攻略対象、全員集合? 2
声に反応して振り返ると、そこにはラフィン先生の姿があった。
黒のロングコートに身を包み、銀灰の髪が夕陽を受けて淡く揺れる。
距離はあるはずなのに、教室で見た時より“近い”。
その視線が真っ直ぐに私だけを射抜いているせいか、胸の奥がざわりと揺れた。
「フィオラ君。君の笑い声が聞こえた気がしてね。……つい、足が向いてしまったんだ」
「そ、そんな……大きな声じゃなかったと思うんですけど……」
「じゃあ、私の耳は、君の声にだけ敏感なのかもね?」
さらりと返される言葉。
優しく、包み込むような口調なのに、その奥底にほんの一雫、得体の知れないものが潜んでいるような気がした。
背筋にヒヤリと冷たいものが走り、私は小さく息を呑んだ。
「先生、他に御用がありますか?」
私の異変を察したのか。
隣にいたカロンがスっと腰を上げ、私と先生の間に立つようにして問いかけた。
先生は、その姿を見てゆっくりと首を傾げる。
口元には、どこか意味ありげな笑み。
「用、というほどのものじゃないよ。ただ……フィオラ君のまわりに、ちゃんと“守ってくれる人たち”がいる。それを見て、少し安心しただけさ」
その言葉と同時に、視線がふわりと私へ落ちる。
どこまでも優しげなのに、深い井戸の底を覗き込んだような冷たさが混ざっていた。
「……でも、もし誰にも言えない不安や迷いがあったら、遠慮せずに相談に来てね。私は教師として、君の力になりたい」
静かに響く声。
優しいはずの言葉なのに、胸の奥がざわついて、落ち着かない。
(……言ってることは優しい。なのに、どうしてこんなに、不安になるんだろう)
先程まで笑い声に包まれていた空気が、一瞬で凍りついた。
まるで、時間だけが止まったみたいだった。
誰もが先生に注目し、動けない。
アレン様でさえ、じっと目を細めたまま言葉を発さなかった。
その静寂を破ったのは、レオンの明るい声だった。
「よかったら、先生も一緒にお茶しません? フィオラが用意してくれた紅茶、めっちゃ美味しいんですよ!」
その無邪気な笑顔に、ぴんと張りつめていた空気がほんの少し和らぐ。
けれど、先生は僅かに目を細め、緩やかに首を振った。
「それは魅力的なお誘いだけれど……今日は、見ているだけで十分だよ」
そう言って、私へと一歩、また一歩と近づいてくる。
距離を詰められるごとに、胸の奥が少しずつ冷えていく。
そして、目の前に立つと誰にも聞こえない低い声で囁かれた。
「君は、誰よりも“中心にいる人”だから。……気をつけてね。時に、好意は牙になる」
「……え?」
思わず聞き返そうとした瞬間、彼はふっと表情を和らげる。
「肩に小さな埃が着いてるよ。じゃあ、また授業で」
まるで何事もなかったかのように、優雅に振り返り、風のように去っていった。
その背中は、孤独と影を纏っていて――私の胸に重たい余韻を残した。
「……姉さん、大丈夫?」
立ったまま動けなくなっていた私に、カロンがそっと声をかけてきた。
私は静かに頷きながら答える。
「うん……でも、なんか、変な感じ」
その“変”がどういう意味なのか。
自分でも、はっきりと言葉にできなかった。
「……あの人、なんか掴めないよなあ」
アレン様が、空になったティーカップをくるくると指先で回しながら、ふっと呟いた。
「アレン様も、そう思うんですか?」
「ああ。柔らかい口調で話してるのに……どこか怖くて、目が離せなくなる。……何を考えてるのか分からない人間って、一番厄介だ」
軽口のように聞こえるその言葉。
けれどそこには、確かな“警戒”の色が滲んでいた。
(……もしかして。アレン様の能力が、何かを感じ取ってる……?)
そんな考えが胸をよぎった、そのとき。
アレン様の隣で、オリバーさんが静かに紅茶を口にする。
普段と変わらぬ穏やかな仕草。けれど、ふと上げられた金の瞳が、一瞬だけ鋭さを帯びた。
「……俺も、少し気になってる。フィオラちゃんを見てる時間が、他の生徒を見てるよりずっと長い気がした」
「……え?」
「“ただ見ている”とも思えたけど、きっとそれだけじゃない。フィオラちゃんの……何かを“見極めよう”としてたような気がする」
温和なオリバーさんが、そんな風にはっきりと言い切るのはとても珍しい。
胸の奥で、小さな不安が水滴のように広がっていく。
そして、
「……他人の心を覗いてみたいと、初めて思った」
ぼそりと、シリウスが呟いた。
「シリウス……」
彼の能力は【読心】。
他者の心を読むことができる。
しかもシリウス自身の力が強いため、わざわざ能力を発動させなくても、ある程度なら相手の心の“揺れ”を感じ取れる。
それなのにラフィン先生の心だけは、掴めなかった。
だからこそ、シリウスは本気で"覗いてみたい"と思ったのだろう。
その言葉の余韻が落ち着くより先に、オリバーさんが口を開いた。
「色々と気になるよね、フィオラちゃん。もし何か変わった事があったら、一人でどうにかしようって思わず、すぐ誰かに言ってね」
そう言って彼はそっと身を寄せ、穏やかな微笑みを浮かべる。
その声音はいつもと変わらず柔らかいのに、言葉の奥には揺るがない強さがあった。
「もちろん、俺もフィオラちゃんのこと守りたいって思ってるからね」
オリバーさんはいつも優しいけれど、こうして真剣な眼差しを向けられると、不思議と息が詰まりそうになる。
「そうそう。お前は一人で放っとくと、すぐ面倒事に巻き込まれるからな」
今度はアレン様が茶化すように笑いながら、私の頭にぽんと手を置いた。
けれどその掌から伝わる温もりは、冗談の中にも確かな“庇護”の気持ちが宿っているように感じた。
「べ、別に巻き込まれたいわけじゃ……!」
「分かってるよ。でも、“お前だから巻き込まれる”ってこともあるんだ」
軽口のように聞こえるけれど、その瞳は真剣だった。
その言葉に、ラフィン先生の"君は中心にいる人だから"という声が、頭の中で重なる。
(……私、本当に、そんなに“巻き込まれ体質”なのかな……? 乙女ゲームの“ヒロイン”だから……?)
ふと視線を落とすと、カップの中の紅茶は、気づかないうちに少しだけ冷めていた。