優しさの目印
攻略対象全員と接触したティータイムから、驚くほど平穏な日々が続いていた。
レオンとシリウスは変わらず自然に接してくれて、ルカくんもカロンといる時くらいしか会わない。
アレン様やオリバーさんとは、あの日以来まだ顔を合わせていない。
ラフィン先生も特に接触してこない。……だから、あの不穏さも少しずつ薄れてきていた。
――なのに、私の胸の奥はどこか落ち着かなかった。
(だって……もうすぐ【馬術大会】があるから!!)
乙女ゲームでは、学園イベント=フラグ乱立イベント。
そして馬術大会は、間違いなくその“最初の山場”なのだ。
バッドエンドに突入する確率が高いのも、この大会だった。
攻略対象との関係が不安定だと、嫉妬、事故、陰謀……さまざまなトラブルが起きて命さえ脅かされる。
前世の私は、アレン、ルカ、レオンのルートでしか、このイベントを無事に乗り越えられなかった。
「……でも、大丈夫。私は誰のルートにも入ってない。だから、バッドエンドにはならないはず……」
自分に言い聞かせるように呟いた声が、誰もいない図書室に静かに溶けていく。
放課後の静寂と紙の匂いに包まれたこの場所だけが、最近の私にとって唯一の安らぎだった。
──けれど。
「……そうやって無理に言い聞かせても、あんまり意味ないと思うけど」
背後から不意に落ちた低い声に、小さく肩が跳ねた。
振り返ると、いつの間にかシリウスが立っていた。
本棚の影から現れた彼は、静かにこちらを見つめている。
感情の見えない無表情の奥で、水面のように何かが揺れていた。
「シリウス……どうしてここに?」
「フィオラがここにいると思ったから」
迷いのない声でそう答えると、彼は音もなく私の向かいの席に腰を下ろした。
長い指がテーブルをなぞり、その先に置かれた開きっぱなしの本へと視線を落とす。
「……今日の君、少しだけいつもと違った。心が波立ってた」
胸の奥を射抜かれたようで、私は息をのむ。
「……能力を使ったの?」
思わず問いかけると、シリウスは静かに首を横に振った。
黒髪がさらりと揺れて、淡い光を帯びたオッドアイが真っすぐに私を見つめる。
「使ってない。いや、使いたくない。……フィオラにだけは」
囁くような声なのに、心臓の奥がぎゅっと掴まれる。
図書室の静けさに、彼の言葉だけが強く響いた。
──1年生の頃、シリウスが小さく打ち明けてくれたことを思い出す。
「俺の能力は“他人の心を読む”こと。でも、相手の感情が強すぎると、自分に反動がくる。だから、あまり使いたくない」
その時の彼は、ほんの少しだけ笑ってこう言った。
「君は自分の言葉でちゃんと話してくれるから、心を読まなくても心地いい」
その言葉がずっと胸に残っている。
だからこそ今の「私にだけは使いたくない」という言葉が、なおさら特別に響いたのだった。
「じゃあ……どうして気づいたの?」
「君の気持ちって、空気に滲むから。いつもは澄んでるのに、今日は少しだけ、濁ってた」
その言葉に、思わず俯いた。開きっぱなしの本のページを指先でなぞりながら、ぽつりと吐き出す。
「……実は、少し怖くて。馬術大会、何が起こるか分からないから」
沈黙が落ちるかと思った瞬間、低い声が続いた。
「……何が起きても、俺がいる。君が困ったときは、必ず力になるよ」
その一言は、水面に落ちた雫のようだった。
静かに、でも確かに、胸の奥へと染み込んでいく。
シリウスは少しだけ視線を逸らし、何かを探すように短い沈黙を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「たとえば、君の足元が崩れそうになったとき。君がそれに気づけなくても、俺が見てるから。必ず、手を伸ばす」
「……うん」
短く返しながら、私は気づかないふりをした。
ほんの少し、頬が熱くなっていることに。
沈黙を破るように、シリウスが懐から細い羽根飾りを取り出す。光を受けて淡く揺れるそれを、本の間にそっと挟み込んだ。
「これは、ただの栞。でも目印になると思って。……どれだけ先に進んでも、もしここに戻りたくなったら、迷わないように」
彼の不器用な優しさに、思わずふっと笑みが零れる。
「……ありがとう、シリウス」
栞を指先で撫でながら、胸の奥がじんわり温かくなる。
──このまま、ほんの少しでいい。時間が止まってくれたらいいのに。
そう願った、その瞬間。
「フィオラーっ! あっ、いたいたー!」
空気が一変するように、図書室の扉が元気よく開いた。
響いた声に振り向くと、満面の笑みを浮かべたレオンがこちらに駆けてくる。
「レ、レオン!? ここ、図書室……!」
「わかってるって! でも今日は特別! ほら、クッキー焼いたんだよ。二人にもあげる!」
そう言って、当然のように私の隣へ腰を下ろすと、可愛らしい包みを机の上に広げる。
ふわりと甘い香りが漂い、静かな空気を甘やかに染めた。
「クッキーはね、ラズベリーとホワイトチョコの二層! 甘酸っぱさと甘さのバランスが最高なんだ!」
「……食べる」
シリウスがぽつりと答える。無表情なのに、どこか柔らかく見えた。
「甘さは、心を宥めるんだって。……本に書いてあった」
「へぇ、シリウスは物知りだな! じゃ、俺が選んであげる。これはシリウス用、で……これはフィオラ用!」
二カッと笑ったレオンが差し出してきたのは、ひときわ目を引くハートの形をしたクッキーだった。
そして、レオンは躊躇いもせず、そのクッキーを私の口元へ持ってきて、ひょいっと押し込んだ。
「ちょっ、ちょっと……!」
口いっぱいに広がる甘酸っぱさに慌てていると、視線の端でシリウスがわずかに目を伏せ、クスッと笑った気がした。
口の中に残る甘さは、どこかレオンの無邪気な優しさそのものみたいで、胸がじんわり温かくなる。
「……ありがとう、レオン」
「うん! 元気出してほしかったから!」
レオンの声はいつものように明るい。けれど、その奥には確かな真剣さがあった。
「ね、フィオラ。馬術大会、もうすぐだよな。不安なら……俺にも言って。俺だって、力になりたいから」
思わず目を見開く。
だって、さっきシリウスも同じ言葉をくれたばかりだったから。
「……ありがとう。二人とも」
泣きそうになるのをグッとこらえて、笑みを浮かべる。
レオンは太陽のように、シリウスは月のように。
正反対なのに、どちらも私の傍を照らしてくれている――そんな気がした。
「……フィオラが笑ってくれたなら、俺もう満足〜!」
レオンが大きく伸びをして、くったりと椅子にもたれかかる。
「本当はさ、もっとすごい元気の出る魔法が使えたらよかったんだけど……“大丈夫ビーム”とか!」
「……それ、ただの謎ポーズ」
シリウスが淡々と切り捨てると、レオンは大げさに肩を落とし、すぐににやっと笑う。
「ひどっ! じゃあシリウスにビームしてやる!」
じゃれ合う二人の姿が面白くて、思わず笑みがこぼれる。
その笑い声が、図書室の静けさにやさしく響いた。
「……こうしてるの、すごく楽しいね」
噛みしめるように言葉を落とすと、シリウスはゆっくり頷いた。
「……俺も」
短いその一言が、不思議と胸を温める。
レオンは一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐにんまりと笑って大きく頷いた。
「またこういう時間、作ろう!」
その声は軽やかなのに、不思議と余韻が残っていく。
それはまるで、嵐の前の静けさに差し込んだ、束の間の光のようだった。
けれど私は心のどこかで、もう気づいている。
この穏やかな時間が、永遠に続くことはないのだと。
「……うん、また」
小さく返した声は、自分でも驚くほど微かに震えていた。
手のひらの中では、レオンがくれたクッキーが体温でほんのり温かさを増していて……その優しいぬくもりが、逆に胸を締めつける。
そしてそのとき。
私たちのやりとりを図書室の奥、静かな棚の陰から見つめる視線があったことに、私はまだ、気づいていなかった。
──それが、次の波乱の始まりになるとも知らずに。
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