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第24話:神話の瓦解

 仁が天秤を掲げ、セトの胸元に「否定」を突き立てた瞬間、戦場の時間が凍りついた。  


 世界の彩度が落ち、セトの巨体から砂の粒子が剥離していく。


 それはまるで、古びた壁画が風化し、歴史の彼方へと消え失せていくような、存在の崩壊であった。


 クリスの計算は完璧なはずだった。


 セトが構築した『砂漠の王』という定義に対し、『マアト(真理)』という上位概念を衝突させ、仁の『無効化』で矛盾を現実に固定する。  

 論理的にも物理的にも、セトの敗北は決定事項として世界に刻まれたかに見えた。


 ――しかし。  


 崩れゆく砂の巨像の中から、地の底を這うような、重く濁った哄笑が響き渡った。


「愉快だ。実に愉快な理屈だ、人間よ」


 仁の背筋を、氷柱で撫でられたような悪寒が駆け抜ける。  


 崩壊していたはずのセトの腕が、仁の手首を万力のように掴み上げていた。

 その質感は、乾いた砂ではない。

 濡れたアスファルトのような、あるいは凝固した闇のような、粘着質で不快な質量を持っていた。


「貴様らは致命的な勘違いをしている。我は秩序を守るオシリスではない。王座を簒奪し、兄を殺し、その肉をナイルに撒いた、不義と混沌の神だ」


 セトの全身から噴き出す赤黒い雷光が、仁の『無効化』の波動を飲み込み、逆に侵食し始める。


真理マアトの天秤だと? 笑わせるな。秩序などで裁けるなら、我は神話の時代にとっくに滅んでいる。我は条理の外にある者。名も無き獣だ」


 セトの輪郭が歪み、砂という物質的な縛りを捨て去った。  


 長い口吻、四角い耳、二股に分かれた硬直した尾。  

 現存するいかなる生物にも当てはまらない、定義不能な異形のシルエット

 ――『セト・アニマル(シャ)』が顕現する。


「解析……不能……! データが存在しない……!」


 クリスの脳内で高速回転していた演算が、熱暴走を起こして停止した。  


 正体が分からなければ構造も分からず、構造がなければ弱点も存在しない。

 論理の梯子を外された天才は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


 異形の獣が腕を振るうと、仁の身体は大砲の弾丸のように吹き飛ばされ、後方の廃ビルへと激突した。

 瓦礫の山が崩れ、不運な男の姿を埋め尽くす。


「終わりだ、小僧」


 混沌の獣が、ゆっくりとクリスへ爪を振り上げる。

 死の影が少年を覆い尽くした、その刹那。


「私の前で、勝手な略奪は許さないわよ!」


 凛とした怒号と共に、蒼い閃光が戦場を横薙ぎにした。  


 天城天音――その左眼『ウジャトの目』から放たれた高密度の神威が、物理的な衝撃波となってセトの巨躯を真横から弾き飛ばしたのだ。


「天音さん……!」


 天音は、ボロボロになったドレスの裾を乱暴に破り捨て、クリスの前に立ちはだかった。

 その銀髪が、溢れ出る神気によって重力に逆らい、炎のように揺らめいている。


「ホルス、貸しイチよ。あとで天城家の資産運用で倍にして返しなさい」

「フッ……強欲な娘だ。だが、今はその欲望が心地よい」


 天音の口調が、厳格な神のそれへと変わり、纏っている気配そのものが改変していく。

 天空神ホルスが完全に顕現したのだ。


「セトよ。貴様は『混沌だから定義できない』などと嘯いたな」


 ホルスは冷徹な瞳で、形定まらぬ獣を見据えた。  

 虚空に右手を掲げると、夜空の星々から光が集束し、彼女の手の中に巨大な黄金の銛が形成されていく。

 先端には隼の意匠が刻まれ、柄にはびっしりとヒエログリフが明滅している。


「忘れたか? かつて貴様がカバに化けてナイル川を濁らせ、我が船を沈めようとした時のことを。母イシスは、貴様を殺すために一本の『銛』を作った」


 黄金の銛が、切っ先をセトに向ける。


「混沌を捕らえるには、物理的な鎖ではなく、概念を固定する『楔』が必要だ。――貴様が『正体不明の獣』だと言うのなら、私が定義してやろう。貴様は『狩られるべき獲物』だ!」


 ホルスが銛を投擲した。  

 それは光の雷となって一直線に飛び、セトの胸板を深々と貫いた。  

 銛から伸びる光の鎖が、不定形だったセトの輪郭を強制的に縛り付け、その変化を封じ込めていく。


「『エドフの神殿』に刻まれし伝承だ! いかに混沌であろうと、私のウジャトが貴様を『獲物』として認識する限り、この銛からは逃れられない!」


 これが天空神ホルスの戦い方だ。  

 混沌に対し、天空からの俯瞰視点で無理やり『枠』をはめ、概念的に封殺する神技。


 ――だが。


「……ヌルいな、ホルス」


 拘束されているはずのセトが、ニヤリと笑った気がした。


「貴様のその銛……昔、貴様が我が睾丸を引きちぎった時のことを思い出すわ。実に痛かった」


 セトは自らの胸に刺さった光の銛を、なんと素手で掴んだ。  

 光の鎖が灼熱を発し、セトの手を焼くが、彼は意に介さない。


「だが、今の我は、数千年の信仰の枯渇と、ロキによる汚染を受け入れた『真なる虚無』だ! 秩序ごときで、この混沌が縛れると思ったか!」


 ガラスが砕けるような音が響き、ホルスの銛が砕け散った。  


 黄金の光が飛散し、闇に消えていく。


「なっ……! 母上の銛を、力技で!?」


 ホルスが驚愕に目を見開く隙を、セトは見逃さなかった。  


 セトの口から放たれた衝撃の咆哮がホルスを直撃し、天音の身体を木の葉のように吹き飛ばした。


「天音さん!」


 最強のカードだったホルスでさえ、この理不尽な怪物を止めることはできなかった。  


 セトは、邪魔者を排除した満足感に浸りながら、ゆっくりとクリスへ向き直った。


「さて……。貴様からは、鼻持ちならない『雷』の臭いがする。ゼウスの血を引いているな?」


 セトの殺意が、クリス一人に集中する。  

 もはや彼の眼中に、瓦礫に埋もれた『ただの人間』など映っていなかった。

 神話的な因縁を持つゼウスの血統こそが、彼にとって唯一排除すべき脅威だったのだ。


 セトの意識がクリスという『異物』の排除に固執し、足元の矮小な存在を視界から外した。


 その刹那の空白。


 瓦礫の山が、内側から弾け飛んだ。  


 土煙を切り裂き、血まみれの影が疾走する。


 薬師仁だ。


 彼の右手には、先ほどセトが砕いた「黄金の銛」の破片が握りしめられている。  


 神の武器であるそれは、人間が素手で触れれば魂ごと焼却されるほどの熱量を帯びている。


 仁の掌からは白煙が上がり、皮膚が炭化する臭気が立ち込めていた。

 だが、彼はその痛みを、今この瞬間だけは神を殺し得る唯一の刃として受け入れた。


 セトが驚愕に振り返るよりも速く、仁は跳んだ。  


 狙うは、先ほどホルスが穿ち、僅かに開いたままの胸の傷口。


 仁の喉から、言葉にならない咆哮が迸る。  


 銛の切っ先が、セトの心臓部へと深々と沈み込んだ。


 仁自身の『神事無効化』という拒絶の波動と、ホルスが込めた『獲物を狩る概念』が、仁という特異点を介して融合し、セトの体内で爆発的な化学反応を引き起こした。


 セトの絶叫が、東京の夜を引き裂いた。  


 再生は起こらない。  


 突き刺された一点から亀裂が走り、内側から溢れ出した強烈な光が、混沌の闇を次々と焼き尽くしていく。


 信じられないという表情で仁を睨みつけたまま、セトの巨体は砂上の楼閣の如く崩れ落ちた。  


 異形の獣の輪郭が保てなくなり、膨大な質量の赤い砂となって広場に降り注ぐ。


 仁は膝から崩れ落ちた。  


 右手の感覚はない。

 全身の骨が悲鳴を上げている。

 意識の灯火が消えかける中、確かに神を討ち果たしたという手応えだけが残っていた。


 しかし、戦いは終わっていなかった。  


 むしろ、真の悪夢はここから始まった。


 制御する主を失ったことで、セトが残した膨大な神威エネルギーが、行き場を失って暴発したのだ。


 地面が、悲鳴のような振動を始めた。  


 広場に降り積もった赤い砂の山が、まるで生命を持った汚泥のように脈動を開始する。  


 それはもはや砂という物質ではなかった。

 触れるものすべての原子構造を分解し、同質の赤き死へと書き換える『呪い』の濁流。


 都市の境界線が侵食されていく。  

 アスファルトが、街路樹が、廃ビルが、波打つ赤色に呑み込まれ、瞬く間にその形を失い、崩れ落ちていく。  


 秩序なき破壊。  


 方向性を持たない純粋なエントロピーの増大が、東京という都市の定義を消滅させようとしていた。


 瓦礫から這い出した天音は、その光景に言葉を失った。  


 顔面から血の気が失せ、震える唇は警告の叫びすら紡げない。  


 これは災害ではない。


 現象としての『終焉』だ。  


 神の意志という枠組みが外れたことで、破壊の権能だけが無限に増殖し、世界を埋め尽くすまで止まることのない災厄へと変貌していた。


 逃げ場などない。  

 赤い津波は、天を衝くほどの高さまで鎌首をもたげ、呆然と立ち尽くす仁や天音を、羽虫のように飲み込もうと迫りくる。


 誰もが死を悟り、瞼を閉ざそうとした時、絶望的な赤の浸食に背を向け、一人の少年がゆらりと立ち上がった。


 平良クリス。

 その双眸に、恐怖の色はない。  

 あるのは、深海のように静謐で、冷徹なまでの知性の光。


 少年の瞳は、真紅の嵐の中で、鮮烈な碧色に輝いていた。

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