選択肢【特にない】【フィナンシェ】
足早に廊下を抜け、もう一度広間へと戻る。
扉を押し開けた瞬間、視線が一斉にこちらに集まった。
父も使用人たちも、まだ心配そうに私を見つめている。
「……フィオラ、大丈夫か?」
父が穏やかな声で問いかけてくる。
私は小さく頷き、胸の前でぎゅっと両手を組んだ。
心臓が早鐘を打っている。けれど、決めたはずだ。
生き延びるために、私は選ばなければならない。
深く息を吸い込み、父を真っ直ぐに見上げた。
「――あの……欲しいものも、やりたいことも、特に、ありません」
一瞬、場が静まり返る。
けれどすぐに、父が困ったように笑みを浮かべた。
「そうか……でも誕生日に“何もない”では寂しいだろう。
今日はお前の好きな洋菓子店へ行こうじゃないか」
(……来た。ゲーム通りの流れ)
私は胸の奥で静かに息を吐き、心の中で呟いた。
(ここからが本当のスタート……そして、絶対に【フィナンシェ】を選ぶんだ……!)
* * *
揺れる馬車が石畳を叩く音が、次第ににぎやかな喧騒へと混じり始めた。
窓の外に広がる景色は、田舎とは違う王都の活気そのもの。
行き交う人々の笑い声や、商人の威勢のいい呼び込み、焼きたてのパンや甘い菓子の香りまで漂ってくる。
(……覚えてる。ここも、全部ゲームの舞台だった場所……)
自然と心臓が高鳴る。
ついに、記憶の中の物語と現実が重なり始めている。
馬車がゆっくりと停まった。
父が先に降り、手を差し伸べてくれる。
その手を取って外へ出た瞬間、賑やかな街の音と匂いに一気に包まれた。
「どうだい、フィオラ。王都の空気は」
父が穏やかな笑みを浮かべる。
「……はい。とても賑やかで、すごいです」
思わず口元がほころぶ。誕生日に父と並んで街に立てるなんて、それだけで嬉しかった。
けれど、胸の奥では、別の鼓動が鳴り響いている。
(ここからが、物語の始まり……絶対に間違えられない)
父と肩を並べて歩き出すと、道の先に見覚えのある看板が見えてきた。
暖かな木の色合い、甘い香りを漂わせる小さな洋菓子店。
間違いない。記憶の中で何度も見た、あのイベントの舞台だ。
ごくりと喉が鳴る。
扉を押し開けた瞬間、甘く香ばしい匂いと共に、店主の明るい声が飛んできた。
「いらっしゃいませ。本日のおすすめは……【マドレーヌ】と【フィナンシェ】です。どちらにいたしますか?」
記憶通りのゲームと同じセリフ。
私は迷わず答える。
「【フィナンシェ】をお願いします」
そう、答えた瞬間。
「このクソガキ!!! 何してくれてんだ!!!」
店の外から、荒々しい怒鳴り声が響き渡った。
空気が一瞬で凍りつき、店内の人々が驚いて顔を上げる。
「……!」
父が誰よりも早く反応し、鋭い眼差しを向けると、迷うことなく外へ飛び出した。
私もすぐにその背中を追う。
足が震えるのを必死に抑えながらも、心の奥底では分かっていた。
これも、ゲームで見た“最初のイベント”だと。
扉を押し開け、眩しい陽光の中へ飛び出す。
外に広がっていたのは、まるでゲーム画面をそのまま再現したかのような光景だった。
見窄らしい格好をした少年が、石畳の上で怯えたように立ちすくんでいる。
その腕を乱暴に掴んでいるのは、小綺麗な身なりをした中年の男。
怒鳴り声の主は、この男だった。
「失礼。何があったのか教えてもらえるかな?」
父が一歩前に出て、低く落ち着いた声で問いかける。
男はようやくこちらに気づいたらしく、ぎょっとした顔をしてから慌てて頭を下げた。
「こ、これはこれは……ノイアー公爵。実はこの子供が、私の靴を踏み汚しましてね。少々、躾をしていたところです」
「躾、ね……」
その男の口元に浮かべたニヤついた笑み。
ゲームの画面で見ていたときよりも、何倍も不快で、吐き気を覚えるほどだった。
一方、怒鳴られていた少年は、怯えて震えながらこちらを見上げてくる。
大きな瞳には恐怖と……そして助けを求める小さな願いが滲んでいた。
この目の前にいる少年――彼こそが、攻略対象キャラのひとり。
そして五年後には、私の“義弟”となる少年。
――カロン・ノイアー。
儚げに揺れる薄紫の髪。
濁りのない、宝石のようなオパールの瞳。
今は薄汚れた服に身を包まれているけれど、その本来の美しさは隠しようがない。
前世の私も、彼のビジュアルに魅了されたプレイヤーのひとりだ。
だから、彼に対しては少しだけ“特別な想い”がある。
今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くすカロンを見て、胸の奥がぎゅっと高鳴る。
本当は今すぐにでも駆け寄って、抱きしめて「大丈夫だよ」と慰めてあげたかった。
けれど、それをしてしまえば、もう“ゲームのヒロイン”として物語に足を踏み入れることになる。
その一線を越えることに、私は恐ろしくもあった。
「今日は私の娘の誕生日なんだ。この特別な日に、彼女にこんなものを見せたくはないと思わないか?」
父の声は穏やかで優しい。けれど、その奥底には氷の刃が潜んでいるようだった。
「お、おめでとうございます。では、私がこの子供を──」
「……何を言っているんだ?」
「え……?」
「見せたくないのは、“君”の方だ。その子を置いて、今すぐ私たちの視界から消えてくれないかな?」
その声音には、一切の情がなかった。
公爵家の威厳と冷徹さが、場の空気を一瞬で支配する。
(あああ……お父様ァァァ……!! “冷月の公爵様”って前世でサブキャラなのに大人気だった理由が、いま目の前で炸裂してます……!!)
すると男は青ざめた顔で震えながら、小さく「し、失礼します……」とだけ呟き、そそくさと立ち去っていった。
「君、大丈夫かい?」
父が、先ほどまでの冷徹さを嘘のように消し去り、いつもの優しい声でカロンに問いかけた。
「だ、大丈夫です……」
そして、か細い声でそう答えるカロンの姿に、私は完全にやられた。
(っ……なに、この破壊力……ヤバすぎる……!!)
胸の高鳴りを誤魔化すように、小さく咳払いをしてから、私はそっと一歩近づいた。
「はじめまして。私はフィオラ。あなたの名前は?」
「……僕は、カロンです」
「カロン。素敵な名前ね」
笑みを浮かべながら、私は彼の瞳を見つめる。
「ねえ、このまま一人でいるのは危ないと思うの。だから、家まで送らせてくれない?」
――そう。これはゲームでヒロインが必ず選ぶ、最初のセリフ。
私はそれを、忠実に再現してみせた。
カロンは戸惑いを隠せない様子で、小さく首を横に振った。
「え、でも……貴族の方にそんなことしてもらうなんて……」
その言葉を待っていたかのように、私はすかさず父の方へ振り返る。
「いいですよね? お父様」
父は形のいい唇の端をわずかに持ち上げ、静かに微笑んだ。
「さすが、僕の自慢の娘だね」
それからカロンへと視線を向け、穏やかに続ける。
「私も君のことが心配だから、送らせてほしいな。それに……先ほど突き飛ばされて、少し怪我をしてしまっただろう?」
(お父様!! 完璧すぎるフォローです……!)
そこまで言われてしまえば、カロンにももう断る理由はなかった。
「……よろしくお願いします」
少し照れるように、けれどしっかりと頭を下げる。
その小さな返事を聞いて、私はそっと笑った。
――誰にも見られないように、ほんの少しだけ。




