第25話:碧と紅【セト編・終】
神の死は、終わりではなく、更なる悪夢の幕開けに過ぎなかった。
セトの巨躯が崩れ去ったその場所から、赤錆色の粒子が爆発的に噴出した。
それは主を失ったことで制御を離れ、ただ「破壊」という概念のみを純粋培養したエネルギーの奔流だ。
官邸前広場に降り積もっていた砂が、重力を無視して逆巻き、天を衝く巨大な竜巻として顕現する。
もはや、そこには知性も、神としての矜持もない。
あるのは、触れるものすべての原子構造を分解し、赤き死へと置換する、飢えた捕食衝動だけ。
竜巻は、無数の腕と顎を持つ異形の巨人へと変貌し、東京という都市そのものを喰らい尽くさんと、その悍ましい質量を膨張させた。
「僕が、止めます」
クリスはその右眼を碧色に発行させ、その刹那、全身が青白い稲妻に包まれる。
かつてみた、あのクリスだ。
「お、おい! クリス!」
仁は知っている。
あの後、クリスは消耗が激しく、しばらく目を覚まさなかった。
今までは違う、別人となってしまう感覚。
今目の前で展開されている変化が、良くないものだということは既に分かりきっている。
「ま、待て!」
クリスは振り返らなかった。
「展開。オリュンポス術式、第一階梯――『ケラウノス(雷霆)』」
少年の足元から、青白い雷光の柱が噴き上がった。
それは夜空を焦がし、雲を裂き、天頂から降り注ぐ裁きの雷となって、迫りくる赤き砂の巨人を直撃した。
クリスには、感覚があった。
前回は、我を忘れ、ただ力を暴発させただけだ。
だが、今は違う。
自身の中で、神話の術式が構築され、組み上げられている感覚。
(やっぱり、仁さんがカギなんだ……)
この感覚があるからこその勝算である。
雷光を束ね、収束させる。
収束させ、発し、爆散させる。
閃光と轟音。
視界が白一色に染まるほどのエネルギー衝突。
砂の巨人の半身が、超高熱のプラズマによって瞬時にガラス化し、溶解していく。
「すげぇ……! あいつ、本当にゼウスの……!」
タイタスが腕で顔を覆いながら叫ぶ。
だが、神話級の災害は止まらない。
溶解した端から、赤い砂が沸き立ち、瞬く間に巨人の肉体を修復していく。
破壊よりも再生の速度が上回っているのだ。
無尽蔵に供給されるセトの残滓に対し、クリスの肉体(器)には限界がある。
「くっ……!」
クリスの口端から鮮血が流れる。
雷の反動で、彼の全身の血管は悲鳴を上げ、皮膚が裂け始めていた。
それでも、少年は一歩も引かない。
引けば、背後にいる仁たちが飲み込まれるからだ。
「僕が……僕が止めなきゃ、意味がないんだッ!」
クリスは覚悟を決めた。
己の生命エネルギーそのものを薪にして、雷の火力を限界突破させる。
それは自爆にも等しい、二度と戻れぬ特攻。
少年が死への一歩を踏み出そうとした、その時だった。
――ドクン。
心臓が、鐘のように鳴り響いた。
それは警告ではなく、開門の合図。
少年の内側で眠っていた、もう一つの扉がこじ開けられる音。
ガチガチと、自身の身体の中にある神話の術式が強引に蹴破られ、何かが出てくる感触。
「ぐっ……。うわあああ!」
クリスが苦悶に身をよじる。
碧色に輝いていた右眼とは対照的に、閉じられていた左眼が、カッと見開かれた。
そこから溢れ出したのは、血のように深く、毒のように甘美な、真紅の輝き。
「な……ッ!? その色は……!」
瓦礫の山から身を起こした天音――その身に宿るホルスが、信じられないものを見るように絶句した。
「馬鹿な……あり得ない! ゼウスの雷光と共に在るそれが、なぜそこにある!?」
神話の常識が、眼前で崩れ去ろうとしていた。
ギリシャ神話において、最高神ゼウスとその正妻ヘラは、決して交わることのない権能の対立構造にある。
特に、ゼウスが外で作った子であるヘラクレスに対し、ヘラは執拗なまでに嫉妬の炎を燃やし、蛇を送り、狂気を与え、幾度となく殺そうとした。
だというのに。
今、少年の左眼に宿っているのは、紛れもなく女神ヘラの権能――万物を統べる女王の威圧と、敵対者を許さぬ峻烈な殺意だった。
「王と王妃……相反する二つの神威が、一つの器に同居しているというのか……!?」
ホルスが戦慄する中、クリスの身体がふわりと宙に浮いた。
碧の雷光と、紅の怨嗟。
二色のオーラが螺旋を描いて少年に収束し、背後に巨大な光の翼を形成する。
もはや、そこには少年の面影はなかった。
ただ圧倒的な力を振るうためだけに顕現した、美しくも恐ろしい破壊の化身。
「消エロ。不浄ナル砂屑ドモ」
クリスの唇から紡がれたのは、少年の声と、重厚な女の声が重なった二重の神託。
空間が歪んだ。
次の瞬間、クリスの姿が消失した。
速度という概念を超越した、座標の書き換え。
砂の巨人の頭上に現れたクリスは、右手に雷を、左手に真紅の波動を纏い、それを無造作に振り下ろした。
衝撃などという生易しいものではなかった。
空間ごと巨人を圧搾し、すり潰すような絶対的な蹂躙。
碧と紅の閃光が螺旋となって巨人を貫き、その巨躯を内側から爆散させる。
砂の再生能力が追いつかない。
赤い粒子の一つ一つが、女王の呪いによって『存在を許されず』、王の雷によって『焼却』されていく。
断末魔すら上げることなく、セトの残滓は霧散した。
あれほど圧倒的だった災害が、たった一撃で、跡形もなく消滅させられたのだ。
静寂が戻る。
月明かりだけが照らす広場に、クリスが音もなく着地した。
「すっげぇ……。一撃かよ……」
タイタスが腰を抜かしたまま呟く。
だが、戦いは終わっていなかった。
異形の怪物を葬り去ったクリスは、ゆっくりと首を巡らせた。
その双眸――碧と紅に輝く瞳が、仁たちを捉える。
ゾクリと、仁の全身が粟立った。
――殺気。
それも、明確な敵意というよりは、暴れ足りない破壊衝動が向けられているだけの、無機質な殺戮の意思。
ただ、目の前にいるアリを、何の感情もなく踏み潰す。
そんな意思……。
「クリス……?」
クリスが地面を蹴った。
先ほど巨人を葬ったのと同じ速度。認識する間もなく、狂気が仁に迫る。
「危ないッ!」
天音が叫ぶが、神威を使い果たした彼女に止める術はない。
(死……)
仁の脳裏に、自身の死が鮮明に予見された。
その刹那、仁の世界が止まる。
(頼みましたよ、仁さん……)
かつて言われたクリスの言葉が、脳裏に木霊する。
そうだ、こいつは、自分のことを俺に託した。
仁はグッと、力を入れ、踏ん張る。
「こいつを大人が守ってやらなくて、誰が守る!」
仁は、ただ無心で自分の身体の中にある、別の感覚を解放した。
同居人を無理やり玄関に立たせるような、そんな感覚。
バチバチバチッ!!
仁の身体から出た見えない何かと、クリスの碧紅の殺気が衝突する。
激痛が全身を駆け巡る。
魂が削り取られるような熱量。
それでも、仁は腕を伸ばした。
紅と碧のオーラを強引にかき分け、その中心にいる小さな身体を、力一杯に抱きしめた。
「――戻ってこい、馬鹿野郎ッ!」
仁の絶叫と共に、「無効化」の力がクリスの核へと伝播する。
神の権能を否定し、ただの人間に引き戻すための拒絶。
クリスの身体が強張った。
振り上げられた腕が、仁の背中で止まる。
爪先が仁の衣服を切り裂き、背中に赤い筋を刻んだが、それ以上深く食い込むことはなかった。
「……あ……ぅ……」
クリスの口から、苦しげな吐息が漏れる。
仁は、震える少年の頭を胸に押し付け、焼けた手でその背中を優しく叩いた。
「終わったんだ……、クリス」
仁の目から、涙が溢れ出した。
恐怖の涙ではない。
目の前の少年が生きていてくれたこと、最悪の結末を回避できたことへの、安堵の涙だ。
「頑張ったな。お前は、世界を救ったんだよ。……だからもう、休んでいい」
仁の体温と、鼓動のリズムが、暴走していた神気を鎮めていく。
少年の瞳の中で渦巻いていた碧と紅の輝きが、徐々に薄れ、元の理知的な瞳の色へと戻っていく。
力が抜けたクリスが、仁の腕の中でぐったりと脱力した。
彼は、霞む視界で仁の顔を見上げ、微かに笑った。
「お疲れさん」
クリスは安堵の息を吐き、そのまま糸が切れたように意識を手放した。
仁は、重くなった少年の身体を支えながら、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
終わった。
本当に、長い夜だった。
静寂を取り戻した広場に、遠くから音が近づいてくる。
パトカーと救急車の、けたたましいサイレンの音。
仁は、腕の中で眠る小さな英雄の寝顔を見つめながら、夜明け前の空を仰いだ。
遠く東の空が、白み始めていた。
セト編ーおしまい。
ありがとうございました。
まだ途中ではありますが、次回プロット練りこみの為、セト編で一旦区切りとします。
2人目の神編では少し謎解き要素や神話要素をもっと詰め込みたいので、少しお時間頂きます。
感想頂けますと大変うれしく、モチベーションになりますので、お時間ある方はぜひお願いします。
Throne 【B】Houndsは終話までプロット完成済み、50話程度ですので、しばらくはこちらの連載となります。
テイストの違う作品ですが、よろしくお願いいたします。




