馬術大会はドキドキのはじまり!? 2
私は反射的に一歩下がり、ラフィン先生との間にわずかな距離を作った。
その小さな抵抗に気づいたのか、彼はふっと鼻で笑う。
「……ラフィン先生。あの……何かご用ですか?」
「いや、ちょっとした雑談さ」
緩やかな口調のまま、ラフィン先生は微笑む。
「先ほどの競技、とても素晴らしかった。……そうそう、最近、私は君の能力についてふと考えることがあってね」
その一言に、心臓が小さく跳ねる。
表情こそ穏やかなのに、わざとらしいほど滑らかに話題をすり替えたのは明らかだった。
競技のことなどどうでもよくて、本当に知りたいのは“能力”についてだと、誰が聞いても分かる。
「……私の能力、ですか」
「うん。確か、学園の記録上では“未覚醒”だったね?」
淡い微笑みのまま、ラフィン先生は静かに言葉を重ねる。
「でも、君ほどの素質を持っていて、今だに不明だなんて……どうにも腑に落ちなくてね」
彼の視線が、じわじわと私の奥深くを探るように注がれる。
まるで心の内側を一枚ずつ剥ぎ取られていくようで、呼吸が浅くなる。
(……嘘はついていない。だって、私はまだルートが決まってない。だから能力が確定してないのは、本当のこと……!)
必死にそう言い聞かせながら、私は無理にでも笑みを作ろうとした。
ラフィン先生は、間を与えぬよう畳みかけてくる。
「例えば……君の能力が“破壊”のような、扱いの難しいものだったとしたら──隠しておくのも、理解はできるよ」
一瞬、言葉の意味を疑った。
聞いたこともない能力の種類。ゲームの中でも、そんなものは一度も登場しなかったはずなのに。
(……破壊? そんな……)
背筋を冷たいものがゆっくりと這い上がり、息が詰まる。
「もちろん、これはただの仮説だよ」
ラフィン先生の声は、やけに楽しげで、微笑みはさらに深まっていた。
「“破壊”という概念は、実に興味深い。構造を断ち切り、意味を失わせる。……もしも、そんな力を持つ存在がいたとしたら──」
「……すみません。戻らないといけないので」
気づけば、私は彼の言葉を遮っていた。
どうしてだろう。これ以上、その話を聞いてはいけない。
そう、強烈に本能が叫んでいた。
けれど、いつもならここで引いてくれるはずのラフィン先生は、今回は口を止めなかった。
「もう少しだけ、時間をくれないか?」
一歩、近づいてくる。
柔らかい声なのに、底の見えない井戸を覗き込むような気配が胸を締めつけた。
「怖がらなくていいよ、フィオラ君。私はただ、教師として――」
その瞬間。
「先生、何をしているんですか?」
凍りついた空気を切り裂くように、低く穏やかで、確かな強さを宿した声が響いた。
その声は、私を絡め取っていた冷たい鎖を一瞬で解き放つ。
振り返ると、そこにはオリバーさんの姿。
変わらない穏やかな眼差しを浮かべたまま、静かな足取りで、まっすぐに私の隣へと歩み寄ってくる。
「みんな、フィオラちゃんのこと探してたよ。……そろそろ、戻ろ?」
その柔らかな声に、張りつめていた心と身体の緊張が、ふっとほどけていくのを感じた。
オリバーさんはそっと私の肩に手を添え、安心させるように小さく笑う。
その微笑みが、どれほど心強いものだったか。
「……失礼しました、オリバー君。少々、話が長くなりましたね」
ラフィン先生はそう言いながらも、どこか不服そうに口元を歪める。
最後まで意味深な笑みを残したまま、黒い影のように静かに背を向け、足音を響かせながらその場を去っていった。
残された空気の重さに、私はしばらく呼吸を忘れていた。
胸の奥がきゅっと縮む。指先まで冷たくなる。
そのとき、隣から柔らかな声が届いた。
「大丈夫?」
「……はい。助かりました、オリバーさん」
「よかった。……でも、フィオラちゃん、少し顔色が悪いよ」
その声は、心の奥まで染み渡るように優しくて。
(……やっぱり、この人が攻略対象じゃなくてよかった)
余計な駆け引きやイベントなんていらない。
ただこうして、無条件に寄りかかれる存在がいることが、どれほど嬉しいことなのか。改めて思い知らされる。
けれど、安堵のすぐ後。足元からすっと力が抜けるような感覚に襲われた。
「……?」
視界がふらつき、周囲のざわめきが遠くへと引いていく。
張りつめていた糸がぷつりと切れて、身体が鉛のように重くなる。
「フィオラちゃん? ……やっぱり、無理してたんだね」
倒れかけた私を、すぐにオリバーさんの腕がしっかりと支えてくれた。
その温もりに、どうにか意識を繋ぎ止めながら、私はかすかに首を振って答える。
「……大丈夫です。ただ、ちょっと力が抜けちゃって……」
「そっか……でも、無理しないで。今日はずっと頑張ってたから。……少し、休もうか」
穏やかな声音に、張りつめていた心がふっとほどけていく。
私は素直に頷き、オリバーさんの腕に支えられながら、ゆっくりと歩き出した。
歩幅を合わせてくれるその優しさが、心強くて、温かい。
──けれど、どうしても頭から離れない。
あの時、ラフィン先生が向けてきた目。
静かに笑っているはずなのに、底知れぬ冷たさを含んでいた。
ひとつひとつの言葉が棘のように胸の奥に刺さり、抜けないまま残っている。
(……やっぱり、ただの教師なんかじゃない)
そう思うほどに、足取りは自然と重くなっていった。
「……あの、オリバーさん」
「うん? どうしたの?」
歩みを止めず、それでもちゃんと私の声に耳を傾けてくれる。
「さっき……私とラフィン先生が話していたこと。あれは、できれば……私たちだけの秘密にしておいてほしいんです」
言葉を口にした瞬間、心臓が早鐘のように打ち始める。
重すぎるお願いだろうか、と一瞬不安になる。
けれどオリバーさんは、ほんのわずかに目を見開いた後、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「……うん、もちろん。誰にも言わないよ。フィオラちゃんが望むなら、それが一番正しいと思うから」
短く、けれど揺るぎないその言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ありがとうございます……」
「いいよ。俺はただ、フィオラちゃんに笑っていてほしいだけだから」
春の陽だまりのように優しい声。
張りつめていた心の糸が、ふっと緩んでいくのを感じる。
私は深く息を吐き、小さくもう一度お礼を告げた。
そして、オリバーさんと肩を並べて、馬術場へと戻っていった。