馬術大会はドキドキのはじまり!? 1
朝の光が、カーテン越しに淡く差し込む。
鳥のさえずりさえ遠くに感じるほどの静けさの中で、私はゆっくりと瞼を開いた。
胸の奥が、微かに重い。
それはただの緊張なのか、それとも“何か”が迫っている予感なのか、自分でもわからない。
「……大丈夫。何も起こらない」
呪文のように何度か唱えてみる。
けれど言葉は、空気に溶けて消えていくだけで、不安は消えなかった。
小さく息を吐き、ベッドから身体を起こす。
今日は学園の一大行事、【馬術大会】の日。
貴族の子息令嬢が家の誇りを背負い、名誉を競う晴れの舞台。
けれど同時に、ゲームの中では幾度となくバッドエンドを生んだ、“最初のイベント”でもある。
落馬。
すり替えられた馬具。
そして……毒。
攻略対象との関係が不安定であればあるほど、トラブルが起こる。
命を落とすルートも、前世の私は何度も見てきた。
「……私は誰のルートにも入っていない。だから、大丈夫」
自分に言い聞かせるように、用意していたライディングジャケットを羽織る。
そして鏡の前に立ち、そっと深呼吸。
寝癖で乱れた髪を丁寧に整えるたび、少しずつ心も落ち着いていくような、そんな気がした。
* * *
学園の馬術場には、すでに多くの生徒と観客が集まっていた。
保護者や関係者だけでなく、社交の場を兼ねるように各地の貴族たちも顔を見せていて、空気は華やかさと張り詰めた緊張感が混じり合っている。
馬術場を囲む観覧席からはひそひそとした声が絶えず、視線が幾重にもこちらへ注がれていた。
出場する生徒たちは、それぞれ自分の馬を手入れしたり、最終確認に追われている。
私も、栗毛の愛馬の手綱を引きながら、控えの場所で静かに息を整えていた。
鼓動が速い。
深呼吸を繰り返し、なんとか平静を装おうとしたその時。
「フィオラちゃん、おはよう。体調はどう?」
ふいに耳に届いた優しい声。
顔を上げると、そこにはオリバーさんの穏やかな笑顔があった。
「……はい。少し緊張してますけど、大丈夫です」
自分に言い聞かせるように答えると、オリバーさんはフッと目を細めて笑った。
「そっか。でも、緊張していいんだよ。それは、ちゃんと準備してきた証だから」
陽の光を受けて、彼のオリーブ色の髪が柔らかく揺れる。
その穏やかな声に触れただけで、胸を締めつけていた緊張がほんの少しずつ解けていくのを感じた。
「フィオラちゃんがこれまで頑張ってきたこと、俺はちゃんと見てたよ。だから、自信を持って」
「……ありがとうございます、オリバーさん」
感謝の言葉を返すと、彼はまるで「当然だよ」とでも言うように、落ち着いた微笑みを浮かべる。
「うん。今日もちゃんと見てるから。安心してね」
その言葉は、じんわりと胸の奥に染み込んでいった。
少し前まで重かった心が、ほんのわずかに軽くなっていくのを感じながら、私はそっと息を吐いた。
オリバーさんが去ってしばらくすると、レオンとシリウスが姿を見せた。
二人もそれぞれの言葉で励ましてくれて、その声が胸にじんと広がる。
時間が経つにつれて、会場の空気はさらに賑やかさを増していく。
笑い声や歓声、馬のいななきが混ざり合い、馬術大会という大舞台の始まりを告げていた。
ふと視線を遠くへとやると、馬上のアレン様が目に入った。
(……めちゃくちゃ、王子様だ……)
いつも以上にきちんと整えられた銀の髪が陽光を浴びて輝き、風に揺れる。
堂々と馬を操るその姿は、ただそこにいるだけで観客の視線を惹きつけてやまなかった。
──その瞬間。
遠く離れているはずなのに、アレン様とふいに目が合った。
赤い瞳が真っ直ぐにこちらを射抜き、彼の口が静かに動く。
「……気をつけろよ」
耳に届かないはずなのに、確かに聞こえた気がした。
心臓が強く跳ねる。驚きに息を呑みながらも、私は小さく頷き返していた。
「次の競技者、フィオラ・ノイアー。準備が整い次第、出走してください!」
場内に響いた司会の声が、胸の奥まで震わせるように届いた。
(……行かなくちゃ)
手綱を強く握り直し、レオンとシリウスへ軽く手を振る。
二人の声援を背に受けながら、私は一歩、また一歩と馬場へ足を踏み入れた。
騎乗の瞬間、観客席から大きなざわめきが起きる。
けれど、不思議と怖さはなかった。
いつも練習を共にしてきた栗毛の馬が、落ち着いた瞳で私を見返してくれる。
その眼差しに背中を押されるように、自然と口元が緩んだ。
「お願い。一緒に……乗り越えてね」
心の中で静かに語りかけ、深く息を吸う。
視線はまっすぐ前だけを捉えた。
そして、乾いた音が空に弾ける。
スタートの合図が鳴った。
* * *
(……あれ?)
驚くほど、何も起こらなかった。
落馬も、接触も、毒も。
数えきれないほど脳裏に浮かべてきた最悪の展開は、どれひとつ現実にならないまま。
私は、愛馬とともに最後まで走り切った。
ゴールを抜けた瞬間、全身から力が抜けていく。
張り詰めていた緊張がようやく解け、深く長い息を吐いた。
結果は、まずまず。目立つほどの順位ではないけれど、悪くもない。
それでも胸の奥には確かな達成感が灯っていた。
「フィオラ〜! すっごくかっこよかったぞ!」
スタンドから駆け寄ってきたレオンが、満面の笑みで手を振る。
その眩しさに、自然と頬が緩む。
「うん。馬との動き、すごく滑らかだった。……本当に、よく頑張ったね」
隣でシリウスが小さく微笑む。
控えめな声なのに、不思議と心に深く届く。
二人の顔を見て、ようやく実感が湧いてくる。
私は、本当に無事に走り切ったのだと。
(……よかった。本当に、よかった)
胸の奥で、何度もそう繰り返す。
何も起こらなかった嬉しさを噛みしめながら、ゆっくりと馬から降りた。
緊張のせいで朝からほとんど何も喉を通らなかった私の体は、今になって急に渇きを訴えていた。
「私、ちょっと飲み物取ってくるね」
そう言うと、レオンもシリウスも「一緒に行こうか?」と声をかけてくれた。
でも、まだ競技を控えている二人をわざわざ連れ出すのは申し訳なくて、慌てて笑顔を作る。
「近くだし、大丈夫だよ」
そう伝えて、私は静かな通路を抜け、一人で裏手の給水所へ向かった。
陽は傾きかけ、影が地面を長く引き伸ばしている。
人の気配が薄れた日陰に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
ついさっきまでの喧噪が嘘のように、そこは静けさに満ちていた。
──その時だった。
「おや、フィオラ君。君がこんなところで一人とは、珍しいね」
不意に背後から声がして、びくりと肩が跳ねる。
振り返った瞬間、心臓がひとつ跳ねた。
そこには、いつの間にかラフィン先生が立っていた。
銀灰の髪が傾いた陽光を受けて淡く光り、その眼差しは、どこまでも穏やかで……それなのに、底知れぬ冷たさを秘めていた。