渇いて声が震える。

 それでもなんとか返事を絞り出すと、オリバーさんは変わらぬ笑みを浮かべたまま、静かに私を見つめ続けていた。


 次の瞬間、オリバーさんの手が静かに伸び、私の肩にそっと触れた。

 その温もりは、確かに優しいはずなのに――


 触れられた瞬間、頭の奥に白い靄が広がり、思考が一気にぼやけていく。


(……なに、これ……?)


 視界が揺れ、廊下の光さえも遠のいていく。

 足元はふわりと浮かび、重力を失ったように体の感覚が薄れていく。

 意識が、じわじわと溶け出していく……そんな感覚。


(だめ……このままじゃ……)


 抵抗しようと必死に叫ぶのに、体はまるで自分のものじゃないみたいに動かない。

 心だけが空回りして、何も届かない。


 ――その時だった。


「フィオラ!!」


 鋭い叫び声とともに、強い力で腕を掴まれた。

 その瞬間、ぼやけかけていた意識が一気に引き戻される。


 目を閉じていても、すぐに分かった。

 声の主は――レオン。


 彼は勢いよく駆け寄り、必死に私を抱き寄せる。


「大丈夫か?!!」


 その声は震えていて、肩越しに伝わる体温が熱いほど強かった。

 同時に、レオンの能力がじんわりと流れ込む。温かい波のように私の心を支え、溶けかけていた意識を少しずつ繋ぎとめてくれる。


 ……けれど、それだけでは足りなかった。

 体はまだ鉛のように重く、思うように動けない。


「……っ、姉さん!」


 その時、さらに駆け寄る気配。

 カロンが私の手を強く握りしめた。


 すると、眩しいほどの光が弾ける。

 カロンの能力(ギフト)が優しい輝きとなって私を包み込み、侵食していた靄を一つ残らず拭い去っていく。


 胸の奥がじんわりと温まり、呼吸が楽になった。

 その光の中で、確かに“戻っていく”自分を感じた。


 重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、まず視界に飛び込んできたのは、必死に私を抱きかかえるレオンの顔だった。

 そのすぐ横では、カロンが真剣な表情のまま、祈るように私を見つめている。


(……助かった)


 その事実に胸が震える。


 けれど、次の瞬間。

 少し離れた場所に立ち尽くすオリバーさんの姿が目に入った。


 彼の瞳は、これまで見たこともないほどに動揺で揺れていた。

 虚ろだった光が少しずつ戻っていくのと同時に、掠れた声が零れる。


「……俺は……なにを……」


 震える声。

 自分の両手を見下ろし、それから私たちへと視線を移す。

 その顔は苦しげに歪み、深い後悔の色が滲んでいた。


 胸がぎゅっと痛む。

 怖かったはずなのに、目の前のオリバーさんは、ただ哀しく、壊れそうに見えた。


「……オリバーさん」


 気づけば、喉の奥から掠れる声が洩れていた。

 彼の名を呼ぶことしかできなかった。


 その瞬間、オリバーさんは項垂れるように力を失い、膝から崩れ落ちた。


 信じられない光景に息を呑んだ私の横で、カロンが慌てて駆け寄ろうとする。

 だが、すぐに私を振り返り、真剣な眼差しを向けてきた。


「姉さん、大丈夫……?」


 カロンがそっと私の肩に手を添える。

 レオンも同じように、心配そうに顔を覗き込んでいた。


「……うん。ありがとう。二人とも」


 できるだけ安心させようと微笑んだ。

 でも、本当は胸の奥が張り裂けそうで、今にも涙が零れそうだった。


(……オリバーさんは、誰よりも優しい人なのに。どうして、こんなふうに……利用されなきゃいけないの……?)


 心の中で叫んでも、答えは返ってこない。


 その時、廊下の向こうから、乾いた靴音が近づいてきた。

 一定のリズムを刻む足音が、空気を切り裂くように響く。


「……何があった」


 低く、鋭い声。

 振り返ると、そこにはアレン様が立っていた。

 ただそこにいるだけなのに、周囲の空気が一気に張り詰める。

 そして、真紅の瞳が真っ直ぐに私たちを射抜いた。


「アレン様……」


 私は反射的に、その名を呼んでいた。


 アレン様は私たちに視線を一度だけ走らせると、すぐにオリバーさんのもとへ歩み寄った。

 膝を折り、静かに片手を彼の肩に置く。


 責めるでもなく、問い詰めるでもなく。

 ただ、支えるように。


「……大丈夫だ。すべて、後で聞かせてくれ」


 低く穏やかなその声に、オリバーさんの肩がわずかに震える。

 やがて彼は、唇を噛みしめながらも、小さく頷いた。


「……お前たち、ありがとう」


 振り返ったアレン様はそう言って、私たちに頭を下げた。

 王族が国民に頭を下げるーーその光景に、思わず息を呑む。


「あの、オリバーさんは……」


 おそるおそる口にした私の言葉に、アレン様は静かに頷いた。


「分かっている。……こいつの意志じゃないってことくらい」


 断言する声は揺るぎなくて、その響きが胸に沁みる。

 それだけで、張り詰めていた心が少し解けていった。


「だから、大丈夫だ。……必ず、元に戻る」


 短いけれど確かな約束を残し、アレン様はオリバーさんを支えながら、ゆっくりと歩き出す。


 私たちは言葉もなく、ただ静かに、その背中を見送った。



(アレン様に任せれば、オリバーさんは……きっと大丈夫)


 胸の奥に、小さな希望が灯る。

 私は深く息を吸い込み、そっと空を仰いだ。


 暮れゆく空の色が、少しだけ優しく見える。


(いつもの穏やかな笑顔が、オリバーさんに……ちゃんと戻ってきますように)


 その願いを、祈るように胸の奥へ静かに抱きしめた。




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