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エマスイの演奏旅行

今日の森も美しい。

秋の、金色がかった低めの日差し、

木々や足元に、可憐な花を見つけては、可愛いさに感動する。


秋の柔らかな光に透けるメルツも……

綺麗だ……。


散歩し終わり、ベンチに座って、秋薔薇が庭に点々と咲いているのを眺めながら休憩していると、メルツが言った。


「もうすぐ霧の季節なので、楽しみです!」

僕も微笑む。

「メルツは霧が好きなんだもんね。」

「はい!霧があると、のびのびした嬉しい気分になりますし、いろんなところへ気軽に出かけられるので楽しいです!」

人間の僕にはわからない。精霊ならではの感覚だな……。


「霧を伝って移動すると、いろんなところへ行けるとお話ししましたけど、一か所じゃなくて、一度に、同時に、あちこちへ行けるんですよ。」

「……え!どういうこと!?」


「あちこちの行きたい場所へ同時に行けるし、感じられるんです。」

「!?」

同時に行ける……?

メルツが何人もに分かれるんだろうか……。


「うまく言えないですけど……一度に何ヶ所か見に行って、行きたい場所が一つに決まると、ちゃんとその場所に私がいるんです。」


「……すごく不思議だ……。

同時にあちこちの場所が、見えたり、聞こえたり、感じられるの?」

「はい。違う森の景色も見えますし、海辺の波音も聞こえますし、どの場所の木も霧に馴染んでいて綺麗ですし、湖や、川の側にいる鳥や動物たちの様子もわかります。他にもいろいろ感じられます。」

「……そんなにいろんなものが感じられるんだ……。」

複数の場所にいる感覚……本当に不思議だ……。


「行きたい場所が決まったら、他の場所に行っていたメルツはどうなるの?」

「なんと言えばいいか、分散した私の一部が消えたり減ったりするわけではなくて、

例えば、影にも自分の意識がつながっていて、遠くへ伸ばしたり縮めたりできる……感じ……でしょうか……。」


影にも意識が繋がっていて、伸び縮みできる感じ……?それが複数……?


「どの影にも意識がつながっているし、同時に幻影でもあるんです。

影のように自分とくっついていなくて、離れていますけど。

でも、影をたとえにしましたが、どれも等しく私なんです。」


複数の場所に、分身がいて、どれもが等しく影であり、本人でもある……。

意識をつなげたり、ひっこめたりできる……。


なんとなく分かりそうな気もするけど、本当のところは精霊じゃないと分からないと思う……。

もう、僕も精霊にならないと、理解出来そうにない……。


「人間のアルシュさんには、なかなか伝わりにくいでしょうか……。」

「……う……ん……それって、霧が出ている時だけそうできるの?」

「はい。霧が出ている時に、霧がある場所にだけ、見に行けるし、移動できるんです。」

「……。」


僕はメルツの手に触れる。

なんだかメルツの説明に驚いてて、言葉が出ない……。

彼女はここにいるけれど、不安で心配というか、ちょっと薄っすら怖い感じもする……。

あんまりにも、人間の僕と、違いすぎて……。

……でも、興味深い……。


金色がかった日差しを浴びている彼女に言う。

「何人ものメルツ、会ってみたいな……。」

彼女は微笑む。

「アルシュさんも一緒に霧を旅できたらいいんですけど……。」

「ふふ。僕も精霊になりたい。」





時折、ふと思うことがある。


精霊にも、死があるのだろうか……。


「メルツ、精霊は、何年くらい生きるの?」

と、尋ねたいけど、勇気が出ない。


もし、

「私はそろそろ寿命です。」

と、言われたりしたら……。

嫌だ……。


でも、聞くべきだ……。

聞いて、もし、残り時間が少なかったら、僕にできることは何かを考えるべきだ……。





「メルツ……?どうしたの?」

いつもより、元気がないように見える。

「アルシュさん……実は、私が長い間住まわせてもらっている木が、枯れ始めていることに、今日気づいたんです……。」


いくつか拠点にしている大木があることは、前から聞いていた。

どれも、それぞれに安らげる木だと、話していた。

「私が生まれる前から生えている木で、昔からたくさんの会話をして過ごしてきました。」

と、聞いている……。


「今までに、何度か危ういことはあったんですが、いつも持ち直していたんですけど、今回は……すべてではないかもしれませんが、大部分が、枯れてしまいそうです……。」


森の深くにある木らしいから、僕は見たことがない。

「僕が見に行くことはできるかな……。」

「私が運ぶことになりますけど……。」

「いいよ。僕を連れて行って。」

「人を運ぶのは久しぶりです。」

「僕は、精霊に運ばれるのは初めて。どうやって運ぶの?」

ガウンをかぶって飛んだように、僕をかぶるのかと思ったら、

「そうですね……手をつないでください。」

つなぐと、だんだん体が軽くなってきた。


まるで重力がないみたいに、足の裏が地面から離れて、体が浮き上がる……。

「わあ……!」


どうなっているんだろう。メルツががんばって持ち上げているのだろうか。

「メルツ、大変じゃない?」

「アルシュさんを浮かせているのは、アルシュさん自身の魔力です。私は運転しているだけです。」

僕はくすっと笑う。運転。

「僕が自分で運転することもできるのかな?」

「できると思いますよ。でも今は力を抜いていてください。」

「うん。勝手に動く人は運転しづらいだろうからね!」


森の上を飛ぶのは爽快だったけど、遠かったし、着地するころには、ふらふらになっていた……。

僕は草の上に腰を下ろし、木の幹に寄り掛かる。

身体って、こんなに重かったっけ……。帰れそうにない……。

これが、魔力不足か……。

「アルシュさん!私の魔力を送り込みますね!」

メルツが焦って心配してくれている。

「いいの?大丈夫?」

「はい。」

「やってみて。」

メルツはまるで心臓マッサージするみたいに両手を重ねて、僕の胸に当てる。

「……。」

身体の中に風が吹き始めた……。と、思ったら、気分がスッキリ良くなった。

「すごい……!元気になった!」

「すみませんでした。大丈夫ですか?」

「うん。メルツは大丈夫?」

「私は地面からも、空気からも、すぐに魔力を取り込めるので、何ともないです。息をするように、周囲から魔力を取り込めるんです。」

さすが精霊。

僕は立ち上がり、服に付いた土を払う。

「それで……これが、メルツの家……?」

「はい。」

僕は目の前の大木を見上げる。

ずいぶん高齢の木のようだ……。

「この木は、私が物心ついた時には、もう立派な木だったので、なんというか……私にとっては、頼もしい大人のような、親のような存在なんです。」

メルツは木の幹に触れる。

「この木が死んでしまったら……寂しいです……。」

「メルツ……。」

それはもしかしたら、僕にとっては、病院でお世話になった先生や、エマスイが亡くなってしまうような気持ちかもしれない……。

それは……悲しくて……嫌だな……。

僕はメルツの手を握る……。

メルツの眼から、涙がこぼれる。

「……。」

「……。」

樹木と精霊は、コミュニケーションが取れるとメルツから教わった。

この大木と、メルツの間には、僕にはわからないような、不思議な思い出がたくさんあるだろう……。

この木はきっと、僕よりはるかにメルツの事を知っているだろう……。

昔のメルツはどんなでしたか?と、尋ねてみたい……。


でも、それよりも、僕は今のメルツが大事だ……。


僕は、泣いているメルツの肩をさする……。


メルツは手で涙をぬぐう。

「……私は大丈夫です。見送る準備はできました。

十分長生きしたので、お疲れさまと言ってあげます。」

と、微笑む。


メルツは強くて優しいな……。

今まで、たくさんの命を見送ってきたメルツ……。

だから、良い別れ方を知っているのだと思う……。

僕も、いつかはエマスイに、お疲れ様と、言う日が来るのだろうか……と、思うだけで、悲しみと寂しさがこみ上げてくる……。


メルツは、木の幹を優しくなでて言葉をかける。


「お疲れ様でした。今まで楽しかったですよ。」


細い枝に生えている木の葉が、サワサワと涼しげに風にそよいだ……。


「帰りましょう。アルシュさん。今度は疲れないように、魔力を補いながら飛ばしますね。」

僕は微笑む。

「……もう少し、一緒にいるよ。メルツ。日が沈むまで。」

「ありがとうございます。では……この木との思い出を聞いてくれますか?」

僕は微笑んでうなづく。

「うん。聞かせて。」


この木は、いつも周囲をおおらかに見守っていたらしい。

高く成長するのにエネルギーを使っている若い木や、羽を休める場所がほしい鳥たち、幹を削る動物に対しても、おおらかだった。もちろん、メルツの事も。

「優しいね。」

「雷は、怖いみたいでしたけど。一度落とされたみたいです。」

「それは怖い……。よく生きてたね。」

「すごい事です!」


ショックを経験したから、より優しくなったのかも知れない……。





モーリーさんから、本が届いた。

精霊について書かれている本だ。

ワクワクしながら包装を解いて、本を手に取った。

「わあ……!綺麗……!」

装丁が美しい……。

魔法の香りがしそうな、細やかな装飾が施してある。

でも、魔力は感じられないから、普通の本だ。

「でも、何か普通と違う気が……」

表紙に著者名もなく、奥付には、出版社のものらしきマークと、読み取れないコードがあるだけだ。


どこで読もう。

少し大きくて重い本を抱えて、家の中をうろうろする。


そうだ、楽譜室に立派な譜面台があったな。あれに載せて読もう。

楽譜室は窓が小さく、やや薄暗くて、室温もちょうどよくて、本を読むには最適だ。


卓上灯をつけてアームを伸ばし、本を載せた譜面台を照らす。

アンティークの椅子に座ってページを開く……。


「精霊図説、改訂版……。」


日が暮れるまで、夢中になって読んでしまった。


本には、精霊同士の関係だけでなく、魔法使いや魔力スポットや、魔法生物との関係も書かれていた。

美しい挿絵も随所にあって、見ごたえがあった。


ただ、一度読んだだけでは飲み込めない記述も多い。

来年、島へ行くまでに、メルツと一緒に何度も読もうと思う。



精霊について、一番知りたい事が、本に書いてあった。

メルツの寿命だ。

精霊は、一般的には、千年ほど生きるらしい。

だからメルツは、あと八百年ほど生きられる。

僕はシステムのおかげで、あと四百年生きられるらしいから、頑張って長生きして、メルツと楽しんで過ごそうと思う……。

……僕も八百年生きて、メルツが寂しくないようにしてあげたいな……。


いつかこの身体とシステムがダメになったら、

精霊に生まれ変われたら良いのに……。





二十二時過ぎ。窓辺にやってきたメルツを部屋に入れる。

「こんばんは、メルツ。もう夜はだいぶ冷えるね。」

「こんばんは。そうですね。寒いですね。」

メルツは寒くても大丈夫らしいけど、話を合わせてくれる。

僕はベッドの上にのぼり、上掛けの下に足を潜り込ませて座る。

メルツにも、隣に座ってもらう。

僕はお互いの間にクッションを置いて、その上に精霊の本を載せる。

僕は本を開き、メルツに読み聞かせる……。


『精霊は、本来、形がない。

精霊が人の姿に見えるのは、そのほうが意思疎通できるとの、人間側の無意識が、魔力を通じて働きかけているためであるとされている。

同じ精霊でも、接する魔術師によって、若干姿が異なって見えることもある。

生まれたばかりの精霊が、最初に出会った、強い魔力を持つ人から受ける影響は大きく、一生の姿かたちを決定されることが多い。

精霊は、人からの影響で形を得る以外に、動物の姿になる。

その場合は、自らの意思で姿を作る。」


「メルツは僕には、絵みたいな古風な白いドレスを着た若い女性の姿に見えてるけど、自分ではどう?」

「私にもそう見えます。昔からそうでした。変わらずこの姿です。」

「そうなんだ。

それも不思議だね。

……精霊は本来形がなくて、最初に出会った、強い魔力を持った人が、精霊の姿を決定するって書いてあるけど、メルツもそうなの?

メルツにもそういう人がいたの?覚えてる?」


「はい。よく覚えていますよ。

この屋敷に住んでいた男性が、形なく森に漂っていた私を見つけたんです。

彼に会うたび、だんだん自分の姿がはっきりしていったのをうっすら覚えています。

彼は、子爵さんは、魔力が強い魔術師でした。

よく薬草の調合をして、村のお医者さんに売っていました。よく効くと評判でしたが、貧しい村人のために、とても安く売っていたようです。

私は、森へ分け入ってきた子爵さんに、薬草の場所を教えたりしていました。

彼は私を隣人として受け入れ、仲良くしてくださいました。

何十年も、一緒に暮らせて、楽しかったです……。」


何十年も……。そんな長く親しくしてた人がいたんだ……。初めて聞いた……。


「一度だけ……彼から深く謝られたことがあります。

私をこの姿にしてしまったことを、悔やんでいるようでした。

私のこの姿は、

子爵さんが、過去に亡くした許婚と同じなのだそうです。

私を良く思ってくれているのは伝わっていたので、私は、

人の姿で、あなたとお話ができてうれしい、と、伝えました。

元が誰の姿であろうと、私は私ですし。」


「……その子爵さんって人はきっと、メルツが森にいて、とても救われてただろうね。」


メルツの姿はきっと、子爵さんが、亡くなってしまった思い人の女性に会いたい気持ちが、魔力を通してメルツに伝わって、メルツを形作ったのだ……。


彼は、図らずもメルツを、形作ってしまった。

深く謝られたということは、

そのせいで、メルツとしてではなく、どうしても、失った人と重ねて、代わりとして見てしまうことに苦しんでいたし、申し訳なく思っていたからなのだろう。


でも、僕が見ているこのメルツの姿は、もしかしたら僕の無意識も少しは働いているかもしれないけど。


メルツは本当にその姿でいいの……?

と、言おうとした。

知らない女性そっくりのその姿で……。

でも、それは失礼な気がして言わないことにした。

私は私。と、メルツは自分をしっかり持っているようだし。


メルツは、コピーの姿でもうれしかっただろうし、

過去の思い人の代わりであっても、許していたんだ。

子爵さんを好きだったから……。


今も……、好きなのだ……。


そういう表情だし、思いが口調に現れている。


僕がメルツを大切に思う気持ちは明るくて楽しいものだけど、

子爵さんにとっては、重みがあっただろう……。

でも、悔やんでも、幸せだっただろう。


メルツがにっこりして言う。

「この姿は、子爵さんが、生きていた証なので、うれしいんですよ。」


ふたりの絆は、今もこうして生きている……。


僕は、触れられない。

メルツに、触れられない……。

思い出に微笑むメルツが、いつになく、高くて遠いように感じられる……。


子爵さん、という存在を知って、

僕は割とショックを感じている……。


僕はもう、メルツに、

僕だけの精霊でいてほしい。

なんて、

言えなくなってしまった……。


でも、それでも僕はメルツが好きだ。


僕にとってメルツは、ただ一人の、

初めての精霊だ。


僕はメルツにうそをつく。

「眠くなってきたよ。」

メルツは僕に微笑む。

「休んでください。アルシュさん。」

「うん。また明日、一緒に本を見よう。」

本をサイドテーブルに置く。

「お休み。」

「おやすみなさい。しばらくアルシュさんを見ていてもいいですか?」

「うん。」

僕は微笑んで横になった。

システムがすぐに僕を眠らせるだろう。

メルツは僕の寝顔をしばらく眺めてから、森へ帰っていくだろう……。



初めて言葉を交わした男性のことを、嬉しそうに話したメルツ……。

メルツに姿を与えた人だし……

何十年も付き合いがあって……

まぎれもなく、メルツにとって、特別な人だ……。


でも、思ってしまう……。

……僕が、

メルツに姿を与えられたらよかったのに……。


僕にとって、

メルツが初めての精霊であるように、

メルツにとっても、

僕が初めての魔力保持者だったらよかったのに……。


そしたらこんな寂しさを、

遠さを、

感じないだろうに……。


そんなわがままなすね方をしてしまう僕は……

子供なのだろう……。


もともとメルツは人間よりずっと長く生きているって知ってたのに、僕は彼女の過去を知らないし、見た目が若いから、年が近いように思えていた。

僕が勝手にそう思いたかっただけで、メルツは二百年以上の過去を持っている……。

子爵さんの他にも、楽しんで一緒に過ごした人は何人もいるだろう。例えば、エマスイのお母さんとか。

メルツは精霊だから、多くの過去があるのは当たり前だ。

……なのに、僕はその事にショックを受けて、戸惑ってしまっている……。


メルツと共感、共有できる物事は、多くなくて、

しかも、僕とメルツでは感じ方がいろいろと違う……。

でもそれは、人であっても同じだ……。

それを寂しがって、嫌がって、無いものを欲しがって甘えていては、メルツに悪い……。


でも……。


メルツは、だれとも契約を結んだことがないと話していた。

その、子爵さんという人とも、結ばなかったのだ。


来年、僕らは二人で島へ行って、公式な、式と魔術師の契約をしようと思ってる……。

そう、メルツと約束している。

僕は少し安堵する。

パートナー関係になれば、精霊狩りに狩られる心配も減るし……

僕がほしい幸せの形に近づく。


お互い初めての、

新しい形を得られた、その先の、

真っ白な未来が

楽しみだ……。


思うだけで、清々しくて、幸せだ……。


メルツもそう思ってくれてるといいけど……。


メルツ……。

君が出会ってきた、大切な人たち、子爵さんも含めて、僕は君のことが好きだけど、

でも、

僕と君だけの、

新しい、確かな関係がほしい。

形ある、契約を結びたい。


僕のわがままな望みを、

一緒に望んで、叶えてくれたら……

嬉しいな……。



後日、尋ねてみた。

「メルツが最初に出会った魔法使い、子爵さんは、メルツの事をなんて呼んでたの?」

メルツは僕と出会うまで、名前が無かった。

「君、とか、精霊さん、と、呼ばれていました。」

どうやら子爵さんは、メルツに名前をつけなかったらしい。

「名前も欲しいとは、思わなかったの?」

「思いましたけど、

彼は私に、自由でいて欲しいと話していました。

自分で名前を考える事を最初に勧めてくれたのも、彼でした。」


自由……。


子爵さんは……

親しかった女性そっくりな姿のメルツの事を、

大切に思って、

とてもたくさん考えて、

友達のように接する事を、選んだように思える……。

思い人の名で呼び、契約して、親しく暮らす事もできたのに、そうはしなかった……。


精霊さん、か……。

自由に……生きて行ってほしい……


僕も、わがまま言わず、そうすべきなのだろうか……。

契約は、精霊にとって、メルツにとって、本当に良い事なのだろうか……。





僕は一度だけ、メルツを写真に撮ったことがある。

カメラに僕の魔力が通って写らないかなと期待して。

でも、やっぱり写らなかった。


モーリーさんに訊ねてみた。

「精霊を写真に写す方法はありますか?」

「念写のような魔法がありますよ。」

精霊や魔法生物を魔力で紙に印刷できるらしい。


とりあえず、僕はメルツをスケッチすることにした。

でも……

白の濃淡で、透けている彼女を、

黒い鉛筆で描く……??

僕には無理に思えた……。


絵はローイのほうがうまかった。

ローイにもメルツが見えたなら、どうにかしてスケッチできるだろう。



僕の部屋で、

メルツが椅子に腰掛けて、モデルをしてくれている。

僕は譜面台に紙を置いて、一生懸命彼女をスケッチしている。


「……。」


「……どうですか?」

と、メルツが待ち切れない様子で、ふわっと立ち上がって、僕の方へ来ようとする。僕は慌てる。

「あ!ちょ、動かないで!」

「すみません……。」


もともとメルツは、風もないのに、髪や衣服が僅かに揺れている。

だから、いくらメルツがじっとしていても、いつの間にか、肩に掛かる髪も、服のドレープも、始めに描写した形と違ってしまっている……。

なので、その時々の形の寄せ集めになってしまう……。

時折こちらを見る表情も、少しずつ違う……。

あ、それは人間も同じか……。


僕は鉛筆を置く。

「はぁ……。ありがとう。もう動いていいよ。」

「どんなですか?」

メルツが興味津々に、空中を滑ってやってきて、僕の絵を覗く。

僕は、絵を隠したいくらい恥ずかしい……。

「ごめん、全然上手く描けてないよ……!」

でもメルツは、

「人が描く絵は、不思議で楽しいです。アルシュさんのも……。」

魅力を感じるらしく、微笑んでじっと眺めている。

「……そう言ってもらえると、ちょっとほっとするよ……。」

メルツの楽しそうな表情を見ていると、

僕の絵も、そう悪くないかもと、思えてくる……。



僕は、エマスイとサマーに、メルツを描いた絵を見せた。

エマスイが頬を緩める。

「アルシュの絵は雰囲気がかわいいわね。」

しっかり描写できてなくて、ふわふわしているせいだと思う。

顔は難しくて途中であきらめたので、メルツの後ろ姿の絵だ。

椅子に横向きに座っていて、長い髪が、流れるようにふんわりと背中にかかっている。

殆ど椅子と髪しか描いていない……。

それでも……

「難しかったです。」

苦労して濃淡をつけたけど、写実には程遠い……。

サマーから、こっそり言われた。

「顔が見たいな。美人だろうな。」

「……。」

失敗した絵を見せた。

「全然似てないんです……。」

改めて見ると、やっぱり下手で恥ずかしい……。

「でも何となく伝わるよ!やっぱり美人だね!」

「きっとサマーのほうが上手でしょうね。エマスイも上手そう……。

はあ……。僕は絵は向いてないんですよ……。」

「そんな落ち込むことないよ。俺より上手いよ。頑張って描いたのが伝わるし可愛いよ!」

「……。」

下手だから、何度も消して描いた跡がある。

可愛いっていうのは、初心者の絵だからだろう……。

もっと綺麗に、見たままに描いてあげたいのに……。

悔しいな……。

「あ、そうだ、ケーキあるよ!食べるでしょ?」

「……はい。」

……ケーキ……

にわかに気持ちが上向く。

なんのケーキだろう……!

サマーは料理もお菓子作りも、本当に上手だ。

凄い事だ。僕も教わって、少しずつできる事が増えてきた。僕は絵より料理の方が向いてそうだ。



僕が感動してローイの絵を覗き込んでいると、決まって彼は、僕にその絵をくれた。

僕は大喜びして、大切に引き出しにしまったり、壁に貼ったりした。

それらは全部、病院を出る時、置いてきてしまったけど、写した写真がメモリースティックに入っているので、時々眺めている。

「ローイに会いたいな……。」


そのうち一枚は、

無敵のヒーローのローイが、悪い怪獣と戦って、良いエイリアンを守っている絵だった。

僕が、眠っているローイに吹き込んだ物語の一場面を描いた絵だ。

『こんなだったぜ。』

ローイはかっこいいし、エイリアンはかわいいし、怪獣は迫力あって、すごくいい絵だった。


今はどの絵も、ローイのご両親の手元にある……。





僕は病院の廊下で泣いていた。

ローイは隣にいて、じっと黙っていた。

「どうしたの?」

と、保育士さんが声をかけてくれた。

でも、僕は泣いていてしゃべれない。

ローイが小声で伝えてくれた。

「ピアノが弾きたいんだって。」


病院にも、ピアノが、あることはあった。

アップライトで、保育士さんが時々物置から引っ張り出してきては、弾いていた。

何度かそれを弾かせてもらったことがあったけど……


ローイは、

「スゲー!」

と、拍手してくれたけど……

「これじゃない……。この音じゃない……。」

「え……」

悲しくて涙をこぼす僕の肩を、ローイが同情してさすってくれた。


子供部屋で毎日弾いていたのは、高級なグランドピアノだった。

「一番いいピアノを頂戴。」

と言って、母は買いもとめたのだそうだ。

確かに最高の楽器だったのだ……。

最初はインテリアとして、リビングに置いてあったらしい。

母は、少し習って弾いてみたけど、すぐに飽きて、邪魔になって、物置部屋へ運ばせた。

その部屋が、僕の部屋になった。

気に食わないとすぐに捨てる母が、なぜピアノをとって置いたのかは、知らない。


僕は長年、あのピアノを親友だと思っていた……。

綺麗で優しくて、かっこいい、あの音色……。


もう二度と会えない……。弾けない……。


恋しくて、悲しくて、

僕はしくしく泣いた……。


そんなある日。

担当医の先生が、僕にクラシックギターをくれた。

「うまくなって聞かせて。」

後で調べたら、上級者向けのいい楽器だった。

弾き込むうちに、綺麗な音で明朗に鳴り響く素晴らしい楽器になった。

「こんないいギター、どうやって買ったんですか?」

院内で僕に内緒でカンパを募って資金を集めたらしい。

ローイのご両親も出資して、ローイもお小遣いを出してくれたらしい。

「ローイ!ありがとう!」

「駄菓子おごれよ。」

それは彼の本心じゃないと知っている。でも僕は笑って言った。

「うん。ありったけ買うよ!」

思った通り彼は眉間にしわを寄せて、

「つまんねーこと言ってねえで、早く弾いてみろよ。」


でも、今考えてみると、そんな集め方で買える楽器じゃないはずだけど……。

多分、レンタルだったのだろう。



「痛っ!」

ローイが抱えてつま弾いていたギターを僕に返した。

彼は、指先に弦の跡がついている左手を振ったり見つめたりしながら、

「こんなのよく弾いてられんな!毎日毎日……はあ。注射のほうが一瞬だから、まだましだ。」

ローイは痛みに弱い。

「僕だって痛かったよ。でも指先が丈夫になってきたのかな?もうそんなに痛まないよ。」

「ふうん。」

上機嫌でギターを弾く僕の隣で、ローイは勉強したり、絵をかいたりしていた。





私は思っている。

ピアノを弾くというのは、とても孤独な行為。

練習は、ひたすら、自分の想像力と知識と技術を使って、もがきながら模索する。

ピアノの音色の美しさを愛していないと、耐えられないと思う。

演奏に感情は必須だけれど、感情的になりすぎない冷静さは常に働かせて、必死に弾く。

毎日。

音楽に身を捧げて。

私の、ピアニストとしての活動は、近場での二か月に一度ほどのリサイタルのほかは、年一回の演奏旅行のみ。

後は村の会館や教会でのコンサートにゲストで参加するくらいで、私の演奏活動は多いとは言えない。

サマーの前のアシスタントの時は、レコードの録音のスケジュールが入っていたけれど、今年はない。

おかげで、サマーとアルシュと過ごす時間を、忙しさで切ってしまわずに済んでいる。

私は少しだけ、親代わりのような気でいる。

特に、アルシュに対して。

本当の親がどんな人たちなのか、アルシュが話してくれるまで待つつもりだけれど、


「僕の……両親は……どうしてあんななんだろうって……思います……。」


その表情を見て、私が親になると言いたくなった。

今すぐ養子にして救ってあげたいと。

子供を欲しくないと言って、夫と別れた私が言うことじゃないとも思うけど……

アルシュにとって、一番近くにいる、頼れる大人になりたいと思っている……。





エマスイは、二か月に一度ほど、近くの都市でリサイタルを開いている。

僕がエマスイ邸にやって来てからも、三回あったんだけど、今まで僕は、その日は、一人でお留守番だった。まだ体力が無くて。

でも、今回は体調がいいので一緒に行くことにした。

「サマー、僕に手伝えることありますか?」

「うーん、それじゃあ、お弁当係ね!」

ホールの近くにあるお店で、毎回ランチを買っているらしい。



朝。

三人でエマスイの車に乗り込む。

僕が助手席で、エマスイが後部座席だ。

午後に本番で、夜には家に戻ってくる。

エマスイは落ち着いているように見える。

あんまり話さないほうがいいかなと思って黙っていると、

「アルシュ、調子は?」

と、聞かれた。

「元気ですよ!」

「そう。今日はドクターも来るわよ。」

「そうですか。お礼を言わないと。」

ピアノと古楽器を調整してくれたお礼。



会場に着いた。

スタッフさんが行ったり来たりしている。

サマーがパイプ椅子を持ってやってきた。

「エマスイは楽屋あるけど、俺たちにはないからなー。」

と、舞台袖の端っこに、椅子を広げて置いた。

「どうぞ。」

僕の席らしい。

サマーはすぐに、忙しそうにホールの人たちとやり取りを始める。

エマスイは楽屋で練習中。

ドクターさんはまだ来てないみたいだ。

僕は、とりあえず座って、水筒のハーブティーを飲んで一息ついた。

ステージを眺める。

明かりに照らされていて眩しいステージには、蓋の閉じたピアノが一台置かれている……。

重みと気品のある佇まい……。

もうすぐ、美しい音色が魔法のように溢れ出すのだ……。

エマスイの演奏、とっても楽しみだな……。

「……。……よし、仕事しよう。」

少し早いけど、僕はさっそくお弁当を買いに行くことにした。


重い扉をいくつも開けて、玄関ホールに出る。

正面ではなく、わきの出入り口から外へ出る。

外から会場の建物を眺めた。外側は古い石造りの建築だ。

会場の階段下にある画面には、エマスイのリサイタルの告知映像が映されている。


「かっこいいな……。」


僕も練習頑張って、自作自演の演奏会を開きたい。


今のエマスイのように、いろんな方の協力を得ながら、本番に向けて取り組んでいる自分を想像する。

胸の中に、熱が広がっていく……。


必ず叶える……!



手帳で地図を見ながら、お店にたどり着いた。

頼まれていたお弁当を注文する。

僕は店員さんに言う。

「あの、このポスターを貼らせてもらってもいいですか?」

リサイタルのポスターを広げて見せる。

「あ、君、エマスイ先生の新しいアシスタントの子?」

「アシスタントのアシスタントです。」

店員さんは笑って、

「聞きに行くよ!」

「ぜひいらしてください。」

お店の外壁に貼らせてくれた。


僕は温かいお弁当を抱えて街を歩く。

持ってきたポスターはあれ一枚だけだけど、道行く人みんなにチラシを配りたい……。

沢山の人たちに来てもらいたい……。


戻ると、ホールの舞台でドクターが調律していた。

エマスイがそばにいて、何か注文している。

ふたりの会話は、舞台袖までなんとなく聞こえている。

どうやら繊細な弱音が綺麗に響くようにしてほしいらしい。

会話の内容からすると、ドクターもエマスイも、ステージにいながら、一番遠くの客席でどう聞こえるかわかるらしい。すごいな。何度も演奏してきたから、このホールをよく知ってるって事だ。もちろんピアノも。

調整は時間がかかりそうだ。


僕はエマスイのお弁当を、彼女の楽屋へ運ぶ。テーブルの上の分かりやすい場所に置いた。

さっきまで弾いていた練習用のピアノには、紙の楽譜が置かれている。楽譜は大切に扱われているけれど、長い年月、そうしてエマスイの近くに佇んで、エマスイと作曲家を繋げてきたのだろう……。

サマーはどこだろう?

ラインを送ると、電話がかかってきた。

「今上にいるから、アルシュ先に食べてて。」

上とは、映写室と言うか、舞台正面の高いところにある窓の中の部屋だ。


僕は外でお弁当を食べることにした。

搬入口の外に、ちょうどいい感じの植え込みが見えたのを思い出したから。

日当たりのいい植え込みのヘリに腰を下ろして一息つく。

「ふう。」

僕は自分の肩に声をかける。

「メルツ?」

「はい。アルシュさん。」

「ここは誰も来ないと思うし、しばらく休むから外に出ていいよ。」

「そうですか。でも、あとでにしますね。」

島から帰ってきたとき、メルツが抜けた反動で貧血になったのを、まだ気にしているらしい。

「今日は元気だから大丈夫だよ。」

メルツは少し思案して、鎖骨の中を行ったり来たりする。

「ふふ。」

なんとなく、くすぐったい。

僕は昼食を食べる。


今回は、リサイタルの裏方に参加できてる……。

幸せだな……。

できることが増えるたび、幸せに思う。



……父の、冷たい目……。

母からは、一方的に溺愛されたり、嫌われたりの繰り返し。

彼らの、結託して人を見下す会話の数々に、僕は傷ついていた……。


あの二人は、本当にひとでなしだなと、つくづく思う……。(そんな風に見下していると、僕も二人と同じだとわかっているけど、どうしても嫌ってしまう……。)


当時の僕は、ある日、魔法が解けたように両親が普通の良い人になることを夢見ていた……。

「今までごめんね。」

と言って、優しいまなざしをして愛してくれることを、夢見ていた……。

完璧じゃなくていい。尊敬できる、頼もしい大人になってほしかった……。


そんな奇跡、起きるはずないのに……。

幼かったのだ……。


震えながら、奇跡を願っていた。

親を嫌うことに、自分自身が耐えられなかったから……。

何度傷つけられても、憎んだら最後、心が砕け散ってしまうと思って、怖かった。


病気になり、弱って、親に対する感情を、捨てた。

思い出したって、消耗するだけだから。

両親との記憶には、ふたをして、

まるで、外国にいる赤の他人みたいに遠ざけて忘れた。

そうしないと、僕は、日々を楽しんで生きていけなかったし、

病院の先生や看護師さん達がみんな素晴らしい大人だったから、自然と両親はフェードアウトした。

親から何の連絡もなく、見舞いにも来ないのは、楽で幸せだった。



『ローイ。もし、僕がいないときに親が来たら、僕は死んだって言って。』


ローイは僕を見つめ、眉間にしわを寄せた。


彼の表情に、はっとして僕は謝った。

『……ごめん、嫌だよね。気にしないでいいから。』

ローイは鼻でため息をついた。


『……。アルシュは治って旅をしてるって言っとく。』

『……それいいね、ありがとう。』



今の僕は、

親のことは、めったに思い出さない。


これからの僕は……

エマスイのアシスタントをして、曲を沢山発表して、コンサートを開いて、

自分でお金を稼いで、自立した大人になるんだ。


辛かったころに書いた曲が人々に好かれたら、昔の僕も救われるだろう。

エマスイは、僕の曲を弾いて、

『好きよ。』

と、言ってくれた。

その一言で、僕の曲が、繊細で美しい花束になって、帰ってきた。

あの感動は忘れない……。

つないだ手の暖かさ。

僕はエマスイに支えられている。

だから今度は僕が、彼女を支えられるようになりたいと思っている。


『アルシュ。焦って大人になろうとしなくてもいいのよ。』

と、エマスイに言われた。

僕が倒れるのを何度も見ているから、心配なのだろう。

でも、確実に体力はついてきてるし、二年後、成人するころには恩返しできるようにと、思っている。



搬入口の開け放ってあるドアからサマーが出てきた。

僕は彼にお弁当を手渡す。

「サマーの分です。」

「ありがと!」

彼は隣に座って勢いよく食べ始める。

「そうだ、調律終わったよ。」

「ドクターさんは?」

「さっき上手にいたよ。」

そういえば調律師の人って、リサイタルの本番中はどうしてるんだろう。

舞台袖で聞いてるのかな。次の仕事へ向かうのかな。

僕は上手へ向かう。

ドクターさんは、ちょうど廊下へ出てきたところだった。

「ドクターさん!」

「アルシュさん。」

「お帰りですか?お疲れ様です。」

「いえ、午後もいますよ。これを車に積んで、お昼をいただいてきます。」

仕事道具の入ったいつもの鞄を持っている。

僕は車までついていくことにした。

「ドア開けますね!」

会場の重いドアを開け、彼を通す。

「ありがとう。」

「ドクターさん、エマスイ邸のピアノと古楽器の調律、ありがとうございました。毎日弾いてます。」

「調子はどうですか?」

「綺麗に鳴っています。」

「それならよかったです。アルシュさんもお元気そうですね。」

「はい、元気です。あ、そうだ、いつか僕がコンサートを開くときも、ドクターさんに調律をお願いしたいんですが、いいですか?」

彼は嬉しそうににっこりする。

「はい。いつでもご連絡ください。」

車に荷物を置き、徒歩で近所のカフェへ向かわれた。


一生懸命練習して、来年……遅くとも再来年にはコンサートを開きたい。

そのころにはメルツとパートナーになっているだろう。

そして、できれば……ローイも目覚めていて、聞きに来てくれるといいな……。



「あ、アルシュ!」

会場へ戻ると、サマーが手招きした。

「照明やアナウンスの仕方を教えるよ。」

舞台袖には、たくさんのスイッチが並んだ機械があって、サマーはそのうちのいくつかを説明してくれた。

僕はヘッドホンを外して言う。

「小学生の頃、放送委員ってカッコいいなって思ってました。大人みたいで。」

「俺は図書委員が知的でカッコよく見えたな。……好きな子が図書委員だったんだよ。」

「ははは!」

サマーらしい。




美しいドレスに身を包み、舞台に登場したエマスイ。

大きな拍手で迎えられる。

彼女は一礼し、ピアノに向かう。


両手が滑らかに動き、優雅な曲が奏でられる……。

直前の舞台練習でも弾いていた曲……。


僕はメルツと一緒に客席で聞いている。

毎日ピアノ室から聞こえていたけれど、やっぱりホールで聞く方が、音がよく広がっている。

メルツは、コンサートホールで演奏を聴くのは初めてらしい。

一曲目が終わり、拍手している時尋ねてみた。

「どう?メルツ。ホールの音は。」

「……すごくきれいで、幻想的です……。」

メルツにも、客席に座って聞いてほしいけれど、でも念のため、僕の中にいてもらっている。

「外にいるときと、音が違って聞こえない?」

と、聞いたことがある。

僕の呼吸音や鼓動がしているし、中からだとくぐもって聞こえるんじゃないかと思って。

けれど、

「あまり違いはないです。」

と言っていた。

メルツは僕の中にいても、普通に見えたり聞こえたりするらしい。

不思議だ……。

どうやって見聞きしているんだろう……。

精霊はノイズの波長を分けて見聞きできるのかも知れない。


一曲、また一曲、エマスイが奏でていく。

こだわっていた弱音も、調整のおかげもあって、美しく響いている。


ああ……エマスイの演奏、好きだな……。

香り高く、花々の咲く、広大な庭を歩いているよう……。

香る風が、僕を通り抜けて流れていく……。


エマスイは、

「アルシュの作る曲や演奏、サマーの演奏にも刺激を受けているわ。」

と、話していた。

そういうのも、表現のどこかに生かされているかもしれない。


安定感に些細な乱れも、ミスもなく、最後の曲になった。

日ごろの鍛錬と、集中力が、最高の演奏を支えている。


……すべての曲が終わり、大きな拍手がわく。

エマスイは一度退場するけれど、拍手は続き、再び登場する。

バレリーナのようにお辞儀をすると、アンコールを奏で始めた。



アナウンスがコンサートの終わりを告げると、僕は急いで舞台袖へ向かう。

たった今、コンサートを終えたエマスイは、スタッフの人やドクターさんと笑顔で話している。


でも、その笑顔は普段と何となく違う……。

舞台袖が薄暗いせいだろうか。


僕は彼女に声をかける。

「お疲れさまでした!」

「疲れたわ。アルシュ。」

そう言って笑った顔は、いつものエマスイだ。


僕はほっとして、楽屋へ付き添う。

ドアを開け、エマスイを通す。

「ありがとう。」

僕も楽屋へ入る。

エマスイはため息をついて、ハーブティーを飲む。

「何かお手伝いできることありますか?」

エマスイはくすっと笑って、

「ないわ。サマーを手伝ってあげて。」

「はい。」

サマーは観客の見送りに出ている。

エマスイは鏡の前に座り、アクセサリーを外してケースにしまっている。それから保冷シートを広げ、腕をのせて冷やし始めた。

僕はポケットから手帳を取り出して言う。

「あの、写真を撮ってもいいですか?」

エマスイは驚いた表情をする。

「え、今?今の私はボロボロよ!」

と、彼女は苦笑する。

「そうですか?お綺麗です。」

「……。」

困り笑顔で僕を見るエマスイ。

僕は諦める。

「……手伝いに行ってきますね。」

「アルシュ。一枚だけよ。」

エマスイは鏡を見て少し髪を整えてから、ピアノの前に立ち、背筋を伸ばして僕に微笑む。

「ありがとうございます!」

僕は手帳でエマスイを写す。


本当は後ろ姿も撮りたい。

リサイタルを完璧にこなしたエマスイは、

いつもとは雰囲気の違う後ろ姿で

カッコよかったから……。


でも、僕が撮ってもそのカッコよさは写らないかもしれないし、やめておいた。

僕の脳裏にだけ、留めておこう……。


会場へ戻ると、舞台では、もうピアノの片付けが始まっていた。

ドクターさんとホールのスタッフが、ピアノを押して運んでいる。

僕も手伝った。

「はあ。」

こっそりため息をついていると、ドクターさんが声をかけてきた。

「コンサート、どうでしたか?」

「素晴らしかったです。

でも……その……始まる前は、僕も早くコンサートを開きたいって思っていたのに、今は……

僕にこんなすごいことできるんだろうかって……思っていて……。

僕、今まで一度もステージで演奏したことないんです。

エマスイもサマーも、小さいころから経験してるのに、僕は……

自分の部屋で一人で弾いてばかりで、大勢の前で弾いたことないんです。」

ドクターさんは暖かく微笑んで言う。

「弾いてみますか?」

「え?」

スタッフに声をかけ、たった今引っ込めたピアノを、またステージへ運び、いくつか和音を弾いてから、ドクターさんは言う。

「どうぞ。」

「……。」


僕はピアノの前に座る。

恐る恐る、和音を鳴らしてみる……。

「……。」

子供部屋とも、エマスイ邸とも違う響き……。

全然違う……。

これが、ホールの音……。


曲を奏で始めて、どのくらいたっただろう。夢中になって、五、六曲、弾いた。

客席に、どう届いているかわからないし、不安で、薄っすら怖い……。

気にせず曲に集中したいのに……

自信が揺らいでいる……。

エマスイは、こんな事ないんだろうな……。

僕は必死に、自分と戦う……。


拍手が聞こえて我に返る。

客席でエマスイが拍手していた。

僕は急いでエマスイと舞台袖へ頭を下げる。

「すみません!」

僕が弾いている限り片付かない……。

近づいてきたエマスイが嬉しそうに言う。

「良かったわ!アルシュの初めてのリサイタルね!」

「良かった……ですか……?

僕は、必死に弾いたけど、不安です……。」

「そうね。そういうものよ。」

とほほ笑んで、僕の背中に手を当てた。

「さあ、帰りましょう。」



サマーが運転しながら言う。

「アルシュ。疲れたんじゃない?寝てていいよ。」

「はい。……。」

目を閉じる。今日のことを思い出して……つぶやく。

「エマスイ先生の演奏はよく思い出せるのに、自分のはあんまり……。こんなんじゃ、全然コンサートなんて開けない……。」

後ろの席からエマスイの声。

「自然に聞こえていたわよ。アルシュの持ち味はちゃんと現れていたわ。ピアノを再開して半年、十分な演奏よ。」

そう言われると少し気持ちが和らぐけど、

「全然納得のいく演奏じゃなかったです。」

「私だって、ステージで、すべて納得のいく演奏ができたことは、ないわ。」

僕は驚く。ミラー越しにエマスイを見る。

「え、そうなんですか!?」

今日だって何のミスもなく、とてもいい演奏で感動したのに……。


「今の私はボロボロよ!」

と、言っていた。

それは、納得のいかない演奏をしてしまったダメージなのかもしれない……。

僕は、そんな彼女にレンズを向けてしまったのだ……。

僕なら撮らないでと言うだろう……。


「……メルツ。」

「はい、アルシュさん。」

「ウサギになって、エマスイをねぎらってあげて。」


エマスイはいとおしそうに膝の上のメルツをなでている。

僕は、メルツが抜けた反動か、眠くなって、寝てしまった……。


「アルシュ。着いたよ。」

サマーが起こしてくれた。

「今日はもうやることないから休んで。」

「はい。おやすみなさい。メルツもおやすみ。」

「おやすみなさい。アルシュさん。」

森へ帰るメルツを見送り、僕は二階へ向かう……。


自室のお風呂から出ると、階下でサマーがピアノの練習をしているのが聞こえてきた。

……僕も、エマスイやサマーくらいタフにならないと……。


納得いかない箇所があったのだとしても、

エマスイの演奏は、素晴らしくて、エマスイの姿はカッコよかった……。

僕もそのクオリティの演奏ができるようになりたい……。






「っくしゅ!」

散歩の途中、くしゃみが出た。メルツが僕の顔を見て言う。

「寒い、ですか?」

「そうだね、ちょっと冷えたみたい。」

「あちらのひだまりが、温かくて、風も来ないですよ。」

「良いね。行こう。」

僕は落ち葉を踏んで歩く。

あたりは美しい、紅葉の世界だ。

色とりどりの葉が、優雅に舞い落ちてくる。


僕はひだまりに座って、景色に見とれる。

「きれいだね……。」


「そうですね……。」

隣に座ったメルツも、嬉しそうに景色を眺めている。


僕たちは微笑みあって、手をつなぐ。


愛しい、可愛い、メルツ……。

やっぱり彼女がいるから、この森はこんなに美しく見えるんだと思う……。


メルツはよく、この森の歴史を見せてくれる。

歴史というか、樹木たちが力強く育つさまを。


僕たちは、飛ぶように駆け足で、四季を駆け抜けていく。

瞬く間に、魔法のように次々と変化していく森の様子も美しい……。


メルツは、樹木の記憶を読めば、何度でも、森の過去を眺められるらしい。


過去の森があり、今日があり、この先も、森は命を巡らせて生きていくだろう……。


「メルツ……。本当に、この森を離れて大丈夫なの……?」

魔法使いの国へ、契約を結びに行ったり、教習所に通うために、しばらくあちらにいることになる。

森の精霊が長期間、森の外に出て大丈夫なのか、不安がある……。

「アルシュさん、私をこの森の外へ誘ってくれたのは、アルシュさんが初めてなんです。

私はうれしいし、楽しみなんですよ。

しばらく森を離れても、森は困らないし、私も平気です。」

「町で暮らすのは、窮屈かもしれないよ。」

毎日、森を自由に飛び回っているメルツにとっては、町は狭くて退屈なのでは。

メルツのストレスになってしまうのは嫌だ……。

「私は、とても小さくなれるんです。細くて小さな木の中の、一粒の細胞の中にだって入れるんです。

細胞の中から見ると、木は、森ほどにも広大なんですよ。

だから、窮屈なんてことはないんです。」

「それで、長く森を離れるときは、木を一本持って行ってほしいんだね!」

「はい。木の中を散歩するのも、楽しいですよ!

それに、ここの木は、離れた場所へ持って行っても、この森の木であることに変わりはないんです。」

何か不思議な繋がりがあって、断たれる事がないという事かな。

「いいな。僕も精霊になってみたいよ。僕とは全然感覚が違うんだろうな……。」

「私は人間になってみたいです。

実体があるの、うらやましいです。

私には、人間が、エネルギーに満ちていて、強いと感じられます。」


実体があるのが羨ましい……


たいていの人には見えない、精霊のメルツ……。

自分は透明で実体がない精霊だから、人間に気づかれないのだと、

寂しく思っているのかもしれない。


僕は、メルツが見える稀な存在だからこそ、メルツは僕を、大切に思ってくれているのだろう……。


「……僕は精霊のメルツが好きだよ。

僕には、メルツはちゃんと実体があると感じられるよ。

メルツが精霊であることは、僕にとって大事なことだし。」

「アルシュさん……。」

「でも、そうだね、人間になりたいんなら、僕の身体を貸してあげられたらいいんだけど。

そういうこともできるって、本に書いてあったけど、詳しくは書かれてなかったな。」

「そうなんですか。」

その部分はまだ読み聞かせていない。

「小さくならずに、そのまま重なるらしいけど、やってみる?出来る?」

「わかりません……。仲良くなった動物に、重なってみたことはありますけど……人間には、一度も……。」

「僕は構わないから、そしたら、えっと……」

僕は自分の腕を枕にして、横向きに横たわる。

「どうぞ。」

「……。」

「遠慮しなくていいよ。」

全身くすぐったくなったらどうしようかな、と思うけど、

「試さないと何もわからないし。」

「あの……では、失礼します……。」


目を閉じていると、体の中に、風が流れ込んできたみたいな感じがしてくる。

精霊の魔力が僕の魔力に混じっているんだと思う。

くすぐったくはないから、よかった。


……考えてみれば、人間同士は、一つに重なり合って混ざり合うことはできない。

好きな人と一体になれるなんて、幸せなことだな。

そう思う頭の中にも、風が吹き込んできた。

……あ、離れられなくなったらどうしよう。

モーリーさんに教えてもらえばいいか。

そう思っているうちに、風がやんだ。


「……メルツ?」

目を開けて見上げると、メルツはそこにいて、泣いていた……。


僕はあわてて起き上がる。

「どうしたの?メルツ?」

「……アルシュさん……」

メルツは僕を抱きしめる……。


あ……もしかして……

「僕の人生が見えたの?それで、泣いてくれてるの?」

彼女はうなずく。


「それなら、僕が今幸せなのも見えたでしょ?

僕がメルツを、どう思っているかも。」


彼女は顔をあげる。

「はい。」

僕は微笑んで、愛しい彼女の髪をなでる……。


「アルシュさん、

私もアルシュさんが大好きです。」


「……ありがとう……!」

僕も微笑んで、メルツを抱きしめる……。


温かな陽だまりに

金色の葉が、キラキラと、

夢のように舞い落ちてくる……。





人の……

中に入って……

過去を覗き見たのは、初めてだった……。


私が平穏に、森の成長と循環を見守ってきた月日と違って、

アルシュさんの過去は……

沢山の困難があった……。

けれど、多くの人たちに助けられて、今のアルシュさんがいるのだと知った。


そして、私への愛の大きさも知った。


心が揺さぶられて、いろんな涙があふれてきた……。


人間は、やっぱりエネルギーが強いと思う。

私よりずっと成長が早くて、

多くの物事にかかわって、

夢を追いかけて……。


私は人間の、アルシュさんの、そういうところにひかれている……。


私よりずっと若いのに、

私と生きていくことを決心して、

未来へ導く用意をしてくれている。


まぶしくて……

涙が出るくらい……

嬉しい……。





メルツはよく、僕の寝顔を眺めているようだけど、

僕は、メルツが眠っているところを見たことがない。


以前、訊ねたことがあった。

『メルツも眠くなったり、眠ったりするの?』

『はい。時々眠りますよ。眠くなるというのはわかりませんが、眠りたいなと思ったタイミングで眠れます。』

『へえ、精霊も眠るんだね。それはどのくらいの頻度で眠るの?』

『たまに、リフレッシュしたいときなので、二週間に一度ほどです。』

『そうなんだ。何時間くらい眠るの?』

『そんなに長くはなくて、日が陰ったり、月が昇ったりすると目が覚めます。』

『月が昇ったり……?精霊は月が上ると目が覚めるの?』

『はい。』

『不思議だな……。寝る場所は決まってるの?」

『大きな木があって、そこに古いキツツキの巣穴があるんですけど、その中が寝心地いいです。

後は、群れて咲いている花の上とか、それから、仲良くなった動物と一緒に眠ることもあります。』

『いいな……!』


僕もメルツと一緒に眠りたいな。

と思ったけれど、その時は、まだ今ほど親しくなかった。


お互い、大切で大好きだと確かめ合えた今、僕は提案してみる。

「メルツ。今日は森へ帰らないで、僕と一緒に眠るのはどうかな?」

「いいんですか?」

「もちろん。」

僕は、メルツの寝顔が見たいなと思っている。

きっと綺麗でかわいいだろうな。

椅子に置いてあるクッションをメルツの枕にした。

二人で僕のベッドに横たわる。

向き合って、微笑みあう。


「手をつないでもいい?」

「はい。アルシュさん。」

「眠れそう?」

「眠ろうと思って、眠れなかった事はありません。」


僕を見つめて微笑んでいる、

色彩のあるメルツ。

僕はうれしくて、満ち足りている。


「お休み。メルツ。」

「おやすみなさい。アルシュさん。」


目を閉じているメルツを眺めて……


僕も眠くなってきて……


眠りの中へ……。



キツツキの巣穴で眠るメルツ……。

花の上で眠るメルツ……。

月が上り、ふと目覚めるメルツ……。

綺麗な瞳に森が写るその時、

僕が隣にいられたら……。

「おはよう、メルツ。」

と、言えたら……。


僕も精霊になって、メルツと暮らしたいと、よく思う……。



翌朝。

目覚めて、目を開けると……

メルツが隣にいて、僕を見つめていた。


「おはようございます。アルシュさん。」

と、優しく微笑む。


ちょっと驚いたけど、嬉しくて、少し恥ずかしい……。

「おはよう。メルツ。よく眠れた?」

「はい。アルシュさんもよく眠っていましたね。」


目覚めると、メルツがいる……。


それは僕にとって、

心地いい、

新鮮な、

日常……。



「メルツは、眠っている僕の、どこが好きなの?」

「眠っているアルシュさんは、体をめぐる流れが、とてもきれいなんですよ。」

「流れ?」

「生命力というか、魔力の自由な流れです。

起きている時とはまた違って、ドラマチックなんです。アルシュさんは、魔力の流れがとても綺麗です。」

「じゃあ、いつも、僕の生命力や魔力を眺めていたんだね。」

「はい。後、呼吸しているのがかわいいですよ。」

呼吸。

精霊は、呼吸していない。

髪や衣服が常に緩やかになびいているから、それが精霊の呼吸なのかもしれない。

「寝返りを打つのも不思議です。

体重の負担が偏らないように、自然としているんですよね?」

言われてみれば確かに。

「そうだね。同じところばかり圧迫されないように寝返りしているんだね。きっと。」



僕は、なんとなく目が覚めた時に、意識的に寝返りを打っている。


でも、ローイは違った。

眠っている間に、勝手に身体が動く事が多いみたいで、一緒に寝ていると、時々ローイがぶつかってきて目が覚めた。


真剣に生きている彼が、眠っている時は自由なように思えて、ぶつかられても、愛しさを感じて、僕は嬉しかった。

腕に乗られると、痺れてくるから、どいてもらったけど……。





ベッドサイドの明かりに透けているメルツも綺麗だ。

僕は、一緒に僕のベッドに座っているメルツに、本を読み聞かせる。

「精霊たちは、たいてい裾の長いドレスを着ている。

精霊によって、デザインは様々だが、スカートが長いのが特徴と言える。

一生同じデザインのドレスを着続ける精霊もいれば、頻繁に着替える精霊もいる。」


知らなかった……。

この本を読むまで、メルツも着替えられるんだってことを、知らなかった……。

今まで、精霊は、衣服も姿の一部なのだと思っていたから、ちょっと驚いた……。


僕は続きを読む。

「着替えるときは、脱衣後、新しい衣服に触れて、着ることで、コピーを取る。

脱いだ服は消えてしまうので、注意が必要だ。

現代では精霊の好みの服が少ないのか、着替える精霊は少ないらしい。」

僕はメルツに質問する。

「メルツは、着てみたいなって思った服は、今までにある?」

今着ている服は、一番最初に出会った魔術師、子爵さんが、姿と一緒に与えてくれた服装らしい。

つまりメルツは、一度も着替えたことがない。

それだけ大切な服と言う事なのだろう。

メルツは楽しそうに答える。

「エマスイの演奏会の衣装とか、村の結婚式で花嫁さんが着ているドレスとか、素敵だなって思いますけど、でも、今の服が一番気に入っています。

脱ぎ方もわかりませんし。この服、ボタンがないですよね……。」

確かに、どこにもボタンもファスナーも編み上げている紐も、ないように見える。

襟ぐりの開きは狭いし、ウエストもフィットしていて、確かにどうやって脱ぐんだろう。

メルツはスカートをつまんで持ち上げる。

アンダースカートが見える。

メルツも、どうすれば脱げるか考えているらしい……。

僕は恥ずかしくなってくる。焦って言う。

「あの、大事な服が消えちゃうらしいから、着てた方がいいよ。」

「そうですね。でも、これを脱げれば、私もアルシュさんみたいに、いろんなデザインの服を着られるし、お風呂にも入れるはずですし。」

「え……!お風呂入りたいの?」

「お風呂上がりのアルシュさんが、いつも気持ち良さそうなので、入ってみたいです。」

メルツがお風呂に興味持ってたなんて……。まさか……

「……あの……、僕が入ってるとこ、見たりはしてない……よね?」

不安になって、念のために聞いてみた。

いつも僕が声をかけるまで、部屋に入らず、窓の外で待っている礼儀正しいメルツが……

まさか覗くなんてことは、してないだろうけど……

「見ていません。

でも、お風呂場の明かりがついていて水音が聞こえるときは、入っているんですよね?

私もお風呂に浸かって、気持ちよさを体験したいです。昔、子爵さんに許可をもらって入った時、気持ち良かったのを覚えています。

今度は服を脱いで浸かりたいです。」

それは恥ずかしいから、僕の前ではやめてほしい……。

「……メルツは服を着たまま入った方がいいんじゃない?大事なドレスが消えちゃうのは、僕も嫌だよ。」

「そうですね。

でも、私は服を脱いだことがありませんし、きっと着ている時と何か違いがあるのだろうなと想像していますから。……アルシュさん?」

さっきから、ヴィーナスのような姿のメルツがチラチラと勝手に想像されてしまって……ドキドキしてきて心臓に悪い……。

今まで、そんな姿、想像した事なんてなかったのに……。

失礼だし恥ずかしい……。

「あのね、メルツ、そういう話は……やめてほしいな。」

もうこの話は終わりにしたい。

服を着ているメルツの方が安心できるし、ドレスは似合ってるし、好きだ。

「……。」

メルツは不思議そうに僕の眼をじっと見る。

僕は落ち着かなくて、長く目を合わせられない……。

メルツには、僕の恥ずかしさや苦しさはわからないのかもしれない。でも、

「……すみません、わかりました。お困りのようなので、もうしません。」

僕はほっとする。

「うん。ありがとう。」

けれど、メルツが、思いついたという顔をする。

「あの、服を脱いでアルシュさんと一緒にお風呂に入るのは失礼だと分かっていますけど、私もアルシュさんも、着たまま浸かるのはどうでしょう!」

「え、……あの、えっと、……」

メルツ……そんなに僕と一緒にお風呂入りたいんだ……?


……一緒に湯船に浸かっているメルツが、うっとりして言う。

「アルシュさん、お風呂って気持ちが良いですね!」


服を着てたって、お風呂はお風呂だ。プールとは違う……。

戸惑って、血圧が変な感じで、頭が働かない……。

僕ってそんな想像する人間じゃないのに……。

「う……ん……」

僕にとって、色っぽい事は、身体に悪い感じが強くて……苦手だ。抵抗ある……。

自分を嫌いになってくる……。

「はぁ……」

僕はベッドに横になる。枕に顔を押し付ける。

メルツの事だから、無邪気で他意のない思いつきなんだろうけど……デリカシー持っててほしい……。

以前、病院で保健の授業を受けたとき、性的な事が苦手な人もいるって教わった。

僕はそれなのかも……。幸せな事に思えないから……。

女性の肌の露出の多い姿や、自分が肌をさらすのを想像するだけで不安になるし、身体に重いから、嫌だなって思う……。

ルイスや、サマーや、信頼している医者の先生以外の前では脱ぎたくない……。

メルツは僕を心配する。

「アルシュさん、すみません、気分良くなってください……!恥ずかしがらないでください……!」

そう言われても……

苦しい……。

僕はメルツをなじる。

「……メルツは、ちゃんと恥ずかしがってよ……!おやすみ。」

僕は頭まで布団を被った……。

「おやすみなさい……。」

明かりが消え、メルツは森へ帰った……。


「…………。」

……ようやく頭が冷えてきた。

メルツは精霊で……見た目しか人間じゃないから、女の子と同じ感覚を求めても難しいのだろう……。

恥ずかしがってよって言って、八つ当たりしちゃった事、

明日、謝ろう……。



……僕だって……、

偶然、人間の男の子に生まれただけで……

もし、精霊に生まれていたら、メルツと同じ事に興味を持ったかも知れない……。


誰だって人間である以前に、魂なんだし、

身体が違うってだけで、不和の種になるなんて嫌だ……。

僕だって、メルツが嫌だなと思う事に興味持つかも知れないのに……。


これからは、魂の姿で会話すれば良い。

偶然出会った魂同士として……。

対話って、そういうものだと思う……。






翌日の昼。

僕は森でメルツを探す。

「メルツ、いる?良い事思いついたんだ!」


一階の広い浴室で、腕まくりしたエマスイが、メルツに話しかける。

「メルツさん、湯加減はいかがかしら。」

「心地いいです!」

湯に浸かっている、真っ白な犬の姿のメルツが、お座りして目を細めている。可愛い。

サマーがおずおずという。

「あの……。俺、メルツさんの後で入るの?」

「一緒に入りますか?」

と、メルツ。

「いえ!後で入ります!」

僕は、腕まくりし、ズボンも膝上までたくし上げて湯船に入り、メルツを抱えて出る。

ふわふわした毛並みは、全く濡れていない。


シャワーもかけてあげる。

メルツは気持ちよさそうにしっぽを振る。

「こんなスコール、めったに浴びられないので、うれしいです!」


シャワーを止めて、僕はしゃがんで、メルツをタオルでそっと拭いてあげる。濡れてないけど。

メルツは反省した様子で言う。

「あの、アルシュさん、昨日はすみませんでした……。約束をすぐに破ってしまって……。」

「うん、僕こそごめん。精霊のメルツに無理言ったね。ごめんね。」

メルツは首を横に振る。

「少しでも、私の事、嫌だなと思ったら、何でも言ってくださいね。」

「メルツこそ言って。僕の嫌なところ。メルツに嫌われたくないよ……。」

「そんな、アルシュさんを嫌ったりなんかしません!」

「ありがとう。でも、何かあった時は、ちゃんと話をして、お互い納得する方法を探そう。今日みたいに。」

「はい!そうしましょう!」

僕らは見つめ合い、微笑み合う……。

「あのね、メルツ。僕は、たとえ服を着たままでも、メルツと一緒には、お風呂に入れないけど、プールとか、湖で泳ぐなら一緒にできるよ。」

「そうなんですか!では、湖が溶けたら泳ぎに行きましょう!」

春になったら、すぐに行く気らしい。

僕は噴き出す。

「あはは!水が冷たいうちは泳げないよ!」

「そうでした……!すみません!」

「夏になったら行こう。」

「はい!」

メルツが可愛くて、頭をなでる。

エマスイが言う。

「メルツさん、私でよければ、一緒にお風呂に入るわよ。夜に私の部屋へいらっしゃい。」

「エマスイ!ありがとうございます!」

メルツはしっぽを振って、エマスイの差し出した掌に顔を埋める。

「ふふ。」

エマスイはくすぐったそうに笑う。


なんか、ちょっとエマスイが羨ましいな……。

僕が女の子だったら、気兼ねなく、メルツと一緒にお風呂を楽しめるんだろうな……。

でも、僕はやっぱり今のままでいい。エマスイに任せよう。


サマーに肩をたたかれた。

「アルシュ。これからも、何でも相談のるよ。」

「でも、サマー、照れてるじゃないですか。」

メルツが、僕と一緒にお風呂に入りたがっていると話したら、サマーはすごく照れてた。今もだ。

「ごめん!二人が可愛くて羨ましくてさ!」

サマーも彼女できると良い……。

サマーならきっと、僕には抵抗ある事も楽しめるんだろうな……。


「……サマー、メルツの事なんですけど、」

「うん……?」


「子爵さんが、メルツと契約しなかったのはなぜか、なんとなくわかった気がします。

自分とメルツの魔力を混ぜて、コアを作りたくなかったんだと思います。」


精霊と魔術師の契約には、お互いの魔力を使って、コアを作る必要があるらしい。

二人の魔力の一部を混合し、二つに分け、再びお互いの体内に戻すらしい。


「子爵さんは、自分の魔力をメルツに持たせたくなかった……。

メルツは、純粋な精霊のままでいてほしかったんじゃないでしょうか……。」


必ず先にこの世をさる自分と、そんな深い関わり方をしたら、後々メルツが辛いだろうと考えたのだ……。

それくらい、大切に愛していたのだと思う……。


「……サマー?」

ちょっとウルウルしている。

「うらやましいなあ!契約って、結婚みたい!」

「え、うーん、そうでしょうか?確かに、他人じゃなくなる感じありますけど、結婚ってなんか、こう、もっと重たいイメージあるんですけど。」

決めなきゃ行けないこと、手放さなきゃならないもの、いろいろあるイメージだ。

「もしメルツが人間だったら……結婚……うーん……」

僕がまだ十六歳だからだろうか。現実的には難しいと思ってしまう……。

「そっか。でも、精霊と身内になるってやっぱすごいよ!」

僕はにっこりする。

「春が待ち遠しいです!」



今朝、メルツに尋ねてみた。

「……メルツ。その……子爵さんとは一緒にお風呂入ったことあるの……?」

「はい。晩年に許してくれました。

病気の子爵さんは、魔力が弱まっていて、私はいつも側にいてお世話してあげたかったので、お風呂もご一緒できて嬉しかったです……。

弱った魔力と生命力でも、子爵さんはお綺麗でした……。」

精霊は、人の表面よりも、内側の魔力がよく見えるらしい……。エコーとか、CTのような見え方かも……。

「僕と一緒にお風呂入りたいのは、僕の魔力をよく見たいって事なの?」

「はい……それもあります。すみません、嫌ですよね、子爵さんも若い頃は隠したがっていました。私も身なりをちゃんとするよう注意されました。」

「そっか。」

僕はくすっと笑う。

子爵さんも、メルツに困ることあったんだな……。





俺の故郷には、たくさんの郷土料理がある。

どれも美味しくて、大好きなものばかりだ。


しかし……!


音楽を学びにこの国へやって来たら、この国の人からは、不評な料理がいくつもあると分かった……。

文化が違うから、初めての料理に抵抗あるのは仕方ないけど……

自信満々で寮の友達に料理を振る舞ったら、

見た目がヤバいって言われたり、味が強過ぎって言われて、結構ショックだった……。

以来、研究を重ねて改良し、美味しいって言ってもらえる味付けと見た目にした。


アルシュがニコニコして言う。

「これ、とっても美味しいです!サマーは料理、本当に上手ですね!」

「はは!美味しいって言ってもらえるよう、結構頑張ったからね!」

元の料理は、もっとパンチのある味付けなんだけどな。でもまあ……

「サマーの料理、毎日食べられて、僕は幸せです!」

笑顔が見られるのが一番だからな!

アルシュが俺の皿を見て言う。

「あれ、サマーのはちょっと色が違いますね。」

俺の分だけスパイス普通の量にしてみた。エマスイが言う。

「サマーの郷土料理は、本当はあの味付けだそうよ。」

「エマスイ、バラさないでくださいよ!」

「え、どんな味なんですか?一口食べてもいいですか?」

「いいけど、アルシュには強いと思うよ……」

でも、アルシュは俺の皿から一口取って食べる。

途端に口を押さえて笑い始める……。

「アルシュ、大丈夫?」

アルシュはうなづく。

「これぞ!って感じですね!

知りませんでした!本物はこんな刺激的なんですね!サマー、もしかして、今まで僕に合わせてくれてたんですか?」

「それもあるけど、学生の頃から、みんなに美味しく食べてもらいたくて工夫してたから。代用したり、スパイス控えめにしたり。」

俺は自分の分を食べる。

美味い!これぞ故郷の味!強い日差しや風を思い出す……。

「なんか……サマーは毎日、本場の味付けで食べててほしいです。」

「じゃあ、時々そうするよ!」

こっちはスパイスの値段高いから毎日は無理だしな!

アルシュがちょっと怒って言う。

「……もう、サマー、これからはちゃんと言ってくださいよ!確かに僕には強い味ですけど!

苦労は隠されるとわかんないですよ!気づかなかった僕も悪いですけど……。」

「いや!ごめん!アルシュは何も悪くないよ!スパイシーじゃない味付けの郷土料理はそのまま出してたし!次からは言うね!」

『サマーの工夫と頑張りも、美味しさの一部だと思うので、よりおいしく食べれると思います。』

とにこっとする。

「アルシュ……」

なんていい子なんだろう……。

「ちょっとだけ、スパイス足してみたいです。」

「OK!」

足してあげた。アルシュは一口食べる。

「んん、急にエキゾチック!美味しいです!あはは!」





サマーが、風邪をひいた。

エマスイの演奏旅行へ出発する日の朝に……。

万年健康なサマーも、風邪ひくことあるんだな……。

手帳越しにエマスイが話す。

「私とアルシュで行くわ。よく休んで。」

「すみません……!ほんとすみません!」

深く謝るサマー。

「大丈夫だから、元気になることだけ考えて。」

「はい!病院行ってきます!二人は大丈夫ですか!?」

「私は平気よ。アルシュも、」

「大丈夫です。」

システムはオールグリーンと言っている。



僕は電車の中で、予定表を読む。

事前にサマーと二人で、電車の乗り継ぎも泊まるホテルも調べたから、大体頭に入ってるけど。

「アルシュ。乗り物酔いするかもしれないから、やめた方がいいわ。今日の予定は私も確認してあるから。」

「はい。」

僕は手帳を閉じる。AIがガイドしてくれてるし、あんまり心配しないでおこう。


昼すぎ。

……良かった。無事、一日目のホテルについた。

サマーに報告すると、

「俺は……役立たずのアシスタントだ……。」

暗い声……。かなり沈んでいる……。

「そんなことないですよ!」

「そうよ。サマーはいつも、とてもよく頑張っているわ。優秀なアシスタントよ。」

「そうですよ!」

「……」

どうやら泣いている……。

僕も覚えがあるな……。

病気で辛い時、褒められると、嬉しさと悔しさで泣けてくる……。

サマーは嗄れた声で言う。

「すぐ元気になって合流しますから!」


もしかしなくても、僕にはシステムがあるから風邪とかひかずに済んでいるのだろう。


エマスイは練習すると言って、出かけた。

僕は一人、ホテルの部屋でお留守番。

暇だから作曲しよう。


「……そうだ。」

思いついた。僕は、とあるお店に電話する。




俺は自分の情けなさと寒気に震えて、布団をかぶっている。

早く薬効いてくれ……!


いつの間にか眠れていたらしい。

目が覚めると、汗をかいていた。

「あちー。」

着替えようと思って起き上がって、びっくりした。


女の子が……

俺の大好きな、パーラーの女の子が、近くにいる……!


「サマー、汗かいた?早く着替えないと!」

夢!?

彼女は体温計を俺の手にかざして熱を測って、

「熱下がってきたね!」

と、にっこりする。

「あ、うつるから近寄らないで!」

「マスクしてるし、換気したよ。」

と、近づいてきて、俺が着ているパジャマを脱がせようとする。

「え!?あ!?自分で着替えるよ!?」

俺は上を脱ぐ。彼女は言う。

「着替えはどこ?」

「その引き出し。」

タンスからパジャマを取ってくれた。

「ありがと。」

着ようとすると、

「待って、汗を拭かないと。」

と、タオルで俺の身体を拭こうとする。

「ええ!?」

俺はあわてる。

「落ち着いて、サマー?」

心配顔。

「……。」

ますます汗ばんできた……。


俺はもう、されるがまま……。

「かがんでー。」

「はい。」

背中を拭かれる。

「バンザイしてー。」

「はい。」

脇とわき腹を拭かれる。


きれいさっぱり汗を拭ってくれた後、パジャマを着せてくれた。


「あの、何で来てくれたの?俺が風邪ひいてるって、どうしてわかったの?」

「それは~、……感で?」

と、にこっとする。

「いつも元気なサマーのことだから、一人で寝込んでるなんて、落ち込んで寂しくて、泣いてると思って。」


その通りだ……。

なんて優しいんだろう……!


「ありがとう……!」

「早く良くなって、また会いに来てね!」

「うん!行くよ!」

「あ、水分とらなきゃね。」

最高にキュートな女神さまが、水のボトルを手渡してくれた。

すごくおいしくて、ボトルの中身を一気に飲み干した。

「何か食べる?農園のキャサリンさんがスープを分けてくれたの。」

なんてありがたい……。

「食べるよ!」


彼女がキッチンへスープを温めに行ってる間、俺は下を着替える。


看病しに来てくれるなんて……俺のこと、少しは……。

今まで、彼女の気持ちを量りかねていたし、俺はアシスタントの身だし、二の足を踏んでいたけど、もっと積極的になってもいいかもしれない。

会いに来て。ってことは、会いたいってことだろうし。


にわかに元気が湧いてきた……!


赤毛の彼女がスープを持ってきてくれた。

「食べれそう?食べさせようか?」


「えっ食べ……」

もう多幸感で頭が回らない……。


「食べさ」

腹が鳴る。恥ずかしい……。

彼女に笑われた……。


俺はスープをかき込んで食べる。二杯、おかわりした。

「よかった!明日にはすっきりするね!」

「うん、ほんとありがとう!」

「それじゃ、帰るね!」

「しっかり手洗いして!」

「うん。」

手を振って帰っていった。



アルシュに電話する。

「アルシュ。パーラーの女の子が看病に来てくれたよ!」

「へえ、よかったですね!」

「アルシュが知らせたんだろ?ありがとう。」

「え、何のことでしょう?」

と、とぼけている。

「はは!明後日には合流するよ!」



サマー、元気になってきたみたいでよかった。

パーラーの女性には、サマーにラインでエールを送ってあげてほしいと言っただけだ。

でも、看病しに行くなんて。

ずいぶんよく思っているんだな。

「ふふ。」

僕も心が温かくなった。




翌日。

今回エマスイが共演する楽団の拠点にやって来た。

エマスイが僕を楽団のマネージャーさんに紹介してくれた。僕はあいさつする。

「エマスイ先生のアシスタントのアルシュです。よろしくお願いします。」

男性は口元をあげる。

「へえ、音大生かな?」

「いえ。」

「じゃあ、高校生?」

「いえ。」

彼には、僕が高校生や大学生に見えるらしい。僕は年より幼く見られる事が多いのに。

「ああ、浪人して頑張ってるんだね。」

「いいえ。」

彼は怪訝そうな表情になる。エマスイがフォローしてくれた。

「アルシュは作曲家なの。ピアニストも目指してて、アシスタント兼、研究生よ。」

「そうですか。作曲家、ね。エマスイ先生はどう?アシスタントもレッスンも大変?」

「アシスタント、楽しいです。レッスンではとても丁寧に教えてくださいます。すばらしい先生です。」

「ははは、そう!がんばってね!」

「はい。」

なんだかちょっと嫌な感じの人だな……。

若い作曲家を良く思ってないのが口調に滲んでる……。

エマスイの事も好きじゃないのが、態度に出ている……。

マネージャーの男性はスタッフのところへ行った。

「なんとなく話し方が少年っぽい子だな。」

と、話しているのが聞こえた。


やっぱり……。


僕は振り向いて、

「あの、僕は男子です。」

と言う。

彼は驚いた表情をして、

「あ、そう。」

と、微妙な笑顔を向けられた。

明らかに引いている……。失礼な人だ……。

なんというか、変人に思われているような、侮辱されているような、気持ち悪さ……。

エマスイが、そっと僕の腕を引く。

「アルシュ。リハーサル行きましょう。」

歩きながら、僕は彼女に訊ねる。

「僕、そんなに女の子に見えますか?」

今日は髪を降ろしているせいだろうか。淡い色の、やさしい雰囲気の中性的な服が好きだけど、もっとメンズな服を着たほうがいいだろうか。

「私は最初にアルシュと会った時、男の子だってわかったわ。」

「……。」

もちろん、エマスイのような人もいる。

でも、この先、さっきのマネージャーさんみたいな人にも出くわすだろう……。

げんなりする……。

もっと背が高かったら、一目で男子に見えるだろうか……。

「アルシュ、譜めくりをお願いね。」

「はい。」

今日もサマーがいないから、僕がアシスタントだ。しっかりしよう。


指揮者がタクトを振る……。

エマスイは、スコアを見ながら交響曲を奏でる……。

曲は頭に入っているけど、指揮のタイミングと楽団の動きを確認するため、スコアを見ているのだ。

全部は通さず、確認すべき箇所を合わせたら、もうリハーサルは終わりらしい。

後は明日、ステージでの調整だそうだ。


僕は演奏に感動して興奮している。

「あのオーボエのメロディー、すごくきれいでした……!

こんなに近くでオケの演奏聞いたの初めてです!」

ヘッドホンで聴くのと全然違う。


音が壮大で、幾重にも波がやって来ては引いて……

重厚さと、煌めきと、雄大な迫力と……

全てがとても、美しかった……。

それが不意に止まるから、全部聞かせて!って言いたくなった……。


「よかったわね。」

「僕の曲も、いつか演奏してもらえたらって……!」

未完成のが何曲かある。早く完成させて、オーケストラで演奏してもらえるチャンスをつかみたい……!


「叶えましょう。」

と、エマスイはにっこりしてくれた。

「はい!」

さっきのマネージャーさんがまだ僕を見てこそこそ何か言ってるようだったけど、もう気にならない。

彼に好かれたいなんて思わないし。


僕には、叶えたい大きな夢が、いくつもある。

僕の作った音楽を、みんなに届けたい。



手帳の向こうでサマーが言う。

「ああ、学歴とか、性別とか、人種とか、人をくくるやつっているよね……。

実は俺も、無意識にそうだったっていうか……

アルシュに出会って変われたんだよな。

アルシュのカッコよさを知ったからさ。

だから……最初アルシュのこと、弱った小鹿みたいだって思ったの謝るよ……。」

僕は吹き出す。

「僕は小鹿ですか!じゃあ、サマーは健脚の馬ですね!」

「お!うれしいな!馬かあ……!」

「サラブレッドではなくて、野生の馬のほう。」

「ははは!うん、そうだね!」

「ふふ。あんまりしゃべってると喉に悪いですね。おやすみなさい。」

「お休み!」


今回メルツは連れてきていない。

霧の多い季節だから、彼女は出かけたいらしい。

それに、今回は期間が長いから、自分は邪魔になるのではと遠慮していた。

精霊狩りも心配だし。森にいてくれた方が、安心できて良い。


さっき、サマーが嬉しそうに報告してくれた。

「俺の部屋の窓辺に、木の実が置いてあったよ。

きっとメルツさんからのお見舞いの品だね!」

エマスイ邸を出発する時、メルツが見送りに来てくれたから、サマーが風邪だって話したんだった。





私は、オークの大木の高い枝に腰掛けている。

さっき、霧を伝って、この森までやってきたところ。

ここは、アルシュさんたちも住むあの森からは、遠い森。

見渡して見たけれど、この森には、どうやら精霊はいないみたい……。


私は……

自分と同じ、精霊の人たちに、会いたいような……会いたくないような……。

何人か友達はいるけれど、人間のように連絡が取れるわけではないし、もう長く会っていない……。


アルシュさんが読んでくれている本に、精霊のことがたくさん書いてある。

大勢で、群れで行動している精霊たちもいるらしい。

群れの精霊たちには、いくつものイベントがあるそう。

季節風に乗って、空を巡ったり、

オーロラの中を泳いだり、

台風の上でダンスしたり。

うわさには聞いていたけれど、そんなイベント、本当にあるなんて……。

私の住む森のあたりは、精霊の群集の通り道ではないらしく、私は一度も、大勢の精霊を、見たことがない。

友達の精霊からも、詳しい話を聞いたことがない。

そのせいか、遠い国の話のように思える。


もし、そんな群れに出会ったら……

もしかしたら、仲間に入りたくなるかもしれない……。

ついて行きたくなるかもしれない……。


だから、今のままがいい。


新鮮で、懐かしい、精霊たちに囲まれて、戯れて暮らすより……

人間のアルシュさんのパートナーになるほうがいい……。


だけど……

心が震えてくる……


なぜ……?

どうして……?

どうして涙が出るの……?


私はそんなに精霊の仲間を欲していたのか……。

そんなに孤独だったのか……。


群れ飛ぶ精霊たちが、明るく、幸せに満ち足りているように思えて……。

同じ精霊同士、自然と同調、共感できていて……。


私には、それがなくて……。


私は一人なのだと、気づいてしまった……。


私は森の動物とも、人間とも違う……。


アルシュさんは、違いを素敵だと言ってくれるし、とても嬉しいのだけれど、たまに、苦しくなる……。

お互い、共感が難しいと言う事が、

苦しい……。


こんな風に思っちゃいけない……。

私は今のままで幸せなのに、精霊たちのところへ行きたいなんて、思っちゃいけない……のに……。

どうしようもなく、求めてしまう……。


……ひとしきり泣いて、ため息をつく。


でも、私が思い描いているのとは、違うかもしれない。

精霊たちと暮らすのは、そこまで幸せじゃないかもしれない。

精霊の特性に共感できても、

別の何かが足りないかもしれない。


憧れは、憧れのままで。

そのほうがいい。きっと。

アルシュさんには、話さずにおこう。




朝。

僕は、ワイシャツを着て、

チャコールグレーのアンサンブルの、スラックスとベストを着て、ネクタイを締める。

エマスイの演奏を客席で聞くときのために持ってきたスーツだ。

前髪は横分けにして、後ろは一つに束ねた。

「よし!」

エマスイの部屋をノックする。

「おはようございます。」

「おはよう。あら、今日は大人っぽいわね。」

と、微笑む。ちょっとほっとする。

エマスイの荷物を持って、会場へ向かって移動する。

『サマーからラインが来ましたよ。平熱!だそうです。』


会場に到着し、楽屋へ入る。すると、指揮者の女性がいた。

エマスイと同じ楽屋なのだ。

「アシスタントのアルシュです。よろしくお願いします。」

「昨日は譜めくりしてたね。よろしく。今日はボーイッシュでカッコイイね!」

あ……また……

「あの……、僕は男子です。」

「あ!ごめんなさい!」

「……。」

持ってきている服の中で、一番かっちりしたメンズ服なのに……。落ち込んで目を伏せていると、

「そうだよね、ごめんなさい、本当に。」

一生懸命謝られる。

「いいえ。」

あんまり謝られるのも……

エマスイがフォローしてくれた。

「アルシュは作曲家なのよ。今度ピアノ曲の曲集を出すのよ。」

『それはぜひ読みたいです。』

それから僕に、

「いつかオケの曲も書いて。」

「もう書いてます。」

彼女は驚く。

「頼もしい!」

僕はうれしくて笑った。

認めてもらえたら、いつか、指揮してくださるかもしれない……。


今日は昼食にお弁当が配られるらしいから、僕は買いに行かなくていい。でも、サマーの分も申し込んであるから、余ってしまう。どうしよう……。

指揮者さんが言った。

「二つ食べたい団員はいるから回ってみたら?」


リハーサル後。

お弁当が届いた。

「一つ余っているので、いかがですか?」

と、僕は楽屋を回ってみた。

オーボエの人がいたので、

「ソロ、すごく素敵です!」

と、お伝えした。

「ありがとう。」

と、にっこりしてくれた。

隣にいた、確かコントラバスの人が、

「それ余ってるんですか?」

「はい。よろしければどうぞ。」

と、お弁当を差し出す。彼女は受け取り、

「エマスイさんに感謝をお伝えください。」

「はい。」


帰りがけに、

「アシスタントさん。」

と、女性に呼び止められた。

「はい?」

「お名前なんて言うの?」

「アルシュです。」

「男の子だよね?」

「そうです。」

「やっぱり‼」

「わあ!」

数人の女性が盛り上がる。

「いくつ?」

「十六です。」

「十六!?」

と、みんな驚く。

「アジア人のハーフ?」

「そうです。」

「わあ!」

「髪、綺麗ね!」

「ありがとうございます。」

褒められたので、僕は少し微笑む。

「かわいい!」

黄色い声……。

「これあげる!」

「これも!」

お菓子を頂いた。

「ありがとうございます。」

そろそろ帰りたい。僕もお昼食べなきゃ。

僕は笑顔を作って言う。

「本番頑張ってください。陰ながら応援してます!」

会釈して離れると、手を振ってくれた。

「ありがとー!」


エマスイの楽屋に戻ってきた。

「はあ……。」

「おかえりなさい。」

「ただいまです。」

僕は、さっきの女性たちから頂いたお菓子を、テーブルに置く。

「お礼、頂いたのね。」

「いえ、別の方たちに話しかけられて。」

「ふふ!モテたのね!」

「え!?」

どうやらそうらしい……。

「人気があるのは良い事よ。」

「……。」

「私も若い頃、楽団の男性達に話しかけられたり、食事に誘われたり、困った覚えがあるわ。

大人に話しかけられると、気を使って疲れるものよね。

アルシュ、また間違えられたの?」

「いえ、十六と言ったら驚かれました。」

「小柄な理由を話すのは、勇気がいるかしら。」

病気だった事や、システムの事。

「はい……。」

「私も一緒に考えるわ。」

と、僕の肩を擦ってくれた。


僕はお弁当を食べる。

午後は、もう二曲リハがあって、すぐ本番だ。

本番中、僕は舞台袖で待機してる予定。エマスイのバッグを持って。

バッグの中には、水やタオルやポーチが入っている。

「ポーチには、鏡や接着剤や、やすりが入っているの。血圧の薬もね。」

接着剤とやすりは、爪の補修のための道具だ。

指先を酷使するピアニストは、爪にアクシデントがあると、演奏に影響がある……。


リハの中休み。

着替えに行くエマスイから、鍵盤を拭いておくよう頼まれたので、僕はステージへ出て、クロスで盤上を拭く。

「アルシュ君も弾いたら?」

と、声をかけられた。

さっきのお姉さんだ。

「え、でも。」

「拭けば大丈夫でしょ。」

「……。」


僕は、ピアノの前に座り、今日エマスイが弾くフレーズを奏でる……。

バイオリンのお姉さんが合わせて弾いてくれる。

ホールに……響いていく……。エマスイとは違う、僕の音色が……。

誰かが拍手してくれた。

「いい感性ね!」

「ありがとうございます。」


先月、リサイタルの後、ドクターさんに勧められて弾いた時より、楽しめた。

僕は良い気分で丁寧に鍵盤を拭く……。



時間になり、

大勢のお客さんが続々とホールに入ってきた。

これから、美しい演奏会が始まる……。

楽団員が揃って着席したステージに、

指揮者さんとエマスイ先生が登場する。

二人は大きな拍手に迎えられる……。


僕は舞台袖から応援している。


ドラマチックな演奏が始り、

お客さんも、僕も、魅了されていく……。


順調にコンサートは進んでいき、

曲が終わるたび、大きな拍手が湧いた……。



夜。

無事にコンサートが終わり、ホテルに戻ってきた僕は、ベッドに横になる。


「……とってもいい演奏会だったな……。」


本番中、僕は舞台袖で見ていて、ずっとワクワクドキドキしていた……。

長い一日で、疲れたけど……

アシスタントの仕事も、充実感があってよかった……。


「メルツ……。話したいことがたくさんあるよ……。ローイにも……。」

こんな経験、一年前の僕には想像もつかなかった……。


でも……そうだ……

僕は、昼間の会話を思い出す。


……メルツ、ローイ、

……十六って言ったら、驚かれたんだ……。

システムがあるから、僕は幼く見えるんだろう……。


「メルツ……。会いたい……。君といると、ほっとするんだ……。」


メルツは、僕の見た目や年齢に違和感を感じたりしない……。



「かわいい!」

という、女性たちの歓声……。

病院にいたころ、子供として愛され、守られていたあの感じとは違う……。

母の、女性的な顔立ちも、父の東洋の血も受けついでいて、鏡に映る自分の顔は、十六歳の男子というよりは、子供の顔に見える……。

声が高いのも、背が低いのも、平均から外れてる……。

僕はきれいでかわいいものが好きだけど、

僕自身がそうでありたいとは思わない。

愛でられたいとは思わないし、子供みたいな自分の見た目があまり好きじゃない。


システムがあるって説明したら、理解してもらえるだろうか……。


僕にとって、見た目が成長しないことは、そんなに気にならなかったんだけど……

他人にとっては、もう、普通じゃないのだろう……。

そこに、いちいち反応されると、僕は気になってしまうし、人に会うのが嫌になりそうだ……。



朝食の時、エマスイが言った。

「アルシュ。何か悩み事?」

「え……そうですね……」

「マネージャーさんや、指揮者の方が言った言葉かしら。」

『はい……。あの、僕のどの辺が、女の子に見えてるんだと思いますか?』

「そうね……」

「はっきり言ってほしいです。そしたら気を付けられますから。」

「あえて、言わずにおくわ。私としては、アルシュが、変わりたい、変えたいと思っても、そうでなくても、力になりたいと思っているわ。」

「僕は……自分が変わりたいというより……自分と人との齟齬を埋めたいです……。周りを変えたいです。」

「そうね。打ち明けて、理解を求めるのは、勇気がいると思うけれど、私からも、親身に接するよう頼むし、システムの話をすれば、たいていの人からは共感を得られると思うわ。」

「……。」

「私が説明しましょうか。」

「……いえ、僕が、話したいです。」

全部は話せない。たいていの男子より髪が長い理由は話したくない。

でも、エマスイの言うように、システムの話をすれば、僕の気持ちに対して共感や理解を得られるかもしれない。

本番が終わって、もう楽団員の方たちとは、接点がないけれど、昨日会話したお姉さんの一人と連絡を取る事になった。

メールの文面はできたけど、いざ送るとなると、勇気が出ない……。

僕が不安な様子だからか、

「私から話させて。」

と、エマスイが代わって、伝えてくれた。

「アルシュが悩んでいて、少し相談相手になっていただけないかしら。」

「アルシュ君が?私で良ければ!では、夕食をご一緒にいかがですか?」


あの時会話した女性が、三人も集まってくれた。

一人でも緊張するのに、三人!?と、不安になったけど、でも、三人いれば、誰か理解をしてくれるかも知れない……。

「あの、相談というか、知ってもらいたい事があって……

その、僕が、十六歳男子にしては、小柄なのには、理由があるんです。」


病気だったこと、

システムが設置してあって、何年たっても見た目が十五歳のままだということを話した。


「病気治ってよかったねー!」

「きっとルイス博士か誰かが、システムを改良してくれるよ!」

「そうだよ。かっこいい青年になれるよ!」


僕の不安をくみ取ってくれた……。

嬉しい……。ホッとする……。


僕の状態を知って、気づかってくれる人が増えて、僕はなんだか……もっと人に知られてもいいような気になってきた。


彼女たちに打ち明ける前は、病気のことも、システムのことも、他の人には話さないでほしいとお願いしようと思っていたけれど、そういう緊張も不安もだいぶ減った。

たくさん励ましてくださって、ありがたかったし、料理も美味しく食べれた。

優しい楽しいお姉さんたちだった。


ホテルへの帰路で。

「エマスイ、どうもありがとうございます。」

「どういたしまして。気持ちが楽になったみたいね。良かったわね。」

「はい。」

お姉さんが言っていた。

『アルシュ君は強いと思う。そうやって、自分のことを自分でちゃんとしようって思って実行できるのは。打ち明けてくれて、ありがとう。』


でも、エマスイが提案して助けてくれなければ、僕は今でも悩んでいただろう。

だから、僕はそんなに強くない。もっと強くなりたい。

こういう事で悩んだり落ち込んだりしないようになりたい。

今は自分のことに必死で、余裕ない感じで嫌だ……。


『アルシュ君、応援してるよ!曲集買うね!』

『僕も、コンサート聞きに来ます!』


僕は、曲を発表するだけじゃなくて、僕自身がどんな人間かも、発信したほうがいいのかもしれないと思った。

でもまだ……そんな勇気は出ないけど……。





その後は、明らかに僕のことを女の子と言ってくる人はいないけど、なんとなくそう思われてるんじゃないかって、思ってしまう……。


都市から都市へ移動して、エマスイの演奏会をこなしていく……。


楽しみにしていた演奏旅行が、こんな悩みに付きまとわれるなんて……思ってもみなかった……。

自分から、一人一人に説明、理解を求めるのは、大変だなと思って、していないけど、

見られたい性別の外見を、手軽に作れたらと思う。

「サマー、僕はどうすれば男子に見てもらえるんでしょうか……。」

「うーん、メンズの眼鏡かけるとか?」

「なるほど!」

空き時間に眼鏡店へ二人で行ってみたけど……

「これとか似合うけど、かけると男に見えるかっていうと、うーん……」

僕は落胆してため息をつく。

「はあ……。」

「ご、ごめん……!」

「いえ。アイデアありがとうございました。

……サマー、その眼鏡かけてるとインテリに見えますよ!」

彼は指先で眼鏡の蔓を押し上げ、レンズを光らせ、

「IT企業でプランナーをしております。」

「あはは!プランナーってどんなお仕事ですか?」

「知らない。」

と、眼鏡を外して渋い顔をする。

「ふふ!サマーは眼鏡ない方が良いです。」


髪型をシミュレーションできるアプリで、ショートも試してみたけど、やっぱり母に似ていて嫌になったし……

もう、ルイス博士に、システムで整形できないか訊こうかな……。


「はあ……。もう僕は、マスクして帽子かぶって、影になります。」

そうした。長い髪は帽子の中に隠した。

マスクで顔も隠れるし、結構、安心感がある。



僕がホテルの部屋以外でトイレに行くとき、いつもサマーがついてくるなぁと思ったら、僕を心配してのことだと気づいた。

『知らない都市を回ってるわけだし、俺のそばを離れないでね。トイレ行くときとか、知らせて。』

と、言われていたけど……

実際、人の多い電車とか、エマスイにするのと同じように庇われたり、気を回してくれていて、

過保護で、子供か、女性扱いされているように思えてちょっと不満だったけど……


「まさか……僕が痴漢とかの、犯罪の被害に遭うかもってことですか……?」


「……アルシュでなくても、少年は心配になるよ。」

「そんな!心配してくれなくて大丈夫ですよ!変なことされそうになったら叫ぶし、反撃しますよ!サマーが仕込んでくれましたし!」

と、拳を硬くする

「俺は被害に遭ったことないけど、怖くて声も出なくなるとか聞くし、たぶん俺が近くにいれば防げるから。後、反撃がいいかどうかは場合によるから。」

「……。」

もやもやする……。サマーに、かばうべきと思われてるのが……。

心配はありがたいけど、僕は守られる側より、守る側でありたいし、こんな事考えてる事自体、理不尽で腹立たしい。

「どんな人が痴漢なんでしょうか?」

「さあ……見た目じゃわからないかもな。

アルシュ。あれだよ。魔法使いになって、魔法で見た目をごまかしたらいいんじゃないかな。」

「サマーみたいな見た目なら遭わないですよね。」

と、力こぶを見せるポーズをする。自慢できる力こぶ、無いけど……。

「はは!そうだね!俺そっくりな見た目になったら、双子だね!」

「あはは!双子!」

サマーは、たくましいポーズをしてくれた。

さすが。カッコいい。羨ましい。

まやかしでも良い。

サマーみたいな立派な青年になってみたい……。

カッコよくて憧れるし、誰も僕を女の子に間違えなくなる……。



「ごめんな、アルシュ。」

僕を弱者と見ている事だ……。僕は首を横に振る。

「サマーが謝る事じゃありません。」

悪いのは犯罪者だけど……

でも……僕はため息をつく。

「はあ……。僕は犯罪の被害者になるタイプの見た目ですか……。」


嫌になる……。

不快な笑い声が聞こえてくるようで……

心が荒れてくる……。


悪さしたくなるくらい、弱く見えるんだろうか……。

確かに僕は弱いと思う。


だけど、

このままの僕でいて、警戒せずに街を歩ける世界にはできないんだろうか……。

どの都市もAIが犯罪を監視して通報する町ではあるけど、何度捕まっても構わず犯行する人はいるのだ……。


「アルシュ。あんまり悩まないで。」

「はい。」





ルイスが住んでいる都市へやって来た。

翌日の演奏会に、ルイスが来てくれた。

彼は目を輝かせて勢い良く言う。

「エマスイ先生、さすがです!僕も研究頑張ろうって思いましたよ!」

「そう言ってもらえると嬉しいわ。」

「アルシュ君も元気そうだね。でも、毎日移動で大変かな?少し疲れてる?」

僕はマスクを外す。

「そうですね、少し。」

「ルイス。アルシュが悩んでいるようなの。ルイスも相談に乗ってくれるかしら。」

「もちろん!

そうだ、僕の家近いから、うちに来ない?

殺風景な部屋だし、豪華なおもてなしなんてできないけど、大きいベッドがあるから、泊まれるよ!

一緒に寝よう!」

「え、ありがとうございます!」

「あ、サマー君も来る?おいでよ!ベッドもギリギリ入るよ!

あ、その顔は、なんか僕の事、疑ってる?」

「う……」

ルイスは僕の肩を抱く。

「アルシュ君は、息子みたいなものだし、サマー君にだって、どうこうしようなんて思ってないから信頼してよ。

ベッドは最近買った新しいもので、僕と友人一人しか使ったことないし、あ、彼はステファンって俳優なんだけどね、すごいデカいやつなんだ。僕は子供のころから彼と雑魚寝するのが好きだから、広ーいベッドを買ったんだよ。前に話した通り、僕の恋人は遠くにいるし、何も遠慮することなんかないよ。普通に遊びにおいで!あ、エマスイ先生もいかがですか?ゲストルームもありますよ。」

「私は疲れているから、遠慮しとくわ。」



宿代が浮くし、お言葉に甘えてルイスの家に泊まることにした。

車を運転しながらルイスがつぶやく。

「はあ……エマスイ先生の演奏で胸がいっぱいだよ……。もう夕食いらない感じだけど。」

着くころに届くよう、宅配を注文してある。


ルイスの家にやってきた。

僕はリビングの大きな窓から外を眺める。

「わあ……すごい!景色が壮大!」

ルイスの家は高層マンションの上の方の階で、とても見晴らしがいい。都市を一望できる。

そして、彼の部屋は、本当に殺風景だった。

感じのいい家具やオーディオがあるけれど、生活感がない……。

「これ、なんですか?って聞いてもいいですか?」

銀色の円筒形のものや、白い四角い箱がいくつも置いてある。家具には見えない……。

「冷凍庫だよ。ダルシアンの発明品とかが入ってる。」

「そうなんですか。」

そういえば、研究所にこれの大きいのがあったな。

……ルイスは、ダルシアン博士との、思い出の品に囲まれて暮らしているんだ……。


「なんにもないけどね、ハーブティーだけはあるよ!」

香りの良いハーブティーを淹れてくれた。

これも、多分、昔の恋人との思い出の品だ。以前話に聞いた事がある。

でも、

幸せそうに僕をもてなしてくれているから、僕も明るく振る舞う。

「エマスイのとは、また違いますね!」


夕食は、新鮮な食材を使ったオードブルだ。

大きくてふわふわなカーペットの上に置いて、みんなで囲んで座って食べる。

「可愛い!このお花も食べられるんですか?」

カラフルなお花が盛り付けてある。

「この生地にお肉とお花をのせて、巻いて食べるんだよ。」

「美味しいです!」

ハーブの辛味が効いている。

「スープも美味しいよ!サマー君、骨付き肉もたくさん食べてね!」

既に頬張っている。親指を立てて、

「美味いですね!その柑橘を絞ってかけると最高です!」


「ごちそうさまでした!」

いつもながら、サマーが一番たくさん食べた。彼が言う。

「システムがあると燃費がいいんですか?うらやましいです。」

僕は元気になって、しっかり食べれるようになったと思っていたけど、サマーにとってはまだ少ないらしい。システムがあるからなのかな?

「そうなんですか?」

と、僕はルイス博士を見る。

「システムはそんなに関係ないよ。もともと僕は小食なんだよ。アルシュ君もかな?」

「俺の胃がデカいってことですね。」

「基礎代謝が高くてパワフルって事だよ。」

サマーを基準にしたら、大抵の人は少食だと思う。

ルイスが僕を見る。

「……アルシュ君、悩みがあるんだって?なんでも話を聞くよ。」

「……はい。」

美味しいご飯を食べて、せっかく気分良くなったところだけど、ルイスに相談してみる。



「そっか。女の子に間違われるか。

僕が十五歳の時も、アルシュ君と同じくらいの身長だったけど、中性的って言われたな。」

ルイスは今も、中性的に見えるけど、彼は身のこなしが身軽で俊敏だから、女性には見えない。


「アルシュ君は、動作がおしとやかで、声も顔立ちも可憐な女の子だからね。」

同情の微笑み。

「可憐な女の子……」

そう見えるのか……。

ショックだ……。

「会話すると、はっきり話をするし、男前なとこあるんだけどね。

両方、君の魅力だって僕は思ってる。」

見た目も魅力……

自分では、なかなか肯定できないけど、ルイスに優しい笑顔で言われると、少し和らぐ。

「……ルイスがそう言うなら、この見た目も大事にしようかなと、ちょっと思えてきます。」

「うん、大事にしてあげて。誰にとっても、自分の見た目を好きになるのは大切なことだよ。

ファッションやメイクでも大分印象変えれるしね。」



僕はお風呂から出て、自分のパジャマを着る。

リビングで筋トレしてるサマーにお風呂が空いたと伝えた。

僕はルイスの寝室へ入る。

「ルイス?失礼します。」

「どうぞ〜!」

入ってみて驚いた。部屋の半分近くがベッドだ……。

「ほんとに大きなベッドですね!」

パジャマ姿のルイスは、ベッドに寝そべっていて、にっこりして言う。

「二人でも余裕で寝がえり打てるよ!」

「ふふ!」

僕も彼の隣に横になる。

ルイスは、指先で僕の頬をつついて、微笑んで言う。


「僕がいつか必ず、君を大人にして見せるから。素敵な青年に。

それまでも、そのあとも、どんな悩みでも話して。君の力になるよ。」


「……。」


『システムの責任は、僕が持つ。

君たちのこれからは、僕が見るよ。

悩みとかなんでも話して。力になるよ。』


火事でダルシアン博士が亡くなった後、ルイスが言った言葉だ……。


彼は、その立場を選ばざるをえなかった……。

たった一人で、システムに関するすべての責任を負う立場を……。


「まずはそうだな、イケメンメイクを教えるよ!」


僕は、楽しそうなルイスを、抱きしめる。


「わ!?」

「……。」

「アルシュ君……?どうしたの?」


僕にとっては、結構大きな悩みだったけど、

ルイスの立場、置かれている状況のほうが、ずっと大変だ……。


僕の見た目が成長しないのは、システムがあるからで、

だから、今ある外見の悩みはこれからもずっと続くと、ルイスは思っている……。

その責任を、全部背覆う気でいる……。

『僕がいつか必ず、君を大人にして見せるから。

それまでも、それからも、どんな悩みでも相談して。』


僕ら治験者をサポートしつつ、ダルシアン博士から引き継いだシステムの研究をこなして行く……。


「すみません……!」

僕は、自分のことばかり考えていた……。


火傷だらけのルイスの涙を見たとき、

彼が元気になるまで見守ると、決めたのに、

僕は何をやってるんだろう……。

忘れていたわけじゃないけど、悩みに飲まれてしまってた……。


「無理しないでください!僕の弱音は気にしないで、忘れてください!」


「……アルシュ君。僕はね、

必要とされてるから、システムの問題点を研究できるんだ。

要望があったほうが嬉しいんだよ。」

優しく髪をなでられる。


ダルシアン博士がいない今、それは重荷なのでは……。


僕は離れて、起き上がって言う。

「……聞いてもいいですか?」

「うん。」

彼も起き上がる。


「ルイスは、本当は、

ダルシアン博士の研究を、

引き継ぎたくなかったんじゃないですか?」


「……僕は……」


彼の眼に、涙がにじむ。


ああ……やっぱり……

僕は同情する。


けれど、ルイスは首を横に振って、

「ごめんね、ダルシアンに会いたくなっちゃった。

心配しないで。

確かに僕は、力不足で、発明のはの字もダルシアンにかなわないから不安だけど、

でも、彼がひらめいていた組み合わせは、時間をかければ僕にも探し出せるんじゃないかって思って、挑戦してる。


僕には絶対無理って思ったこともあったけど、

投げ出してしまったら、ダルシアンとのつながりが失われるように思えて……。


彼と、仕事でつながっていられたのを、誇りに思ってるからさ。


辛くても、彼からバトンを受け取って、後を走ろうって、思ったんだ。」


笑顔の彼の眼から、涙が流れる……。


僕を見つめる、彼の優しい瞳……。


「だから、アルシュ君、待ってて。君の望みも、必ず叶えるから。」


「ルイス……」


僕は、泣けてしょうがない……。


ルイスは、ダルシアン博士を救えなかったことを、後悔している。


あれだけ仲の良かった二人だ。

ダルシアン博士の後を追って逝きたいと思っていたかもしれない。


でも、バトンを受け取らなきゃ、僕らの事も、ダルシアン博士の事も、裏切ってしまうと思って、踏みとどまったんだと思う。


だから、僕が青年になる事を望んでも、望まなくても、ルイスは研究を続ける。


それなら、僕は、彼のために、何ができるだろう……。


ダルシアン博士にも解けなかった難問に挑んでいる彼に……。


彼が言うように、僕の要望が本当に彼の力になるかは分からない。

やっぱり重荷になるかもしれない。


僕は、ルイスを見守っていたい。

彼が決めた事を応援したい。

でも、強く励ますことを言って、追い詰めたくない。


僕は彼に言う。


「……僕は、いつまででも待っていますから。

あんまり仕事ばっかり頑張らないで、プライベートもたくさん楽しんでくださいね。」


「ふふ。ありがとう。気を付けるよ。アルシュ君もあんまり無理しないようにね。」


「はい。また僕の不満を聞いてください。ルイスも、話してください。」


「うん。分かった。でも僕の愚痴はステファンが聞いてくれるから大丈夫。

アルシュ君、なんだかますますしっかりしてきたね……。

そんなに僕の事を気にかけてくれなくて大丈夫だよ。」


彼は僕を心配して、そっと押し戻す。


僕じゃ、やっぱりダメなんだろうか……。

一生懸命、手を伸ばしても、遠慮されて、助けられないんだろうか……。


悲しくて、悔しくて、

僕は彼の袖を掴むように言う。


「……。

僕は……

ルイスに……

幸せになってもらいたいんです……。」


僕の目から、涙がポロポロ落ちる……。


「ダルシアン博士と、一緒にいた時みたいに……

また、幸せになってほしいんです……!」


僕はすすり泣く……。


二人の時は、キラキラしてた。

本当に楽しそうで、幸せそうだった。


でも、今のルイスは……

笑顔でも、

真っ暗な崖っぷちに立っているように思える……。


そこは、人のいられる場所じゃない……。


彼がそんな場所に立たされている事が、

悔しくて、悲しい……。

ダルシアン博士の死が、

悔しくて、悲しい……。


だから僕は手を伸ばすんだけど、ルイスが望まなければ、届かない……。


「幸せになってほしいです……!

僕が、そうできたら良いんですけど……

ダルシアン博士の代わりに

ルイスを幸せにしてあげられたら……。

でも、僕は、僕でしかないから……。

願うくらいしかできませんけど……。」


泣いたってしょうがないのは分かっているんだけど……。


「元気で幸せなルイスが、僕は大好きなんです……!」


「……ありがとう……。」


ルイスが涙ぐんで微笑んで、僕の頭を胸に抱える。

「ありがとう。アルシュ君……。」


「……。」


僕らはそのまま横たわった……。


僕は彼の胴を抱きしめる……。


涙の止まらない僕に、

ルイスは何度もお礼を言った……。

「ありがとう。」


ようやく泣き止んだ頃。


「……おやすみ。アルシュ君。」


「おやすみなさい。ルイス……。」


人の体温は……

温かくて……

懐かしい感じがする……。


でも、

儚いし……

どれだけ願っても……

叶わない事もある……。



知らなかった……。

アルシュ君が、僕の事をそんな風に思ってくれていたなんて……。

ダルシアンの代わりに、僕を幸せにしたい……

だなんて……。

華奢で小さなアルシュ君の、熱い体温が伝わってくる……。

そんなに思ってくれて嬉しいけど、こんなに泣くほど心配かけてるんだ……。申し訳ないな……。


彼を……引き取らなくて、本当に良かった……。

僕には、アルシュ君を幸せにする事ができないから……。

ダルシアンといた頃と同じようには、幸せになれそうにないから……。


僕を抱きしめている彼の力が抜ける。

寝息が聞こえてくる。


愛しい……。


……アドルフ。

あなたがどれほど僕の事を心配しながら亡くなったのか、

少し分かったよ……。




俺が風呂から出て寝室へ行くと、

アルシュとルイス博士が、しっかりと抱き合ってベッドに横たわっていた……。


「アルシュ―!?」


「しー!」

ルイス博士が口の前で人差し指を立てる。

それから眠っているアルシュの腕を自分の胴からはがして離れ、毛布を掛けてやる。

そして、ティッシュを取ってアルシュの涙を拭いてあげた……。

枕の上に流れているアルシュの髪を撫でながら、いとおしそうに微笑んで、

「彼は本当にやさしい良い子だよ。僕のために泣いてくれるなんて。」

ルイス博士も泣いていたようだ。

「……アルシュの悩みはどうなりました?」

「彼の成長を止めているのはシステムだ。だから、僕が責任もって、派生する悩みも全て受け止めるよっていう話をした。」

「だからアルシュは泣いたんですか……。ルイス博士、そんなに何もかも背負うと身も心も壊しますよ。」

彼は笑う。

「ふふ。僕は幸せ者だな。みんなから心配されて。僕はリビングのソファーで寝るよ。お休み。」

彼は、スッと部屋を出て行った……。



朝起きると、すぐ目の前にアルシュの顔があった。

「近っ!」

気持ちよさそうに眠っている。

かわいい寝顔だな。と思ったら、背後に気配が。

「!」

「おはよう。サマー君。」

ルイス博士がこっちを向いて、胡坐をかいて座っていた。俺も起き上がって小声で言う。

「ルイス博士!もしかして、隣で寝てたんですか!?」

このベッドは彼の物だから、彼がここで寝るのは当たり前だろうけど……。

ソファで寝るって言ってたのに!

「うん。夜中にね、二人の寝顔をカメラで撮ろうと思って来たら、あんまりにも仲良さそうにくっついて寝てたから、うらやましくなっちゃってね。」

と、にっこりする。

「……。」

「疑われると傷つくな。誓って言うけど、何もしてないよ。」

「すみません!って、写真は撮ったんすか!」

「うん。可愛く撮れたよ!」

と、楽しそうに画面を見せた。

「くっついてるじゃないですか!」

三人くっついて写っている。ルイス博士は俺の背後で笑顔でピースしている。

「記念写真って、一瞬くっついて撮るでしょ?」

本当に一瞬だっただろうか……。

って思うと、また傷ついた顔するんだろうな。

「サマー君、うっすら髭が伸びてて、ワイルドでカッコイイよ!」

嬉しそうに笑っている。

「あ、うちにはシェーバーないんだ。僕は高校の時、学割で全身脱毛したから。うふ。」

可愛さを振りまくポーズでウインクする。

「……自分の持って来てますから。」

俺はため息をつく。

「……はあ……。」

考えたってしょうがない。

もう、この人はこういう人なんだ。

「あ、なんか今のため息、ステファンに似てる!」

俳優の友達のことらしい。その人も大変だな。


……ルイス博士は、優しくて明るくて朗らかで良い人だけど、ちょっと変態でウザい……。


「ん……」

アルシュが起きた。澄んだ瞳で俺たちを見て、

「おはようございます!」

無邪気な笑顔だ。アルシュはいつもながら、天使みたいだ。

「あれ、サマーが隣だったんですか。」

と、起き上がる。

「ごめんね俺が隣で。」

「いえ!サマーの隣でうれしいですよ!」

と、にっこりする。

「同じベッドで誰かと寝たのは、ローイ以来です……。あ、あと、犬のテリー。」

ルイス博士が笑顔で楽しそうに言う。

「またおいでよ。今度は二人っきりでおうちデートしよう!」

言い方が……。

「はい!ぜひ!」

二人とも見つめ合ってて嬉しそうだし……

なんかこの二人、関係が深まってる気がする……!

アルシュ……!?この人はやめとけよ!?



僕は驚く。

「え!寝顔撮られてたんですか!」

「二人ともかわいかったよ!」

と、ルイスがにっこりする。

サマーは嫌そうな顔をしている。僕は言う。

「……なんかちょっと恥ずかしいですけど、予想はしてました。

エマスイの家でも、結構バシバシ撮っていましたよね……。」

「ああ。そうだったね。」

「見せてもらってないのも、かなりありますよね。」

「見る?」


ルイスが僕を撮った大量の写真を見た。

壁の大画面は恥ずかしいから、卓上端末の画面で。


ルイスが、僕をどう思っているのか、

写真から伝わってきた……。


息子で、友達で、

ダルシアン博士の残した、

大切な宝物のような、

男の子……。


ルイスが撮った写真なら、僕は女の子に間違われない気がする……。


「……ちょっと悩みが吹っ切れたかもしれません。」

ルイスは嬉しそうに微笑む。

「そう。良かった。」


「工夫してカッコいいをめざします。」

「いいね!メイク、してみる?」



サマーが驚いている。

「アルシュ……メンズのファッションモデルみたいだよ……!」

ルイスが僕にメイクしてくれた。

僕は鏡を見る。

「すごい……!全然雰囲気違いますよ!」

「たいして手を加えてないけどね。少し目を切れ長にして、少し彫りの深い精悍な顔立ちに見えるようにしたよ。」

前髪も真ん中分けにセットして、サムライみたいなポニーテールにしてくれた。

サマーが親指を立てる。

「うん。イケメンに見えるよ!」

「やった……!ありがとうございます!嬉しいです!」

「ついでに写真撮らせて。ポーズ覚えられる?」

と、ルイスは十種類を連続でポーズした。

サマーがすぐに覚えたので、僕は真似する。

高速シャッターの合間にルイスが言う。

「サマー君もしてみる?イケメンメイク。」

「え!?」



「サマー!カッコイイですよ!」

アルシュがキラキラした目をして俺を見ている。

「そんなに?」

「あ、サマー君、鏡見ないで。カメラの前でポーズして。」



サマーがポージングすると、ダンスしてるみたいに見える。

「好きなように動いて。」

と、ルイス。


「好きなように……こんなですか?」

サマーは本当にダンスした。

格闘技の技も披露した。


すごくカッコイイ……!


汗だくになって、息が切れるまで動いた……。


僕もルイスも盛大に拍手する。

「お疲れ様!良い写真たくさん撮れたよ!」

ルイスが生き生きしている。

「もう、最高!」

というか、ルイスの周りにハートが飛んで見える。

ルイスはサマーのファンらしいから。

僕もそう。

サマーはTシャツの裾を引っ張り上げて顔を拭く。

シャッター音。

「あ!俺メイクしてたんだった!」

裾が汚れたらしい。

ルイスが含み笑いしながら、こっそり僕に言う。

「サマー君、さすが!腹筋すごいカッコイイね!」

興奮していて頬が良い色に染まっている。

「ですよね!羨ましいです。」

僕は大人の見た目になっても、サマーみたいに鍛えられるかどうか……。

変わらず、じっと座って作曲ばかりしてそう……。

僕は思い出して、くすっと笑う。

「サマーは力こぶもかっこいいんですよね!硬くって、僕の腕とは全然違くて。

腹筋も触ったことありますけど、石みたいにすごくしっかりした手応えで」


「いいなー!!」


ルイスの甲高い大声にびっくりした。

彼は急いで自分の口を両手で抑える。

「おっと、ごめんね。」


サマーが真顔で言う。

「……ルイス博士って、そういうフェチなんですか……」


「え!」

ビクッとしたルイスは耳まで赤い。僕から顔を背けながら、

「やだな、」

声が上ずっている。

僕はサマーに訊ねる。

「フェチ?って何ですか?」

「……」

嫌そうな目で見られる。


ルイスが顔を背けたまま低めの抑えた声で言う。

「アルシュ君は知らないでいてほしいな。ちょっと顔洗ってくるね。」


洗面所のドアが閉まる。

サマーは不機嫌顔だ。

そんな顔のサマーは初めて見た。

「はあ……。なんか俺も、アルシュの悩みが理解できそう……。」



僕は洗面所へ入って、顔を洗って、

五分ほどで、なんとか平常心を取り戻せた。

何が大切かは、分かってる。

まったく、僕って人間は……。

痛いヤツだ……。


洗面所から出ると、

アルシュ君が尋ねてきた。部屋の端の方を指差して、

「ルイス、こっちのカメラは何ですか?」

写真を撮ったのとは違う三脚に取り付けてある。

「動画撮影用だよ。写真撮影中の二人の様子を録画したんだ。写真も動画も、編集して、君たちの手帳に送るね。」




アルシュと会話しているルイス博士は、普通の普段通りのルイス博士だ。

俺はほっとして言う。

「アルシュ。そろそろ帰らないと。」

「そうですね。」

夕方の列車に乗る予定だ。寝台車で、明朝、次の都市へ到着する。


ルイス博士がやって来て、謝られた。

「サマー君……、どうもすみませんでした……。」

真摯な謝罪だ。

「ストレートの君を困らせたりしないって、前に言ったのにね……。」

反省している。

でも、まだうっすら顔が赤い……。


俺は小さくため息をつく。

「……あのですね、俺がなんで鍛えているかっていうとですね、

楽しいからってのもありますけど、

人を支えたいからなんですよ。

ルイス博士もそうですよね。」

彼にとって研究はそうなんだと思う。

アルシュを含めて、人を支えたいから研究してるんだと思う。


「うん……。そうです。本当に失礼しました。腹筋の写真は消します!」

その場で、俺の腹が写っている写真は全部消してくれた。


以前、同情心で、

なんでもします。

と、ルイス博士に言った事があったけど……

今でも同情してるけど……


だからって、腹筋フェチの彼の慰み者にはなりたくない……。

写真一枚でも、抵抗ある。


アルシュがルイス博士を案じているように、

俺も彼の幸せを願っているけど……

今は距離を置きたい……。


俺にもフェチがないとは言い切れないけど……

好きな娘がいると、他の女性は霞むって言うか……。


俺はそうだから、

ルイス博士の、ちょっと体格良ければ誰にでも舞い上がる感じの軽さにイラッとする……。

ダルシアン博士も知ってたんだろうか。

そういうの込みで、ルイス博士と親友だったんだろうか……。


でも、ダンスや格闘技が人を引き付けて魅了するのは分かってるし、

うっかりいつもの癖で、Tシャツの裾で顔拭いたのは俺なんだし、

あんまりルイス博士を嫌わないでおこう……とは思う。




ルイスは、寝台車のホームまで見送りに来てくれた。

「いってらっしゃい!」

笑顔で見送ってくれた。

「行ってきます!」

僕は窓際の席に座って、ルイスが見えなくなるまで手を振った。


向かいの席に座ったエマスイに言う。

「エマスイ。ルイスのおかげで、悩みが気にならなくなりました。」


僕は、システムがある事を、誇りに思っている。

だから、成長しないこの見た目も、システムの印として、誇らしく思おう。


僕を愛してくれている、ルイスのためにも、

自信を持とう。

自信を持てば、克服出来ると気付いた。

メイク気に入ったから、自分でもできるよう、練習しよう。


エマスイはほっとした様子で微笑む。

「よかったわね。メイク、似合っているわ。」

「ふふ。」

僕はうれしくてにこっとする。

「……でも、サマーとルイスが、ちょっと……仲悪くなりそうで……」

「そんな雰囲気だったわね。でも、あの二人はアルシュが心配しなくても大丈夫じゃないかしら。」

「そう、ですか……?だといいですけど。」

ルイスに止められたから、迷ったけど、エマスイに聞いてみる。

サマーはシャワーを浴びているけど、内緒話のように彼女に近づいて。

「あの……フェチって何ですか……?」

「……なるほど……。それでルイスが反省していたのね。見当はついていたけど。」

エマスイも教えてくれないらしい。

「?……相手に失礼なくらい、部分的な見た目が好きってニュアンスでしょうか。」

「上品に言うとそうね。」


さっきの一件を話した。

昨日の事も話した。ルイスがなんでもかんでも責任を背負おうとしている事……。


「……ルイスって大変そうですね。」

「そうね。でも、うちにいたときより安定感があるから、そんなに心配ないと思うわ。」

「ダルシアン博士からバトンを受け取って、システムの問題解決に取り組んでるって話していました。」

「ええ。

宝くじ並みに低い確率かもしれないけど、放り出すことはできない、でも、いつかは必ず当たるはずだ。

って前に言っていたわ。

不安でも、やりがいのある仕事のようね。」

サマーがシャワーから出てきた。

「次どうぞ。」

「あ、いつものサマーだ。」

イケメンメイクが取れている。

「え、変わってないでしょ?」

「ふふ!僕はやっぱり、メイクなしのサマーのほうが好きです!」

「うーん……」



明かりを消した寝室のベッドに、僕は横たわっている。

僕は隣のベッドに声をかける。

「……サマー?まだ起きてますか?」

「うん。」

「さっき、ネットでフェチを調べてみました。」

「え!?」

サマーが驚いて、跳ね起きる。

「だって、ルイスと、仲悪くなってほしくないですから……。」

「なんのサイトで調べたの……?」

焦っている様子。明かりをつける。

「いつも通り、辞典で。」

「ごめん……気分悪くなったでしょ……。」

サマーは後悔して自分を攻めているらしい。

その単語を持ち出したのはサマーだから。

僕は眉をひそめて言う。

「確かに、好きでもない人から向けられたらと思うと、気分の良くない話しですね。サマーは嫌だと言って良かったんです。」

サマーは不安そうに言う。

「アルシュ、ルイス博士を嫌いになってない……?」

「いえ。もし僕が、大人の体型になって、ルイスからフェチを向けられたら、困ると思いますけど……。

そもそもルイスにはスワロウさんがいるわけですし。

不意に、感じてしまうのは仕方ないとしても、スワロウさんと他人に配慮しなきゃですね。周りも知っていれば、気を付けられます。

僕は、今日のを見た限りでは、驚きましたけど、嫌な感じはしませんでした。

ルイスを嫌いにはならないと思います。

僕が頑張って鍛えて、ルイスにお腹を貸す事も考えましたけど、ストレスが一時的に減ったりはするかもしれないけど、彼の状況を変えられるとは思えないですし……。」

「……うん、貸すの、俺は反対だよ……。」


「僕はルイスの明るさが、すごく好きなんですよ。幸せな気持ちになれて。

開放的な彼といると、楽しいし、

好かれている事が嬉しいんです。

ルイスはそういう、天性なのかなって。

サマーの事も、フェチ関係なく好きなんだと思いますけど……。」

エマスイ邸で初めてサマーのダンスを見た時、ファンになったらしいし。


「……そうだな……。そうなんだと思うよ。

それに、良いところもたくさんあると思うよ。

でもあの人、アルシュを可愛くて好きって言うのと、

俺を可愛いって言うの、意味違うからな……。

悪いけど、俺はアルシュほどには、あの人を大好きになれないと思う。

背後を取られたくないっていうか……。

けど、アルシュが仲良くしてほしい気持ちもわかるよ。俺だって、嫌いたくない。

危なっかしくて心配になるし……。

気の毒で、幸せになってほしいとも思ってるよ。」


背後を取られたくない……。

僕が思っているルイスと、サマーが思っているルイスはだいぶ違うんだな……。

それが普通なんだろう……。

僕が思い描くようには、二人が仲良くなれなくても、エマスイの言う通り、大丈夫なのかもしれない……。

距離感も、大切な人も、人それぞれなのだ……。

良好な関係も、様々なのだろう……。


「それなら良かったです……。」

「おやすみアルシュ。」

「おやすみなさい。サマー。」



翌朝。

ルイスから、写真と動画が送られてきた。

「さすがルイス……!僕もサマーも、三割増しにかっこよく見えますよ!」


ルイスの写真が、僕は好きだ。

被写体の魂とか、生命力が写っていると感じられるから。

そこに、ルイスの主観もあるけど、フェチは見当たらない。

写真への熱意とバランス感覚で撮っているように思える。


サマーが言う。

「……まあ、今回の件は、許してあげなくもないかな。」

僕はニコニコする。

「サマーが優しくて嬉しいです!」





自分の悩みが吹っ切れたら、今まで見えてなかったことが見えてきた。

僕が男の子だと気づいた人は、

どうしてこんな子供をアシスタントにしているんだろうと怪訝に思う……。

エマスイは落ち着いて話す。

「彼は作曲家なの。いい曲を書くのよ。幼く見えるでしょうけど、十六歳なのよ。病気していたから、他の子より少し小柄なのね。」

そう言うと、相手は納得するらしい。

それでいいや。と、僕は思う。

同じ人と何度も会うことになったら、システムの話をすればいい。



僕はアシスタントの合間に、作曲している。

移動中の電車の中や、楽屋や、舞台袖や、ホテルの部屋で。

椅子やベッドに座って、額の画面で曲を作る。

「なんか人形みたいだよ。」

と、サマーに言われた。

何もせず、じっとして動かないように見えるから。

僕は言い返す。

「僕は人形じゃありません。」

サマーは急に角張った動きをする。

「ボク、ハ、ニンギョウ、ジャ、アリ、マセ、セ、セン。」

「ふふ。」

ゼンマイの音が聞こえそうな歩き方で、隣の部屋へ歩いて行った。


ピアノはなかなか弾けない。

ホールによっては、空いている楽屋のピアノを使わせてくれたりするけど、全部のホールでというわけじゃない。


エマスイは、慣れていないホールでは、ピアノの調律の一環として、僕やサマーに、舞台のピアノを弾かせる。

彼女は客席のあちこちへ行って、音の響きを確認する。

音質や、音量的には、サマーより僕のほうが近いので、指名されることが多い。


昨日は、弾きながらエマスイの様子を眺めていたら、あることに気づいた。


ホールの上の方に、精霊が一人いる……。


立った姿勢で、空中に浮かんで、目を閉じて、僕の演奏を聴いているようだった。

やっぱりメルツと同じく、髪が長くて、裾の長いドレスを纏っている。

嬉しくて、近づきたい気持ちになったけど、僕のピアノを聞いてくれているようだから、彼女のために一生懸命弾こう……。


エマスイが歩いて移動して、音響を確認しているように、精霊もふわふわと空中を移動する……。


けれど、僕が手元を見ているうちに、精霊はどこかへ行ってしまった。残念……。僕の演奏はいまいちだったのかな……。


本番、舞台袖から覗いたら、その精霊が天井近くに浮いているのを見かけた。

コンサートが終わるまで、聞いていた。

お話ししたかったけど、僕が見えていることに気づいていないようだったし、話しかけている時間も無かった。


どこに住んでいるんですか?

近くに森があるんですか?

ホールには、よく来るんですか?

この都市にも、霧は出ますか?

あなたも霧が好きですか?

などなど、質問したかった。

街を離れるのが名残惜しかった。





最後の都市は、雪が降っていた。

お客さんが来るか心配だったけど、来てくれた。


雪でも足を運んでくださる方たちの、温かい心と、

彼らのために演奏するエマスイの、感謝の心が一つになって……

始めから最後まで、なんだか温かくて優しくて、印象的だった。


雪の日のコンサートも、いいものだな……。


ホテルへの帰り道、雪が舞う暗い空を見上げると、

精霊がいた……。

それもたくさん……。


まるで渡り鳥のように飛んでいく……。


「きれいだな……。本当に精霊の群れがあるんだ……。」


サマーが僕の遅れに気付く。

「アルシュ?どうかした?」

「ふふ。」

「あ、足元気を付けて。急がないで良いから。」

「はい。」

僕はサマーとエマスイに追いつく。


精霊たちは楽しそうだった。

飛びながら二人で手をつないでくるりと回ると、

周りの雪も、つられてふわりと回った。

踊るように、あちらでくるり、こちらでふわり。


そうして街の空を、無音で横切っていった……。


雪が積もっていく。

精霊の通った空から降ってきた、雪が……。


彼女たちは、どこへ向かっていったんだろう……。


ホテルの部屋へ戻ると、僕の手帳に電話がかかってきた。

「え、モーリーさんからだ!」

僕は電話に出る。

「お久しぶりです。」

「エマスイ先生の演奏会、素晴らしかったですよ。」

「え!今日、聴いてくださったんですか!?」

「はい。」

そういえば、演奏会の予定を送ってあったんだった。

この都市は、マイザの岬からだいぶ離れているけど、モーリーさんはこんなところまで出張に来るらしい。

「アルシュさん、今どちらですか?」

「ホテルです。」

「迎えに行きますから、これから一緒にダンスパーティーへ行きませんか?」

「え!?ダンスパーティー!?」


魔女のモーリーさんが参加するダンスパーティーは、やっぱり魔法使い仲間の集まりなんだろうか。

ダンスのできない僕も楽しめるパーティーなのかな……。魔法で踊れるとか?

ちょっとワクワクする。でも、遅くなるようならお断りしよう。もったいないけど。


僕はサマーと一緒に、ロビーへ下りた。

もうそこにはモーリーさんがいた。あと、式のサザハさん。

モーリーさんは、初めて会ったときみたいな、紫色の衣をまとっている。前のより厚手のコートだけど。

彼女は、一目僕を見て言った。

「今日はメルツさんはご一緒じゃないのですか?」

「はい。森にいます。あの、ダンスパーティーって?」

「精霊たちのダンスパーティーなんですよ。

初雪を祝って、湖の上で踊るんです。

魔法使いも多く来ますよ。

見物したり、精霊を式の契約にスカウトしたり、一緒に踊ったり。

楽しいですよ。アルシュさんも行きませんか?」


精霊たちが初雪を祝うダンスパーティー!

僕は……

メルツと一緒に行きたい。と、思った。


メルツと一緒に、湖の上で、精霊たちとダンスしたい……。


「すみません、また今度にします。」


「そうですか。


……アルシュさん、サマーさん、

遅ればせながら、記憶消去の件、謝罪します。

大変申し訳ありませんでした。」


「え……。」


「これを。」

と、いつの間にか手に持っていた菓子折りを差し出された。

「私達からの、気持ちです。」

と、サマーに向ける。

「え、や、」

サマーが断る前に、僕が受け取る。


「モーリーさん、その法律で、傷つかない人はいないと思います。」

「私もそう思います。

現在は改正の見込みはありませんが、

ただ、抜け道はいくつかあります。」

「抜け道……?」

「はい。もし再びサマーさんや、魔力持ちでない方を島へお連れする時は、ご一報ください。

検査をして、一時的に魔力を持たせる事ができます。多少強引で、副作用のリスクがありますが。」




二人が帰った後、サマーが言う。

「リスキーでも、裏口から入れるなら、トライしたいな!」

「……僕はいやですよ。」

どんな副作用か、怖い。

記憶消去の方が安全って事なのだろう……。だから裏口を知らされなかった……。

「ダンスパーティー、行けばよかったのに。俺も、精霊見えなくても、行きたかったな。」

「メルツと一緒が良いので。そんな素敵なイベントには、メルツと行きたいです。メルツに言わずに一人で行って、他の精霊と踊りたくはないんです。」

「そっか。……っていうかさ、湖ってまだ凍ってないよ?」

「やっぱり魔法で水上歩行するんじゃないでしょうか。」

あるいは、精霊に浮かせてもらうか。氷結魔法を使うか。

サマーが興奮する。

「うわー!動画送ってくれないかな!」


エマスイが言う。

「そういえば母が昔、メルツさんが庭の池の上でダンスしてるのを見たって言っていたわ。

初雪の日だったかもしれないわね。」

僕は嬉しくなる。

「メルツもですか……!」

手帳でエマスイ邸の天気を調べてみた。僕たちが到着するまで天気は持ちそうだ……。


サマーがグラスを持ち上げて言う。

「ともあれ、最終日、お疲れさまでした!」

僕たちはグラスを掲げる。

「やっと日常に戻れるわ。」

エマスイはワインを味わう。

演奏旅行中は、お酒を控えめにしていたから、ようやくたくさん飲めて嬉しそうだ。

「今日も、観客の方からお花頂きましたね。お菓子も。」

花は、全部を宅急便に頼むと高いので、半分はホールの人か、ホテルの人に差し上げる。

焼き菓子は全てエマスイ邸へ送る。

ワインを一本空けてご機嫌なエマスイ。

「アルシュ。ワルツやロンドなら、私が教えてあげるわ。」

と、楽しそうに立ち上がる。

「え。」

ラウンジには、ワルツのBGMが流れている。

「いらっしゃい!」

と、彼女は笑顔で僕に手を差し出す。

「行ってきなよ!エマスイ先生に教えてもらえるなんて、羨ましいよ!」

「そうですね……」

誰も踊っている人なんていないから恥ずかしいけど……。

エマスイは、分かりやすく教えてくれた。

「そうそう!上手だわ!」

彼女はハミングしながら、楽しそうにリードしてくれる……。

僕も結構楽しめた。

一曲終わると、周りのお客さんに拍手された。他にも踊り始める人達が出てきた。

席に戻ると、サマーが、

「次は俺の相手をしていただけますか?エマスイ。」

「ええ、喜んで。」


二人のダンスはさすが、カッコイイ……!


「……あれ?」

見ていて気がついた。

「僕が踊ったのって、女性側のダンス……?」

「ええ、そうよ。リードする方が教えやすいのよ。サマー、アルシュにリードを教えてあげて。」

「了解。」

「え!?」


サマーが女性役をするのかと思ったら、隣に並んで教えてくれた。

細かなアドバイスも、なんとか覚えた。


「ほら、アルシュ、エマスイを誘って。」

と、サマーに背中を押される。

僕は微笑んでエマスイに会釈する。

「僕と踊ってくれませんか?エマスイ。」

片手を差し出す。

「もちろん喜んで。アルシュ。」


なんとか踊り切った……。

「はあ……」

バテた……。

「お疲れ様。アルシュ。」

「はあ……疲れました……。」

「こら、アルシュ!一緒に踊って疲れたは相手に失礼だからな!」

サマーに叱られてしまった。

「あ、はい!すみません!」

エマスイはくすくす笑う。

「いいのよ。誘ったのは私だし、素直なのは良いことだわ。付き合ってくれてありがとう。」

「はい、楽しかったです!こちらこそ、ありがとうございます!」


部屋で、僕は窓の外を眺める。

今頃きっと、空を渡って行った精霊たちとモーリーさんたちが、湖の上で踊ってる……。

サマーがお風呂から出てきた。

サマーも僕の隣へ来て、

「精霊ってどんなダンス踊るのかな。」

と、僕を見る。

「どんなでしょう。メルツに教えてもらいます。」

「そしたら俺も、精霊の踊りが踊れるようになるな!」

「そうですね!僕がちゃんとコピー出来たらですけど。」



初雪の日に、エマスイの庭で、みんなでダンスしよう……!

「ふふ!」

楽しみだ!


僕はお風呂に入る。

浸かっている湯船に浮かんでいる、ふわふわキラキラの泡をすくって眺める……。


今日のダンスも楽しかったな……!

エマスイの笑顔を思い出す……。





リニアと電車を乗り継いで、昨日の夜、ようやく僕らはエマスイ邸へ帰ってきた。

ハーブティーを飲みながらエマスイが言う。

「コンサートを重ねるごとに、調子が出てきて、良く弾けるようになっていくんだけど、移動の疲れも重なっていくから、二週間以上はもう無理ね。若いころは一月かけて海外公演もしていたけど。アルシュは体調どう?」

「ちょっと疲れてます。」

今日はピアノは弾かずに作曲するつもりだ。

後、メルツに会いたい。

「私はマッサージしてもらいに行ってくるわね。温泉も行きたいから、お昼は二人で食べて。宅急便の受け取りだけお願いね。」

ファンからのプレゼントが山程、届く予定だ。

「はい。ゆっくりしてきてください。」


サマーは朝からガンガンピアノを弾いている。


大分寒くなってきたな。手足が冷える。サマーは半袖着てたけど。

ヒーターが家中の部屋を温めているけど、それだけだと肌寒い。

僕は暖炉のそばのソファーで、火を見ながら一休みする。

温まったら、メルツに会いたい……。


いつの間にかサマーのピアノがやんでいた。

「アルシュ?」

呼ばれた気がして僕は目が覚めた。

まだ疲れてるんだな。うたた寝してしまった。顔をあげると、サマーがいて、

「ほら。」

と、窓を指さしている。


「雪だ……!」

ひらひらと、雪が舞っている……。


僕とサマーは、コートを着て、マフラーを巻いて、外へ出る。

冬枯れた庭を歩き、池へ向かう。

夏は蓮の花が咲く池に、メルツがいた。

水面の上で、ふわりと飛び跳ねたり、くるっと回ったりして、踊っている。

喜んでいるように見える。

僕たちが近づくと、こちらに気が付いて、


「アルシュさん!サマーさん!おかえりなさい!」

嬉しそうな笑顔で出迎えてくれた。


「ただいま!

ねえ、メルツ。それ、僕にも教えて!」

「え!?あの……私、思いつくままに、好きなように踊ってるだけなんです。」

「うん。それがいいんだ。綺麗だったよ!教えてよ。」

「アルシュさん……」

どうやらメルツは、踊っているのを見られるのも、褒められるのも、教えるのも恥ずかしいらしい。

ソワソワしてて、手で顔を隠したり、髪をいじったりしている。

可愛い……。

「雪がうれしいの?」

「はい。特別にうれしくなって、踊らずにはいられないんです。」

「ふふ!いいな!そういうの!メルツがうれしいと、僕もうれしいよ!」

「……。」


メルツが踊り、僕も踊る。

僕を見て、サマーも踊る。


メルツは楽しそうだ。

「いつも一人で踊っていたので、誰かと踊るのは初めてです!」

嬉しそうに笑っている。


でも……、僕はすぐにばててしまった。

エマスイと踊ったワルツよりも、優雅でゆったりしたテンポだけど、手の振り付けもあるし、結構ハードだ……。

メルツとサマーが、エンドレスのカノンのように踊っているのを眺める。

「二人とも綺麗!」

僕は拍手する。


そのうちサマーも疲れたらしい、メルツにお辞儀してからこちらへやってきた。

「メルツは疲れないの?」

「はい。私は飽きるまで踊っています。」

「どうして池で踊ってるの?」

「ええと……踊りやすいからです。」

「そうなんだ。旅行の話しとか、メルツに話したいことがたくさんあるけど、また明日にするね。

明日は一緒に散歩できる?」

メルツは立ち止まってにっこりする。

「はい。明日はお散歩しましょう。

寒いので、そろそろおうちへ戻られてください。楽しかったです。ありがとうございました。」

「うん、僕も楽しかったよ!」

サマーも、

「俺も楽しかったですよ!」

手を振って、僕らは屋敷へ戻った。


僕はさっそく、作曲する。精霊の舞という曲だ。

ダンスの動きを音にする作業は楽しい。


サマーと二人で簡単な昼食を作って食べて、

僕は昼寝して、

起きてから、もう一度池へ行くと、

メルツはまだ踊っていた。

さっきとは少し違う踊りになっている。

雪はうっすら積もり始めている。


僕は、踊っているメルツに話す。

「モーリーさんに、ダンスパーティーに誘われたんだ。

大勢の精霊たちが湖の上で踊るんだって。

でも、僕はメルツと一緒に行きたいと思って断ったんだ。」

「ダンスパーティー?」


僕は微笑んで片手を差し出す。


メルツが僕の手に、手を重ねる。

楽しそうなメルツに、色彩が現れる。


僕たちは、手をつないだまま、鏡写しに踊る。

メルツは池の上を。僕は池のヘリを。

楽しくて、池の周りを何周もした……。


……苦しくなった息が落ち着くころ、僕は白い息で言う。

「メルツ。会いたかったよ!」


「私も会いたかったですよ!」

メルツなら、そう言ってくれると思った……。


「……あの、メルツ、抱きしめてもいい……?」


「はい。」

嬉しそうな笑顔。


僕はメルツに近づき、ハグする……。

メルツもハグしてくれる……。

精霊の感触は、人とは全然違って、まるで綿のようで、心地いい……。


「ありがとう。」

僕は離れて一歩下がる。すると、滑って転びそうになった。

「うわ!」

「アルシュさん!」

メルツが抱き留めてくれた。というか、僕の魔力を操って浮かせてくれた。

「ありがとう。」

「大丈夫ですか?」

「うん。」


僕はもう一度、メルツをハグする。


「君がこの森にいてくれて、僕は幸せだよ。」


「……。」

「また明日ね!」


彼女は微笑んで、手を振ってくれた……。




『君がこの森にいてくれて、僕は幸せだよ。』


私は……

過去に、同じことを言われたのを思い出した……。


遠い昔に、私に姿を与えてくれた人や……

仲良くなった女の子や……

エマスイのアシスタントの少年……。


ずいぶんと時間がたって、森も変化がたくさんあったけど、

沢山の命が住まう森はずっとあるし、

屋敷もずっと建っていて、

今はエマスイさんとサマーさんとアルシュさんが住んでいる。


私は、それだけで嬉しいし、楽しい。




後日。

「ダンスパーティーの様子です。」

と、モーリーさんから写真が送られてきた。

魔法の明かりに照らされて、精霊や魔法使い達が踊っている。

「精霊達を守るためにも、我々は集まっているんです。」


無防備な精霊達を、精霊狩りから守るために……。

魔法使いたちに守られて、精霊たちは安心して、初雪を喜ぶ踊りを踊れるのだろう。


「綺麗だな。いつか一緒に行こう!メルツ!」

「はい!行きましょう、アルシュさん!」




「アルシュ。はい。これ。」

エマスイから封筒を手渡された。

「なんですか?これ。」

「演奏旅行の謝礼よ。」

「え!?」

お金が入っているらしい。

「そんな、電車代も、ホテル代も、全部支払ってもらったのに……。」

「仕事に付き合って働いてもらったのだから、お礼がしたいの。少ないけれど、受け取って。」

多分、僕がどれだけ遠慮しても、エマスイは差し出した手を引っ込めないだろう……。

「……そうですか、ありがとうございます……。」

初めてのアルバイト代だ……!

何に使おうかな……。

魔法使いの島へ行ったとき、また、綺麗なお土産を買おうかな……。

それとも、教習所で杖の免許を取ったら、

これで杖を買おうか……。

キラキラした魔法を使っている自分を想像する……。

そうしようかな。いろんな魔法を覚えて、エマスイに見せてあげよう!


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