“姉さん”じゃなければよかったのに
それは、本当にあっという間のことだった。
つい朝までは"私とルカくんが恋人同士らしい"と囁かれていたはずなのに、気づけば、学園中に広がっていた噂はまったく違うものへと変わっていた。
今ではもう、生徒たちが口にするのはこうだ。
「フィオラ・ノイアーは、アレン様の婚約者候補」
ルカくんの名前は、もうそこにはない。
私自身、今日初めて聞かされたばかりでまだ整理すらできていないのに。
周囲はもう既成事実のように受け止め始めていて、現実感と噂の速さのギャップに胸がざわめいていた。
(……どんどん、知らない展開に変わっていってる)
そんな混乱をしたまま一日を過ごし、ようやく屋敷へと戻った。
そして、いつものように広間で、カロンと向かい合ってお茶をしていた。
けれど、漂う空気はいつもとは違った。
沈黙がやけに長く、やけに重たい。紅茶の香りすら張りつめた空気に溶けきれず、妙に息苦しかった。
その沈黙を最初に破ったのは、カロンだった。
「……姉さん。今日はアレン様の話、驚いたね」
「う、うん……。そんな話、お父様からも聞いてなかったし……」
「でも、アレン様があんなふうに口にしたんだ。……姉さんが本当に婚約者になる可能性は高いのかもしれない」
ぽつりと零されたその声は、私が知る限りのカロンのものではなかった。
穏やかで優しい響きの奥に、どこか冷たさが混じっていて、耳の奥で鈍く反響する。
「……カロン? なんだか、今日いつもと違わない……?」
恐る恐る尋ねると、カロンはすぐに口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「そんなことないよ」
──その笑顔は、確かに“いつもの優しい弟”のものだった。
けれど、不思議なことに。
その笑顔が浮かんだ瞬間、背筋をぞくりと冷たいものが走った。
「……怒ってるの?」
思わず問いかけた声は、少しだけ震えていた。
カロンは首を横に振り、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
けれど、その瞳の奥は静かすぎて、底が見えない。
「怒ってないよ。でも……気をつけて。誰が味方で、誰が敵か、ちゃんと見極めたほうがいい」
「……どういうこと?」
私の問いに、カロンは一拍だけ間を置いてから、淡々と告げる。
「姉さんは公爵令嬢で、優しくて、賢くて……それで綺麗で。 そのうえ、第一王子の婚約者候補だなんて──」
ひとつひとつ言葉を並べるたび、胸の奥に冷たい棘が刺さっていくようだった。
「そんな存在を、世間が放っておくはずがない。……これからは、もっと多くの人が、姉さんを“欲しがる”ようになる」
“欲しがる”
その言葉だけ、やけに濁って聞こえた。
途端に、胸の奥に説明できない嫌悪感が広がっていく。
私は返す言葉を見つけられず、ただカロンの横顔を見つめる。
けれど彼はもう、それ以上何も言わなかった。
ただ静かに、紅茶のカップを口に運ぶ仕草だけが、広間に淡々と響いていた。
“優しい弟”の仮面の下に、何が隠れているのかを私は確かめることができないまま、重たい沈黙が続いた。
* * *
その夜。
カロンの様子がどうしても頭から離れず、私は眠れずに廊下を歩いていた。
しんと静まり返った屋敷の中、カツンと靴音だけが響く。
ふと、普段は滅多に使われない書斎の扉の隙間から、淡い灯りがこぼれているのに気づいた。
(……お父様かしら? こんな時間に?)
不思議に思って、そっと覗き込む。
そこにいたのは机ではなく、本棚の前に立ち、分厚い本に集中しているカロンだった。
机の上には、古い文献や、我が家の記録帳がいくつも広げられている。
(……カロン? 何をしているの……?)
扉を開け、問いかけそうになったその時、ページをめくる手が止まった。
静寂の中で、彼の唇がゆっくりと動く。
「……フィオラが、俺の“姉さん”じゃなければよかったのに」
囁くようなその声は、あまりに低く、あまりに静かで。
まるで、誰にも聞かせてはいけない祈りのように、危うさを孕んでいた。
見てはいけないものを覗いてしまった──そう理解するのに、一瞬もかからなかった。
胸がドクンと跳ね、背筋に冷たいものが走る。
私は息を殺し、物音ひとつ立てないよう細心の注意を払いながら、その場を後にした。
心臓の鼓動が耳の奥でやけにうるさい。
廊下を駆け抜けるたび、影が長く揺れて、誰かに追われているような錯覚すら覚える。
ようやく自室へ辿り着くと、勢いのままベッドへ身を投げ込んだ。
掛け布団をぎゅっと握りしめ、頭まで潜り込む。
(……これは夢。きっと夢。私が見たのは、全部夢……)
必死にそう思い込もうとする。
けれど、カロンの声が耳の奥で残響のように繰り返されて、眠気を遠ざけていった。
それでも私は、ぎゅっと目を閉じて。
ただ、無理やりにでも眠りに落ちることだけを願った。
翌朝。結局ほとんど眠れないまま、白んでいく空を眺めていた。
朝食の席に現れたカロンは、昨夜の出来事なんて最初から存在しなかったかのように、いつも通りの微笑みを浮かべていた。
「おはよう、姉さん。よく眠れた?」
優しい声色。
いつもなら安心できるはずのその問いかけに、胸がチクリと痛む。
「……う、うん。カロンは?」
「僕? もちろん。ぐっすりだったよ」
そう言って、淀みなく紅茶を差し出してくれる。
指先の動きも、口元の柔らかな笑みも、完璧に“いつものカロン”だった。
──それでも。
昨夜、書斎で聞いてしまった言葉が、胸の奥で棘のように残っている。
『……フィオラが、俺の“姉さん”じゃなければよかったのに』
夢だったと錯覚しそうになるほど、静かな声。
けれど、確かに耳に届いた。確かに、あれはカロン自身の言葉だった。
目の前で紅茶を注ぎ終えたカロンが、ふとこちらを覗き込む。
淡い光を湛えた紫の瞳に、私の心が試されているような気がして、思わず息を詰めた。
「……姉さん、どうしたの? 顔色が良くないよ。どこか、具合でも悪い?」
「……えっ、あ、ううん。大丈夫! 少しボーッとしちゃった」
慌てて首を振り、笑顔を繕う。
それでも、カロンの瞳が一瞬だけ揺れ、私の奥底を探るように見えた気がした。
(……やっぱり、私の知らないカロンがいる)
そう思ってしまった時点で、もう“何も知らなかった頃”の自分には戻れない。
胸の奥にひやりとした影を抱えたまま、私はいつも通りの朝を演じ続けるしかなかった。