第一章 01
「はい、よくできました」
ブレンダが頭を撫でると、算数の問題を解いていたエダムは嬉しそうに笑顔になった。
「じゃあ次は、ちょっと難しい問題をやってみる?」
「うん」
エダムが次の問題にとりかかるのを見ると、ブレンダは隣の少女の手元を覗き込んだ。
「マリはできた?」
「うーん……もうちょっと……」
「じゃあ分からなくなったら聞いてね」
二人が問題を前に考え込んでいるのを見守っていると、ドアが開いて最年長のカルロが小さな子を抱き抱えて入ってきた。
「ブレンダ、ロイがどうしても寝ないんだ」
「あら」
ブレンダは立ち上がると、カルロの腕の中のロイを受け取った。
「どうしたのロイ、まだ遊び足りなかった?」
「ママぁ」
ぎゅっと抱きついてきたロイを抱きしめると、あやすようにその背中を優しく叩く。
「ブレンダはママじゃないぞ」
「カルロだって院長先生のこと母さんって呼んでたじゃん」
エダムが顔を上げて言った。
「いっ言ってねえし!」
「わたしも聞いたよー」
「院長先生はお母さんみたいに優しいもんね」
耳が赤くなったカルロにそう言うと、恥ずかしいのかカルロはぷいと顔を背けた。
ロイはまだ一歳半で、一ヶ月前に孤児院にやってきたのだという。
まだ母親を失ったことすら理解できていないだろう。母親がいない不安で眠れないのかもしれない。
この孤児院には一歳から十四歳まで、十名の子供がいる。
最初は貴族の娘であるブレンダを警戒していたようだが、五日間ここで暮らすうちにすっかり慣れてくれた。
いたずらや喧嘩もするけれど、ちゃんと向き合えばブレンダの話を聞き分けてくれる、可愛い子たちだ。
「ブレンダさん」
ようやく眠ったロイを抱きながら皆の勉強を見ていると、シスターが入ってきた。
「院長がお呼びです」
「はい。カルロ、あとはお願いね」
ロイをカルロに託して、ブレンダはシスターと一緒に部屋を出た。
「ブレンダさんは素晴らしい方ですね」
廊下を歩きながらシスターが言った。
彼女は院長と共に長くこの孤児院にいる副院長的存在だ。
「え?」
「貴族の、しかも侯爵家の御令嬢なのに子供たちに慕われるほど面倒を見て。事務の仕事もできますし、粗相の片付けまでするじゃないですか」
この国は身分差別が強く、貴族と平民には超えられない壁がある。
そして貴族令嬢というのは箱入り娘に育てられ、労働など決してさせない。
間違っても、子供のお漏らしや嘔吐の後片付けなどしないものだ。
けれど、ブレンダは前世でもそれらをやっていたため抵抗がなかった。
「お世話になっているのですから、やれることをやるのは当然です」
「そう考えられるのが素晴らしいです」
「……ありがとうございます」
「そのようにお礼すら言えない方が多いですから」
この国の常識では貴族が平民に頭を下げることはまず有り得なく、感謝することもほとんどないものだ。
「私は……貴族よりも平民の生活の方が合っているみたいなので」
前世の気質が強く出るようになると、ブレンダは貴族として生きることに違和感を感じるようになった。
人に傅かれるのがどうも慣れなくて、それよりもこうやって誰かのために働く方がずっと楽しいし、自分には合っていると思っている。
「院長や私たちも、ブレンダさんがこのまま孤児院にいてくれたらいいのにと思っているんですよ」
「本当ですか」
認めてもらえたことに、ブレンダの心がじんわりと温かくなった。
「ですが……」
「ですが?」
「……実は今、侯爵家の使いという方が来ているんです」
困ったような表情で、シスターはブレンダを見た。
ブレンダがこの孤児院に来たのは五日前のことだ。
父親から打たれた二日後、ブレンダは家出をした。
夜明けと共に家を出て乗合馬車で王都の中心部へとやってきた。
そうして、そこでたまたま出会った孤児たちに誘われ、彼らが暮らす孤児院へとやってきたのだ。
「まあ……可哀想に。痛むでしょう」
打たれた跡がまだ青々としているブレンダの頬を痛ましげに見た院長は、優しそうで上品な雰囲気の年配の女性だった。
その院長に尋ねられるまま、ブレンダは自分が家出した理由を説明した。
親の決めた結婚を嫌がって家出だなんて、それだけ聞けば幼稚で、そしてわがままな子だなと我ながら思わなくもない。
貴族の娘ならば、親が決めた政略結婚を受けいれるべきなのだろう。
ブレンダはここが漫画の世界で、第二王子と婚約などすれば破滅の未来が待っていると知っているが、他の人には言えないし、そんな理由を隠しているなんて想像すらつかないだろう。
「娘とまともにお話ししたことがないなんて、ひどいお父様ね」
けれど院長は頷いてそう言った。
「貴族にとって政略結婚は大事かもしれないけれど、でもそのせいで沢山の女性や、時には男性が犠牲になっているのも問題よね」
「……はい」
「それにね、そうやって愛のない結婚をすると、愛人を作ったりして外に子供が生まれるでしょう。そういう子が虐待を受けたり、捨てられてしまったりするのよね」
「……そうなんですね」
家同士の血の繋がりを強固にするための政略結婚なのに、他の者との間に子供が生まれてしまうと何かと問題が起きるだろう。
孤児院の院長として、そういう捨てられた子供を何人も見てきたのだろうか。
義母もブレンダに対して無関心だけれど、虐待されないだけまだマシかもしれない。
「子供というのは全て愛されるべき存在だと思っているわ」
優しい眼差しをブレンダに向けながら院長は言った。
「不幸な子を一人でも減らすのが私の使命だと思っているの」
「……はい」
「だから、あなたの気持ちも大事にしてあげたいわ」
「……ありがとうございます」
(ああ、この人は……本当に子供を愛してくれる人だ)
ブレンダは前世で出会った施設の人たちを思い出した。
――彼らもこうやって、子供たちを分け隔てなく愛してくれていた。
「それで、あなたは家出をしてこれからどうするつもりなの?」
「……何の力もない子供の私が一人で家を出て生きていかれるとは思っていません。今回は数日間王都で過ごして、意思表示をして帰ろうかと思っています」
中身は前世の知識もありそこそこ大人だけれど、外見は子供だ。
治安の良い王都ならまだしも、その外へ出て一人で生きていかれるとは到底思えなかった。
「そう、賢明な考えね。ところであなたは何歳なの?」
「十四歳です」
「その歳なのにちゃんと状況を理解しているなんて、とても賢いのね」
院長は目を細めた。
「それで、王都で行くあてはあるの?」
「いえ……どこか宿に泊まろうかと」
「まあ。いくら賢くても、あなたみたいな綺麗なお嬢さんが一人で泊まるのは危険よ」
それまで穏やかだった眼差しが険しくなった。
「ここに泊まりなさい」
「……それはご迷惑では」
「一人くらい大丈夫よ。それに、ちょうど良かったわ」
院長はシスターを見た。
「一人病気で休んでいて、後任をどうしようか相談していたところなの。手配するにもすぐには来てくれないだろうし短期間だから、あなたに手伝って欲しいわ」
「え、でも院長……。この方は侯爵家の御令嬢で、しかも十四歳ですよね」
シスターが焦ったように言った。
「子供たちに勉強を教えるのと、遊び相手になるくらいはできるでしょう?」
「……はい」
院長がブレンダを見たので頷いた。
それなら前世で経験しているからブレンダにもできるだろう。
「それじゃあ早速頼むわね、ブレンダさん」
そうしてブレンダは孤児院に滞在することになったのだ。




