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湖と風と、ふたりの距離 2

 



 昼寝を始めたレオンと別れて、私はシリウスと並んで木陰の道を歩いた。

 森の木々が優しく風に揺れ、枝葉の隙間からきらきらと木漏れ日が降り注ぐ。

 鳥の囀りと、足元の砂を踏む小さな音だけが響いていた。


 しばらく無言で歩いていた時――


「フィオラ」


 シリウスが不意に立ち止まり、私を真っ直ぐに見つめた。

 青と琥珀――二つの色を宿すその瞳は、まるで心の奥を見透かすように静かで深い。


「……大丈夫?」


 唐突な問いかけに、胸が小さく跳ねる。

 何に対しての“大丈夫”なのか分からなくて、少し戸惑った。


「うん、大丈夫だよ。どうして?」


 笑顔を作って返したけれど、シリウスは何も言わず、じっと私の顔を見つめ続けていた。

 その視線が、どこか心の奥まで届いてしまいそうで、思わず息が詰まる。


「最近、君の心がちょっと疲れてる気がして。……遠足も、本当は無理してるんじゃないかって」


 その穏やかな声に、胸がきゅっと掴まれた。

 まるで、私の奥にある弱さを全部見透かされているみたいで。


(やっぱり……シリウスには、隠しごとなんてできないんだ……)


「……ありがとう。でも、本当に大丈夫。それに、楽しいのは本当だから」


 私は少し強がって、笑顔を浮かべてみせる。


「そっか」


 短くそう答えたシリウスは、それ以上は追及せず、ただ静かに頷いた。

 そして、歩き出そうとした足を止めて周囲を見回し、柔らかな声で続ける。


「無理しないで、少し先で休もう。……ここなら静かで、いい場所みたいだから」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「うん、そうだね。少しだけ、ゆっくりしよう」


 そう返すと、シリウスは静かに歩き出し、私を湖の方へと導いた。

 木漏れ日の差す道を抜け、開けた湖畔へと辿り着く。

 水面がきらきらと光を跳ね返し、風に揺れる木々の音が心地よい静けさを作り出している。


 彼が示した場所に並んで腰を下ろすと、すぐそばに感じる温もりに、胸がほんの少し高鳴った。


「……ありがとう、シリウス。心配してくれて」


 そう伝えると、彼はいつもの無表情を崩さぬまま、ほんの僅かに目を細めて呟いた。


「……気にしないで」


 その短い一言に、余計な言葉はいらないのだとわかる。

 私は自然と、静かな微笑みを浮かべていた。



 二人で湖のほとりに腰を下ろし、柔らかな風に吹かれながら、しばらく無言の時間を過ごした。

 風が髪を揺らす音と、遠くで響く鳥の囀りだけが、私たちの間を繋いでいる。

 それは不思議な静けさで、言葉がなくても居心地が悪くはなかった。


 やがて、シリウスがゆっくりと口を開く。


「……ガーデンパーティーの時のこと、覚えてる?」


 低く、躊躇うような声。

 その言葉を聞いた瞬間、胸がひやりと冷たくなる。

 ラフィン先生から差し出された白い花。

 そして、シリウスが切羽詰まった声で私を制止した場面が鮮明に蘇ってくる。


「……もちろん、覚えてる」


 唇が自然と強張る。

 それでもなんとか答えると、シリウスは静かに頷き、視線を伏せた。

 まるで、言葉を選びながら続きを探しているかのように。


「あの時、一瞬だけ……ラフィン先生の心の揺らぎを感じたんだ。言葉じゃない、もっと奥にあるザラついた何か……それで、フィオラが危ないって、直感でわかった」


 その告白に、胸の奥が驚きで跳ねた。

 同時に、じんわりと温かさが広がっていく。

 シリウスが確かに私のことを守ろうとしてくれていた。その気持ちが、真っ直ぐに伝わってきた。


「……でも、間に合わなかった」


 彼は苦しそうに深く息を吐き、重く目を閉じる。



『フィオラ、待って! それに、触れちゃダメだ!』



 あの時の叫びが、今でも耳の奥に焼きついている。

 けれど、シリウスの声が届いたときには、もう私の指先は花に触れてしまっていた。


「俺がもっと早く、ラフィン先生の心の変化に気づけていたら……俺がもっと早く止めていれば」


 シリウスの声には、はっきりと後悔が滲んでいた。

 まるで自分を責めるように吐き出された言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。


「……君を守れなかったことが、すごく悔しいんだ」


 その低い声に宿る痛みを前に、どう言葉を返せばいいのかわからなかった。

 ただ彼を見つめることでしか、気持ちを伝えられない。

 それでも、彼の心の奥底に、どれだけ私を想う気持ちがあるのかが、確かに伝わってきた。


「シリウス……」


 思わず名前を呼んだものの、胸の奥がいっぱいで、すぐには言葉が続かなかった。


「……フィオラ、ごめん。君に怖い思いをさせてしまったのは、俺だ」


 その言葉に、私は勢いよく首を横に振った。


「違うよ! シリウスのせいじゃない!!」


「でも、僕がもっと早く……!」


 悔しげに唇を噛む彼の言葉を、私は遮るように重ねる。


「シリウスは私を守ろうとしてくれた。……それだけで、十分だよ」


 短い沈黙のあと、シリウスは困ったように目を伏せた。


「……でも、もっと早く動けていれば。もっと君を守れたかもしれない」


 その呟きに、胸が温かくなる。

 そんなふうに思ってくれること自体が、何よりも嬉しくて、自然に口元が緩んだ。


「シリウスは、全力で私を守ろうとしてくれた。私はそれをちゃんと知ってる。……だから、もう自分を責めないで」


 その一言に、シリウスがゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに視線を重ねてきた。

 無表情の奥にある、深く揺れる想いが目に映り、思わず胸がドクンと高鳴る。


(今、シリウスが何を考えてるのか……分かったらいいのに)


 そう願った瞬間、自分の中で何かがふっと変わり始めた気がした。

 彼の瞳に映る自分を意識して、胸の奥が大きく揺さぶられる。


 シリウスはしばらく黙ったまま視線を絡めていたが、やがてほんの少し目を逸らす。

 そして、低く、けれど確かに届く声で言った。


「……ありがとう、フィオラ」


 ただそれだけの言葉なのに、心の奥に温かなものが広がっていく。

 まるでその一言が、私をそっと抱きしめてくれたみたいに感じた。


 たった数秒のやりとり。けれど、確かにふたりの距離は、また少し近づいた気がした。




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