エマスイの屋敷3
ピアノを弾き終えた僕は、ドキドキしながらエマスイの言葉を待つ。
「アルシュの曲は、どれも自然で懐かしい感じがするわ。」
と、エマスイは微笑む。
「若いころの感覚を思い出したわ。」
それから
「弾いていいかしら。」
「もちろんです!」
僕はピアノの前をどいて、彼女に譲る。
エマスイは座り、端末の画面を見ながら、運指の確認をして、数カ所練習すると、
すぐに、僕の作った曲を冒頭から弾き始めた……。
両手が滑らかに動き、
僕の音楽が、新しく、美しい流れとなって、生きる……。
弾き終えて、エマスイは静かに僕に言った。
「アルシュ……。ありがとう。」
彼女が、愛しそうな目をして僕を見つめる……。
エマスイが、
この曲を愛してくれている……。
「こちらこそ、ありがとうございます!」
もし僕が、あの病院で死んでいたら、もしくはコールドスリープしていたら、
このメモリースティックは両親に捨てられていただろう。
この曲も、ネットの片隅に残るだけになったと思う……。
僕は、袖で目をぬぐった。
食事中、サマーが脅かすように言う。
「郵便屋のマイクが言ってたんだけど、この森には……ユーレイが住んでるらしいですよ!」
けど。エマスイがサラッと言う。
「ええ、昔からいるそうよ。」
「え!?」
「私は感じないけど、母は時々見かけたり、気配がしたりしたらしいわ。
ピアノを弾いてると、窓のところに来ると言っていたわね。拍手してくれるって。」
僕は驚いた。
「それって……」
メルツのことだ。
「ええー!怖いこと言わないでくださいよー!」
サマーがこわごわと横目で窓をうかがう。僕はエマスイに訊ねる。
「あの、それって女性ですか?」
「そうよ。」
「髪が長くて、白い服の……」
サマーが目を見開いて僕を見ている。
「そうよ。美しいひと。母は女神とか、歌姫って呼んでいたわ。
じゃあ、アルシュは……」
「すみません、黙っていて。」
僕は二人に、メルツのこと、彼女との会話の内容、自分は魔力で見えているらしいことを話した。
サマーのほうを見ないようにして。目をむいて驚いているから、見たら笑ってしまう。
エマスイは、
「そう……。うらやましいわ。私もメルツさんと話してみたい。」
「エマスイの演奏が好きだと言っていましたよ。」
彼女はうれしそうににこっとして、
「ありがとうと伝えて。」
サマーが言う。
「ア、アルシュは、ま、魔力があるの!?」
僕は、笑いそうなのを必死にこらえる。
「メルツが言うには、そうらしいです。」
「何か魔法が使えるの!?」
「え、何もできないですよ……。自分に魔力があるなんて、メルツから言われて初めて知って、驚きました。」
「そういうものなのか……。」
「あ、でも、一度、魔女と会ったことがあって、僕にだけ教えてくれたことがあって……。」
ますます興奮するサマー。
「ええ!魔女⁉な、何を、」
「何を教わったの?」
と、冷静なエマスイ。
「マイザの岬を覚えていて。と、言われました。
隣にローイもいたのに、僕にだけそう言って去っていきました。」
エマスイとサマーは顔を見合わせる。
「マイザは確か、観光地よね。」
僕も当時、ローイと一緒に調べた。
普通の観光地のようだった。古い城塞跡がある。
調べたあと、ローイがワクワクしながら言った。
『きっと、魔法使いの町が隠されてるんだ!』
『一人で行くの、不安だな……。ローイ、一緒に行ってくれる?』
『もちろんいいぜ!』
いつか、僕らの病気が治ったら、二人で行こう……。
いつか、を、二人で想像するのは楽しかった。
「アルシュは魔法使いの素質があるんだな!」
「さぁ、全然そんな感じしないけど。僕が魔法使いになれるんなら、ローイもなれると思うよ。」
派手でかっこいい魔法をいろいろ考えた。
『博物館の恐竜の化石を復活させよう!』
とか、
『おもちゃのモンスターたちを巨大化させてバトルさせよう!』
とか、
『とにかく無限に花火を上げよう!』
『でかい岩を持ち上げよう!
島ごと海をくりぬいて持ち上げよう!』
とか。
今思い出すと、かっこいいというより、発想が大分子供だけど、当時は十歳だったから、それで十分盛り上がった。
サマーが身を乗り出して言う。
「その魔女って、どんな人だった?」
興味津々だ。僕は説明した。
モーリーさんという方で、紫のマントをまとっていたこと、金色の杖で魔法をかけてくれたこと。
サマーは目を輝かせる。
「俺、今日は眠れないかも……!」
サマーと一緒に街へ行くのも、これで五度目。
僕もお店の人と会話するようになった。
今日は、サマーと同じくらいフレンドリーな野菜売りとお話した。
新鮮な野菜や果物が並んでいるのを見るのは楽しい。
僕の頭では考え付かないようなデザインの、形や色がある。
どうやって生えていたのだろうと、不思議に思ったりする。
「なっているところを見てみたいです。」
と言ったら、
「菜園に見においで。」
と誘ってくれた。
「サマーの弟子なら有望だな。」
横から奥さんが、
「サマーじゃなくてエマスイ先生のお弟子さんじゃないの。」
良いご夫婦だ。
「ピアノの方はな。料理の腕はエマスイ先生よりサマーのほうが上なんじゃないかな。」
エマスイは、幼いころから家に料理人を雇う暮らしだったそうだから、ほとんど包丁を持ったことがないらしい。
『だから、テーブルセッティングと、料理のサーブが昔から私の役目なの。』
と、言っていた。今もエマスイが担当している。
彼女のテーブルセッティングのおかげで、食卓はいつもレストランのようなのだ。
夕食の時、エマスイが言った。
「アルシュ、明日は農園へ行くんだったわね?」
「はい。朝迎えに来てくださるそうです。」
サマーが言う。
「昼飯をごちそうになるといいよ。すごくうまいんだ!
あ、それと、あの家には犬がいるんだよ!」
「犬!」
僕は、犬にも猫にも、ほとんど触ったことがない。
両親は動物嫌いだったから興味を示せなかったし、
病気の時は、近づいたりしたら体調が悪くなるかもしれなかったから、触れなかった。
「どんな犬ですか?」
「茶色い大きい犬だよ。テリーって名前の。畑に来るウサギを追い払う役目らしいよ。」
「へえ!えらい!」
テリーもちゃんと、菜園で働いてるんだな。
……夢から覚めた……。
……すぐ隣に、だれか寝ている。
僕の左腕が、温かくて重い。
「ん……ローイ……腕敷いてる……。」
右手で彼を押す。
「え!?」
手触りにびっくりして彼を見る。
隣にいたのはローイじゃなくて、
ふさふさの、チョコレート色の犬、テリーだった。
「!」
愛嬌のある黒い目で僕を見て、顔をなめられた。
「あはは!」
そうだった。
農園で作業のお手伝いをして、おいしいお昼をいただいたら眠くなってしまったんだった。
ご夫妻は、快く客間のベッドを貸してくれた。
「テリー。君も昼寝した?」
僕は起き上がり、彼を両手でなでる。
テリーは嬉しそうに、尻尾を振っている。
病院にいたころ、
僕の隣で昼寝していたローイを思い出す……。
僕は、眠っている彼の耳元で、たびたびお話をした。
思いつくままに、物語を小声で語った。
すると面白いことに、彼は、ほぼその通りの夢を見た。
それがばれてからは、ローイも僕に吹き込むようになった。
そのたび僕も、夢のヘンテコ度が増した。
今思うと、僕の魔力が効いていたのかもしれない。
ローイの話のほうが、より突飛でスリルがあった。
そのうち、ああこれは、ローイのお話の夢だな。と気づくようになった……。
でも……コールドスリープ中は……
夢を見ないといい……。
目覚めるほんの少し前だけでいい……。
そう願っている……。
ひたすら夢の中を渡り歩くのは……
幸せな事かどうか、分からないから……。
農園のご夫妻は手伝ってくれたお礼だと言って、野菜や果物を沢山くれた。
僕はさほど手伝えていなかっただろうし、むしろ、かなりお世話になって、帰りもエマスイの家まで送ってくれたのに。
「マーケットで一番ひいきにしてる八百屋だからいいんだよ!」
と、サマーは言っていた。
「それに、この村も若者少ないから、構いたいんだよ。」
そういえば、農園のご夫妻も、子供たちはみな都市に住んでいると話していた。
農園も、この村も、とても素敵なのに……。
大抵の若い人達は都会へ行ってしまうらしい。
農園の心地よさや、
丹精込めて育てられた野菜や果物の輝きや、
仲良くなったテリーのかわいさを思いながら、
僕は眠りについた……。
丘の木陰で、テリーと一緒に景色を眺めながら、
サンドイッチを食べたり、作曲したりしたいな……。
病院にいたころのこと。
僕は思っていた。
……ここから出て……
……一歩一歩、通りを歩いて行って……
出会った人と友達になれたら、と……。
……僕の音楽を、ストリートピアノで弾いて、いろんな人に好きになってもらえたら、と……。
ベッドの中から窓越しに青空を見上げて、熱のあるだるさが嫌で、ため息つきながらも、そんな淡い夢を描いていた。
けど、少し未来の僕には、できるのだ。
夢を叶えられるんだ。
僕は、水面を突っ切って進む、船のへさきでもあり……
自由な鳥でもある……。
どこへでも、行ける。
僕の両親は金持ちだったので、家は無駄に広かった。
金属と、ガラスと、石板でできた、温かみにかける家だった。
ただ、子供部屋だけは、好きだった。
ピアノがあったから。
成金趣味の親のお陰で、高価な良いピアノだった。
部屋は防音になっていて、好きなだけ弾けた。
子供部屋を防音にするなんてどうかと思うけど、僕にはちょうど良かった。
ある日、弾いていると、どこかで明るい笑い声がした。
とてもうれしくて喜んでいる、赤ん坊の声。
どうやらそれは……
僕なのだ。
苦しみを知らない、赤ん坊の僕が、
ピアノの音色を聞いて、
明るく楽しそうに笑っている……。
僕はうれしくて
つられて笑った。
父が、貴重品の探し物をしたことがあった。
僕の部屋にも探しに来た。
「ここにはないよ。」
と言ったのだけど、部屋中乱暴にひっくり返して探された。
僕が盗ったと思ったらしい……。
見つからなくても、疑いは晴れなかった……。
僕をにらむ、さげすんだ目……。
後日、ほかの部屋から見つかっても、僕の仕業じゃないとわかっても、父は謝りもしなかった。
ある日、リビングで本を読んでいた。
友達が貸してくれた本だった。
雨が降ってきたので、本を置いて、自分の部屋の窓を閉めに行った。
戻ると、母がその本をゴミ箱に入れているところだった。
「子供の本は好きじゃないの。」
母は、気に入らないものは平気で捨てる人だった。
気まぐれで、自分勝手で、僕に物を与えたと思ったら取り上げられたりされた。
そういう事があるたび……
僕は悲しくて……
心が叫んで……
震えながら自分の部屋にこもった。
僕はピアノのきれいな音を聞きたくて、奏でた……。
あの家で心を開けるのは、親友のピアノだけだった……。
「ありがとう…………。」
音色が美しくて、慰められて、弾きながら泣いてしまうことも、しばしばだった……。
両親は……到底僕の手に負えない。
僕はいつか、消えるようにここを立ち去って、外国へ行こう。と思っていた。
死んだ人は、外国へ行ってしまったようなもの。
そういう文を読んだことがあった。
僕も、そうなりたいと思った……。
両親にとって、僕はいない存在になりたかった……。
……僕は今、願った以上の幸せを感じて暮らしている。
親の事を、こんな風に思うのは……
すごく嫌だけど……
できればもう二度と……
関わり合いたくない……。
今二人がどうしているかなんて、
考えたくもない。
でも、どんなに嫌っていても、
僕は二人の息子なんだ……。
いつか、その繋がりが、覆い被さってきて
また、辛くなる時が来るのかもしれない……。
それは……
ずっとずっと未来であってほしい……。
いや、もう二度となければいい……。
生きた心地がしないのは……
もう嫌だ……。
僕は、本が好きだ。
紙の本。
手帳は冷たくて、硬くて、疲れてしまう。
ページをめくるときの期待感、
紙のほうが、断然優しく受け止めてくれる。
物語を読むうちに、僕は音楽が聞こえはじめる……。
だから、僕はよく、本を読みながらピアノを弾く。
本を読むたび、とりとめのない曲が、増えていく。
この家に来てから三か月がたつ。
だいぶ体力がついてきた。
まだまだだけど、ピアノもまともに鳴るようになってきた。
細かいフレーズも、少しずつミスが減ってきている。
ある日。
ピアノを弾き終えると、後ろの方からエマスイが言った。
「アルシュはとても自然に弾けるのね。いいことよ。」
いつの間にかリビングへ入ってきていたらしい。僕は振り向く。
彼女は微笑んで優雅に言う。
「水が流れるように、木の葉が舞い落ちるように、耳にやさしいわ。」
「ありがとうございます。」
エマスイはにこっとする。
「アルシュ、お茶をいかが?」
「いただきます!」
水が流れるように、木の葉が舞い落ちるように、か……。
そういえば、悩んでピアノを弾いたり、やめたいと思ったことはない。
音が心地よいから。
自然の森や山の風景のように美しいから。
そして……
心が動くから……。
街で買い物の途中。
僕は、アンティークショップの前で、サマーを待っている。
ショウウインドウの中には、骨董品が雑多に並んでいる。
その中に、古いアコースティックギターが置かれている。
日に焼けて、シミがあって、弦が切れている。
僕は、中古の楽器を見ると、いつも思う。
どんな人が持ち主だったのかな。何の曲を弾いたんだろう。
なんとなく眺めていると、サマーが後ろから声をかけてきた。
「お待たせ。あ、ギター!そういえばアルシュは、ギター弾けるんだったね。」
「はい。」
僕は、クラシックギターが弾ける。
「エマスイの家にはないからなあ。」
「……。」
微笑んで僕を見つめるサマー。
「弾きたくなってる。」
図星だ……。
「……確かに、恋しいなと、ちょっと思ってますけど……。」
サマーがニヤッとする。
「ちょっとかなあ?」
一週間後の夕方。
僕は、ギターケースをリビングの床に置いた。
先週アンティークショップの前で、
「今から楽器店に行こう!」
とサマーに誘われた。
「え……!」
彼は手帳で電話し、会話して、僕にウインクした。
「エマスイもいいって!」
「え、あの、」
でも、クラシックギターは爪が短いと弾けない。なので、伸びるまで一週間待って、今日、買いに行ってきたのだ。
サマーが、都市の楽器店に車で連れて行ってくれた。
エマスイは、
「予算は気にしないで。一番気に入った楽器を買ってらっしゃい。」
そう言って僕らを送り出してくれた。
いくつか試しに弾いて、一番好きな音の楽器を選んだ。
お店の人がサービスで弦を張り替えてくれた。
僕はリビングのじゅうたんに座り、ギターケースの留め金を外す。
買ったばかりの楽器のケースを開く、この気持ちは……
胸の高鳴りは……
言葉にならない……。
そっとケースを開いた……。
なんて美しい楽器だろう……!
大切に取り出して抱える。
ハーモニクスで調弦する……。
でも、弦を張り替えたばかりだと、音程がすぐに下がってしまう。弦が安定して、曲が弾けるようになるまで、三、四日かかる。
「早く……!早く弾きたい……!」
僕はうれしくて、ハーモニクスを鳴らし続けた。
エマスイは、
「買ってらっしゃい。」
と、言った。
僕のために買ってくれたのだけど、もちろん持ち主はエマスイだ。
いつか、頑張ってお金を貯めて、エマスイからこの綺麗な音色のギターを買おうと思う……。
ギターには、トレモロという奏法がある。
細かく打弦することで、滑らかにフレーズを歌うことができる。
細かな音の粒が流れて、まるで小川のせせらぎのような、耳に心地よい音色になる。
僕はメロディーが思い浮かぶと、必ずトレモロバージョンをイメージする。ほかの楽器もイメージするけれど、トレモロが合うなと思う曲は、今まで作った中に、十曲近くある。
ローイの言葉で言うと、ハマっている。
リビングで。
僕は、エマスイに自作のギター曲を数曲弾いて聞かせた。
彼女が僕のために購入したギターだ。
感謝を込めて弾いた。
「とても楽しくて美しいわ。」
人の心は、ギターの音色を求めていると思う。
僕はそう。
心に、すんなり寄り添う音色なのだ。
森の中。
僕は岩に腰掛け、ケースからギターを取り出した。
「それでは聞いてください。」
向かいに座ったメルツが嬉しそうに拍手する。
僕はギターを奏でる。
さわやかな木々の香り。
木漏れ日が揺れている。
とても気持ちがいい。
……病院にいたころ、僕はこんな風に毎日外に出たり、長時間外気を吸うことは、止められていた。
不自由や不調が多々あった。
けれど病院には、僕たち子どもと、そして病と、しっかり向き合ってくれる大人がいた。
どんなことも、受け止めて対応してくれた。
だから、僕たちは幸せだった。
長く入院して亡くなった子もいたけれど、どの子も先生や看護師さんに感謝していた。
職員の人はみな、大人の本当の在り方を、体現している人たちだった。
それがどんなに素晴らしいことか……。
両親に放っておかれ、捨てられた僕にとって、信頼できる大人がそばにいることは、この上なく幸せで豊かなことだった。
僕も、僕なりに、そうあろうと思う。
……ギターを演奏し終わると、メルツはとても喜んで拍手してくれた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「私……人間より長く生きていますけど、こうして過ごせるくらい仲良くなった人は、アルシュさんでまだ三人目です……。
私のことを気にかけてくれて、とっても嬉しいです……!」
こうして姿が見え、会話できる人間すら、今までほとんどいなかったと、話していた。
「それは、メルツがいい人だから。好きだから僕は、あなたと友達でいたいんだよ。」
「……最高の言葉だわ!私も同じ気持ちです!アルシュさん!」
彼女の表情は、木洩れ日と同じくらい輝いている。
僕もうれしくて笑う。
「もう一曲弾いてもいい?」
「ぜひ!聞きたいです!」
僕は日に日に体調がよくなってきている。
一日の、ひとつ一つのことがうれしい。
僕は、深呼吸する……。
とても気持ちがいい……。
どこもなんともない……。
身体のすみずみまで、明るい気分が満ちている……。
……もしかしたら、この感じ、
メルツが霧を喜ぶのと、似ているのかもしれない……。
僕は時々、ルイス博士と連絡を取っている。
「ルイス博士。お元気ですか?研究のお仕事、大変ですか?」
彼は嬉しそうな笑顔で言う
「アルシュ君。心配してくれてありがとう。
元気にしてるよ。
チームの人達はみんな協力的で、熱意があって、僕は励まされてるよ。
地道で果てしない研究だけど、根気よくついて来てくれてる。
ダルシアンの研究を引き継いでるって事が、誇らしいみたいだね。
みんなのおかげで、僕も決心を新たにして取り組めてるよ。」
頼もしい科学者のルイス博士。
「そうですか。順調そうで何よりです。」
「またエマスイ邸に遊びに行きたいな。
クリスマスの頃、行ってもいいかな。」
と、彼はにっこりする。僕は嬉しくなる。
「楽しみにお待ちしてます!」
もう真夏だ。
日中は半そでで過ごせる。
二階の窓から見下ろすと、サマーが庭にいるのが見えた。
サマーは時々、庭でダンスをしているのだけど、今日は格闘技のような動きをしている。
すると彼は僕に気づき、楽しそうに笑って手招きした。
外へ出ると、彼は言った。
「よかったら、相手してみない?」
「え!僕が!?」
僕は武道の経験は、全くない。
「俺がこうやってキックしたらよける。パンチしたら掌で受ける。
それだけだよ。このくらいゆっくりやるから大丈夫。」
そういわれても。けど、ちょっと面白そうなので、やってみることにした。
僕はサマーの前に立つ。
「じゃ、行くよー。」
サマーのスローパンチを片手に受ける。もう一つ。
一歩近づいてきて、下からパンチが来る。片手で受ける。
すぐにキックが肩のあたりに来る。慌ててよける。一歩下がったので、サマーが近づいてきてパンチする。何とか片手で受ける。
お腹のところに、押し出すような低いキックが来る。
こんなにゆっくりな動きでも、パンチを受けられる距離でキックをかわすのは大変だ。
慌てて腕でキックを受けようとしたら、
「腕は無し。よけて!」
と言われた。
十五分ほど動いただけで、二人とも汗だくになった。
サマーはすっきりした良い笑顔で、
「お疲れ。アイス食べる?」
「ください……。」
本当に疲れた……。
サマーは日陰のベンチまでアイスを持ってきてくれた。
「兄と一緒に習ってたんだよね。」
大きいスプーンでカップアイスを食べるサマー。
「へえ、ピアノと武術ですか?」
「そう。兄は武術、俺はピアノに分かれた。アルシュ、受けたりかわしたりばっかりは疲れただろう?」
「けど、集中して面白かったです。」
パンチは軽く僕の手を押すだけ。キックはゆっくり上げて伸ばすだけ。
でも、だけじゃない。サマーはずっと中腰だったし、片足立ちでも、ほとんどぶれずにいた。
彼は、常に次の動作を準備していたはずなのに、僕は次に何がどこに来るか、ぎりぎりまでわからなかった。
廊下の窓から見ていた時は、スッスッと素早く動いていた。
きっとサマーとお兄さんは、あのスピードで対戦できるのだ。
「サマーって、すごい!」
「え、俺はすごくないよ。アルシュも慣れればあれぐらいできるようになるよ。」
「どうかなあ……。」
僕は小さいスプーンで、ガラスの器の底に少し溜まっているアイスをひっかく。
「できるできる。よかったら今度攻撃の仕方教えるけど。」
「教わりたいです!」
そのあと、僕は自分の部屋でこっそり、パンチとキックをしてみた。
右手……、左手……、右足……
「うわ!」
バランスを崩してよろけた……。
日々、ふと思い出す人が、何人かいる。
その中に、ある看護師さんがいる。
彼女が小児病棟へやってきて、すぐに気が合って、仲良くなった。
僕は勝手に、姉のように思っていた。
彼女にとって僕は、何人もいる患者の一人だったろうけど、彼女のいる日は、より安心できた。
彼女に、なぜ看護師になったのか、聞いたことがあった。
「私はね、記憶力はいいほうなの。だから、それを生かせる仕事がしたかったの。」
確かに覚える必要があるものは多いだろう。
けど、医療の記憶とは違うことだった。
「ここに来た子、一人一人を、ちゃんと覚えておくことが大切だと思うわけ。アルシュさんのことも、一生忘れないからね。」
僕たちが調子のいい時も、病が進行している時も、大切に思って、そして覚えていてくれる。
僕は救われたような気持ちになった。
もし僕が死んでも、彼女は……。
「じゃあ、もっといいところを見せなきゃね。」
と、僕は口元をあげて見せた。
熱があってしんどい僕の世話をしてくれていた彼女は、明るく笑った。
「大丈夫。アルシュさんは、ちゃんとカッコいいよ!」
僕が……病気になって……入院したてのころ……。
僕は……毎日のように、涙をこぼしていた……。
担当医の先生や、看護師さんが、みんな、僕にとてもやさしいから……。
ちょっとしたことでほめてくれたり、励ましてくれたり、僕に笑顔を向けてくれたり。
僕の話を、不安を聞いてくれて
やさしい言葉をたくさんかけてくれた……。
そのたびに僕は、
まるで、
僕が生きていることに対して、
花束を贈られたかのように
心が震えて、涙が出た。
自分がどれだけ、優しい大人を必要としていたかがわかった。
それからは、毎日が幸せだった。
両親から受けたたくさんの傷を、忘れている時間が増えていった。
温かくて……
叫び声も聞こえなくて……
ずっとここにいたい……
病気でいたいと思った……。
僕が、ダルシアン博士とルイス博士のところへいくと、担当医の先生に話したとき、
先生は、当然いい顔はしなかった。
ルイス博士にそう伝えると、彼はオンラインで、自身の身体にあるシステムのデータを示して、システムがどんな物かを、担当医の先生に説明してくれた。
僕の決意は固かったけれど、先生は黙っていた。
けれど。
数日後、先生に呼ばれた。
「よく調べてみたよ。信じがたい技術だし、僕にはわからない部分もあるけど、機能としては、よくできているとしか言いようがない。
まだ僕は信頼しているわけじゃないけど、君には必要なものなのかもしれない。
それに……
僕は何人もの子をコールドスリープに送り出してきたし、間に合わず、亡くなった子もいる。
彼らのことを思うと、システムという選択肢は……、
ありだと思う……。」
ルイス博士がドローンタクシーで迎えに来た日。
先生はこっそり、僕を見送ってくれた。
「あとのことは任せて。そのうち連絡ちょうだい。」
笑顔でそう言ってくれた。
僕は、いただいたギターをお返しした。大きい荷物は持って行かないほうがいいと思ったから。
彼は、受け取って言った。
「……幸せを、祈ってるよ。」
……僕が消えたことを、先生はどうやってごまかしたんだろう。
親には転院したと伝えたようだと、ルイス博士から聞いている。
「先生。僕は元気になりました。毎日ピアノとギターを弾いています。入院中、とてもお世話になりました。本当にありがとうございました。感謝の気持ちを込めて、僕の演奏をお送りします。
アルシュ」
自作の曲を弾いている動画を添付し、先生にメールした。
「おめでとう!」
と、祝福の返事と、お世話になったスタッフの方たちの笑顔の集合写真が届いた。
安定している数値。マイナスの温度。
僕は今日も、ローイの状態を手帳で確認する。
……ローイに話したいことが、たくさんある。
日に日に、増えていく。
毎日、彼に語りかけたい。
凍っていても、近くにいたい。
目覚めたら、
すぐに会いに行ける距離にいたい……。
エマスイは、ときどき花屋を呼ぶ。
リビングや、玄関、自室に飾るために。
僕とサマーにも、花を選ばせてくれる。
なので、僕も数本、自室に活けるようになった。
美しい花が部屋にあると、思わず微笑んでしまう。
花が生き生きと咲き続けられるよう、僕は毎日花瓶の水を変えている。
美しい花のある部屋で、眠り、目覚める。
朝、花が変わらず咲いていると、僕も元気になる。
散っていると、いたわるように花びらを集め、愛しんで香りをかぐ。
エマスイは、花をとても愛している。
「花に触れるように、音楽を奏でるの。」
音が、花になる。
フレーズが、曲が、音楽という庭園になる……。
花屋が帰った後。
彼女は、両腕に抱えた愛しい花束に、キスするように、そっと顔を寄せる……。
エマスイが僕に言った。
「体調はどう?」
「調子いいです。」
「そうね。音も生き生きしてきたわ。それで、どうかしら。レッスン受けてみない?」
「え、もしかして、」
「私でよければ。」
「ぜひお願いします!エマスイ先生!」
「はい。こちらこそ。」
ようやく先生と呼べてうれしい。
初めのころに、彼女に言われていたから。
「ピアノ以外に私が教えられることは本当に少ないから、一日中先生だと居心地が悪いの。」
そう言ったときの彼女の表情は、とても若く見えた。
彼女は時々、年齢よりずっと若いように思える……。
夜寝る前。
僕はベッドに横になって、AIの報告を見る。
今日一日の僕の体の状態が、額の画面に表示される。
ずいぶん丈夫になった。
たいていの有害な菌やウイルスと戦える体になったらしい。
すごいことだと思う。
僕は、システムの仕組みを説明されても、分からないことだらけだけど、どれだけ精緻な構造なのかは、感じ取れる。
ほんの数ヶ月前、僕は心身ともに弱っていて、寝たきりになりかけていた。
どれだけ作曲しても、ギターを爪弾いても、
儚く消えてしまう……。
そう思えるくらい、治らない病を患っているのが辛くて、孤独で、消耗していた。
先生は、コールドスリープさせるタイミングを経っていて、僕はもう、抵抗する気力も無くしていた。
自分から、眠らせてくださいと頼もうかとすら、思っていた。
なぜか、涙が止まらなくなる事が度々あった。
病気だって事が、悲しくて、悔しかったんだと思う。
いつも優しい先生や看護師さんの前では、しっかりしていようと思っても、元気になれなくて申し訳ないと思ったり、
コールドスリープしてしまったら、ローイとも、誰とももう会えないかもしれないと思うと、よけいに泣けた……。
こんなんじゃ、他の入院患者の子たちを不安がらせてしまうと思っても、うまくコントロール出来なかった……。
ルイス博士の作った治験者募集のサイトが僕の端末に現れたのは、そんな時だった。
入院中や、十代のタグから、AIが探し当てたらしい。
ダルシアン博士は、多くの実績のある人だった。
僕の身近にある医療機器も、彼の発明だと知った。
この人に、治してもらいたい……。
不認可の治療法でも、構わない。
やっぱり僕は、
コールドスリープも、
死ぬのも嫌だ!
ローイだって、そうだったはずだ。
どれだけ希望のある言葉を言われても、コールドスリープを受け入れるのは、悔しくて悲しくて、不安だったはずだ。
ダルシアン博士なら、僕の事も、ローイの事も、治してくれる……!
彼のところへ行くと決めて、連絡をした……。
ウェブ面談を経て、ルイス博士が僕の病室に会いに来た。
キラキラした良い笑顔の可愛いお兄さんだった。
システムとダルシアン博士について、熱く語っていた。そして、
「アルシュ君、必ず治るよ!
三ヶ月後には、元気に動き回れるよ!」
と、言った。
そんな事、言ってくれたのは、ルイス博士が初めてだった……。
僕の髪の毛と皮膚の細胞から、僕専用のシステムを作ると言って、持ち帰った。
「必ず……治る……」
僕は……嬉しくて……
明るく、眩しくて……
喉が痛くなるくらい、熱が出るくらい、
泣いた……。
心の底から、欲しい言葉だったのだ……。
初めに聞こえたのは……、
熱心にキーボードをたたく音……。
目を開けてそちらを見ると……、
透明なビニールでできたICUの外に、ダルシアン博士がいる。
パソコンに向かっていて、横顔が見える。
僕はまだ、ぼんやりしている。
頭とおなかを手術した後だけど、まだ痛みはない。
……本当に額に画面がある。不思議だな……。
目をつぶっても見えてる……。
軽やかな足音が聞こえたので、薄目を開けると、ルイス博士が部屋にやってきた。
彼は小声で言う。
「ダルシアン。食事して、お風呂入ってきなよ。」
ダルシアン博士は、
「うん。ありがとう、そうするよ。」
と返事して、肩をそらせ、首を回す。関節が鳴る。
「ふふ!システム入れても、猫背治らないね。」
「ああ、そうか。」
と、姿勢を正す。
「ほぐすよ。」
「お願い。」
ルイス博士がダルシアン博士の肩をマッサージし始める。
どうやら日常のようだ。二人は本当に仲がいい。
僕は二人を見ていると、ローイを思い出す……。
ルイス博士が楽しそうにハミングし始める。
ダルシアン博士がくすっと笑う。
「そのアニメ、懐かしいな。」
「あ、見てた?」
「ああ。リアーナと一緒にな。」
と、ダルシアン博士も口ずさむ。彼は少しだけ音痴だ。
「ねえ、ダルシアン、そのうちファブリアーナさんが目覚めたらさ、三人でテーマパーク行こうよ。君と彼女がよければだけど。」
「ああ、いいよ。行こう。二人は気が合いそうだよ。ふふ。」
すると、ルイス博士は、ダルシアン博士を背後からハグする。
「ダルシアン。おめでとう。」
「まだ早いよ。」
「早くないよ。結果が出てるんだ。」
僕たち被験者の事だ。
「そうだな。ありがとう。ルイス。」
「ふふ。」
ルイス博士が離れると、ダルシアン博士はルイス博士のほうを向いて言う。
「ルイス。学会発表が終わったら、二人でどこかへ旅行に出かけないか?
行きたいところ、考えておいて。」
と、立ち上がり、いい笑顔でルイス博士の肩を軽く叩いてから、部屋を出て行った。
「え……」
ルイス博士は振り返ってダルシアン博士の後ろ姿を見つめる。
「二人っきりで……旅行……!?
ま……さか……
いや!はは!社員旅行だよ。うん。絶対そうだ!」
すごくうれしそうで、耳まで綺麗に赤く染まっている。
「もう……!ダルシアン……!そんなボーナス考えてくれてたなんて!大好き!」
と、ルイス博士はかわいく身もだえしていて、僕はくすっと笑ってしまった。
「あ!アルシュ君!目が覚めてた……!?」
「すみません。」
ルイス博士は照れ笑いして、
「ははは!」
ICUに入る準備をしてから入ってくる。
「気分どう?」
「悪くないです。
社員旅行じゃないと思いますよ。」
「え!うーん、いやあ、どうかなぁ。」
恥ずかしそうに片手で口を隠して首をかしげる。
「ダルシアン博士にとって、今一番、一緒に旅行に行きたい人が、ルイス博士なんですよ。
楽しみに思っているんですよ。」
「……ありがとう。
じゃあ、張り切ってプランを考えるよ!」
「ふふ。後で写真見せてください。」
「見せるよ~聞かれちゃったもんね!お土産も期待してて!」
僕はあわてる。
「いえ、そうじゃなくて……、
懸命に研究して、
僕を救ってくれたお二人が、
楽しく休暇を過ごしているのを見るのが、
うれしいんです。」
と、微笑む。
「アルシュ君……。
君を助けられて、僕はすごくうれしいよ……!」
火事の、二週間前の事だった……。
あの話を聞いたのもあって、僕はルイス博士をエマスイ邸へ招いたのだ……。
一緒に旅行へ行くはずだったダルシアン博士の代わりにはなれなくても、しんどい彼を労って、少しでも気分良く過ごしてもらえたらと……。
ルイス博士は言っていた。
「また来たいな……。」
僕は微笑んだ。
「また来てください。」
額の画面に五線譜を広げる。
もともとメモの機能があって、それをAIに改造してもらった。
昼はピアノやギターの楽譜を映す。AIに命令する文章を作るのと同様に、念じて加筆できるし、端末を持ち歩かなくていいのは便利だ。
そして、まっさらな五線譜を出して、作曲もする。
データは、ネット経由でクラウドにもメモリースティックにも保存できる。
五線譜を見つつ……
……僕は……
オーケストラになる……。
場ができて、風が吹き、香りが広がる……。
オーケストラの可能性の広さは、考えただけで、まるで冒険のようにドキドキする。
……ひと段落してから画面を閉じ、枕元の明かりを消して、眠りにつく……。
夜中。
僕の部屋の窓辺に、メルツがやってくる。
カーテンの開いている窓から中をのぞき、眠っている僕を眺める……。
しばらくそうしてから……、
彼女は森へ去っていく……。
……たぶん、この家の住人は、皆そうしてメルツに見守られてきたのだ。
カーテンの開いた窓から……。
メルツは、人ではなく精霊。
彼女にどんな力があるのか、知らないけれど、
この家で安寧に過ごせ、眠れるのは、
メルツの姿が見える、見えないに関係なく、
いくらかは、彼女のおかげであるのかもしれない……。
僕やローイよりも先に病院へやってきて、長く入院していた先輩の少年たちが、何人かいた。
僕とローイは十歳の時、病院へ入った。
一月もいると、先輩と会話するようになり、顔なじみになる。
彼らはときどき(?)馬鹿をしていたけれど、いい人たちだった。
先輩たちはそれぞれに、昔いた友人たちの話をしてくれた。
冬眠している人、退院した人、そして、亡くなった人。
命日に、紙で作った花を、タブレット端末の前にお供えしていた。
画面には、少年の動画が映っていた。はにかんだ表情でこちらを見ていたり、手を振ったり変顔したりしていた。
先輩方の部屋の棚には、おもちゃが並んでいた。
それらは、昔一緒に遊んだ友人のものだった。
あの病院の子たちは、十八歳になると、別の病院へ移らなければならない。
僕の入院生活が長くなるにつれ、一人、また一人、なじみの人が移っていった。
ローイがコールドスリープしてしまった後は、僕より年上は一人だけになってしまった。
ある日。
コールドスリープしていた先輩が一人、目覚めることになった。
病気の研究が進み、治療できるようになったから。
久しぶりに帰ってきた彼は、
「先生白髪増えた!」
と、屈託なく笑ったと聞いた。
彼からすれば、未来にタイムスリップしたようなもの。眠って、目覚めたら、五年たっていたのだ。
当時同い年だった友人たちは、五つ年上になっていた。退院したり、ほかの病院へ移ったり。彼らから、祝いのメッセージが届けられた。
僕は、彼より後に入院したけど、年は一つ上だった。
彼は五つ年上になった仲間と、オンラインで話していた。
心から喜びあい、亡くなった友人の話を聞いて涙し、退院した友人のことを祝い……。
様々なことを聞き、目の当たりにして、五年の隔たりを感じ取っていた。
元気になっていく彼の姿を、僕は見ていた。
先輩たちは暖かく、
彼は五年の距離を受け入れていった。
「変わったところも、全然変わってないところもある。
五年は長い空白だけど、でもみんな、
待ってた!お帰り!って言って喜んでくれたから、
だから僕は大丈夫だ。」
希望のある目をして笑っていた。
僕は、彼らを、ローイと僕に重ねてみていた。
……ローイ……僕は待ってるよ。
何年かかっても、君の目覚めを待ってる。
その日は、君のもう一つの誕生日になるね……。
「アルシュ、短い間だったけど、友達になれてよかった。ローイが早く目覚めるよう、僕も祈ってるよ。」
と、先輩は、僕と握手して、退院して行った。
森の中。
僕はメルツのそばで、ギターを弾く。
「メルツ、この歌は知ってる?」
伴奏しながら歌うと、彼女は
「知ってます!」
と、一緒に歌った。
すぐに、彼女がとても歌がうまいことに気づいた。
のびやかで、暖かな歌声……。
森の木々も、花も、雲も、生き物たちも、
彼女の歌とともに生きているように思えた……。
メルツは、僕と森に歌っていた……。
エマスイの母親が、メルツの事を歌姫と呼んでいた意味が分かった……。
メルツは歌い終わると、楽しそうに笑った。
メルツは本当に音楽が好きなのだ。
「どこで歌を覚えたの?」
と、聞いてみた。
「森のはずれにある教会や、エマスイさんや彼女の母親がかけるレコードなどです。エマスイさんの母親、アリシアさんから歌を教わったこともあります。」
と、答えた。
夏の月夜に、窓を開ける。
森のどこかから……
微かに、メルツのアリア……。
エマスイが、懐かしそうに話す。
「そう、母も、彼女のことを女神とか、歌姫と呼んでいたわ。
「ほら、歌が聞こえる。」って言われて私も耳を澄ますんだけど、葉擦れの音しか聞こえないの。拍手をする母がうらやましかったわ……。」
アリシアさんがメルツに歌を教えていたということは、エマスイは知らないのかもしれない。
知っているかどうか、僕は訊ねなかった。
まず、メルツと会話して、メルツをもっと知ってほしいと思っているから……。
子供のころの、寂しさを、埋めてほしいと……思うから……。
「エマスイにも、サマーにも、メルツの姿が見えて、会話できるようにする方法があればいいのに……。
僕が、そんな魔法を使えたらいいのに……。」
僕が両親と暮らしていたころ、
たびたびつらいことがあって、僕の中で叫び声が響いていた。
僕はいつも緊張していて、悲しみより、辛さや怖さが増さっていて、泣けなくなっていた。
ただ悲しみのためだけに泣けたらと、思っていた。
そうできるのは、僕より幸せな人だと思えた。
ただ……ピアノが、僕の代わりに泣いてくれたし、泣かせてくれた。
ピアノの美しさに、曲の美しさに、現実を溶かし込めば、僕は泣くことができた……。
音楽なら、温かい雨を降らせることもできるし、
晴れ渡った日差しで、心を照らすこともできた。
……ほんのつかの間だとしても……。
メルツが楽しそうに言った。
「アルシュさん、そのギターに触ってもいいですか?」
「いいよ。」
ギターを草の上に置いた。
弾きたいのかな、と思ったけど、違った。
メルツはギターの表面板をなでて言う。
「この木は見晴らしのいいところに生えていたんですね。こっちは……」
と、側面を触る。
「寒いところに。この木は……」
ネックを握って、
「背が高かったんですね。」
「すごい!さすが!」
彼女ははにかんで笑う。
「加工されていても、木には記憶が詰まっているんです。魂は抜けていても、どんな一生だったかを読み取れるんですよ。」
「へえ……!」
僕も改めて触ってみる。けれど、やっぱり……
「僕には読めないみたいだ。」
メルツは、僕の手に、手を重ねた。
とたんに、僕とメルツは樹木になっていた。
深く根を張り、天へ、光へ、枝葉を伸ばし、
高く、大きく……育っていく……。
木は、季節を知っている。
夜を、朝を、間違えない。
けれど、人間が自分に何をするかは知らなかった……。
木材になった木は、ゆっくりと乾燥していき、
しばらくとどまっていた魂は、やがて抜けて、
森へと帰っていく。
魂は地上の種に宿り、目覚めて芽を伸ばす……。
メルツが手を放し、僕は僕に戻った。
彼女は、にっこりして見せる。
僕は言葉がでない……。
「……。
……このギターを抱えて弾くたびに、森の音がするなって、思ってたんだ……。」
涙がにじんだ……。
ある日。
新米の女性看護師さんが、血圧測定と自己紹介をしに、僕の病室へ来た。
僕は微笑んで彼女に言った。
「お姉さん、かわいいね。僕とお茶でもどう?」
「どうだった?」
と、ローイがやって来た。
僕は首を横に振った。
二人の新人看護師さんに、僕とローイはそれぞれ声をかけたのだ。ナンパだ。
ローイは、
「ありがとう!かわいい!」
と、大笑いされて恥ずかしかったらしい。僕は、
「彼氏に悪いからごめんね。」
と、にっこりされた。
「そっか。お姉さんが彼女なんて、その人は幸せだね。」
と、僕も微笑んだ。
「ふふ、ありがと!」
僕は居住まいを正して少し大げさに言った。
「僕はアルシュです。これからよろしくお願いします。新しい環境で大変だと思いますが、お仕事頑張ってください。」
彼女も調子を合わせて、
「ありがとう。こちらこそよろしくおねがいします。アルシュさん。」
二人で笑いあった。
「声をかけるのは割と簡単だね。」
「そうだな。」
もしOKだったらどうしてただろう。
販売機で飲み物を買って、談話室のソファーで話をしただろう。
「おし、来年リベンジだ!」
ローイが真面目な顔で、こぶしを突き上げた。
僕も一緒にこぶしを突き上げた。
当時僕らは十二歳だった。
今思い返すと笑ってしまう。
次の年は、ローイの具合が思わしくなくて、ナンパは見送りになった。
その次の年は、ローイがコールドスリープしてしまっていた。
……ローイが起きたとき、僕にまだ恋人がいなかったら、
「またやろうぜ。」
って言われるかもしれない……。
「ふふ!」
ある日、エマスイが言った。
「アルシュ、楽譜を出版してみない?」
「え!」
「この間くれた楽譜を、知り合いの音楽雑誌の編集者のかたにお見せしたの。
そしたら、うちで本を出そうかって言ってくれたのよ。一度お会いしてみない?」
「ぜひ!」
本を出すのは、夢だった。
一週間後に、その方は、わざわざ僕に会いに来てくれることになった。この、エマスイ邸に。
「エマスイ先生、お久しぶりです!」
彼は、エマスイに握手した。それから僕を見て、
「あなたがアルシュ君ですか?」
「はい。そうです。」
僕たちも握手した。
「彼女から聞いていた通りだ。」
と、彼は微笑んだ。
エマスイが僕の事をなんて話したのか知らないけど、僕も彼を見て、エマスイの話した通りの人だ。と思った。
『楽しい人よ。会うたび、違う眼鏡に蝶ネクタイなの。』
と、くすっと笑っていたから。
僕たちはリビングの食卓で話をした。
「アルシュ君は今まで何曲くらい作曲したんですか?」
「形になっているのは、二百曲くらい。まだできていないのは五百曲くらいです。」
「若いのにそんなに!」
曲を作るようになって、十年たつから、少ないほうだと、自分では思う。
「短いのも、ループしてるのも、長いのも、いろいろあります。よろしければ、いくつか弾いてお聞かせします。」
「ぜひ聞かせてください。」
僕はリビングのピアノで、エマスイが褒めてくれた曲を弾いた。
エマスイと編集者の方は、端末で楽譜を見ている。
演奏し終わると、彼は言った。
「いいですね。なるほど。君が弾くとこうなるんですね……。」
エマスイは、
「そうね。人によって、弾き方が変わる曲かもしれないですね。」
確かに、この曲はエマスイが弾くと彼女の特色が出て、僕とはまた違った趣になる。
編集者さんはにっこりして、
「それが楽しい。」
「そうなの。」
僕は編集者さんにリクエストを聞いて、何曲か弾いた。
「アルシュ君、体調は大丈夫?」
「はい。大丈夫です。」
もう、一時間はバテずに弾き続けられるくらいの体力がある。でも、
「私も弾いてみましょうか。」
と、エマスイが申し出たので、交代する。
さっき僕が弾いたのと同じ曲を弾いてくれた。
編集者の彼は言った。
「うん……。この曲をタイトル曲にしましょう。曲名もこれでいいと思いますよ。」
「ありがとうございます!」
「同じくらいの尺の曲を五、六曲、あとは短めの曲を十曲ほど入れましょう。」
候補の曲の音源と楽譜を彼に送った。
彼は笑顔で、
「半年後に出版しましょう。」
「うれしいです!」
夢がかなう……!
出版社のロビーで記念リサイタルをすることも決まった。
半年後だから、来年の春先だ。
……リトルサウンド。
それが、僕が初めて出す本の、タイトル……。
コツコツ、と、音がした。
「アルシュさん。」
声のほうを見ると、窓の外に、真っ白な鳩がいて、こちらを見ていた。
「え……?」
鳩が言う。
「私です。メルツです。」
「え!」
僕は近づいて窓を開ける。
「メルツ!君は鳩にもなれるの!?」
前は鹿になっていたから、メルツは鹿に近い精霊なのかと思っていた。
メルツは少し首を傾けて言う。
「この姿は、なんというか、鳩と仲良くなるための姿です。」
「へえ!とてもかわいいよ!」
僕は笑った。
しゃがんで窓枠に腕を置いて、目線を合わせる。
「鳩と仲良くって、鳩の言葉で話したりするの?」
「はい。群れに入れてもらって、一緒に行動したりします。」
「そっか……。ふふ。よかった!じゃあ、メルツは一人じゃないんだね!」
この森に精霊は一人だと聞いていたから、孤独なんじゃないかと心配してた。
「そうですよ。鳩にも感情があって、良く思われるとうれしいものです。」
鳩のメルツは、目を細めた。
僕も嬉しくてにっこりする。
「あ、そろそろ行かないと。ではまた。アルシュさん!」
メルツは羽を鳴らして飛んで行った。
「よかった。鳩たちには、君の姿が見えるんだね……。」
夕食の時、サマーが言った。
「アルシュって、メルヘンなとこあるんだね!」
くすぐったそうに、楽しそうに笑っている。
「え、僕、メルヘンですか?」
どこがだろう……。今仕上げている曲がだろうか……。
「昼間、窓のとこで、白い鳩に話しかけてたでしょ!」
「ええ!?」
僕は驚く。
僕の反応に、サマーはちょっとうろたえる。
「あ、ごめん!知られたくないことだった?」
「……その鳩、メルツです!」
「え?」
「あの白い鳩は、精霊のメルツなんです。サマーにも見えたんですね!」
僕はうれしくて笑う。
「あはは!」
「えええ!?」
と、今度はサマーが目を見開く。
エマスイも、息をのむ。
「……私も見たことあるわ……子供のころから、ごくたまに、はぐれた白い鳩が窓辺にいることがあって……まさか……。」
「たぶん、どの鳩も、メルツです……。」
「ああ……。」
エマスイは口を手で覆う。
「そうだったのね……。」
と、目を閉じた……。
「あっ!あーあ。」
サマーは、スプーンですくったドリアを落として、服を汚してしまっていたのに気付いた。
子供の頃の事。
雪の日、真っ白な鳩が窓辺にいるのに、私は気が付いた。
鳩が、こちらを見ているように感じた。
私は少しずつ近づいて、窓のすぐそばに立った。
雪のように美しい鳩は、人に慣れているのか、逃げずにこちらを見ていた。
私は窓を開けた。凍える冷気が部屋に流れ込んできた。
「お入り。外は寒いでしょう。」
鳩は、首をすくめて目を細めた。
なるほど、人間の部屋には入りたくないのかもしれない。
でも、おなかをすかせているのかも。
「待ってて。パンを持ってくるわ。」
私は急いでキッチンへ行き、パンを取ってきた。
けれど、もう鳩はいなくなっていた……。
残念で、寂しくなった。
「……お友達になりたかったのに……。」
パンをちぎって窓辺へ置いた。
「いつでもおいで。」
十代半ばのころのこと。
その時私は、どうしても曲がつかめなくて、途方に暮れていた。
ため息をついた。
「次のコンクールまでに仕上がるかしら……。
なんだか弾けば弾くほど、下手になっているような気がするわ……。」
ままならなさに、絶望しそうになっていた。
夏の森を眺めて、少しでも気分転換しようと窓を見た。
すると、窓の外に、白い鳩がたたずんでいた。
「ごめんなさい。ひどい演奏を聞かせてしまったわね……。」
けれど、私は少し気持ちが和んだ。
もう一度、曲にトライした。多少ましになったように思えた。
窓を見ると、白い鳩がまだいて、こちらを見ていた。
心なしか、応援してくれているように思えた。
「そうね。悲観することないわよね。」
暗譜し、くりかえし弾き、暗闇を手探りして自分の演奏を探る……。苦しいのは毎度のこと……。
もう一度、集中して弾いた。
休憩しようと立ち上がったころには、鳩はいなくなっていた。
アルシュはずいぶん元気になった。
毎日のように、サマーとアルシュの笑い声が、この家に明るく響いている。
アルシュは……最初のころは、いつも暖炉の前のソファーで、毛布をかぶって座っているか、横になってうとうとしていた。
五線譜を埋めるのも、しんどそうだった。
笑っても、笑い声を立てることは、ほとんどなかった。
ピアノを弾くたびに、倒れていた。
けれど、三か月がたった今では……
サマーとじゃれあうみたいに追いかけっこしたり、階段を駆け下りてきたりしている。
ようやく彼が、十五歳の少年らしく見えるようになった。
物静かで、はかなげな印象だった彼。
彼が変われたのは、ルイスとダルシアン博士が作ったシステムのおかげ。
設置されているシステムで、彼は本当に健康になれたのだ。
「アルシュ〜?」
俺は今日も、アルシュと一緒に料理を作ろうと思って、彼を探している。
リビングの入り口をのぞいてみたけどいなくて
彼の部屋へ行ってノックをしたけど、いないみたいで
ベランダから庭を見ても
楽譜部屋を見てもいない。
何も言わずに散歩に行ったりしないし……。
エマスイはピアノ室だ。
一人で練習してる。
後は……玄関の外かな?
と、リビングの前を通りがかったら、物音がした。
覗くと、ソファーにアルシュが座っていて、靴を脱いでいる。
「いたいた!」
近づいて声をかけようとした。すると彼はこちらに気づいて、
「サマー……すみません、僕、今日は作曲します。」
と、すまなそうに微笑む。傍らにノート。
「ああ!わかった!全然かまわないよ!」
俺はニコっとして親指を立てる。それから手を振ってキッチンへ戻る。
邪魔しないようにしなくちゃ。
作曲中のアルシュは、すごく繊細だから……。
彼は、曲を作っている間は、曲の世界に心が行ってしまっていて、半分ここにいない……。
昨日はあんなに動き回って、武術の練習をしたり、料理したり、俺の話に大笑いしたり、元気にしてたのに、今日はいないみたいに静か。
まるで、この家に来た最初の頃みたいに、じっとしている。
でも……彼が曲を紡ぎ終わるまで、静かに見守っていよう。
羽化する蝶を見守るみたいに。
そのうち、羽が乾いて、蝶が飛び回るように、
新しい曲が、ピアノから、ギターから、流れ出すだろう……。
それまでは……、
彼のほうから声をかけてくるまでは……
俺は人差し指を口の前で立てる。
……僕の中で……短調の曲が始まった……。
ガラスのように繊細で、美しい……。
けれど……
きらめいて砕けてしまう……。
僕は苦しくなる……。
僕にとって曲は、僕自身の一部であり、一人の人間のようなものだから……。
……壊れたままは嫌だ。
どうにか修復したい……。
転調する。
一つ一つかけらを集め、魔法の言葉を唱えながら、元の位置に置いていく……。
最後のかけらを置くと、全てがつながり、元通りになった。
良かった……。
ここでもう一度、最初の短調に戻るのも一つの手法だけど、今回は転調したまま終わりたい。
なので……かけらを拾う音色を、ところどころ半音下げて書いた。
これで揺らぎと奥行きが出るから、最後、元通りになった時の長調が効果的に響く……。
もう一度読み返して、数か所手を加える。
ここまで書けば、いったん離れられる。
僕はノートをとじた。
ソファーの上に載せていた足を降ろし、靴を履いてキッチンへ行く。
冷蔵庫を開けて、サマーが作ってくれた昼食を取り出す。
レンジで温め、作業台に並べ、作業台の下にひっかけてある木製のスツールを取り出して座る。
「いただきます!」
今日の献立は、スープとオムライス。
おいしそう!
良く晴れた日、
僕は庭にメルツを連れてきた。
庭では、エマスイとサマーが待っている。
エマスイが僕に言う。
「メルツさん、いらしたのかしら?」
「はい。」
僕がメルツを見上げると、エマスイとサマーもそちらを見上げる。
僕は肘を片方、肩の高さまで上げる。そして、メルツにうなずいた。
彼女はふわりと舞い降りてきて、白い鳩に変化する。
エマスイとサマーが驚きの声をあげる。
二人には、空中に突然、鳩が現れたように見えただろう。
メルツはそのまま飛んできて、僕の腕にとまった。と、同時に白い翼にベージュ色の模様が現れる。
僕は彼女にほほ笑む。
「ナイス着地!」
彼女はくすっと笑った。
エマスイが近づいてきた。
すると、メルツはベージュ色のリスの姿になった。
また、エマスイとサマーが驚く。エマスイはもう一歩近づいてきて、微笑んで言う。
「メルツさん。……お会いしたかったわ。あなたとお話しするのが夢だったの。子供のころからね。」
メルツはふわふわのしっぽを振ってきちんと座って言う。
「私もエマスイとお話ししたかったです。
……声が届いたらいいのになって……思っていました。」
僕はエマスイにメルツの言葉を伝える。
エマスイは感動する。
「まあ…。そう思ってくれてたなんて……。こんな日が来るなんて……。」
「はい。」
長い間、お互いを知っていて、思い合っていた二人。
今、初めて視線を交わして、会話している……。
メルツは僕の腕の上を歩いてエマスイに近づく。エマスイもかがんで目線の高さを合わせる。
「メルツさん、とても美しい方なんでしょうね。その姿も、とても美しくて可愛らしいもの。」
「……。」
リスのメルツは、恥ずかしそうに自分のしっぽを抱いて、顔を隠した。
「すごくうれしいです……!お話しできて……褒めてもらって……!」
「まあ。」
エマスイがくすくす笑う。
「メルツさんはシャイなのかしら?」
「ふふ。すごくうれしいって言っています。」
僕はエマスイの肩に手を伸ばす。
メルツは僕の腕の上を走って、彼女の肩に乗る。
エマスイはにっこりする。
「メルツさん、これからもよろしくね。」
「こちらこそ!」
と、真っ白なリスのメルツはしっぽを二度振る。
「ねえ、触ってもいいかしら?」
メルツが頷く。
「はい!」
エマスイが指を近づけると、メルツは握手するように指先を両手でそっとつかんだ。
「ふふふ!」
握手が終わると、エマスイはメルツの背中をなでた。
「なんてかわいいの。」
メルツは目をつぶって、エマスイの指にすり寄っている。
エマスイがベンチに座ると、メルツは肩からベンチに下りて、真っ白なウサギになった。
エマスイは楽しそうに笑う。
「何になってもメルツさんだってわかるわ。雰囲気が一緒だもの。」
エマスイがメルツとベンチで話している時、僕とサマーは、少し離れてみていた。
「アルシュ。」
サマーは口元に手をかざして僕の耳に顔を近づける。小声で言った。
「俺、メルツさんが怖くなくなったよ。」
離れたサマーは微笑んでいる。
「そうですか!よかった!」
僕も笑う。
「アルシュさん!」
メルツに呼ばれた。何か伝えたいことがあるらしい。
私は、森の木々の枝をスイスイと避けて飛んでいく。
いつも音楽が聞こえてくる屋敷に着いた。
でも今は……誰もいないおうち。
かわいい小さなエマスイも、母親の演奏旅行に一緒について行ってしまった。
私はそっと家の外から、部屋を見て回る。
リビングを眺めたり、ピアノを眺めたり。
そうして二人が帰ってくるのを待ちわびる日々……。
彼女は、私が毎日聞いている音楽を、たくさんの人々に届けに行ったのだ。
それは、素晴らしいことだし、自慢したいくらい誇らしい。
でも……音楽も明かりもないこの家は、寂しくて落ち着かないし、かわいいエマスイの寝顔も見れない。
贅沢なわがままだけれど、……早く帰ってきてほしい……。
三日後。
二人を乗せた車が森に入って来たと、鳥がさえずって知らせてくれた。
私は屋敷の玄関前に飛んで行き、車から降りた二人に言う。
「おかえりなさい!」
白いウサギの姿のメルツから聞いた話しを、
僕はエマスイに伝える。
「メルツは、演奏旅行から帰ってきた二人を、いつも玄関前で出迎えていたそうですよ。
毎回待ちわびていたそうです。」
「そうなの……。
……母の演奏旅行……私は複雑な気持ちだったわ。大勢のファンの期待に応えて演奏するプロのピアニストの母は、誇らくもあったけど、大抵居心地悪くて、母が遠く感じられて寂しかった。
帰ってくると、やっと私だけの母になると、うれしかったわ。
母は、帰ってくると、必ず玄関前で、ただいまと言っていたわ……。メルツさんがいるって気づいていたのね。
森の女神がお帰りなさいって言ってるわよ。と、母に言われて、私もただいまと、森と家に向かって言っていたわ……。
私には見えなかったけれど、存在を信じていたから。」
森の女神を信じて挨拶する子供のエマスイを、愛しく思う。
僕は、エマスイの思い出話しを聞くのが好きだ……。
もちろん、メルツのも。
サマーが庭にテーブルと、ティーセットを持ってきてくれた。
僕たちは、四人でお茶会をする。
「わあ……!私、紅茶をいただくの初めてです!」
ウサギのメルツはとても喜んでいる。
「いただきます!」
かがみ込んで、ティーカップに鼻先を突っ込む。
ちょっとびっくりして、
「熱くない?」
と、聞くと、メルツは顔を上げる。紅茶の水面は静かなままだ。メルツの鼻も白く乾いて見える。
「はい、気持ちが良いです!あ……美味しいです!」
「だって。」
かわいくて、みんな笑った。
メルツも両手で鼻を押さえて笑った。
僕もエマスイも、メルツをよしよしする。
するとサマーが、
「あの……、俺も触っていいかな……。」
メルツは頷いてにっこりする。
「どうぞ!」
「じゃあ……失礼します……」
おずおずと手を伸ばして、メルツの頭を撫でる……。
うわあー!俺、精霊に触ってるよ!!
という表情。
「アザス!」
「どうだった?」
「なんか……綿毛みたい……。」
「ふふ……。綿毛みたいだってさ。」
エマスイが頷く。
「そうね。そんな感じだわ。」
「そうなんですか!」
と、メルツは自分の頭に触る。
「……特にうずうずしてません……。」
「うずうず?」
「はい。綿毛は早く飛びたがっているんですよ。」
「へえ……!良いね!植物の気持ちが分かるって!」
「そうなの。素敵ね。動物の気持ちも分かるのかしら?」
「触れればわかります。あと、空も分かりますよ。」
「空も?天気が読めるの?」
「村と森の周辺なら。」
サマーが楽しそうに言う。
「あ、じゃあ、洗濯干してるとき、雨降りそうだったら教えてもらえると助かる!」
「気が付いたらお教えしますね!」
後日。
買い物中のサマーから電話がかかってきて、
「アルシュ?今、俺の肩やら頭やらに、小鳥が止まって、ピーピー鳴いてんだけど、これ、雨降るってメルツさんからのメッセージかな!?」
確かに、けたたましい小鳥のさえずりが聞こえる。
僕が洗濯物を取り込むと、遠くに雨雲が見えた。
帰って来たサマーは、
「ふー……。やっぱり教えてくれなくて大丈夫だって、メルツさんに伝えてくれる……?」
サマーの髪には、鳥の羽根がいくつも引っかかっていた。
「あはは!」
「村の人達にめちゃくちゃ笑われたよ……。」
まだ僕が四歳くらいのころ。
僕は、ソファーに座っている母の隣によじ登って立ち上がり、母にハグした。
その時、まだ僕は、母から愛されていると思っていたから。
けれど、母はため息をついて僕を押し退けて、
無言で部屋を出て行ってしまった。
そして、そのまま身支度して家を出て行ってしまった……。
僕が抱きついたから……
僕は嫌われて、捨てられたんだ……。
そう思った。
愛を押し付け、求める僕が重くて、嫌いになって
母は僕を捨てたのだ……。と。
……けれど、母は気まぐれな人で、僕を溺愛している風にもふるまった。
なんというか、僕は母から人形のように愛された。
気が向くと愛され、嫌な時は、捨て置かれた。
家でも外でもそうだった。
ある夜、母は帰ってくるなり眠っている僕を起こして、あたらしく買った服に着替えさせ、
「なんてかわいいの!」
と、キスを浴びせた。
後日、母の笑顔を見たくてその服を着てみせると、青筋を立てて怒られた。
「どうして着てるの!?」
服をはぎ取られ、泣いて謝っても、母は腹立ちに任せて服をゴミ箱へ入れた。
父は僕に全く興味がなく、母もそんな風で、僕の気持ちはいつも二人に受け取ってもらえなかった。
五歳のころには、僕はもう親に何も求めず、癇に障らないように、いつも自分の部屋に引きこもってピアノを鳴らしていた。
ドアさえ閉めておけば、外に音が漏れないようだったし、二人がピアノの音を毛嫌いする人じゃなくて、本当によかったと思う。
病院に入院して……
気の合う看護師さんと、ときどきおしゃべりした。
ほんの十五分ほどだけど、毎回ちゃんと僕の話を聞いてくれて、楽しくて、病気で不安な気分がまぎれた。
彼女は、一つ一つ、僕の話に、軽やかに、けれど温かく丁寧に受け答えしてくれる人だった。
……僕は……
日に日に、彼女に甘えたくなっていった……。
……いつも彼女は、そばにあるスツールに座るのだけど、その日、僕はしんどくて、半分起こしたベッドにもたれていて、彼女はベッドのヘリに腰掛けていた。
「あの……少しだけ甘えてもいいですか……?」
病気の心細さに押されておずおずと僕が言うと、彼女は微笑んでうなずいた。
「うん。」
「ハグ……してもいい……?」
「いいよ。」
ほかの子とハグしているのを、見たことがあった。
彼女は、僕が起きるのを手伝ってくれて、僕は寄りかかるように彼女にハグして甘えた……。
彼女は、僕の頭を撫でてくれた……。
温かくて……
明るくて……
涙が出てきた……。
幼いころ、母にハグしたら冷たく捨てられたことを思い出したので、彼女に話した。
すると彼女は……
同情のまなざしでほほ笑んで……
まるで優しい母親みたいに……
温かく包むように僕を抱きしめてくれた……。
少し恥ずかしかったけど……
僕は彼女の肩で、小さな子供みたいに泣いた……。
親といる時は、怖くて泣けなかった。
でも、ずっと思っていた。
愛されたいと……。
こんな風に、温かく抱きしめてほしかった……。
こんな喜びがほしかった……。
彼女は僕の髪をなでて言った。
「また甘えたくなったら遠慮しないで言ってね。」
「……ありがとうございます……。」
迷惑に思われなかったことが、またうれしかった……。
子供をケアする仕事の一環で、そうしてくれるのだろうけど、彼女の気持ちがうれしかった。
「手をつないでもいいですか……?」
「背中に寄り掛かってもいいですか……?」
「頭をなでてほしいです……。」
ほんの数分、そうしているだけで、僕はとても幸せだった……。
でも、ある時気が付いた。
……母の代わりを求めるなんて、彼女に失礼なんじゃないか……。
僕が何も頼まないので、彼女は不思議そうに言った。
「今日は甘えなくていいの?」
「……だって、母の代わりに甘えるのは、やっぱり悪いので……。」
彼女は笑った。
「代わりでいいんだよ!むしろ、私たちは代わりぐらいしかできないから、それで辛さが和らぐなら、代わりをします。」
そっか……。
むしろ、代わり以上を求められる方が困ることなんだ。
それはそうだな。
数か月続いた親子ごっこは、それまでの人生で一番、甘くて幸せな時間だった……。
寂しくて、寒かった心が満たされて、
僕は少し、成長できた……。
僕らは、手をつないで森を歩く。
「ねえ、メルツ。」
「なんでしょう。」
「前に、友達の友達は、魔法使いの式をしてるって言ってたよね。」
「はい。」
「もしかして、僕とメルツも、そうなれるのかな……?」
魔法使いと、式の精霊。
それが、どんな関係なのか、僕には全くわからないけど、
もし、メルツが、
これからも僕のそばにいてくれるなら……。
僕も、彼女のそばにいられたら……。
今のままでもいい。
友達のままでもいい。
でも……
魔法使いと式の関係なら、
未来が安心かも……。
離れ離れになる心配がなくて、
ずっと一緒にいられるかも……。
そう、思えて。
メルツが言う。
「それには、契約が必要だそうですよ。」
「契約?」
やっぱり何か、魔法を使った儀式があるのだろうか。
「魔力的なパートナー関係になるための、契約を結ぶそうです。」
「どうするの?」
「私は知らないです……。」
「そっか。」
いつか、モーリーさんを探して、彼女に聞いてみよう。
僕は微笑む。
「魔法使いと式の精霊って、どんななんだろうね。」
「どんななんでしょうね。」
「一緒に仕事をしたりするのかな。」
「そうかもしれません。
契約すると、魔力が濃くなるらしいですから、きっと、使える魔術も増えるんだと思います。」
「そうなんだ。」
魔力がほしいわけじゃない。
ただ、僕は……
メルツのことが……
メルツは僕に、明るい笑顔を向けて言う。
「契約したら、
私も今より、アルシュさんの力になれるはずです。」
……なんだか……、
メルツの気持ちが
とてもうれしくて、
涙が出てくる……。
僕も、君の役に立ちたい。
メルツは、音楽が好き。
もっと体力をつけて、ピアノをうまくなって、
メルツに、たくさんの音楽をプレゼントしたい……。
メルツは森が好きだ。
この森を、もっと知りたい。
メルツが見ているのと同じ景色を、僕もみたい。
メルツ。君のことを、もっと教えて。
たくさん楽しんで……
たくさん旅をして……
君と一緒に、生きて行きたい……。
システムを設置する施術を受けて、ダルシアン博士とルイス博士に世話をしてもらっていた時。
経過を見ながら、よく二人と会話した。
ある日、ルイス博士が言った。
「アルシュ君は、恋人いる?」
彼は、サラッとそういう質問をする人だ。
「いません。」
しいて言うなら音楽がそうかも。
僕も聞いてみた。
「ルイス博士は、恋人いるんですか?」
「遠距離恋愛なんだ……。」
寂しそうに微笑んだ。ちょっと悪いこと聞いてしまったかな。
「ちなみにアルシュ君は、女の子が好きなの?それとも男の子が?」
「!ええと……たぶん女の子が好きです……。」
「そっか。どんな子がタイプ?」
そういう話を、ローイ以外の人としたことがなかった。
「そうですね……髪が長くて、明るい性格の子ですかね……。」
サラサラの金髪の子に目を奪われたことがある……。
ちなみにローイに尋ねてみたところ、
「教えない。」
と、言った後、
「赤毛の女の子。」
と、落ち着かなげに教えてくれた。
ルイス博士がうなずき、微笑んで、
「そうなんだ。素敵な子と出会えるといいね。」
「ありがとうございます。」
僕は照れてドキドキして微笑んだ。
まばゆくて、美しくて、そんな幸せが僕に訪れたら……。
「ルイス博士の恋人は女性ですか?それとも……」
「スワロウは、どちらでもないんだ。でも、どちらでもある。
僕の恋愛対象は、男女両方だよ。」
きっとその人は、美しくて、やさしくて、
性別なんて関係なく
素晴らしい人なんだろう……。
エマスイが、ピアノ室でピアノを弾いている。
僕は階段に立って、手すりに寄り掛かって聞いている。
この曲は……
エキゾチックな雰囲気……。
砂漠のオアシス都市を思わせるような……。
イメージが湧いてくる。
……都市には……
同じ色調の石材でできた建物が立ち並んでいて、
狭い路地を陰らせている。
そこを、色鮮やかな服を着た子供たちが、駆けていく。
買い物から帰ってきた女性が、壁のドアから入っていく。
その中は、明るくみずみずしい、緑の庭園……。
温かく、懐かしいような景色。
エマスイの演奏は、そういった想像をさせてくれ、邪魔をしない……。
……曲が終わり、
階段ホールは静まり、
僕は余韻を味わいながら、そっと、リビングへ向かう……。
「アルシュ、悩みごと?」
「エマスイ……。」
気付かれてしまった……。
僕は……
若いままでいることを、今までたいして気にしていなかった。
気にしてないと思ってた。
だって、病が治って、その上、人と同じように生きたいなんて、
多くを望みすぎると思ったから……。
ダルシアン博士が亡くなって、ルイス博士が研究の続きをしてくれているけど……
もしかしたら、難しいかもしれない……。
失礼だとわかっているけど、そう思ってしまう……。
ダルシアン博士が、本当に天才だったから……。
もちろんルイス博士の事は信頼している。
でも、どのくらい時間がかかるか分からないのは、やっぱり不安になる……。
僕は四百年間、十五歳の見た目のままかもしれない……。
いつかそのせいで、暗く寒い、孤独な日々を過ごすことになるかもしれない……。
不安が、いつの間にか大きくなっていた……。
エマスイが言う。
「未来のことは、だれにもわからないわ。」
「そうですね。不安に思っても仕方ないってわかってるんですけど……」
僕の内面で、音色が響く。
僕は額のメモ帳に和音の動きを書き込んでいく。
「……救われた僕が、暗くちゃだめですね。
ダルシアン博士にも、ルイス博士にも、申し訳ない……。」
「そうね。でも、無理に明るく振舞う必要もないのよ。」
「僕は、人と同じになりたいです……。
普通になりたかった……。
こんな、博士たちを責めるようなこと言うべきじゃないけど……、
そう……思ってしまっています……。」
ルイス博士には、絶対言えない……。
「アルシュ、もちろんそれは自然なことよ。普通が安心と思うのは。」
「普通の人が、昔から、うらやましかった……。
普通の親がいて、健康な子……。
僕は幸せを望みすぎですね。」
エマスイが、手を握ってくれる。
「そんなことないわ。」
強くて、やさしくて、温かいエマスイ……。
「……ありがとうございます……。」
一階にある、広い浴室。
僕は一人で入る。
壁と床の細かなタイルが、うろこのように光っていて綺麗だ。
僕は洗った髪を頭の上に結い上げて、広い湯船のお湯につかる。
『もちろんそれは自然な事よ。普通が安心と思うのは。』
エマスイも、普通をうらやみ、望んだことがある……。
ピアニストを目指す事で、失った物もあるだろう……。
たとえば、友達と過ごす時間……、
たとえば、母親になる事……。
思い描く普通は、幻想なのだとわかっている。
普通の両親、普通の体。普通の人生。
嘆いたって、良くなることを夢見たって、どうにもならないことはある。
それでも僕は知っている。
手に入らない幻想を思って泣くのではなくて、
大事な人たちを大切にすることが、生きることなのだ……。
僕は、そうしたいと思える人達と、出会えた……。
ルイス博士は、誰がなんと言おうと、恋人が大切で、帰りを待つつもりだ。
そうだ。
僕も、システムの欠点について誰がなんと言おうと、ルイス博士の味方でいたい……。
ダルシアン博士の亡き跡、頑張って研究を続けている彼を、親身に見守っていたい。
僕も頑張って不安と戦って、システムを持っていることを、もっと誇りに思うようにしよう。