表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
101/102

届いた声、重なった温もり




 温室の中なのに、風がそっと吹き抜けた気がした。

 その瞬間、ユスティア・フロスの白い花びらが、一枚だけふわりと宙に浮かぶ。


 春の光に溶けるように舞うその花びらを目で追った、そのとき。

 温室の奥に、“誰か”の気配が確かにあった。


(……誰か、いる……?)


 でもすぐに、普通の理由が頭に浮かぶ。

 卒業式をこっそりサボっている生徒か、温室の手入れをしている庭師か。

 ここに誰かがいても不思議はないし、当たり前のことだ。


 ――本来なら。


 なのに、胸の奥が、どうしようもなくざわつく。

 春のあたたかさとは反対に、背筋を撫でるような感覚だけが残った。


 抱えていた花束が、かすかに揺れる。

 私はゆっくりと息を吸い込み、静かに振り返った。



「……えっ……なんで……」


 その瞬間、指先から力が抜けて、抱えていた花束がパサリと地面に落ちた。


 そこに立っていたのは――間違いようのない、私がずっと会いたかった人。



「久しぶり、だね。フィオラちゃん」


 静かで、優しくて、胸の奥まで届く声。

 ずっと、ずっと聞きたかった声だった。


 何ひとつ変わらない柔らかい笑顔。

 少し痩せたようにも見えるけれど、それでも真っ直ぐで綺麗な金の瞳は同じ。


 その姿に、胸の奥では言い表せない熱が一気に込み上げる。

 私はその場から一歩も動けず、ただ、目の前のオリバーさんを必死に見つめた。


 夢じゃない。幻じゃない。


(……本当に、オリバーさんがここにいる)


 “会いたい”と願っても届かなかったあの時間が、一気に押し寄せてくる。

 言葉は喉の奥でつかえて、涙もすぐには溢れてこない。


 オリバーさんに伝えたいことは、山ほどあったはずなのに。

 目の前に現れた途端、胸の中の想いが溢れすぎて、声がうまく形にならなかった。


 そんな私を見て、オリバーさんはふわりと笑った。


「驚かせて、ごめんね」


 それは柔らかくて、どこか少し照れたような声だった。

 私は、彼の謝罪を否定するように首を横に振る。


「……謝るのは、私の方です」


 喉の奥がきゅっと詰まって、言葉が途切れそうになる。

 それでも、今この瞬間だけは逃げたくなかった。


「……私のせいで……オリバーさんは、ずっと……もし、このまま目を覚まさなかったらって……それが、すごく怖くて……」


 俯いた視線が、涙に揺れる。

 積もらせていた想いが、ようやく言葉になって少しずつ零れていった。


 “ごめんなさい”

 その言葉を口にしようとした、その瞬間――


「フィオラちゃん」


 優しい声が、そっと私の言葉を遮った。


 パッと顔を上げると、真っ直ぐに見つめ返してくる金色の瞳。

 その瞳は、私のことだけを映していた。


「君が無事で……それだけで、俺は十分だったよ」


 柔らかくて、包み込むように微笑む。

 その笑顔は夢の中で見たものと同じで。

 いや、今はそれ以上にあたたかくて、現実の温度を持っていた。


「でも……私が……」


 言葉の端に、また想いが引っかかる。

 その瞬間、オリバーさんがそっと手を伸ばした。


 私の手に触れるだけの、優しい温度。

 それだけで胸の奥がじんわりと熱くなる。


「まだ全部、フィオラちゃんに伝えきれてないことがあるんだ」


 静かで、芯のある声だった。


「だから……もしよかったら、今から少しだけ君の隣で話してもいいかな?」


 真剣な瞳に込められた言葉に、私は喉がきゅっとなる。

 けれど、迷いは一つもなく、ゆっくりと頷いた。



 温室を満たす春の空気の中で、そっと重なる視線と温もり。

 言葉はまだ少ないのに。

 それでも、二人の胸の奥には確かなものが、静かに、ゆっくりと咲き始めていた。



 静かな時間の中で、言葉より先に、春の匂いが二人の間を満たしていく。


 私はオリバーさんに促されて、近くのベンチにそっと腰を下ろした。

 そのすぐ隣に、オリバーさんもゆっくり腰を下ろし、静かに息を整えるようにして口を開いた。


「……実はね、眠ってる間……何度も、何度も、フィオラちゃんの声が聞こえたんだ」


 その言葉に、私は思わず小さく瞬きをした。


「え……?」


 オリバーさんは、すぐには私を見ず、少し遠くの花を眺めながら続ける。


「もしかしたら、現実の声じゃなかったのかもしれない。夢かもしれないし……俺の願望だったのかもしれない。でも――」


 そこで視線が、静かに私の方へ向けられた。


「その声はね……すごく温かくて。心地よくて。……早く目を覚まさなきゃって、自然に思わせてくれた」


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


「もう一度……フィオラちゃんの声に、ちゃんと応えたいって。そう思った瞬間が、何度もあったんだ」


 その言葉を聞いた途端、胸の奥が熱くなるのを抑えられなかった。


 ――あの日、必死に伝えた想いが。

 目の前のオリバーさんに、ちゃんと届いていた。


 それだけで、涙が滲むほど嬉しかった。


「……私、オリバーさんに伝えたんです」


 視線を落とし、そっと胸に手を当てる。


「“待ってます”って。ずっと、ずっと……」


 言葉にすると、あの日の感情が鮮明に胸の奥から溢れ出した。

 崩れ落ちそうな心を必死に繋ぎ止めて、眠る彼に届くように願って、伝えた言葉たち。


 オリバーさんは、目を細めて、ほんの少し照れたように笑う。


「うん。聞こえてたよ。はっきりと、君の声で。……あの言葉が、どれだけ俺の救いになったか……きっと、フィオラちゃんが思ってるより、ずっと」


 その声音が、優しくて、真っ直ぐで、胸の奥がじんわりと、温かい光で満たされていく。


 私は彼の顔を見上げ、ゆっくりと笑みを返した。

 すると、オリバーさんもそっと微笑みながら言った。


「だから……ありがとう。俺のことを、待っててくれて」


 その言葉を聞いた瞬間、心に張りつめていた糸が、不意に切れた。


「……っ……」


 堪えていた涙が、音もなく頬を伝って落ちていく。

 苦しさじゃない。ようやく届いた想いの温かさに、心が震えただけ。


 そんな私を見て、オリバーさんがゆっくりと顔を近づける。

 まるで「大丈夫だよ」とそっと包み込むみたいな眼差しで。


「……泣かないで、フィオラちゃん」


 困ったように笑いながら、彼の指先がそっと私の頬に触れた。

 すっと、涙の跡を辿るように優しく拭う。


 その温度が、あまりにも優しくて。

 なのに、胸の奥がまたじんわり熱くなって、涙が溢れそうになる。


「そんな顔されたら……俺まで泣いちゃうよ?」


 クスッと揶揄うような笑い声もどこか懐かしくて、安心する。

 ずっと、ずっと、聞きたかった声だと。


 オリバーさんの指先がそっと離れた後。

 彼は一度だけ視線を落とし、息を小さく吸う。

 そして、逃げれないようにするみたいに、真っ直ぐ私の目を見つめ返してきた。


「……ねえ、フィオラちゃん。あの時、夢の中で君が訊いてくれたよね。“伝えたかったことって何ですか?”って」


 私は静かに頷く。

 あの、触れたら消えてしまいそうな夢の中で、確かに私は聞いた。

 でも、あの時のオリバーさんは、何も答えてはくれなかった。


「言おうと思ってたんだ。何度も、何度も」


 彼の声は穏やかなのに、微かに震えていた。

 いつもの柔らかさの奥に、届きそうで届かなかった想いが確かに宿っている。


「でも……フィオラちゃんの隣にいると、不思議とそれだけで安心してしまって……言葉にしなくても、伝わらなくてもいい気がして。俺は、臆病になっていたんだ」


 最後の一言が、胸の奥を優しく揺らした。

 オリバーさんがそんなふうに思っていたなんて、知らなかった。


 すると、彼は少し照れたように息を吐き、そっと笑みを浮かべた。

 まるで、大切な言葉を落とさないようにと、丁寧に言葉を選ぶように――ゆっくりと口を開く。


「だけど、今はちゃんと伝えたい。……伝えなきゃいけないって、ようやく思えたんだ」


 金色の瞳が真っ直ぐに私を捉える。

 温かくて、優しくて、でも決して逃れられないほど真剣な光。



「フィオラちゃん。俺……君のことが好きだよ」



 静かに放たれたその言葉は、風に乗るように柔らかく胸に落ちた。

 でもその温度は確かで、心の奥をそっと震わせる。


「出会った時から、ずっと。一人の人間として……君を大切に想ってた」


 一つひとつの言葉が胸に触れるたび、息が詰まりそうになる。

 胸の奥の熱がふくらんで、涙がにじみそうで、言葉が上手く出てこない。


「……あ、あの……」


 何か返そうとしたその瞬間。

 オリバーさんはそっと指先を私の唇の前に添えた。


「ごめん。まだ伝えたいことがあるんだ。もう少しだけ……聞いてくれる?」


 優しい声なのに、どこか震えている。

 きっと、勇気を振り絞って告げているんだ。

 そう思ったら、胸がぎゅっと締まった。


 私は、溢れそうな思いを胸に抱えながら、コクンと静かに頷いた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ