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あの子は、まさかが通じない

 



 それから数日。

 ──あの日、カロンに「元に戻してあげる」と告げられて以来、私は彼とまともに会話を交わしていない。


 以前と変わらず、屋敷では顔を合わせれば微笑んで「おはよう」とか「おやすみ」と言ってくれる。

 けれど、そのやりとりはほんの数言だけ。

 それ以上の言葉を続ける勇気が、私にはもうなかった。


 学園でも同じだった。

 廊下ですれ違っても、彼は「急いでるから」と一言だけ残して足早に去っていく。

 まるで本当に何事もないように、穏やかな笑顔のままで。


 ……なのに。

 私の胸の奥で鳴り始めた警鐘は、止まることなく、日に日に大きくなっていくばかりだった。



 そんなある日の夕暮れ。

 西日に照らされた廊下を抜け、教室に戻る途中。

 人影の少ない中庭の裏手を通り抜けようとした私は、不意に足を止めた。


(……声?)


 風に混じって、微かに二人分の声が聞こえてくる。

 植え込みの向こう。普段なら誰もいないはずの場所から。

 耳を澄ませた瞬間、私は反射的に木陰に身を潜めていた。


「……そう。最近の彼女は、確かに少し不安定に見えるね」


 ラフィン先生の声。

 あの、探るようで柔らかい、底の見えない抑揚。


「仕方ないですよ。姉さんは昔から繊細だから」


 続いた声に、息が詰まる。


(え……なんで……)


 その声は、間違いなくカロンの声だった。

 胸の奥を冷たい手で握られたような感覚に襲われる。

 何を話しているのか、細かい意味までは分からない。

 けれど、二人の話題が“私”であることだけは、疑いようもなかった。


「彼女の能力についても、いくつか確認したいことがあってね。君の協力が得られれば助かると思って」


 先生の声は穏やかで、けれど妙に湿った響きを帯びていた。

 その奥に潜む本心を悟らせまいとする、仮面のような優しさ。


「……もちろんです。姉さんのためなら、なんでも」


 カロンの声が続いた瞬間、ぞくりと背筋が冷たくなる。


『姉さんのためなら”──』


 あの日、私を縛るように囁かれた声色と、全く同じ。

 優しげに聞こえるのに、どこまでも冷たい。

 まるで、私自身の意思なんて最初から存在していないかのように。


(ラフィン先生は……カロンに何を求めているの? カロンは……私を、どうしたいの?)


 胸が苦しくて、今すぐにでも逃げ出したいのに、足が動かない。

 私はただ息を殺し、葉陰からふたりの会話に耳を澄ませるしかなかった。


 しかし、次の瞬間。


「……誰か、いるんですか?」


 ラフィン先生の声が、不意にこちらを射抜いた。

 まるで目の前に立たれているかのように、視線が真っ直ぐ突き刺さる。


(もしかして……気配で気づかれた? それとも──)


 背筋に冷たいものが走り、反射的に身を翻す。

 考えるより先に、私は足を動かしていた。


 恐怖のせいなのか、それとも急に走ったせいなのか。

 胸の鼓動は早鐘のように鳴り、息は詰まり、視界がぐらつくほど苦しい。


(ラフィン先生と……カロンが……一体、何を……)


 思考がぐるぐると渦を巻き、まともに形を結ばないまま、私は必死に逃げた。

 そして、何とか教室へ辿り着くと、机に突っ伏して膝を抱え込む。


 思考がぐるぐると渦を巻き、まともに形を結ばないまま、私は必死に逃げた。

 そして、何とか教室へ辿り着くと、机に突っ伏して膝を抱え込む。


「……フィオラ?」


 しばらくして心配そうな声に顔を上げると、すぐ近くにシリウスが立っていた。

 その隣では、レオンが珍しく真剣な顔をして覗き込んでいる。


「顔色……良くないぞ。何かあったのか?」


「心配だけど、無理に話さなくていい」


 二人の声に、胸の奥で張りつめていたものが少しだけ和らいだ。

 けれど、さっきの出来事を話す勇気は、どうしてもまだ出てこなかった。



 * * *


 その夜。

 夕食を終えて自室に戻ると、机の上に部屋を出る前にはなかった小さな箱が置かれていた。

 深い色合いの紙に丁寧に包まれ、リボンは几帳面なほど綺麗に結ばれている。

 差出人の名はどこにも記されていなかった。


 けれど、誰からのものなのか、私にはすぐにわかった。

 それは、カロンルートで度々登場した“贈り物”だったから。


 ゆっくりと、恐る恐るリボンを解き、箱の蓋を開ける。

 中には、見覚えのある漆黒の宝石があしらわれたシルバーのペンダントが収められていた。


 手に取った瞬間、ひやりとした冷たさが指先を包む。

 まるで夜の闇そのものを閉じ込めたような、光を拒む黒。


(……やっぱり)


 それは、ゲームの中でバッドエンドに突入する直前──

 必ずカロンからヒロインへ贈られる“不吉の象徴”だった。


 理由がどうであれ、受け取った時点でルートは決まってしまう。

 そう知っているからこそ、胸の奥がきゅうっと縮む。


(……ちょっと、疲れたな)


 考えたくないのに、頭の中で次々に浮かんでしまう未来の映像。

 それ以上は耐えられなくて、私はペンダントを机の引き出しに押し込むと、そのままベッドに身を投げ出した。


 冷たい闇の気配だけが、ずっと背中にまとわりついている気がした。



 ──暗闇の中で、ふっと目を開いた気がした。


(……ここは……夢?)


 そう思うしかない。

 でも、目の前に広がる光景はあまりに鮮明で、夢と断じるには現実的すぎた。


 燃え上がる空。砕けた大地。崩れ落ちた塔の影。

 私はただひとり、瓦礫の中心に立ち尽くしていた。


 掌の上には、黒く濁った光。

 それは呪いのようで、でも確かに“私の能力(ギフト)”だと確信した。


(……これが、私の力……?)


 辺りを見渡す限り、誰もいない。

 音も、声もなく、そこはシリウスが言っていた【無】のように、すべてが静まり返っていた。


(私が……みんなを“壊してしまった”の?)


「大丈夫、姉さん。僕が全部、元に戻してあげるから」


 背後から囁く声に振り返る。

 そこにいたのは、血に染まったカロンだった。

 壊れたように微笑みながら、私の足元に跪く。


「今度こそ、姉さんは僕だけを見てればいい。……もう誰にも、渡さない」


 細い指が、私の手に触れた瞬間。

 掌の黒い光が暴走し、轟音とともに世界が闇に呑み込まれていった。


「──っ……!」



 私は跳ね起きた。

 息が詰まるほど胸が苦しく、額は汗に濡れている。

 夜の空気は冷たいはずなのに、やけに熱がまとわりついて離れなかった。


(夢……? いや、でも……)


 夢のはずなのに、瞳の奥に焼きついた光景が、消えてくれない。

 あの赤い空。崩れた世界。カロンの声、そしてあの壊れた笑顔。


「あれって……ほんとに、私が……?」


 震える手を、恐る恐る見つめる。

 まだ能力(ギフト)は使えないはずなのに、指先がじん、と熱い。

 まるで夢の残滓が、現実にまで染み込んできているみたいで。


(どうして……こんな夢を……)


 けれど、胸の奥では理解していた。

 あの光景に似たものを、私は前世で何度も見ている。


 ──あれは、各ルートで共通する最も最悪の結末。

 攻略に失敗したヒロインが、攻略対象を暴走させてしまい、世界が壊れるエンディング。

 最後に、ヒロインは壊れた世界に残された攻略対象を抱きしめて、一緒に消えていく。


(……メリーバッドエンド……)


 血の気が引いていくのを感じながら、冷静になろうとベッドから身を起こしたその時だった。

 ──コン、コン。


 静かな部屋に、ノックの音が響いた。


「……姉さん、起きてる?」


 聞き慣れたはずの、優しい声。

 けれど今の私には、その響きがどうしても耳を塞ぎたくなるものにしか感じられなかった。

 無意識に寝具をぎゅっと握りしめる。


「プレゼントを置いておいたんだけど、気に入ったかな? ……もし眠れないなら、話でも──」


「……もう寝るところだから」


 自分でも驚くほど強い声が出た。喉が焼けるように痛くて、思わず唇を噛む。


 しばらくの沈黙。

 扉の向こうから、柔らかい吐息が零れる。


「……そっか。じゃあ、おやすみ、姉さん」


 足音が、静かに遠ざかっていった。

 私はベッドの上で、息を殺してじっとそれを聞いていた。

 けれど、胸の奥の鼓動だけは逆にどんどん大きくなり、耳の奥を支配して離れない。


(カロンが……まさか、あの夢を? そんな……)


 タイミングが良すぎる。偶然だと信じたいのに、疑念は喉元まで込み上げてきて。

 けれど、“まさか”が通じないのが、今のカロンなのかもしれない。

 その現実を、私は誰よりも嫌なほどよく分かってしまっている。


 その夜、眠気は訪れなかった。

 暗闇の中で、私はただ、静かに震えながら朝を待っていた。




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