第23話:神を裁く天秤
「――来ます」
クリスの放った言葉が合図となり、官邸前広場の風景が物理的な死の境界線へと変貌した。
セトが指先を僅かに動かす。
それだけの動作で、大気中の酸素さえもが砂粒へと置換され、呼吸すら困難な塵の牢獄が形成されていく。
視界のすべてを覆い尽くす赤錆色の奔流。
それはかつてアスファルトであり、ビルであり、文明の欠片であったものたちの成れの果てだ。
数千の槍となって降り注ぐ砂の雨を、タイタスが展開した鉄の防壁が受け止めるが、神威を帯びた砂は鉄という概念を腐食させ、瞬く間に無機質な塵へと還していく。
「おっさん、十時方向! 『ウジャト』が見抜いた法則の空白へ!」
天音の声が、砂嵐の咆哮を切り裂いて届く。
仁は悲鳴を飲み込み、クリスに突き動かされるようにして駆け出した。
目前には、高層ビルをも容易に噛み砕くであろう砂の巨顎が迫っている。
「たのむ! 消えろ、消えろ、消えろッ……!」
仁が右手を突き出した瞬間、世界から音が消えた。
物理法則の衝突。
セトが定義した「絶対破壊」の権能が、仁の「全否定」に触れた刹那、ガラスの細工が砕け散るような透明な拒絶が空間を支配した。
仁の周囲で、荒れ狂う砂の狼たちが、その本質を失い、ただの無力な灰となって崩落していく。
神が描いた地獄の絵図を、消しゴムで強引に消し去るような、不条理なほどの正常化。
「無駄な足掻きを。この領域における我の言葉は、世界の心臓そのものだぞ」
セトの嘲笑と共に、砂の竜巻がさらにその密度を増す。
四方八方を囲む砂の壁が、徐々にその包囲網を狭めていく。
仁の無効化が及ぶ範囲は限定的であり、いずれはその絶対防御も、無限の物量という名の暴力に圧し潰されるのは明白だった。
「……いいえ、セト。あなたの言葉はもはや、独り言に過ぎません」
絶望的な包囲の中、クリスは冷徹なほどに落ち着いた手つきで、懐から一振りの古びた天秤を取り出した。
それはかつてエジプト神話において、死者の心臓と真実の羽を秤にかけたという伝説の神具『マアトの天秤』の残滓。
「仁さん、この天秤を持ってください。そして、彼に『問い』を立てるんです」
「問い……? 何を言えばいいんだよ!」
「この砂漠は『本物』か、と」
クリスの瞳が、神話の構造そのものを射抜くような鋭さを帯びる。
「セト、あなたの不死身と無限再生は、『この場が神話の時代と同じ砂漠である』という前提に基づいています。ですが、現実は違います。ここは東京であり、あなたの足元にあるのは石灰と鉄の残骸だ」
「……それがどうした。我の力で塗り潰せば、それが新たな真実となる」
「ええ、だから『詐欺』が必要なんです。仁さん、今!」
仁はクリスから受け取った天秤を両手で握りしめ、セトの玉座へと肉薄した。
天音とタイタスが全身事を出力し、砂の包囲網に一瞬の亀裂を生む。
その隙間を、不運な男が駆け抜ける。
「おい、砂野郎! あんたが作ってるこれ、ただの『偽物』なんだろ!」
仁の叫びが、天秤の皿を揺らした。
仁の「無効化」の力が天秤を通じて増幅され、セトが構築した空間の整合性を根底から揺さぶり始める。
セトの顔に初めて、狼狽の影が走った。
自分の肉体を構成している砂が、自分の意志を拒み、バラバラに解体されていく感覚。
仁が触れたのはセトの体ではない。この空間を支配している「設定」そのものだ。
「貴様……我が理に、異物を混入させたな……!」
「いいえ、解析を完了しただけです。――さあ、マアトの審判を始めましょう。あなたの権能を、一つずつ剥がしていきますよ」
クリスの冷徹な宣言と共に、夜の東京に、神の終焉を予感させる静寂が広がっていった。




