夜の手前、胸のざわめき
何事もなく遠足を終えて学園へ戻った後、私とシリウスは静まり返った生徒会室の扉の前に立っていた。
夕暮れの光が廊下の窓から差し込み、赤く長い影を床に落とす。
放課後のざわめきはもう遠く、耳に届くのは自分の心臓の鼓動ばかり。やけに大きく響いている気がして、胸の奥がそわそわと落ち着かなかった。
コン、コン――。
シリウスが扉をノックすると、間を置かずに「入れ」と低い声が返ってきた。
アレン様の声だ。
私はシリウスと一瞬だけ視線を交わし、そっと扉を押し開ける。
「……よく来たな。待ってたぞ、フィオラ、シリウス」
真紅の瞳がまっすぐにこちらを射抜く。
まるで、私たちが訪れることを最初から分かっていたかのように。
アレン様は椅子に腰かけ、机の上には整然と書類が並べられていた。
その隣には、変わらぬ穏やかさを纏うオリバーさん。けれどその表情の奥に、静かな緊張の色が見え隠れしていた。
「どうした?今日はお前たち、遠足だったんだろ。……なのに、こんな時間にわざわざ」
アレン様の瞳に見据えられ、私とシリウスは自然とソファへと促される。
腰を下ろしたシリウスは、無言のままポケットから丁寧にハンカチを取り出し、机の上へそっと置いた。
その布の中から現れたのは――あの白い花。
瞬間、空気がぴたりと張り詰めた。
アレン様の視線が鋭さを増し、オリバーさんも歩み寄りながら、細めた瞳で花を凝視する。
「……これは?」
低く問う声に、シリウスが答える前に私は口を開いた。
「今日の遠足で……レオンが寝ていた場所に、この花が落ちていました」
私の言葉に、アレン様の声音が沈む。
「……ガーデンパーティーの時と、同じ花か」
「はい。それに……私とシリウスが戻ったとき、ラフィン先生がレオンのそばに立っていました」
その言葉が落ちた瞬間、生徒会室を重苦しい沈黙が支配した。
私はできるだけ冷静に、今日のことを語った。
私とシリウスが散歩していた間、レオンがひとり木陰で眠っていたこと。
戻ったとき、その傍らにラフィン先生が静かに立っていたこと。
声をかけると「可愛らしいと思ってね」と微笑んだが、その笑顔にはどこか薄ら寒いものを感じたこと。
そして、先生が去った後に――レオンのすぐそばで、この白い花を見つけたこと。
「……ラフィンがまた、“花”を使って何かを企んでいるかもしれないってわけか」
アレン様の低い呟きが、生徒会室に重く落ちる。
オリバーさんはしばらく無言のまま花を見下ろしていたが、やがて小さく息を吐き、空いているソファに腰を下ろした。
「……レオンに異常はなかったの?」
「夢を見ていたって。でも、内容は思い出せないって言ってました」
「……“夢”、か」
アレン様の真紅の瞳に、静かな険しさが宿った。
「フィオラ、シリウス……一つ確認しておく」
アレン様の声が低く落ちる。
「お前たちがラフィンに声をかけたのは、レオンの周りで何かが“起きた後”だったか? それとも“起きる前”だったか?」
その問いに、シリウスは間髪入れず答えた。
「俺たちが見た時、先生はただレオンを見下ろしていただけです。花に気づいたのは……先生が去った後でした」
「……そうか。なら、判断が難しいな」
アレン様は小さく息を吐き、眉間に皺を寄せる。
「能力への干渉は、“対象の能力が発動中”に限られてる可能性が高い。もしお前たちが戻ったのが干渉の“後”だったとしたら――レオンの能力は、すでに使われたのかもしれない」
「……干渉……?」
静かだったシリウスが、珍しく困惑を滲ませて呟いた。
その反応に、アレン様がわずかに目を細める。
「……ああ、そうか。シリウスはまだ知らなかったんだな」
椅子に深く座り直し、アレン様の表情が一段と引き締まる。
「お前はガーデンパーティーで察知してただろ?――あれは、ラフィンの能力だった可能性が高い」
シリウスの瞳が、静かに揺れる。
「……他人の能力に干渉、ですか」
「ああ」
アレン様は低く頷いた。
「白い花を媒介に、能力を無理やり発動させて干渉していると考えている。対象の能力次第では、非常に厄介なことになるだろうな」
その声音は淡々としているのに、言葉の底には鋭い緊張が潜んでいた。
「もし、それが……精神系の能力だったら」
シリウスはそこまで言って、言葉を呑み込んだ。
けれど続きは言われなくても理解できてしまう。ぞくりと背筋をなぞるような予感が胸を締めつけた。
沈黙のあと、アレン様はほんの僅かに目を細め、真紅の瞳をこちらへ向ける。
「……もしかして、レオンの能力は【精神操作】なのか?」
鋭く突きつけられた問いに、息が詰まる。
私もシリウスも、すぐには言葉を返さなかった。
でも、その沈黙自体が、肯定の答えを示しているようだった。
「……悪い。レオンは、自分の能力についてあまり触れられたくないようだったのに……今のは気にしないでくれ」
間を埋めるようにアレン様はそう言って、ほんの少しだけ口角を上げる。
けれどそれは、心からの笑みではなく、苦さを隠すための不器用な表情だった。
「とにかく……これからはもっと注意深く動こう。ラフィンは、どんな手を使ってでもフィオラに近づいてくるはずだ」
低く落とされた声に、私は小さく頷く。
胸の奥がきゅっと強張るのを感じた、その瞬間だった。
ゾクリ、と理由もなく、けれど確かに。
机の向こうからオリバーさんに見られているような気がした。
ただ黙って、穏やかな微笑みを浮かべているだけなのに……その視線の奥が、どこまでも底知れなく思えた。
(……なんか、オリバーさんらしくない?)
どこか気になって声を掛けようか迷ったその時、アレン様が口を開いた。
「オリバー、お前はどう思う?」
呼ばれたオリバーさんは少しだけ間を置き、穏やかな声で答える。
「……そうだね。……俺も注意深くするべきだと思うよ」
優しい響きのはずなのに、どこか遠くから聞こえてくるような冷たさがあった。
胸がきゅっと軋み、私は思わず息を詰める。
(オリバーさん……やっぱり、少し変だよね?)
アレン様も、シリウスも、私も。
互いに違和感を察しながら、あえて口に出さずにいる。
そんな沈黙が、重く部屋を支配していた。
「……近いうちに、もう一度集まろう」
静かに告げるアレン様の声は、焦りを隠すように穏やかさを装っていた。
「……はい」
私は小さな声で返事をし、隣のシリウスは無言のまま頷いた。
胸に宿った不安は重くなるばかり。
それでも、立ち止まるわけにはいかない。
ふと隣を見れば、シリウスの瞳が真っ直ぐに私を見ていた。
彼は言葉ではなく、視線だけで「大丈夫」と伝えてくれている気がして、その温かさに、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。
それから私たちは、静かに生徒会室を後にする。
外に出ると、夜の気配がしんと広がっていた。
その冷たい闇が、今の不安をそのまま映し出しているように思えた。




