第9話:護送任務③
現れた、一人の痩せこけた老人。
背は曲がり、肌は枯れ木のように皺だらけ。だが、その目だけは異様に鋭く光っていた。
「……降伏しろ」
老人はゆっくりと歩み出る。
杖も持たずに、ただその足取りだけで大地を軋ませるかのような迫力があった。
「素直に指輪を渡せ。そうすれば、せめて苦しまぬように殺してやろう」
仁の全身に冷汗が滲む。
声には何の激情もない。ただ事務的に『死』を告げる冷たさがあった。
「ふざけるな。渡すわけがないだろ」
田楽刑事が即座に返す。
「……そうか」
次の瞬間、老人の体が膨張した。
筋肉が裂け、黄金の毛並みが吹き出す。
人の顔が獣の咆哮に変わり、ライオンの鬣が夜空を切り裂く。
「ならば……実力行使といこう」
地を割るような咆哮。
スネメアが、その本性を晒した。
「こいつ、やはりスネメアだ」
田楽刑事の低い声に、仁とクリスは顔を見合わせた。
「刑事さんは、こいつを知っているんですか?」
「ああ……。こいつは元・死刑囚だ。かつて数十人を虐殺した凶悪な犯罪者。こいつは、『ネメア―の獅子』を媒介にした肉を食べ、神事と一体化した化け物だ。数年前、護送中の部隊が何者かに襲撃されて逃げ出した」
「そ、そんな事件知らないぞ!」
「当然だ。そんな大事件、それも神事の事件を警察が公表するわけないだろ」
仁は言葉を失った。
(なんてとこで、なんてやつに当たるんだ、クソが)
田楽刑事は、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべていた。
「ただの人間じゃないってことですね。ま、見ればわかりますが……」
クリスの瞳が鋭さを増す。
紅と碧のオッドアイが、より鮮明に輝く。
「来ますよ!」
クリスがそう叫んだ刹那、スネメアが地を蹴った。
巨体とは思えぬ速さで飛び込み、爪撃が繰り出される。
「くっ!」
田楽刑事が即座に氷壁を展開。
だが、爪は壁ごと粉砕し、飛び散った氷片が仁の頬をかすめた。
「ひぃいいいいい!」
「まだだ!」
田楽刑事が両腕を振り抜き、氷の巨大な刃を次々と射出する。
槍の雨がスネメアを貫かんと襲うが——
ガキィィン! ガキィィィン!
金属音の連打。
鋭利な氷刃はことごとく砕け散り、スネメアは微動だにしない。
「効いてない……だと……」
田楽刑事の目に動揺が走る。
ヘラクレスの伝承にある『ネメア―の獅子』
その肉体は矢も打撃も通さないとあるが、まさかこれほどとは……。
その隙を狙い、クリスが風のごとく飛び出した。
回し蹴りが獣人の側頭部に炸裂。続けざまに拳を連打し、膝蹴りを突き上げる。
「うーん……」
手応えはゼロ。まるで岩を殴ったような感覚だけが残る。。
クリスは即座に反転、後退する。
スネメアは微動だにせず顔に、薄気味悪い笑みが浮かべていた。
「人間ごときの攻撃で……我が傷つくと思ったか」
低い声が鼓膜を震わせる。
そして再び、咆哮。
「まだ間に合う。指輪を渡せ。そうすれば苦しまぬよう殺してやる」
仁の心臓が跳ね上がる。絶望が喉を塞ぎかけた、その時。
「……仁さん」
クリスの声が届いた。
その表情は冷静で、瞳の奥には計算の光が宿っていた。
「作戦があります。スネメアの力は神具――『神事』です。僕らにはどうにもできない。でも……あなたにはできる」
「俺に……?」
「ええ。仁さんなら『ネメア―の獅子』を無効化できる。だから僕らで隙を作ります。その瞬間、やつに触れてください」
仁は息を呑んだ。
(あの化け物に、触れる?!)
背筋を冷や汗が伝う。
(無理だろ、そんなの……)
仁の思考は、何度も否定し、拒絶した。
それでも、この化け物を止められる可能性があるのは——自分だけだった。




