エマスイの屋敷
プロローグ
リク・ラドフ研究所
真夜中。
非常ベルが、けたたましく鳴り始めた。
僕はびっくりして、ベッドから起き上がる。
どこかのドアが勢いよく開く音。
廊下で誰かが叫ぶ。
「火事だ!」
「早く外へ!」
僕は急いで部屋を出る。
みんな、スプリンクラーの水を浴びて、研究所の外へ避難した。
この研究所は、少し標高の高い場所にあるから、夜はだいぶ寒い……。(もとは何かの観測施設だったらしい。)
けれど、僕たち治験者のほとんどが、パジャマ姿だ。
寒さと怖さで震えてくる……。
まだ出て来ていない人がいる……。
最後に研究所から出てきたルイス博士が、僕らを見回して、目を見開く。
「ダルシアンがいない……!」
ルイス博士は、飛ぶように走って、煙の中へ戻っていく。
僕は引き留めたくて叫ぶ。
「ルイス博士!」
数人の年長の治験者が、ルイス博士の後を追って研究所へ向かった。
残った僕ら十名ほどは、身を寄せ合う。
泣いている人もいる。
今、あの火事の中にいる、若き天才発明家、ダルシアン博士は、
僕たち、難病の若者十五名を、発明品で治療してくれた、大恩人なのだ……。
ルイス博士は、
同年のダルシアン博士を、仕事のパートナーとして、親友として支えるエンジニアだ。
研究所の奥で、何かが爆発する音。
「きゃあ!」
泣き声が大きくなる。
僕も、泣いている……。
僕たちは皆、つい半日前に、楽しく夢を語り合っていた。
『大学へ行きたい!』
『サッカーしたいです!』
『歩いて友達に会いに行きたい!』
『好きなものを好きなだけ食べたい!』
『何食べるの?』
『えっとね、ケーキにアイスクリームに、チョコレートにクッキーにマドレーヌにプリンに……』
『あはは!そんなに甘いものばっかり食べれないでしょ~!』
『そうかな〜?』
『アルシュ君は?何がしたい?』
みんなが僕を見た。
僕は言った。
『たくさんピアノを弾きたいです。』
言いながら、心が震えた。
そうだ。これからは、できるんだ……。
『わあ、いつかコンサート開いてよ!聞きに行くよ!』
僕はうれしくて、笑ってお礼を言った。
『ありがとうございます!』
僕らを眺めていたダルシアン博士は、言った。
『みんな、どの夢も叶うよ。』
幸せそうな笑顔だった……。
「ダルシアン博士……!」
救急車と消防車が到着すると、
ルイス博士は研究所から出てきて、僕らのところにやって来た。
消火活動していた彼は、全身ずぶ濡れで、火傷だらけだった……。
泣き腫らした目で、僕らが無事なのを再度確認して、
「良かった……。」
と、ため息をつくと、僕らに頭を下げた。
「火事に巻き込んでしまって、すみませんでした……!」
すぐに一人が言った。
「ルイス博士のせいじゃないです!」
ルイス博士が痛々しくて、僕は泣いていた……。
でも、涙を拭って言った。
「そうですよ!早く手当てしてもらってください!」
みんなも頷いた。
「みんなありがとう……。」
僕らは、山のふもとにある町の病院へ搬送された。
ダルシアン博士以外、全員、命は無事だったけれど、
ルイス博士は全身に火傷を負っていた。
でも、
「僕にもシステムがあるし、大丈夫だから。神経まで届くようなひどいやけどじゃないし、安心して。」
と、みんなにラインで伝え、いつの間にか一人で、近くのホテルへ移っていた……。
一人の方が気が休まるのだろうけど、心配だ……。
僕たちのところへ、戻ってこなくなるんじゃないか……とも思えた。
火事の翌朝。
僕は、処置室からルイス博士が出て来るのを待っていた。
彼はぎこちなく歩いて出て来た。
僕は少しほっとして、近寄って言う。
「具合、どうですか……?」
「心配してくれてありがとう。」
ルイス博士は、やけど治療用シートで、顔もほとんど埋め尽くされている。
煙を吸ったせいで、声もかすれている。
優しい綺麗な顔も、明朗な美声も、痛めていて、
そして心はもっと傷ついていて、
悲しい……。
でも、僕は涙を我慢する……。
ルイス博士は察して優しく言う。
「見た目ほどひどくはないよ。座って少し話そうか。」
中庭の見えるソファに腰掛けると、ルイス博士は僕に言った。
「アルシュ君の受け入れ先は、僕が探すよ。」
『僕には、帰りたい家が無いんです……。』
前にそう伝えたら、ルイス博士は、
『この研究所で、僕と、ダルシアンと、三人で暮らす?広いし、好きなところにピアノを置いて良いよ!』
と言った。
それも良いな。と思った。
だけど……もうあの研究所にはいられないだろうし……
どこかでルイス博士と二人で暮らすというのも、彼は僕のために辞退するだろう……。
僕の居場所は、当分病院の片隅でいい。
「ルイス博士、無理しないでください!今はゆっくり休んでお大事にしてください!
僕の行き先探しは、一番後回しにしてください!」
それを言いたくて彼を待っていたのだ。
「ありがとう。
アルシュ君も、しんどそうだよ。休んだ方がいい。」
僕は熱がある。
「平気です。慣れてます。」
僕は長く、免疫不全を患っていた。
「……ダルシアンも、休めって言ってるでしょ。」
「言ってますね……。」
僕は自分の額に手を当てる……。
「ルイス博士もですね。」
彼はくすっと笑う。
「うん。ちょっとうっとうしいくらいだ……。」
彼の、隠れていない方の目が、うるんでいる……。
深いブルーの、海のような瞳……。
そこから見る間に涙が降り始める……。
僕の目からも……。
彼が火傷していなければ、抱きしめてあげたい……。
仕事のパートナーであり、仲の良い親友であるダルシアン博士を亡くした、ルイス博士……。
僕にとっては、ダルシアン博士は、ヒーローだった……。
ルイス博士は、涙をシャツの袖で拭って、にっこりして言う。
「アルシュ君の今後は、僕が責任を持つから、安心して。」
「……。」
僕のために、僕たちのために、再び立ち上がろうとしてくれている……。
……僕は、決めた。
早く自立しよう。
それに、ルイス博士を見守ろう……。
彼が、幸せになれるまで……。
僕にできることは、それくらいしかないし……。
『ダルシアンがいない……!』
親友を焼く炎が吐いた煙に、突っ込んで行ったルイス博士……。
必死に消火して、変わり果てた友にたどり着いて……。
ルイス博士は、今も炎に焼かれている……。
後悔の、赤黒い炎に……。
彼の片目は、きっと、中庭の爽やかな緑なんて、見えていない……。
でも、どうしたらそれを消せるのか、僕には分からない……。
ダルシアン博士にしか、消せないように思える。
もし、僕が……
ダルシアン博士の代わりに……
なれたとしたら……
消せるんだろうか……。
ルイス博士を、幸せにできるんだろうか……。
「……。」
でも、ダルシアン博士の代わりには、
到底なれないように思える……。
僕はひとまず提案する。
「……ルイス博士、売店でお菓子を買いませんか?
おいしいお菓子があるんです。」
と、僕はすぐ近くにある売店を見やる。
「いいね、買いに行こう。煙草よりずっといい。」
と、彼はズボンのポケットに触れた。
「ルイス博士って、タバコ吸うんですね。」
「今朝、久しぶりに買ったんだ。でも、喉にしみるからやめるよ。」
「ルイス博士の声、僕好きですから、お大事にしてください。」
「ふふ。ありがとう。アルシュ君も、まだ免疫弱いから気を付けてね。」
「はい。」
「お菓子、何でも、いくつでも買ってあげるよ!心配してくれてるお礼にね。」
気持ちはありがたいけど……
ちょっと悲しい……。
「……僕はそういうつもりで心配してるわけじゃないです。」
「ああ、うん……ごめん、君は本当にやさしいね。まだ十五歳なのに……。
アルシュ君に、治療システムを設置できて、本当によかったよ。」
彼は、いとおしそうに目を細めた……。
僕らには、体内設置型の治療システムが埋め込まれている……。
ダルシアン博士の遺作が……。
僕の額の中にある画面には、治療中の表示と、要休息の注意が映っている……。
僕らは買ったお菓子を、お互い交換した。
外の庭へ出て、ベンチに座って食べる。
「おいしい。やさしい味だね!」
「熱があって食欲ないときも食べれるんですよ。これもよく食べてました。」
と、僕はルイス博士が買ってくれたお菓子をかじる。
コールドスリープしてしまった友達と一緒に、よく食べてたお菓子だ……。
「……アルシュ君。」
「はい?」
「元気になったら、デートに誘ってもいいかな?」
……デート……?それは……どういう……?
彼はにっこりする。
「おいしいもの食べに行こう!あ、もちろん友人としてのお誘いだよ。」
それでルイス博士の気分が良くなるなら、喜んで行く。
「コンサートも聞きに行きましょう。」
「うん。ありがとう。楽しみだな!」
「僕も、楽しみにしていますよ!」
本当に。
僕は、元気なルイス博士が好きだから……。
ダルシアン博士と二人で、楽しそうにしているのを眺めるのが、大好きだった……。
風に乗って、力強く、同じ方向へ飛んでいるみたいな、それでいて、それぞれ自由に舞っているような、カッコイイバディだった……。
また、羽ばたいてほしいけれど……
しばらくはゆっくり休んで、療養してほしい……。
そして、小さな約束だけど、忘れずにいてほしい。
元気になって、いつか僕をデートに誘って、
明るい話を沢山聞かせてほしい。
元気になれたことを、僕に、祝わせてほしい。
十八歳年上だけれど、ずっと若く見える彼を見つめる……。
尊敬していて、兄のように思っていたから、友達と言われてうれしい。
僕は言う。
「そろそろ部屋に戻りましょう。」
「そうしたほうがいい。僕はほかの治験者たちの様子を、」
「ルイス博士も休んでください。ほかの人たちには、ラインで経過を報告するようにと言っておきますから。それにここは病院です。」
彼はふっと笑う。
「ありがとう。じゃあ、そうするよ。」
短く刈った髪に、まだ染みついているのか、微かに火事の煙の匂いを残して、
ルイス博士は、タクシーでホテルへ帰っていった……。
エマスイの屋敷
夜半過ぎから降り出した雨が、
昼を過ぎてもまだ、降り続いている。
森の中にある私の屋敷は、木々に囲まれており
一層暗く、日没後のよう。
ヒーターを効かせても少し肌寒いピアノ室に、
玄関のチャイムが響く。
ガウンを羽織り、
冷え切った玄関ホールに出て明かりをつけ、
両開きの玄関ドアを、片方開ける。
外には、二人の若者が立っていた。
十八歳くらいの金髪の少年と、十四歳くらいの黒髪の子供。
年長のほうは知っている顔なのに、なぜか違和感を覚えた。
彼は、懐かしそうに微笑んで言った。
「エマスイ先生、お久しぶりです。僕を覚えていますか?」
「え…。」
「二十年ほど前、音大の短期レッスンでお世話になったルイスです。」
短期レッスンとは、
毎年、中高生向けに開いている、サマースクールのことでしょう。
そう、確かにその中に彼がいた。
「覚えているわ。でも、……」
明かりのせいか、彼はとても若く見える。
三十路を過ぎているはずなのに、体格も顔立ちも、少年のよう。
「先生、
僕は細胞生物学のエンジニアになって、
病の治療の研究を進めてきました。
最近、僕の雇い主であるダルシアン博士は、
ある、画期的な治療システムを発明しました。
僕が現物を組み立てたそれは、
様々な難病を食い止め、治す治療法なんです。
この子も難病を患っていましたが、
僕たちの研究で作り出した治療システムで、長生きできるようになりました。
検証の過程で、僕自身にも、その治療法を使ったので、
それによって、ごらんのとおり、体の細胞が老化しにくくなったんです。
二十歳くらいに見えるでしょう?」
と、にっこりと笑った。
「……」
とてもすぐには呑み込めない。
様々な難病を食い止める?
細胞が老化しにくくなる?
そんな話は、聞いたことがない。
「ここは寒い。
エマスイ先生、彼、アルシュ君はまだ体が万全ではないんです。
暖かいところで休ませてあげてください。」
「初めまして、僕はアルシュといいます。」
と、高い声で挨拶して微笑み、丁寧にお辞儀した男の子の顔は、白い。
ルイスは彼の背中を押して、玄関の中へ入れる。
「先生、折り入ってお願いがあります。
この子を、しばらく預かっていただけないでしょうか。
彼は音楽の才能があるんです。
どうかお願いします。」
「え、ルイス、そんな…」
彼は微笑んで、
「では、僕はこれで失礼します。」
フードをかぶり、
雨の中を飛ぶように駆けていき、
車寄せに止めてあった飛行機で、
ほとんど音もなく飛び去ってしまった。
リビングの暖炉のそばへ、アルシュを案内した。
「コートを預かるわ。」
濡れたコートを脱がせて預かり
「どうぞかけて。」
ソファーを示す。
アルシュという名の少年は、手をついて、ゆっくりとソファーに腰掛けた。
荷物はコート以外何もない。
『手帳』と呼ばれる小さな携帯端末も、持っていないように見える。
後ろできれいに一つに編まれた、長い黒髪。
深い青緑色の瞳、整った顔立ち。
彼は私を見上げ、きちんとした口調で、申しわけなさそうに言う。
「突然ですみません。
ちゃんと、すべてご説明します……。
エマスイ先生、ルイス博士は今、とても忙しくて……
僕からも謝ります。」
と頭を下げた。
白いキルティングの、厚手のパジャマのような服の膝に、前髪のしずくが滴る。
「アルシュさん、ルイスの連絡先はわかる?」
「はい。」
人差し指で、端末を操作するしぐさ。
私の『手帳』を渡すと、
彼はほっそりとした手で、アドレスを入力した。
私は小さくため息をつく。
笑顔を作り、
「お茶でもいかが?少し落ち着きましょう。」
けれど彼は、ソファーの隣にあるピアノを、じっと見ている。
このリビングにも、グランドピアノが一台置いてある。
病のせいか、少しぼんやりした様子の彼は、私の言葉に少し遅れて、こちらを向き、微笑む。
「はい。ありがとうございます。いただきます。」
私も微笑む。
「どうぞ弾いていいわよ。」
私はリビングから出て、キッチンへ向かう。
彼が、ピアノを奏でる音が聞こえてくる。
だるそうでぼんやりしている割には、よどみなく弾いている。
次々と弾き続ける。
どれも、私の知らない曲……。
「アルシュさん。お茶が入りました。」
呼ぶ声に、彼は振り向いて、ピアノの椅子から立ち上がった。
けれど、ふらついてその場の床に座り込んでしまった。
手を貸して、ソファーに彼を寝かせる。
「すみません……。」
靴を脱がせ、毛布を持ってきてかけた。
彼は、弱々しい息で言う。
「ピアノ、久しぶりでうれしかったです。」
私も微笑む。
「そう。」
「いいピアノですね。」
「そうね。あんかを持ってくるわね。」
早足でリビングを出る。
久しぶりというのは、いつ以来なのだろう。
……彼は目が輝いていて、本当にうれしそうだった。
アルシュは眠ったようなので、ルイスに連絡を取ることにした。
リビングを出てピアノ室へ入る。
ルイスのアドレスに私の手帳の電話番号を送ると、すぐに彼からかかってきた。
「アルシュ君の体力は、まだ入院中とあまり変わっていないんです。
免疫が弱いので、ウイルスとかに気を付けてあげてください。
でも、それらにもだんだん強くなって、治る体になっているので、
一月ほどたてば、普通に生活できるようになります。
どうか、彼をお願いできないでしょうか。」
私は腕を抱える。
「一つ聞いていいかしら。」
「はい。なんでも。」
「あなたたちの研究や治療法は、社会的にまっとうなことなの?」
連絡する前、少し調べてみた。
〈様々な病を治す〉
〈細胞が老化しない〉
〈若返る〉
具体的なことは、何も出てこなかった。
ただ、ルイスがそういった方向の研究所に勤めていることは、確認できた。
ダルシアン博士という科学者は、目覚ましい活躍を報じられていて名前は知っていたけれど、彼がルイスの雇い主だったとは……。
つい先週、火災事故で亡くなったと、ニュースになっていた……。
ルイスはその対応に追われて忙しいのだろう。
「おっしゃる通り、この技術は、社会ではまだ夢物語です。
なので、治療を受けた人たちを守る専門家もいません。」
私は目をつぶりため息をつく。
「…わかったわ。
その件については、誰にも言わないわ。」
言っても信じる人は少ないだろうし、不老長寿という、人の欲を煽るような話をしたくない。
「ありがとうございます。
突然でほんとうに申し訳ありませんでした。」
思いかえしてみれば、ルイスは昔からチャレンジャーだった。
困難だとしても、自身の楽しめるほうを選んだ。
彼の奏でる音楽も、どこかスリルがあった。
もう一つ、アルシュのことで気になることがあった。
「ルイス?彼の保護者の方は?なぜ私のところへ来たの?」
「アルシュの五年間の入院中、ご両親は一度も見舞いに来なかったそうです。
彼自身、会いたくないと。
なので、ご両親には、遠くへ転院したと伝えてあります。」
半日前のこと。
山のふもとの病院の廊下で。
「え!?」
僕はルイス博士の言葉に驚いていた。
眼を丸くして、ルイス博士を見上げて聞き返した。
「エマスイって、あのピアニストのエマスイさんですか……?」
ルイス博士が僕の行き先に選んだのは、プロの音楽家だった。
「そう。僕は十代のころ、彼女のサマースクールに参加したことがあるんだ。
良い人で、生徒にやさしくて、僕は結構仲良くなったんだよ。会うのは久しぶりだな。
アルシュ君の行き先にぴったりだって、昨夜思いついたんだ。二人は相性良いと思うな。
……緊張する?」
「はい……。」
エマスイさんは、尊敬しているし、好きなピアニストだ……。
そんな方のご厄介になるなんて……。
しかも、今日の今日、彼女の家へ向かうと言うのだ……。
心の準備が……
「大丈夫だよ。やさしい人だから。じゃあ、十四時に屋上で。」
少し早めに、ルイス博士が僕のいる病室に迎えに来た。
僕はキルティングの厚手の白いパジャマを着て、コートを抱えている。
「ほかに荷物は?」
「ありません。」
僕は、元居た病院から研究所へ移った時も、身一つだった。
「今日は髪を結ったんだね。似合うよ。」
後ろで綺麗に三つ編みにしてある。
「ユラさんが編んでくれました。」
ユラさんは、研究所で治療を受けた十五名のうちの一人で、二十代の女性だ。
彼女と会話するのは心地よかった。
「あいさつした?」
「はい。みんなにも、先生にも、看護師さんたちにもあいさつしました。」
僕は、携帯端末も持っていない。
でもみんなの連絡先はもらってるから、行く先でパソコンを借りれたら、連絡を取ろうと思う。
僕はルイス博士を見て言う。
「髪が元通りですね。」
彼は地毛と同じ色の金髪のウイッグをかぶっている。
「ああ、これ。やっぱりこのぐらい長いほうが落ち着くよ。」
と、にっこりする。
「僕も、長いほうが落ち着きます。」
「そうなんだね。」
あの火事で、ルイス博士は負傷した。
ダルシアン博士を助け出そうとして……。
綺麗な顔も、髪も、痛んでしまった。
でも……火事から一週間たった今では、
「お顔、元通りになりましたね。」
「うん。システムのおかげだよ。」
明るい笑顔。
ダルシアン博士が発明して、ルイス博士が組み立てた治療システムが、
僕の身体にも、ルイス博士の身体にも、埋め込まれている。
システムは、僕の病気を治療してくれていて、
ルイス博士のやけどをスピーディーに治してくれている。
……ダルシアン博士も自身の体にシステムを持っていたけれど……
彼の発明品は、彼を火事から救えなかった……。
雨音を聞きながら、
屋上近くの踊り場で待っていると、
時間通り、ドローンタクシーが病院の屋上に到着した。
ルイス博士は微笑んで僕に片手を差し出した。
「雨で足下が危ないから。」
けれど、その手はまだ、やけどが癒えていなくて、手袋でおおわれている。
「大丈夫です。歩けます。」
「もう、痛くはないんだよ。」
「……。」
それでも養生してほしい。
彼は僕の背中に手を当てて、体力の乏しい僕を気遣って、一緒に歩いてくれた。
雨の中、僕とルイス博士は、タクシーに乗り込む。
「さっき、エマスイ先生にメールしたんだけど、返事が来ないな。電話も出ない。
在宅なのは位置情報から分かってるんだけど。」
「……。」
僕は不安だ。
アポなしで、突撃訪問するのだ……。
ルイス博士がそうするのには、何か理由があるんだろうけど……。
ドローンは飛び立ち、
いくつかの町の上を通り……、
森の中にある、エマスイ邸を目指して飛んでいく……。
僕は、窓にあたってはじける雨粒と、外の景色を眺めている。
「ドローンは二回目です。結構好きです。」
「そう。」
空の移動を楽しんでいる風を装っていても、僕は、不安だし、エマスイ先生に申し訳なく感じている……。
でも、両親のもとには、絶対に戻りたくない……。
ルイス博士は口元をあげて言う。
「決して押し付けに行くわけじゃないんだ。
事情があって無理そうだったら引き返すよ。
でも彼女は縁のあった人を放りだしたりしない。
僕は、彼女のことを信じているし、君のことも大切に思ってる。
君は、彼女の良い弟子になれるだろうなって思うんだ。
今日会うことは、二人にとって意味のあることだと思う。
もっといい状況で合わせてあげたかったけどね……。」
ルイス博士の友人が買ってくれたコートを着た僕は、胸元を抑えている。
僕はメモリースティックをペンダントにしていて、肌身離さず持っている。
今まで作った曲がすべて、この中に入っている……。
僕の持ち物は、これだけだ。これが、僕のすべてだ。
「強引な方法でごめんね。対話すべきだ……。」
「いえ、もともと僕の問題でもあるので……。」
彼は首を横に振る。
「子供が親を怖いと思うのは、親に問題があるからだ。
君は、自分の未来を選ぶ権利がある。擁護されるべきだ。
エマスイ先生は、間違いなく、君を助けてくれる人だよ。
ダルシアンも、きっと喜ぶよ……。」
「……。」
「急だから、彼女、僕に腹を立てるだろうけどね。」
突撃訪問するのは……
……僕らがピンチだって事を、印象付けて、断りづらくさせる……ためなんだと思う……。
エマスイ先生もピンチになるわけだけど……
子供一人預かるくらいの決心はできる人だと、ルイス博士は見込んでいるらしい……。
僕も……不安を払い除けて、決心する……。
エマスイ先生のもとで、生きよう……。
森の中に、屋敷が見えてきた。
ルイス博士は嬉しそうに言う。
「よかった。明かりがついてる。」
ドローンはゆっくりと降下し、屋敷の玄関前に静かに着陸した。
僕らは外へ出て、フードをかぶって、玄関ポーチへ歩いていく。
屋敷は木々に囲まれていて、あたりは薄暗い。
雨音に紛れて、かすかにピアノの音が聞こえる……。
僕たちは玄関ドアの前に立ち、
ルイス博士は、手袋をはめた手で、インターホンを押した。
僕は、リビングのソファで目覚めた。
一時間ほど眠ったみたいだ。
そうだ、五年ぶりにピアノを弾いたら、疲れて貧血になってしまったんだった……。
僕は、自作の曲を弾いた。
ピアノで弾くのは初めての曲ばかりだったけど、
エマスイ先生が僕に興味を持って、受け入れてくださる事を願って演奏した。
そうしながら、これまでの色んな事や、僕を支えてくれた人達を思い出した……。
起き上がると、近くのソファにエマスイ先生がいた。
「気分はどう?」
「はい。大丈夫です。」
「顔色がよくなったわね。」
いい香りがする。テーブルを見ると、ティーカップとティーポットがあった。
「ハーブティーよ。いかがかしら?」
「いただきます。」
エマスイ先生と会話しながら、
素敵な香りのお茶を飲んでいると、外で車の音がした。
玄関扉の開く音がして、先生はリビングから出て行く。
少したってから、青年を連れて入ってきた。
エキゾチックな雰囲気。黒髪に、やや浅黒い肌。
「アルシュ、さっき話したサマーよ。」
彼は去年音大を卒業した後、エマスイ先生の助手をしているらしい。
「初めまして。
本当はサマーじゃないんだけど、同じ意味だし、
この国の人たちには発音しづらいみたいだから、サマーと呼んで。
よろしくアルシュ君?」
と、彼はこぶしをこちらへ向けて突き出す。
握手の代わりに軽くこぶしをぶつけ合う。
「はい。サマー先輩。アルシュと呼んでください。よろしくお願いします。」
「サマーでいいよ!
聞いたかもしれないけど、
俺はここでエマスイの助手兼、家政夫兼、運転手をしています。」
エマスイ先生が微笑む。
「この家の住人は、今日からこの三人ね。」
僕は……とても安堵した……。
広いリビングの窓際にあるダイニングテーブルで、
サマーが作ってくれた夕食を食べた後、
サマーは僕を二階へ案内してくれた。
僕の寝室を用意してくれたのだ。
その部屋はエマスイ先生の部屋の隣で、
ホテルみたいに洗面所、風呂、トイレがついている。
アイボリー、ブルーグレー、ブラウンを基調として整えられていて、
とても感じがよくて気に入った。
パジャマは、サマーが貸してくれた。
明日も服を貸してもらう。
大きいけど、袖を折れば着られる。
ストリート系というか、
今まで着たことのないテイストの服だけど、着心地は良さそうだ。
夕食の時の会話を思い出す。
エマスイ先生が僕に尋ねた。
「アルシュは今いくつなの?」
「十五歳です。」
「そう。
五年間入院していたとルイスは言っていたけれど、ピアノはその前に習っていたの?」
「はい。
三歳のころから動画を見て真似して弾いていました。
レッスンもオンラインで受けてました。
でも、好きなように弾くのが楽しくて、練習曲より自作の曲ばかり弾いていました。」
「そう、じゃ、さっき弾いていた曲も?」
「はい、僕の曲です。
入院してからは、担当医の先生が買ってくれたギターを弾いてました。」
「へえ、何ギター?」
と、サマー。
「クラシックギターです。ナイロン弦で、爪で弾く。」
「いい先生ね。」
エマスイ先生が、やさしい笑みを浮かべる。サマーが言う。
「ここにはギターはないけど、
ピアノが五台に、ほかにも鍵盤楽器が六台もあるから、
体力つけて、また弾けるように頑張ろう!
まずはたくさん食べて!」
「はい。
サマー、料理上手ですね。すごくおいしい!」
病院の食事はあまりおいしくなかったし、
ルイス博士の研究所のご飯は、機械が出してくれる冷凍ものだったから、
新鮮な野菜をふんだんに使ったサマーの料理はとてもおいしかった。
「退院できてよかった……。」
心からそう思った。
サマーは言った。
「ほかに食べたいものとか、いるものがあったら何でも言って!」
ちょっと涙ぐんでいた。
疲れたから、シャワーは明日にしよう。
着替えて髪をほどき、ベッドに横になる。
目をつぶり、AIの分析を見る。
僕の頭にはAIが入っていて、額のあたりに画像が出る。
これも、ルイス博士たちが僕に施してくれた治療の一部だ。
僕の身体に足りないもの、多いもの、一日の経過を見る。
そして、AIが出す処方に同意する。
すると、お腹にある治療システムが、必要なものを作り出し、体のあちこちに届けてくれる。
身体の中に、医師と薬剤師がいるようなものだ。
細胞レベルで対応してくれ、薬も適量適所。
睡眠も補助してくれるので、初めての場所でも、おかげでよく眠れる……。
朝起きると、雨音がやんでいた。
僕は裸足のまま、明るい窓辺へより、カーテンを開けた。
空は晴れ渡り、靄のかかった森に朝日が降り注いでいる。
「わあ……綺麗……!」
こんなにきれいな景色は初めて見る……。
一目で好きになった……。
サマーのスウェット上下とセーターに着替え、部屋を出る。
出てすぐが、吹き抜けのホールになっている。
ホールには、二階の廊下と、各部屋のドア、階段がある。
階下へまっすぐに伸びる木製の階段を降りると、
正面に玄関扉、その上に高窓、一階の左にリビング、右にキッチンがある。
このホールとリビングの壁は、外観と同じグレーの、
床は温かみのある白っぽい石材でできている。
キッチンで音がするのでのぞいてみると、サマーが朝食の用意をしていた。
「おはようございます。」
「あ、アルシュ。おはよう。」
何か手伝えることがあるか聞こうと思ったけれど、ヘアゴムを枕元に忘れてきたのに気付いた。
僕は髪が長くて、胸の下まである。これでは手伝えない……。
でも、キッチンに入った。
「いい匂いですね!なんだか新鮮です。」
「新鮮?」
「はい。キッチンが。」
作業台に並べられた食材。
湯気を立てている鍋。
食器が整然と並んでいる棚。
紺色のエプロンをして、てきぱきと作業するサマー。
「ふうん、俺は子供のころからキッチンにいたからなあ。あ、ハーブティーのむ?」
「はい。」
「エマスイは毎朝これだから。熱いよ。」
と、ポットのお茶を注いだカップを、僕の近くの小さい机に置いてくれた。
昨日のとはまた違う香りだ。この香りも好きだな……。
「……よく眠れた?」
「はい。」
頭の中にAIがあることも、システムの詳しいことも、まだ二人に話していない。
「調子どう?」
「少し肌寒いです。」
だるいのはいつも通り。AIは、体力不足と言っている。
「ああ、リビングの暖炉のそばがあったかいよ。
もうすぐ朝飯できるから待ってて!」
サマーはにっこり笑って、親指を立ててウインクしてから、作業に戻った。
料理は任せろということらしい。
僕はリビングへ行く。
暖炉のそばにある、ひとり掛けのソファーに座った。
ハーブティーを少し飲む。
香りがよく、ほのかに甘い。まだ熱い。
暖炉では、黒いブロック状の燃料が燃えている。
下のほうは青く、上のほうは赤く……。
『早く!外へ!』
スプリンクラーの雨。
非常ベルのけたたましい響き。
廊下は、煙が立ち込めていて、みんな身をかがめて出口へ向かった。
外へ避難した僕らを見渡して、ルイス博士が言った。
『ダルシアンがいない……!!』
「おはようアルシュ。」
エマスイ先生がリビングへやってきた。
「おはようございます。エマスイ先生。」
「エマスイでいいの。」
「あ、はい。」
微笑んでうなずく。
昨日言われたんだった。
『一日中先生だと気が休まらないから、エマスイと呼んで。
丁寧すぎる敬語も無しね。』
と。サマーも彼女をエマスイと呼んでいる。
「何か心配事?」
「ええ……後でお話しします。」
心配事を、頼れる人に話すべきだということは、五年間入院していた病院で教えてもらった。
「そう。……後で散歩に行かない?」
さっき窓から見た景色を思い出した。
朝日を浴びる、美しい森……。
「はい、ぜひ!」
「できましたよー。」
サマーがワゴンを押してやってきた。
朝食もおいしかった。
食後に、暖炉のそばのソファーで休む。
……みんな、受け入れ先は決まっただろうか。
ルイス博士とダルシアン博士の研究所には、僕のほかに十四人の患者がいた。
先週の火事以来、ルイス博士は全員の受け入れ先探しに奔走している。
昨日僕の髪を編んでくれた女性も、決まりそうだと言っていた。
これから僕は、しばらくエマスイのお世話になる。
いつまでかはわからない。
生活費も全部、頼ることになる。
早く良くなって、何か手伝えたら……
食後はいつもだるく、眠くなる。
うとうとしていると、小さくピアノの音が聞こえてきた。
どこの部屋だろう。
たぶん弾いているのはサマーだ。
パワフルで、鮮やかな演奏。
聞いていたかったけど、温かくて、心地よくて、眠ってしまった。
夢を見た。
病院のベッドで、ハミングしながら楽譜を書いている夢。
友達は、隣でまだ勉強している……。
目を開けると、近くの椅子で、エマスイが本を読んでいた。
僕は立ち上がり、ピアノのところへ行き、夢の中の曲を弾き始めた。
夢は、曲の途中で終わってしまった。
続きを仕上げよう。
こうがいいな。
着地して鍵盤から手を降ろすと、エマスイが拍手してくれた。
「いい曲ね。即興?」
「夢に出てきたんです。あの、後で五線譜をもらえますか?」
「五線譜なら向こうの机の一番上の引き出しよ。自由に使って。」
と、ドアの右側にある書斎机を示した。
取りに行こうかと思ったけれど、コートが二着、ソファーに置いてあるのに気が付いた。
あ、散歩に行くって言ってたんだっけ。
エマスイはくすっと笑った。
「早く、忘れないうちに書きなさい。ペンは机の上のトレー。」
僕のコートは、エマスイが乾かして暖炉で温めてくれたらしく、温かい。
エマスイは言う。
「後でサマーに頼んで、大きいソファーを暖炉のそばに近づけておくわ。」
そうすれば横になってうたた寝できる。
「ありがとうございます。」
まだ家のどこかからピアノの音がする。
階段のある玄関ホールに出て、
大きな木製の玄関扉を開けると……
外はあたたかな日差しがきらめいていた。
木々は新緑の柔らかな葉を広げていて、まだ雨のしずくが輝いてて、とてもきれいだ。
どこかから、鳥のさえずりが聞こえてくる。
整備された公園でも、VRでもない、本物の森だ。
「足元気を付けてね。」
石畳がまだ乾いていない。
僕は何度も深呼吸する。
虫が飛んでいる。
生きた森の中にいるんだ……。
僕は、森を歩くのは初めてだ。
その美しさに見とれる。
エマスイは、喜ぶ僕の歩調に合わせて歩いてくれた。
「エマスイ、僕の話を聞いてくれますか?」
「ええ。話して。」
「僕は免疫不全の病気で、十歳の時に入院しました。
治療法が見つかるまで、ずっと病院か療養施設で暮らすはずでした。
けど、偶然ネットで見つけた治療システムの治験者募集に応募したら、
ルイス博士が会いに来て、自分たちなら治せると、言ってくれたんです。
僕はたびたび熱を出したりしてて、
不自由から解放されるなら、それはとても希望のあることなので、
彼についていくことに決めました。それが二か月前です。
ルイス博士と、あともう一人、
ダルシアン博士は、人里離れた観測施設の跡地を買い取って、研究所を作っていました。
そこで十五人が、二人から治療を受けて過ごしていました。
みんな十代、二十代の若い人たちで、
医師からコールドスリープを勧められていた人ばかりでした。
全員治療に成功して、あとは経過を見て受け入れ先を探すだけだったんですが……
火事が起きて……
研究所の一部が焼けてしまいました……。
治験者全員とルイス博士は避難して無事だったんですが、
ダルシアン博士は……
亡くなってしまったんです……。」
「……。」
「この治療システムを発明して設計したのは、ダルシアン博士です。
とてもやさしい人で……
無事でいてほしかったです……。」
僕は、エマスイの肩にとまった小さな虫を、指に乗せる。
掌に乗せると、少し歩き回ってから不意に、飛んで行った。
……エマスイは、恩人の死を悲しむ僕の背中を、優しくさすってくれた。
あの時僕は、火事になっている研究所を見ていた。
研究所の一階の端の奥の部屋で、火事が起きていた。
その部屋にダルシアン博士がいて、
ルイス博士と年長の患者が、必死に消火をしていた。
そのほかの治験者である僕たちは、隣にある、古いほうの研究所に避難した。
僕たちが避難した部屋からは、火事の部屋が見えなかったけれど、
研究所の入り口は見えていて、煙が出ていた。
僕は、ひたすら祈っていた。みんな無事でいてほしいと。
薄着でスプリンクラーの水を浴び、冷え切った屋外にいた僕たちは、
部屋の空調が効いてきても、みんな震えていた。
ようやく消防車と救急車が来た頃には、火は消えていたらしい。
ルイス博士たちが研究所から出てきて、救助の人たちと話をしているのが見えた。
隊員の数名が、僕たちのいる建物へ来て、
「すぐに搬送する必要のある方はいますか。」
と、聞いた。
システムを埋める施術をおととい受けた人が、担架で運ばれた。
患者の一人が言った。
「ルイス博士たちを先に。」
みんなうなずいた。
そうしている間に、ルイス博士がやってきた。
彼は全身びしょぬれで、
室内着も、首に下げているガスマスクも焦げ跡だらけ、
顔も手もやけどだらけで赤くなっていて痛々しかった。
彼は僕たちを見渡して、心底ほっとしたように言った。
「君たちが無事でよかった!」
それから眉を寄せ、
「火災に巻き込んでしまってすみませんでした……!」
頭を下げた。
患者の一人がすぐに言った。
「ルイス博士のせいじゃないです!
ボロボロじゃないですか、早く手当てしてもらってください!」
僕も言った。
「ルイス博士も無事でよかったです!
早く手当てしてもらってください!」
みんなもうなずいて、担架に乗るよう勧めた。
「みんな……」
ルイス博士は涙をこぼして微笑んだ。
「ありがとう。」
誰も、ダルシアン博士のことを聞かなかった。
ルイス博士の表情から悟ったから。
……それに、あの勢いの炎の中で生きていられるとは思えなかった。
たとえ、システムが入っていたとしても……。
つい数時間前まで……
嬉しそうに、幸せそうに、僕たちを見ていた、ダルシアン博士とルイス博士……。
仲のいい二人の笑顔が、何度も思い出された。
ルイス博士を載せた車両が町の病院へ向かい、僕たちも順番に搬送された。
ルイス博士のやけどは、システムのおかげか、きれいに治ってきているけれど……
変わらず、僕らに優しく気遣って、忙しくしているけれど……
僕は、僕たちは、彼のことを心配している……。
煙の臭い。
車両の、回転灯の赤。
助からなかった……
ダルシアン博士……。
鳥のさえずり。
柔らかな木漏れ日。
エマスイが、僕に微笑みかけている。
「アルシュ?森を見て。森の音を聞いて。」
「……。」
僕は深呼吸する……。
それから手で両目をぬぐい、微笑んで言う。
「僕は大丈夫です。
ダルシアン博士がくれた、命と勇気があるので。」
彼女は僕の眼を見て、口元をあげる。
「そうね。」
ダルシアン博士の設計した治療システムが、
僕を生かして、
病院の外へ出られるようにしてくれた。
彼の犠牲を思うと涙が止まらなくなるけど、
僕の今日は、
僕の明日は、
こんなにも美しくて、明るい……。
食事して、眠って、
少しピアノを弾き、
少し散歩をし、
五線譜を音符で埋める。
この家に来て、五日が経った。
一度微熱が出たけど、それ以外の体調は安定している。
サマーが、温かいインナーとマフラーを買ってきてくれたので、手足が冷えることもない。
けど、今日はエマスイが部屋から出てこない。
心配だ。
どんな治療を受けたのか、私はアルシュから説明を聞いた。
頭にAIがあり、体中の管理をしていること、
腹部に、薬を合成する工場のような組織があること、
細胞が変異したり、老化したりしにくいようコントロールされているけれど、
そのために、外見上年を取らないこと。
理論上、寿命が大幅に伸びること……。
具体的なことを質問すると、
AIが額に映すという画面を見て、専門的なことを話してくれた。
ルイスが書いた説明書も、端末で受け取って読んだ。
『不安がなくはないですけど、ルイス博士とダルシアン博士には本当に感謝してて……
毎日寝る前に、明日が楽しみだなって思うんです。』
アルシュは嬉しそうに笑っていた。
……AIが健康管理するというのは、珍しいことではない。
病気を抱える人が、無数のマイクロチップを注射して、体の状態を常に把握できるようにするという技術は、確立されたもの。
『ルイス博士とダルシアン博士は、そのメーカーに勤めていた研究者だと聞いています。』
けれど、その技術は治療に役立てるためのものであって、
それ自体が治療するというのはまだまだ研究段階のはず。
それに、視力や聴覚を補う、イヤホンやゴーグルタイプのAI ならあるけれど、
体内にあるというは聞いたことがない。
調べても出てこない。
薬を合成する組織や、体中の細胞の遺伝子の書き換えや、老化を止める研究の成功報告は、
それこそ皆無……。
私は不安になってしまった。
何があっても、私はアルシュを支えられるだろうか……。
私はアルシュに起こりうる、あらゆる不幸を想像してしまった。
どうしても考えてしまって、そのストレスで調子を崩した。
……たびたび助手として雇ってきた若者たちにも、同じような不安は感じた。
けれど、今回ほど大きくはなかった。
まだ十五歳の子供……。
前例がない、まだ誰も知らない治療システム……。
年を取らない……。
未知で、怖い……。
私の部屋のドアをノックする音。
「エマスイ?食事を持ってきました。」
「……どうぞ入って。」
サマーがトレーを持って入ってくる。
「悪いわね。」
「いいえ。ほんとに病院行かなくていいんですか?」
トレーをサイドテーブルに置いてくれた。
「少しめまいがするだけだから。明日まで様子を見るわ。」
「……ほかにいるものありますか?」
「大丈夫。ありがとう。」
サマーは、いつでも呼んでくださいと言って、部屋を出て行った。
トレーには、スープとパン……
起き上がるのがつらいので、食べられない…。
代わりに、引き出しに入っているエネルギー補給飲料を開けて飲む。
「大丈夫よ……。きっと、明るいほうへ進むわ……!」
私は自分を強く勇気づける。
ピアニストは、孤独な職業。
ピアニストを志した幼いころから、私はこうして自分を励ましてきた……。
「サマー、買いものですか?」
「うん。町まで行ってくるよ。エマスイも元気になったし。
そうだ、欲しいものある?」
「えっと、靴下をもう一足お願いします。」
「わかった!」
彼は手帳を取り出してメモする。
「サマー、そのピアス、似合いますね。」
褐色に近い肌に、シルバーのピアスがよく映えている。
短めの黒髪も、かっこよくセットしてある。
「ふふ、ちょっと気になってる女の子がいてさ。会いに行くんだ!」
「へえ!がんばってください!」
「ありがとう!それじゃ、いってくるよ!」
張り切って車で出かけた。
夕方帰ってきたサマーは、僕に靴下を手渡した。
「ありがとうございます!」
「それから、はい。」
小さな袋を差し出した。
「?」
開けてみると、イヤリングが入っていた。
渋い黄緑色の小さな石がついている。
「魔よけの石だよ。
俺の故郷では、災いや病から身を守ってくれると言われているんだ。
……それに、似合いそうだなと思って。」
僕を案じて、思ってくれているのがうれしい。
玄関の壁にかかっている大きい鏡のところへ行って、
髪を後ろで結わいてから、イヤリングをつけてみる。
小さくて透明で、目立たなくていい。
サマーがにっこりして、
「うん。いいね。かっこいい!」
僕は少し照れて笑った。
早く元気になって、料理の手伝いとかできるようになりたい……。
「楽譜をしまってある部屋があるの。」
この家に来てから三日後に、エマスイが案内してくれた。
階段を上がってすぐ正面にある部屋で、中は書斎のようになっている。
「どの棚の楽譜も、自由に見てもらって構わないわ。」
棚を見ると、まるで図書館のように、一冊一冊の背にシールが張られ、番号が書いてある。
「昔、助手をしてくれていた女の子が、こうして管理するよう整えてくれたの。」
と、机に置いてある古い端末を開く。
すべての楽譜の一覧が出てくる。
「この部屋から持ち出すときは、この画面で貸し出しの手続きをしてね。返却も。」
歴代の先輩たちが後にならい、築いたシステム。
その日から毎日楽譜をお借りして、部屋のベッドや、リビングのソファーで読んでいる。
様々な曲に出会い、作曲家に出会い、今より若いエマスイに出会う。
先輩たちの置いていった楽譜もある。
読むのに疲れると、横になって休む。
インスピレーションをもらった曲。
そこから近いイメージを僕の中から探して、曲作りする。
……作曲は、夢を見るのに似ている。
楽器の響きが、夢を形づくる。
思いついたフレーズから、世界が彩られていく。
……僕は
孤独でも、
病気で動けなくても、
音楽を作っていられれば、
生きていける。
サマーはとにかく器用で体力があって、
全身がしなやかなバネのようなのだ。
目の前で宙返りして見せてくれたこともあったし、
ジャグリングしたり、ストリートダンスを踊って見せてくれたこともあった。
それはいつも突然で、僕は驚いて拍手する。
「俺はねー、こーゆうことはできるんだけどね。勉強はね~。」
彼は空気椅子で勉強しているパフォーマンスをする。
本をめくり、貧乏ゆすりをし、頭をかいて両手をあげる。
「こんな感じだったからね。」
けど、言うほどじゃないと思う。
楽器は、ピアノのほかにパーカッションができるらしい。
「ジャズは弾ける?」
「はい。」
僕はジャズもクラシックも弾ける。
「じゃあドラムがあればセッションできるね!」
少しずつ体力をつけたいと思い、サマーに何か教えてほしいと頼んだ。
「タップダンスはどう?足腰が丈夫になって、免疫力も上がるよ。」
その日から僕は、サマーからタップダンスを習っている。
……僕が両親から学んだことは……、
……必ずしも親が、
子供の味方であるとは限らない。
ということだった……。
母は父が好きで、父は母と仕事が大事だった。
僕は二人にとって、いてもいなくてもいい存在だった。
努力すれば愛されるのかな、
と思ったけれど、
そうじゃないかもしれないと、膝を抱えていた。
いつも放っておかれ、世話はベビーシッターや家政婦の人がしてくれた。
家は広く、インテリアは子供には居心地の悪い、無機質で趣味の悪いものばかりだった。
今思い出しても、理解できない趣味だと思う。
キッチンは広いだけで使いにくいらしく、家政婦さんは大抵のおかずを自分の家で作ってきた。
ただ、僕の子供部屋だけは、よかった。
子供用の質のいい家具は、どれもやさしい雰囲気がある。
それに、部屋にはアップライトピアノがあった。
僕は毎日、好きなように音を出した。
ある時、母が話しているのを聞いた。
「あのレストラン、気に入ったわ。ピアノの演奏も素敵で……」
二人が気分良く過ごすのに、ピアノも一役買っていたらしい。
僕は毎日、動画を見て、ジャズやクラシックの練習をするようになった。
レストランで演奏されるような曲を……。
少しでも好かれたい、愛されたい、褒められたい、そう思っての努力だった。
けれど……
何ができるようになっても、彼らに愛されないのかもしれない……。
……もしそうだとしても、
僕が音楽を楽しんで愛していれば、
それで心は満たされる……。
そう思って過ごしていた。
それでも……。
……僕の話を喜んで聞いてくれて、
僕の好きなものを覚えててくれて、
愛しい人を見るまなざしで、僕を包んでくれたら……。
……ほんのしばらくの間だけでいい。
偽物でも、嘘でもいい。
心の底から安心して、
幸福な眠りにつけるような、
やさしい愛がほしい……。
知らない場所で目が覚めた。
知らない人が近くにいる。
「ここ……どこですか。」
やさしい目をした看護師さんが言った。
「北部病院。あなたは救急車で運ばれてきたんだよ。」
腕に違和感があってみてみると、チューブがついている。
「それは抜かないでね。明日の朝、また詳しい検査をするからね。」
今何時だろう。窓が見えない。
……けど、それより……
「……ピアノはありますか?」
「え?ピアノ?」
「はい。ピアノが弾きたいです。」
「体が調子よくなるまで、ピアノは待ってね。」
確かにしんどくて、弾けないだろう。
「……。」
「急に具合が悪くなってびっくりしたよね。
でもここは病院だから安心して。
私たちがあなたを助けるために全力で頑張るから。」
看護師さんが明るい笑顔で言った。
僕も微笑んだ。
頼もしいな。と思ったし、少し安心した。
あまりおいしくない食事が出たけど、何とか半分食べた。
目覚める前に、母親が来たらしい。
僕の手帳と着替えが置いてあった。
「明日退院できるかな……。」
けれど、免疫不全と診断され、五年間入院した。
よく晴れた午後。
僕は二階の広いベランダへ出て、椅子に座って、森を眺めている。
エマスイのピアノ室の、ちょうど真上だ。
前方は若干開けていて、木々は、少し離れたところから立ち並んでいる。
新緑の枝葉が風になびいていて、ゆっくりと揺れている。
日差しは暖かいけれど、風は涼しいので、僕はコートを羽織っている。
遠くで鳥がさえずっている。
胸を張って、朗らかに歌っている。
僕は森の音を聞きながら、ゆっくりと呼吸する。
気持ちがいい……。
白い花の咲いている木が見える。
なんという名前の木だろう。
エマスイが貸してくれた端末を、木にかざした。
画面に木が映り、名前が出る。
「へえ、これがヤマボウシか。」
画面から顔をあげ、再び森を見る。
「あれ。」
ヤマボウシのそばに、人が立っている。
向こうを向いているので、顔はわからない。
長い、白い髪に、白い服。
横を向き、低い枝をくぐって森の中へ入っていった。
動作の感じからすると女性だと思うけど、
彼女は……
光に透けているように見えた……。
背後のドアが開く音がして、びっくりした。
「!!」
「え、なんか驚かせちゃった?」
サマーがやってきた。
「いえ。」
僕は立ち上がって微笑む。
「そう?昼飯ができたから下来て。」
腕まくりした手で階下を示す。けど、
「アルシュ、顔白いよ?」
と、心配そうに言う。
「少し風が寒くて。」
……サマーはあの人を……白くて透明な女性を、見たことがあるだろうか。
「メニューは何ですか?」
「ニジマスのグリルと、春キャベツのスープと……」
僕は、彼の後について家の中に入る。
ドアを閉めつつ、ドアのガラス窓から森のほうを見たけれど、だれもいなかった。
「あ、ホットミルク作っとくよ!」
彼は、飛ぶように階段を下りていった。
「ありがとうございます!」
僕が入院した病院は、小児病棟と一般病棟があって、間に小さな図書館がくっついていた。
僕はたびたび本を借りた。
物語も借りたし、音楽理論の本も借りて勉強した。
学校よりも勉強時間が少ないから、多く本が読めた。
入院して二週間がたつ頃。
「君はいっつも本読んでんな。」
本を倒すと、少し目つきの悪い男の子が立っていた。
「それかヘッドホンしてる。」
「うん、好きなんだ。」
僕が微笑むと、彼は渋い顔をして、
「はあ……病人みてえ。」
一応病人なんだけど。
そういう君だって……パジャマ着てる。
「俺も患者だけどな。
……なあ、本なんか置いて、遊ぼうぜ。」
不愛想でつっけんどんな言い方。
けど、そうすることにした。
「アルシュはどこが病気なんだ?」
「うーんと、戦う細胞が少ないんだって。」
「へえ。……あ、俺には聞くなよ。」
僕には聞いといて、自分のことは教えないらしい。
「なんで?」
「決まってんだろ。
知らねえ奴と遊びたいからだよ!」
と、投げ捨てるように言った。
彼のことが気になった理由が分かった。
彼、ローイは運動神経のいい子だった。
僕は、足は速くないけど、手は器用なほうだと思う。
結構毎日二人で遊んだ。
「食べ物がおいしくなくて…。」
と話したら、売店で買い食いすることを教えてくれた。
どのお菓子がおいしいか、ローイはよく知っていた。
というか、僕が知らな過ぎただけか。
初めて食べたと言うと、
「嘘だろう?」
と、目を丸くしていた。
本当はあまり食べちゃいけなかったんだけど、こっそり二人で食べたり、炭酸を飲んだりしていた。
新米の女性看護師さんを、ナンパしたこともあった。
ノリであんなことを、毎日のようにしていたのは、後にも先にも、ローイといたときだけだ。
ローイは、まじめにくだらないことをするのが好きだった。
僕たちは冗談ばかり言っていた。
二人で外来のロビーをうろついた結果、僕が高熱を出したときは、一日中ローイがそばにいてくれたと後から聞いた。
泣いて謝っていたと。
僕らは毎日、どちらかのベッドに上がって、
並んで勉強したり、ゲームしたり、映画やアニメを見たりした。
ある時、病棟でコンサートが開かれた。
医師の先生や看護師さんが弦楽合奏した。
僕は、久々の生音を、体中で聞いた。
終わってみんな部屋に戻った後も、僕は座ったままでいた。
ローイも付き合って隣にいた。
僕の中で、
演奏の余韻と……
病気の僕の将来と……
僕が残したいものと……
夢が……
響いていた……。
「ローイ。
僕の作った曲も、ずっと未来まで演奏され続けるといいな。」
「……じゃあ、俺の曲を作れよ。
そしたら永久に残るぜ。」
彼はニヤッと笑ったけど、すぐ落ち着かなげに正面を向いた。
ローイは時々胸がすっとすることを言う。
「そうだよ。間違いなく永遠にモテるよ!」
確信して言うと、彼に背中を強くたたかれた。
ローイが何の病気なのか、人づてに聞いた。
けれど、僕は知らないふりをした。
まあ、お互いいつどうなるかわからない者同士だった。
僕らは、注射とか、検査とか、そういうものを仕事と呼んだ。
「仕事行きたくねー。」
とか、
「今日は働いた~。」
とか言って、同情しあった。
片方の具合が悪いときは、片方が看病した。
大抵ふざけていたが、彼は力強い詩人でもあった。
「大丈夫だ。死神の足音はまだ聞こえねえ。」
「俺自身が、俺のコマを回し続けるんだ。」
よくそんなことを言っていた。
はじめは誰のセリフなのかな。と思ったけど、それがローイなのだ。
入院した六日後のこと。
荷物を持ってきた母に、僕は言った。
「先生も優しくて、快適だよ。」
「そう。私は、来ないほうがいいよね。
病気を持ってきて、アルシュに移しちゃうかもしれないから。
それに、ここはちょっと遠いし……。」
「……。」
「じゃあね。いい子でいるのよ。」
母は、僕の頬にキスしようとしてやめた。
そのまま口だけ微笑んで、去っていく。
僕はベッドについた手を握りしめている。
母は、もう二度とこない。
追いかけて引き留めたって、うんざりしたため息をつかれるだけ。
そして口先だけで謝る。
とっくに知っていた。
僕は、形だけの家族。
母は、病院を出て行った。
心が震える……。
……母も、父も、消えてしまった……。
もう二度と、あの部屋にも戻れない。
……大切な、親友のピアノを、失ってしまった……。
……そういうこと。
僕は震えてトイレへ行き、閉じこもって、声を殺して泣いた。
しばらくしてベッドへ戻ると、シーツが握りしめた形に、しわになっていた。
エマスイの家は、母親の家だったらしい。
母もピアニストで、大学で教えていたそう。
偶然、この空き家を見つけて気に入り、広いピアノ室をという注文でリフォームしたそうだ。
八角形のピアノ室は、玄関ホールの、階段裏にある。
元は、貴族のパーティーが催された部屋だったとか。
この家は貴族の別荘だったらしい。
家具は、母と自分の二人で選んだものばかりだとエマスイは話した。
美しく、洗練されたアンティーク。
シンプルだけど、温かみのあるモダンなソファー。
二階の部屋は、六つともニュアンスが違う。
……なんというか、エマスイも、彼女の母親も、質感のバランスと、色彩のセンスがいいのだ。
どこを切り取っても絵になる家だと思う。
ちなみに僕が使わせてもらっている部屋は、エマスイがコーディネートしたそう。
「だいぶ昔に元夫が使っていたけれど、あとからリフォームしてあるの。
感じのいい部屋でしょう?」
元夫の人もピアニストで、今はピアノ教室の先生をしているらしい。
今は良い友人だとエマスイは話した。
夜、月が低く上る。
照明を消した部屋の壁には、
月明かりが、もう一つの窓を作っている。
さっき月に気づいて、わざとカーテンを開けておいたから。
僕はベッドで眠りにつこうとしている。
美しい月の光を見つめて。
すると、そこに人影が、ふわりと表れた。
目が覚める。
僕は、ゆっくりと肘でおきあがる。
人だ。ここは二階なのに……。
白っぽい女性が、窓の外にいる。
僕に気づき、逃げようとした。
「待ってください!」
ベッドから足を降ろして座る。
彼女の服が、少しだけ見えている。
「こんばんは。」
窓に向かってあいさつした。
白い若い女性が、そっと、窓の外に姿を現した。
「こんばんは。」
と、小さく聞こえた。
僕はゆっくり立ち上がり、窓に近づいて開けた。
冷たい夜気。
彼女は少し離れたところにいる。
宙に浮いている。
月の光が彼女の体を通っていて、彼女自身がうっすら光っているように見える。
「初めまして。僕はアルシュ。あなたは?」
「私は……この森に棲んでいる、精霊です。」
と、少し恥ずかしそうに言う。
精霊……?
「精霊……さんとお会いするのも、お話しするのも初めてです。
何か御用でしたか?」
「……。」
言葉にならない様子。
長い髪と衣が、柔らかくたなびいている。
「この間、エマスイのピアノを聞いていましたよね。庭で……。」
三度、彼女を見かけたことがある。
一度目はベランダから。
二度目は森を散歩している時、
三度目は、庭で。
彼女はピアノ室の窓をのぞいていた。
「精霊は、音楽が好きなんです。
それから、眠っている人間を見るのも。」
と、楽しそうにニコッとした。
「アルシュさんのピアノも好きです。また聞かせてください。」
と、遠ざかろうとする。
僕は声をかける。
「あの!」
彼女は止まってくれた。僕は微笑む。
「またお話しできますか?」
「はい。」
彼女は嬉しそうに微笑む。
「また会いに来ます。」
僕も笑った。
「お待ちしています。」
「おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
彼女は僕にやさしく微笑みかけ、森へ飛んで行った。
僕は窓を閉める。
冷えてしまったので、あんかの温度を上げる。
ベッドに潜ると、
月明かりが壁に作る窓は、少しだけ、移動していた。
私には、二つ年下の妹がいた。
朧な記憶ばかりだけれど、妹はピアノが大好きで、よく弾いていたのを覚えている。
「優しい、才能のある子だったのに……」
棺に花を手向けた後、そうつぶやいた母。
大好きな母が、顔を覆って肩を震わせて泣いていた。
……もし、妹ではなく私が死んでいたら、母は、同じように泣いただろうか……。
妹の無邪気ではじけるような弾き方を思いかえした。
私にはできない弾き方だった。
プロのピアニストである母は、華やかで、暖かな、輝く波のような演奏が得意だった。
家では、一人で怒ったりあやしたり、独り言を言いながらピアノを弾いていた。
母のピアノが始まると、私は近くの部屋へ行って、聞きながら過ごした。
私は小さいころから、プロになることを意識していた。
母とは違う、私の演奏を探していた。
妹の弾き方を真似たら母は、
「エマスイの弾き方でいいのよ。」
とほほ笑んだ。
私は母とは違い、重く、短調から始まる曲が好き。
母が弾くと、あまり重くならず、雰囲気に欠ける気がした。
母の跡継ぎではなく、妹の代わりでもなく、私は私の演奏を……。
重い重力。
暗く広く、
そこからふっと圧力が抜けて、
明かりがともる。
まばゆい光が見え、
それもつかの間、
また暗く重く
沈んでいく……。
すべてを優美に、強く、はかなく……。
母は痩身の私を心配して、
「重すぎて体を壊してしまうんじゃないかって毎日ハラハラしていたわ。今もね。」
プロになって何年たってもそう言っていた。
重く弾く技術を維持するには、毎日何時間も弾かなくてはいけない。
二時間も弾けば、くたくたになって放心してしまう。
その数時間を、一日でも怠れば、技術を保てなくなる。
夫は疲れ知らずで、一日中でもパワフルに弾く人だった。
何日か弾かないこともあったけれど、平気そうだった。
夫は子供を欲しがったけれど、それは私にプロをやめろというのと同じことだった。
私は言った。
「スタミナのあるあなたが産めればいいのにね。」
離婚し、彼は再婚し、それぞれに子供に教える先生になった。
中には、妹に似た弾き方をする子もいた。
その子に教えることで、私は少し、楽になった。
サマースクールや、音大の学生、卒業生を助手として迎えるようになった。
サマーで十六人目。
子供や若者が抱えているもの。
それを感じ取ることも、私の演奏に必要だと感じている。
僕は、エマスイの演奏を何度か動画で見たことがあった。
けど、その時は、まさか彼女と暮らすことになるなんて思いもしなかった。
ルイス博士からは、出発する直前に知らされた。
とても光栄だけど、受け入れてもらえるか心配だったし、突然で心苦しかった。
仕方ないことだけど。
僕の持ち物は、
ルイスが用意してくれたコートと、入院中に買ったメモリースティックが一本だけ。
スティックの中には、
僕が今まで作った曲や、曲にまとまっていない、たくさんのメモ書きが、すべて入っている。
ペンダントのように、一日中首にかけている。
これは、首に下げたまま手元の端末でファイルを開いたり、保存したりできるから便利だ。
火事の時もすぐに逃げられたし。
今、エマスイが貸してくれた端末で、新しい曲を作っている。
本物の森と、本物のエマスイの演奏を知って、僕の内面で、何かが現れつつある。
エマスイの演奏は……、
この上なく美しい……。
恐ろしくとどろくような旋律であっても、シンプルなカノンであっても、引き込まれる。
……彼女の世界に……。
何時もエマスイが弾いている部屋がある。
一階の北西にあって、八角形の広い部屋。
おおきな窓が五つあり、外の森が、まるで連作の絵のように見える。
グランドピアノが三台、ほかにもチェンバロ、フォルテピアノ……
いろんな鍵盤楽器が置かれている。
ソファーがないし、リビングから離れているので、僕はまだ数回しか入れてもらえていない。
まだまだ体力がないけれど、
あの部屋の楽器を弾き始めたら、とりこになって止められなくなってしまうだろう。
あの部屋にいられるだけの元気を作らなきゃ。
小さく聞こえてくるエマスイの演奏を聴くたび、そう思う。
入院中、僕に話しかけてきた男の子が、ローイのほかに、もう一人いた。
彼も僕より先に入院していた。
彼は、あまりベッドから離れられなかったけど、よく通る声で僕を呼び止めた。
よくしゃべる子で、家族の話や、ゲームの話、持ち物の自慢、お化けの話。などなど。
けれど、彼の話は嘘か本当かよくわからない印象があった。
彼は言った。
「来週手術なんだ。怖いな……。」
それは本当だった。後で看護師さんに聞いた。
けれど、そのあと彼はこういった。
「でも、魔法使いに会えるんだ!楽しみだな!
ねえ、アルシュはあったことある?」
「え?魔法使いに?ないよ。」
「僕もない。
あのね、この間退院した女の子から聞いたんだけどね、手術室の前にいるんだって。
手術がうまくいく魔法とか、病気が治る魔法をかけてもらったんだって。」
病気が治る魔法……!
彼の少々わかりづらい説明によると、
フードをかぶった魔法使いが小さな杖を振ると、
輝く粉が舞って、差し出した両手に集まり、消えたのだそう。
魔法が効いたのか、その女の子は順調に回復して退院した。
「看護師さんに聞いても知らないって言われるんだよ。
もしアルシュくんも魔法使いに会いたかったら、僕の手術の日に探してみなよ。」
僕とローイはこの病院をほぼ探検しつくしていたので、裏口も裏階段も知っていた。
当日。
手術室近くの裏階段のドアの中から、ローイと二人で、様子をうかがった。
僕らは、借りた聴診器をドアにつけて、廊下の音を聞いた。
ストレッチャーの音が、手術室の前で止まった。
女性の話声がし、少したってから、よく通る声が嬉しそうに言った。
「ありがとう魔女さん!僕頑張る!」
ストレッチャーが手術室に入る音がした。
僕たちは急いでドアを開け、廊下に出た。
そこには、
深い紫色の、床まで届く衣をまとい、フードをかぶった女性が立っていて、
僕たちを見ていて、にっこり笑った。
とっくに気づかれていたのだ。
僕は言った。
「彼からあなたのことを聞きました。
手術をうまくいくようにする魔法や、病気が治る魔法を使えると。」
彼女はこちらに近づいてきた。
僕らも歩み寄り、立ち止まる。
「あの、あなたにお願いがあります。」
「あ、おれも!」
「なんでしょう。」
「ローイに」
「こいつに」
『その魔法をかけてほしいんです!』
僕とローイは同時に言った
「素晴らしい友情ね。」
彼女は微笑んだ。
そしてポーチから古そうな手鏡を取り出し、僕らに裏を見せてかざした。
ローイに。
そして僕に。
僕には長くかざしていた。
鏡の裏の、唐草に二羽の鳥が止まっている模様が、よく見えた。
魔女を見ると、何かに驚いているようだった.
けれど、スっと鏡をしまい、小さなタクトのような金色の細い杖を取り出すと、
「まずはあなたに。名前は?」
「ローイです。」
「ローイ……」
小さく呪文を唱え、模様を描くように杖を動かした。
模様が一瞬光り、光は粉になって舞った。
注意深く杖を動かしながら、魔女は言う。
「ローイ、両手を出して。」
あわてて差し出した手の上に、光の粉が集まっていく。
すべて乗ると、きらめきながら、手に吸い込まれるように消えた。
「では次はあなた。名前は?」
「アルシュです。お願いします。」
同じ模様が空中に光り、両手に粉が積もって消えた。
魔女は杖を、細い黒革のハードケースにしまい、
「手術を安全に済ませる魔法は、直前でないと効き目がないの。
今二人にかけたのは、穏やかな夢が見られる魔法と、食べ物がおいしくなる魔法。
数週間効き目があるわ。
どの病気にも、いい効果があるの。
さっきあの男の子にかけたのも、同じ魔法です。
病をもとから治す魔法は、残念ながらないの。
だけど、整えることはできるのよ。」
なんだか、あの子の言っていたのと違うな。
僕たちはがっかりする。
もしかして、本当に本物かも、と思ったから。
穏やかな夢、食べ物がおいしくなる、それは気持ち次第だと思えた。
子供をだますなら、これで治ると言ってほしかった。
彼女はかがんで、僕の耳元でこうささやいた。
「アルシュ、マイザの岬を覚えていて。」
「え……?」
彼女は微笑んで僕らの頭をひとなですると、歩き去った。
僕は急いで振り返る。
「あの!あなたのお名前は?」
なぜか、聞くべきだと思った。
本物の魔女かどうかもわからないのに。
彼女は振り返り、
「モーリーよ。」
重たい手動のドアが勝手に開き、魔女のモーリーは去っていった。
リビングで、サマーが僕に手帳をかざす。
「はい、撮るよー。」
サマーの手帳が、短く鳴る。打楽器の音だ。
なんだっけあの楽器…。ええと。
僕は、サマーのTシャツとハーフパンツを着て、裸足で絨毯に立っている。
「回って。」
正面と、両側面、背面を映して数秒。
僕のサイズに合う服の一覧が画面に出てきた。
僕は、パーカーを着て靴を履いてからゴーグルをつけ、右手に専用の手袋をはめ、VRの中を歩く。
そこにある店は、僕のサイズの服しか置いてない。
ハンガーを手に取り、掛けてある服を自分の体に当ててみる。
鏡が現れ、自分が着ている姿が映る。右手で触ると、手触りもわかる。
好きな感じの服が見つかってクリックすると、店内の服が似た雰囲気の服ばかりに一瞬で入れ替わる。
「あーそれいいね!」
サマーも手帳の画面で見ている。
サマーもいつもこうして服を買っているらしい。
今僕が着ているのもそう。
一時間ほど試着を繰り返し、上下合わせて十着を買った。
僕はゴーグルを外す。
自分でパジャマ以外の服を選ぶなんて、初めてかもしれない。
楽しかった。
「あさって届くって。」とサマー。
「楽しみです!」
サマーもうれしそうにうなずいて、機器を受け取る。
「……あ、あの音、スチールパンだ!」
さっきのシャッター音。
やっと思い出した。
「そうそう!いつかほしいんだよね~!」
ぜひ、サマーの演奏を聞きたい。
暖炉のそばのソファーに寝転がって、ノートに曲を書いていく。
エマスイが用意してくれている五線譜を、半分に切ってひもで閉じて作った小さなノート。
今日もだるい。
だけど、書かずにはいられない。
曲は、僕の中で勝手につながって、勝手に始まることがよくある。
そうなれば、僕は半分向こう側の人間になる。
曲の雰囲気に頭を持っていかれるので、
何をしていてもぼんやりして、元気がないと思われる。
軽快なメロディーは楽しくていいけれど、
重いフレーズは、自分の血で書いているようなしんどさがある。
過去の、つらかった心情が僕の中にたまっていて、
それを音に紡いでいる感覚になったりする。
食事している時も、シャワーを浴びている時も、ふとアイデアが浮かぶ。
一通り書き尽くすまで、あまり眠くならない。
曲とのつながりが途切れるんじゃないかと思い、AIに眠気を頼まないから、よく眠れない。
夜中にフレーズが現れて、書いたりもする。
もう少し、体力がついてから始まってほしい……。
ピアノに、タブレット端末と五線譜のノートを置いて、新しく書いた曲を弾く。
ノートにぐちゃぐちゃ書いた音符も、
こうして弾くと、きれいな楽譜になって端末の画面に映される。
「こうした方がいいかな。」
少し変えて弾くと、上書きされる。
ちゃんとペンダントのメモリーに保存されたか確かめてから、端末を閉じる。
数日、繰り返し弾いて調整する。
……こうして、僕の曲はできあがる。
夕方。
エマスイが買ってくれた服を着た。
サマーと一緒にVRで選んだやつだ。
昼間に宅急便が届けてくれた。
鳥の子急便は、ドローンで荷物を運んでくれる。
森の中にあるこの家にも楽々届けてくれる。
階段を下りてリビングへ行くと、エマスイは部屋の奥でオーディオを聞いていた。
サマーは夕食準備中だ。
エマスイはこちらに気づき、ボリュームを下げる。
「今日届いた服ね!よく似合っているわ。」
嬉しそうにほほ笑んでいる。
ツイードのスラックスに、フランネルの白いシャツ。ゆったりしたグレーのセーター。
「ありがとうございます。大切に着ます。」
「どういたしまして。」
そして隣のクッションをどけ、座るよう合図した。
僕はそこに座る。
「エマスイ、ほんとに何から何までありがとうございます。」
彼女は微笑む。
「私はアルシュの力になりたいの。」
エマスイは、僕の頭をそっと撫でた。
やさしくて、暖かくて、美しい手。
僕の心も、やさしく温かくなる。
エマスイは、僕がどんなでも味方になってくれる……。
そう感じた。
……僕もずっと、エマスイの味方でいよう……。
毎晩、カーテンを開けて眠っていたら、十日が経つ頃、再び窓辺に精霊がやってきた。
僕は窓を開ける。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
彼女は微笑む。
「よかったら部屋の中へお入りください。」
僕は下がる。
精霊は窓に近づき、中をのぞく。
「僕一人です」
彼女はすっと入ってきて、透けた手で窓を閉めた。
「寒い、でしたっけ?」
「あ、そうです。夜の空気は僕には寒いんです。」
僕はくすっと笑う。
「あの、少しお話しできますか。
精霊の人と話すのは、あなたが初めてなんです。」
彼女に、椅子に掛けるよう手ぶりで示した。僕はベッドに腰掛ける。
「知らないことだらけです。」
彼女は椅子に座りながら言う。
「私も知りたいです。あなたはほかの人と違います。」
「違う?」
「ほかの人と違う息をしています。」
「……もしかしたら、体を作り替える治療を受けたからかもしれません……。」
「作り変える?」
「病気になりにくい状態になっているそうです。」
「最近久しぶりに会った精霊が、違う息の人がいると話していました。
大勢の人がアルシュさんのようになっているのですか?」
「いえ、十六人しかいません。」
治療システムを持っている人は、ルイス博士を含めて十六人しかいない。
その精霊は一体だれと会ったんだろうな。
「アルシュさんは精霊に近い感じがします。
アルシュさんは魔法使いになるんですか?」
「え!魔法使い!?」
「違うんですか?」
「違います……。
あの、どうして僕が魔法使いになると思ったんですか?」
「精霊が見えるのは、魔力のある人なんですよ。
友人の友人の精霊は、魔法使いの式をしているそうです。
薬草を育てる手伝いをしているとか。
精霊は、植物の気持ちを読むのが得意ですから。」
「そうなんだ……。」
「アルシュさんも、そういうお仕事をする魔法使いになる人だと思っていました。」
知らなかった。僕は思わず自分の手を見る。
「魔力が、僕に……?」
モーリーさんを思い出していた。手術室の前にいたモーリーさん。
『マイザの岬を覚えていて。』
僕にだけそう言った。
彼女は知っていたってことかな。僕に魔力があると?
彼女の魔法を思い出す。
『穏やかな夢が見られる魔法と、食べ物がおいしく感じられる魔法。』
その通りだった。
迷子の夢や、病気に食べつくされる夢を見なくなった。
病院食が、とてもおいしく感じられた。
僕も学べば、人の役に立つ魔法が使えるようになるんだろうか。
僕は精霊さんに聞いた。
「魔法使いってどんな人たちかわかりますか?」
「私はこの森からあまり離れたことがないですし、
会ったことがないので、多くは知りませんけど、
魔法使いがたくさん住んでいる国があるそうですよ。
そこへ行けば、魔法や、魔法使いについてわかると思います。」
「もしかしてマイザの岬というところ?」
「マイザは入り口の村があるそうです。」
「そっか……!」
モーリーさんが言っていたのはそれだったのか。
「教えてくれて、どうもありがとうございます!ええと……」
そういえば、まだ名前を教えてもらってない。
「名前、ですか?私は名前を持っていません。」
「え。」
「友人は、初めて会った時、私がイチイの枝にいたので、イチイと呼んでいます。」
「……あなたはそれでいいんですか?」
「……。」
少し困ったように微笑む。
「自分で新しい名前を考えたらいいと思いますよ。」
イチイは木の名前であって、彼女のじゃない……。
「新しい名前……!実は、何度か考えたことがあります。」
と、恥ずかしそうに言う。
「どんなですか?」
「あの……三拍子の音楽が好きで……」
「あ!ワルツ!いいですね!」
「あ、でもそのままというのもどうかと……」
「それじゃあ?」
「あの、人が手帳でやり取りするメールというのがありますよね?
ワルツと掛け合わせて……」
「メールツ?……メルツ?」
彼女はうなずく。
「メルツさん!イチイよりそのほうがいいです!
よろしく。メルツさん。」
僕は手を差し出す。
彼女は嬉しそうにおずおずと手を重ねた。
すると、驚いたことに、彼女がはっきりと見えるようになった。
色彩のある、くっきりとした姿。
メルツさんもそれに気が付いた。
手を放して少し経つと、元に戻った。
僕は微笑む。
「メルツさんは髪と瞳がベージュ色なんですね。」
「そうなんですか!?」
僕たちは姿見の前へ行き、もう一度手をつないだ。
鏡に映る自分の姿を、彼女は見た。
「これが私……!まるで、人間になったみたい……!」
とても生き生きした表情で喜んだ。
それでも少し透けているけれど……。
白い彼女は、窓ガラスを通り抜けて、笑顔で森へ帰っていった。
サマーが僕を誘ってくれた。
「街に買い物行くけど、アルシュも行く?」
今日は良く晴れていて、暖かい。
初めての街へドライブもいいかもしれない。
少しだけど、買いものも手伝える。
この間VRで買った服と上着を着て、髪は後ろで一つに束ねた。
「あ、イヤリングしてくれてる!」
サマーがくれたイヤリングは、いつもポケットに入れてたけど、今日はつけた。
町歩きなんて、五年ぶりだから楽しみだ。
でも、少し緊張している。
車に乗り、サマーの運転で新緑の森を走る。
森を抜け、牧場と畑の間を通り、十分ほどで街へ出た。
この土地は、石造りの美しい家が多い。エマスイの家もそう。
車は、マーケットの駐車スペースに停まった。
「さて、まずはあっちの店に行こう。」
僕たちはカートを引いて歩く。
僕はマスクをしている。まだ少し免疫が弱いから。
それから帽子もかぶっている。強い日差しをよけるため。
それから、顔を隠すため……。
僕は、少し怖がっている。それはわかる。
でもなんで?どうしたらいいのかな……?
免疫と日差しのせいにしているけど、顔が隠れていたほうが落ち着く。
サマーには言ってないけど。
僕は店の外でカートを引く係。
サマーは買い物をして、カートに積む係。
広場のマーケットの店員は、みなサマーを知っているようで、笑顔でしゃべっている。
おまけしてくれる人もいる。
満載のカートを車に入れ、けれど僕らは乗らずに、もう一度車にカギをかけた。
「スイーツ食べに行かない?」
と誘ったサマーの目当ては、パーラーで働いている女の子だった。
外の席で、チーズケーキと紅茶を頼んだ。サマーのおすすめだ。
町の牧場で作ったクリームチーズらしい。
「おいしい!」
「そうなんだよ!」
サマーが片思い中の人が通り過ぎた。
「やあ!」
「サマー!いらっしゃい!」
彼女は通りすがりににっこり答えた。
ポニーテールの赤毛はふわふわで、きびきび働く姿は生き生きしている。
食べ終わったころ、彼女がやってきた。
「サマー、今日は買い物?」
サマーが上機嫌で答える。
「そうだよ。今日はルイーズの店のセロリが安かったんだ。
今日はそれと牛肉を炒めようかな。」
「それおいしそう!ところで、隣の子はお友達?」
「あ、彼は新しい研究生のアルシュだよ。」
「はじめまして。」
と会釈すると、彼女は、華やいだ笑顔で。
「あなたもエマスイさんのお弟子さんなの!?
彼女の演奏、すてきだよね!
私、楽器は弾けないけど聞くのは大好きなの!
アルシュさんも頑張って、いつか演奏会開いて!聞きに行くね!」
僕は微笑む。
「アルシュでいいです。」
「アルシュっていい名前だね!」
僕たちは握手した。暖かい手。
彼女は店内から呼ばれ、こちらに手を振って行ってしまった。
サマーは振り返した手を降ろして、
「ああ……、デートに誘う暇なかった…。」
僕は、帽子をかぶっていることを思い出した。
とればよかった……。
店を出て車へ戻る途中、僕は言った。
「サマー、聞いてほしい話があるんですけど、いつなら時間取れますか?」
……僕はまだ……、この体で生きていく自信がないのだ……。
人に受け入れられるのか、最近不安になってきた。
それで、人前に出るのが怖くなっているみたいだ。
サマーにも、僕の、人と違うことを全部話したら。
それでも応援してくれたら。
僕は歩いていく勇気がわく気がする……。
サマーは、
「皿洗いの後なら時間取れるよ。」
と、答えてくれた。
車で帰る途中。
サマーが何気ない口調で言った。
「アルシュ、パーラーのあの子、どう思う……?」
僕はくすっと笑う。
「明るくてかわいい、素敵な人ですね。」
サマーとお似合いだと……
ガクッと車が止まり、舌を噛みそうになった。
サマーがため息をつく。
「はあ……。」
僕はあわてて、
「あの!そういう意味じゃないです!」
「え、話ってそのことじゃない?」
「全然違う話です!」
彼女は素晴らしい人で、またお会いしたいと思う。
けど、サマーが懸念しているような気持ちじゃなくて……。
彼女は僕に帽子を取らせてくれた。
無条件に、僕を応援してくれる人がいると、気づいた。
それで僕には、恥ずかしさと後悔と感謝の混じった気持ちがある。
彼女は恩人で、尊敬しているし、好きだけど、お付き合いしたいわけではなくて……。
サマーの深い安どのため息。それから笑顔で、
「でも、もしアルシュがライバルになっても、俺は俺で頑張るけどね!」
僕はくすくす笑う。
「ならないです。応援してますよ!」
街歩きは意外と疲れたらしく、家に着くころには眠くなってしまった。
サマーは僕の様子を見て言う。
「あとは俺一人で大丈夫だよ。」
「そうですか、ありがとうございます。お願いします。」
買った食材を冷蔵庫に詰めるのはサマーに任せて、僕は自分の部屋に入った。
服を脱いで、すぐにベッドに潜って、眠った。
急ぐことが必要な時もあるけれど、焦って急がないということは、とても大事。
この年になって、ますますそう思う。
若いころ、私は、前へ進もうと焦ったり、人から進化することを求められたり、人と比べてしまったり、自分に課した課題が山積みだったり…。大変だった。
自分自身に急いで進歩することを求めると、周囲の人にも変化を求めてしまいがち。
融通の利かない人にイラつくのも、自分と同じ方向に、同じ程度の努力を求めるから。
自分と人は、進むペースも、生い立ちも、周囲の状況も、性格も、
あらゆることが、根っこから違う。
変えよう、引っ張ろうとするのをやめたら、楽になった。
人間関係も、ピアノも。対等になれた。
自分がコツコツ努力を続けていれば、いつかは何かしらの変化がある。
焦っても、成るように成るとゆったり構えていても、
相対的に見れば、進み方は変わらない。
それなら、落ち着いていられるほうがいい。
チャンスも、必死に取りにいかずとも、いつかは必ずやってくる。
木が少しずつ育ち、太くなるような。
そういう穏やかさ。
気持ちがゆったりしているのは、豊かなこと。
私は、今の暮らしが性に合っている。
……それでも、私は未熟者だから、
イライラしてあとで反省することもしばしばだけれど。
僕は、森を散歩するとき、よく植物に触れる。
葉っぱや幹。花びら。
香りも嗅ぐ。
手帳をかざし、植物の名前を教えてもらう。
面白いのは、種類によって、葉の触感がまるで違うこと。
ひんやりしてたり、ガサガサしてたり、表と裏でも違いがある。
VRでは湿度とか、香りはわからなかったし、
本物は、僕が草を踏めば、つぶれるし、花を手折れば、本物の汁が滴る。
知らず知らず、虫も踏みつぶしているだろう。
そんなことを考えながら歩く。
歩いていると、毎日新しい発見がある。
初めて知る花、
鳥や虫、
植物の名前……。
「メルツは何歳なんですか?」
散歩中に出会ったメルツに聞いたことがある。
「この森で一番古い木と、同じくらいです。」
少女のように、少し恥ずかしそうににこっと笑った。
食後にリビングで、サマーに話しをした。
僕の受けた治療のことを。
システムがどんなものか。
ダルシアン博士と、ルイス博士がどんな人たちか。
僕は見かけ上、年を取らないらしいことも話した。
エマスイも、ルイス博士について話した。
ルイス博士が、僕たち治験者にくれた、システムの資料はデータで持っているから、あとで見せようと思うけど、まずは僕自身の言葉で伝えようと思った。
サマーはだいぶ驚いて聞いていた。
無理もないと思う……。
「ちょっとまだ呑み込めなくて……あ、お茶入れてくるね!」
小走りでキッチンへ向かった。
僕はエマスイに膝を向ける。
「エマスイ、僕は今の話を証明できるものが何もなくて……
正直、僕自身、画面が見える以外は体が変わった実感がないですし……
検査を受ければDNAが書き換えられていることがわかるはずですけど……」
手術の跡は、まだうっすら残ってる。
頭とおなかに。でも、それを見せても内容は伝わらないし……
「サマーは少し時間が必要なだけよ。心配しなくて大丈夫。」
微笑んでそういうと、エマスイもキッチンへ向かった。
私がキッチンへ行くと、サマーはティーセットの棚の前で、考え込んでいた。
「サマー。」
「エマスイ……すみません、少し混乱してて……あ、お茶入れますね。」
と、茶葉をティーポットに入れる。
「サマー。今までうそをついていてごめんなさい。
私もちゃんと支える決心がつくまで、時間がかかったの。」
アルシュは親戚の子だと話してあったし、
病名も、もっと軽い病気のものを伝えていた。
「いいえ、そんな!
……あの、俺は知ってよかったんですか?
なんていうか、大勢その治療を受けたい人がいるんじゃないかって……
もし俺が人にばらしたりしたら……」
「そうね。
年を取らない、病気にならない。
話を聞いて目の色が変わる人はいるでしょうね。
でもアルシュは、あなたを信頼して、味方になってほしいから打ち明けたのよ。
話すのに勇気が要ったはず。」
アルシュは、自分の特殊さが、最近不安になってきたようだった。
「サマーにも受け入れてもらえたら、僕はこの先、歩いて行ける気がするんです。」
信頼して打ち明けたのに、拒絶されたら、辛いでしょう……。
「サマー、彼は今一人なの。
人と違っていても、
アルシュを思いやって、
家族のように接しましょう。」
「……はい。……その通りですね……。」
サマーは目をつぶると、自分で自分の頬をひっぱたいた。
そして両手で目を覆う。
信頼してうち開けてくれたことの、うれしさ。
受け止める覚悟……。
私は、彼の肩をさすった。
しばらくして、ティーセットを運んできた目の赤いサマーは、僕に何か言おうとした。
けれど、僕のほうが先に言った。
「サマー、見てて!」
彼から教わったタップダンスを踊る。
スピードにかけるけれど、できるようになった。
息切れしながらだけど、最後までステップを踏んだ。
二人とも暖かく拍手してくれた。
「サマー、他のも教えてください!それから料理も手伝いたいです!」
「もちろん教えるよ!」
サマーはしばらく涙が止まらなかった。
次の朝、キッチンへ行くと、
「おはよう!今ハーブティー入れるね!」
いつも通りのサマー……いや、今は心のどこかがつながっている感じがする。
「サマー、ありがとうございます。
僕は怖くなくなりました。」
これから先、僕を拒絶する人がいるかもしれない。
でも、最初に二人の味方を得た。
それは、僕にとって一生、大きな支えになる。
「アルシュ。ほんというとね、
昨日までの俺はアルシュがうらやましかったし、引け目を感じてたんだ。
エマスイの親戚だって聞いてたし、作曲もできて、俺よりずっと才能がある。
俺の悪い癖だ。
人をうらやんで遠く感じる。
そうじゃないよな。
俺も曲を作れるようになろうって思うようになったんだ。」
僕はうれしくて笑った。
「サマーの曲、楽しみです!」
「ありがとう。どうしたらいいのか全然わかんないけど、頑張るよ!
あ、今は朝食を作らなきゃ!」
と、僕にハーブティーを入れてくれた。
「あ、それと、俺はアルシュのこと、友達だと思ってるよ!」
病院にいたとき、僕は病気と付き合っていく心づもりをしていた。
調子のいいときも、そうでないときも、病気は常に僕を形づくるものの一部だった。
健康で強い体だったら生まれない感情や繊細さ、考え方がある。
ローイとそういう話もした。
ローイは治療の成果が思わしくなく、十三の時、コールドスリープすることになった。
僕は泣いた。
二度と会えないんじゃないかと思ったから。
コールドスリープが一般に行われるようになって十八年程。
十五年以上眠っている人も大勢いるのだ。
ローイもそうなるかもしれない。
でも、ローイは賭けたのだ。
このまま過ごして弱って死ぬより、眠って、未来に僕と再会することを。
……ルイス博士はローイのところには来なかった。
少しタイミングが早かったのだ。
「別れを惜しまれるって、うれしいもんだな。」
と、ローイは強がりを言った。
「でも、また会おうぜ。」
彼も、目を赤くする程願っていた。
……僕も、希望すればコールドスリープすることができた。
けど、もし一緒に眠って、
どちらかが先に治療方法が見つかって、
もう片方は、百年眠り続けることになったら……
二度と会えないことになる。
僕は、無菌室の空きが見つかれば長く生きられる。
ローイを待っていられる。
コールドスリープして、ローイのいない世界で目覚めるより、
年を取りながら待っているほうがいい。
ローイのベッドは空になり、ほどなくして、知らない子の寝床になった。
あれから二年たつ。
病気のまま、氷漬けで眠っているローイのことを、思わない日はない……。