オヤジ☆くえすと
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仕事では年下の部長に見下され、事あるごとに叱責の的にされる。
家に帰れば奥さんからご近所さんのああだこうだを聞かされ、高校一年の娘氏からは「くせぇっ! 死ね! 二度と顔を見せるな!」と切り口上の太刀を浴びせられる。
増えるのは、苦笑いとため息の数。
減っていくのは、おこづかいと自尊心。
ノリさんは疲れていた。
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今年で四十二になるノリさんは、中堅よりやや上のネットワークインテグレーター――の子会社で、一昨年度から課長をやっている。「運用サービス一課」という。名のとおり、運用に関するサービスを商品として取り扱っており、ネットワークはもちろん、システム全体の面倒を見ることが可能であると謳っている。課に与えられた役割はシンプルなものだ。営業にくっついて客先で商品を売り込み、受注できたら運用設計を行い、最終的には運用仕様書を成果物として納品する――そんなところである。
ノリさんは課長なので、メシのタネはちと違う。基本的な業務を一つ挙げるとするなら、それは部下が抱えている案件と、そこにかかる工数の管理である。無論、部下がヘタを打ったときに先方に頭を下げに伺うのも重要な務めだ。案件に直接的に関わることもあるけれど、そのケースは例外としておかなければならない。マネージャーとはそういうものだ。
じつはノリさん、いまの仕事があまり好きではない。課長になるまえは、構築部隊のエンジニアをやっていた。現場に出るのが仕事だった。ただ、早々と前線を退きマネージャーになった先輩からは、かねてより「いい年こいたフィールドエンジニアなんて、客も扱いにくいだけだぞ」と言われていた。その言葉は無情な響きしか伴わなかったけれど、ノリさんには大切な奥さんがいる、娘氏は私立の美大に行きたいと言っている、マンションのローンもたっぷり残っている。課長になればわずかながらも基本給は上がる。雀の涙ほどだけれど役職手当もつく。ノリさん、涙を飲んで、「生涯エンジニア」の信念を捨てたのである。
――が、いまになって、その決断を少なからず悔いている。そもそも畑違いへの異動を強いられたのだから戸惑うのはあたりまえだったのだけれど、それよりもなによりも、課が抱える問題が驚くほど根深いことが、その最たる理由だ。
運用フェーズの設計とその適用という分野において、ノリさんの会社は周回遅れの後発である。目ぼしい顧客など、とうの昔に刈り尽くされている。しかも、最近になって始めた事業だから、ノウハウがない。ノウハウがないから、実績がつくれない。実績がつくれないのだから、ノウハウだって蓄積されない。
厳しい。
声高に「お任せください!」と宣言できない状況は、結構、いや、かなりキツい。
首尾よく案件を拾ってくることが、できていない。
受注できても、うまく回せない。
長らくつづくその事実は、部長にしかめっ面をくり返させる。たびたびノリさんを呼びつけては、怒りの交じった声を使って「どうなってんの」と言う。売り上げを改善するための提案をしろと言う。ノリさん、過去に三度も資料をこしらえて披露した。本部長のまえでプレゼンしたこともある。けれど、案を実行するにあたってはクリアできない課題が少なくなく、ノリさんのがんばりが具体的に利益に寄与したためしはない。覚えるのは疲労感と徒労感ばかりだ。
客先に出ている三人――課のメンバーだって、しんどいだろう。モチベーションの維持が難しいなかでも、一生懸命にやってくれていることはすごく伝わってくる。
それでもどうしたって、不満は噴出する。
「メニューの策定は、原則、ウチの業務じゃありませんよ」――ごもっとも。
「社内調整の工数だけで赤が出るんですから、仕組み自体を見直さないと」――ごもっとも。
「営業が匙を投げようとしてる客に売り込む意味なんてないでしょう?」――至極ごもっとも。
まさにいま、ノリさんは板挟みという状態を味わっている。
以前、隣の二課の長は、ノリさんにアドバイスをくれた。
たった一言、「ドМになれ」と。
たしかにそれが実践できれば、多少なりとも苦労は軽減されるのかもしれない。
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まえに所属していた構築部隊の後輩くんから、「サシで飲みたい」とメールが来た。冬のボーナスは望めないかもしれない状況だけれど、付き合わないわけにはいかないし、奢ってやらないわけにもいかない。
安い居酒屋のカウンター席に並んでつくと、一時間もしないうちに、後輩くんの呂律は怪しくなってきた。「ぽっと出のしたっぱに、あんたの技術はもう古いんだって言われちゃいましたぁ」ということらしい。
新しいことを学ぼうとしないおまえの姿勢に問題がある――と言ってやれれば、どれだけ彼のためになるだろうか。そう。言えないのだ。否。言うべきではないのだ。後輩くんは愚痴をこぼしたいだけであって、助言など求めていないのだから。
「ノリさんはいいッスよね、とっととマネージャーに収まったんスから。いまじゃあ上は詰まっちゃってて、なりたくてもなれないッスよ」
そのとおりではある。
おまえ、マネージャーになりたいのか?
ノリさんはそう訊ねた。
「なりたいわけないに決まってるじゃないッスか」後輩くんは吐き捨てるように答えると、ぐいとお猪口を空けた。「ノリさんが捨てちまった信念、俺は貫き通してやりますから」
信念。
生涯エンジニア。
後輩くんが、前触れなくカウンターに突っ伏した。
こもった泣き言が聞こえてくる。
「ダメなんスよ、俺ぇ。土方のエンジニアしかできないんスよぉ。ほんと、そうなんスよぉ。古いタイプの技術屋しかできないから、美人の恋人だってできないんスよぉ……」
古いタイプの技術屋しかできないから恋人ができないというのは、違うだろう。「美人」とハードルを上げているから、できないのではないのか。もちろん、そんな野暮なツッコミは入れない。ノリさんはあくまでも聞き役だ。
「あー、ちきしょう。家に帰ったら、全員、ぶっ殺してやる」
後輩くんが、ばっと上半身を起こすなり、そんな物騒なセリフを吐いた。
ノリさんは慌てて、「いきなりなんの話だ?」と訊く。
「ゲームッスよ、ゲーム。オンラインでFPSやるときだけは、イキってんスよ、俺」
後輩くんは、おかしそうに笑う。
だけど、それもすぐにしぼんでしまい。
「カラオケ行くッスけど、誘わないッス。一人で行くッス」
付き合うぞと伝える。
「そんな金、あるんスか? リトルシガーすらやめたってのに」
苦笑し、ため息をつくしかない。
ノリさんが「帰ろう」と言うと、後輩くんは小さく「……ウス」と応えた。
後輩くんの目尻には、涙が溜まっていた。
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締まりのない声で「ただいまぁ」を言いつつ、帰宅したノリさんである。
リビングダイニングに向かう途中、奥さんと楽しげにおしゃべりをしていた娘氏がノリさんとすれ違い、ダッシュで自室に引き揚げた。「くせーんだよ、ハゲオヤジ!」という罵声とともに。歩を進め、あらためて「ただいま」を言ったところで、ダイニングチェアに座っている奥さんからも「あなた、最近、ほんとうに臭うわよ」と指摘されてしまう。加齢臭のことだ。耳の裏から分泌されるノネナールなる物質が原因なのだという不要な情報は、少しまえに奥さんからもたらされた。
だけど、加齢臭どうこうよりも「ハゲ」の一言がキツい。白いものが交じるどころか毛自体が細くなり、たしかに頭頂部は心もとなくなってきているのだけれど、にしたって、男性なら誰もが気にする頭髪のことについて言及しなくてもよいではないか――と、物申したりはしないのだけれど。目くじらを立てて接してくる娘氏をまえにすると、なにも言えなくなってしまうのだけれど。
ノリさんはおとなしくシャワーを浴びた。薬用シャンプーで頭皮を労り、石けんの泡で耳の裏を念入りに洗った。風呂から上がったらスウェットの上下に着替え、それから冷蔵庫で缶ビールを仕入れてダイニングテーブルへ、奥さんの向かいに座る。後輩くんに付き合って飲んだ日本酒とのあわせ技で、もう少し流し込めば酔えそうな気がする。そんな段で、酔っぱらいたかった。
「聞いてよ、あなた。お隣の奥さんがね?」
――今日も来たか。
ノリさんは「よそはよそ。ウチはウチだぞ」といつものように釘を刺し、それから缶ビールをぐいと傾けた。
「わかってるわよ、そんなこと。でも聞いて。お隣のダンナさん、次の人事で部長に昇進するんだって。すごいでしょう? あなたより若いのに、大したものだと思わない?」
「おまえはどうなんだ?」
そう問い詰められているに等しい。
近ごろ、こういうことが増えたように思う。
勢いに任せて缶を空けると、げっぷが出た。
「汚いわねぇ」
娘氏みたいに蔑むように言う。
その娘氏が、自室から早足で登場した。
「おとうさん、あたし、高校卒業したら一人暮らし始めるから。おかあさんと相談してそう決めたから。もう決めたことだから。決定事項だから。仕送り、よろしくお願いしまーす!」
娘氏は高らかにそう言い放つとくるりと身を翻し、「やっぱくせーな、ハゲオヤジは!」と置き土産を残して、あらためて自室へと引っ込んだ、ばたんっ。
ノリさんの「ドアは静かに閉めるんだ」という心の声は、今夜も心の声で終わった。
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部下殿がやってくれた。課のメンバーになって最も日が浅い、大卒三年目の若者だ。「設計構築から運用保守までワンストップでやれます。カンペキにやれます。安心して任せてください」と大見得を切って案件を得ようとしたらしい。場に同席していた担当営業からそう聞かされた。同時に「ちょっとシャレにならないですよ」とクレームを入れられた。
部下殿は悪びれる様子もなく、「時間的な猶予さえもらえれば、なんとでもなるでしょう? 先方と握らなくちゃいけないのは、その点だけでしょう?」と述べ、さらに「課長は強気の姿勢すら否定するんですか?」と問うてきた。
「強気なのはいい。でも、広げた風呂敷、たためるのか?」
ノリさんはそう訊いた。すると部下殿は「最悪、課長が詫び入れれば済むじゃないですか」と、こともなげに言い――。
甘い。
見込みが甘すぎる。
「謝って済むならいくらでも謝る。でも、上にまで迷惑がかかったらどうするんだ? 責任問題じゃ済まなくなるぞ」
「奴に頭下げるのは、課長の役目じゃないですか」
「奴って……おまえが世話になってる上司だぞ?」
「そうですけど、部長なんてただの地蔵じゃないですか。上とも下とも横ともなんの調整もできないんだから。週一の部会だって形骸化してる。違いますか?」
違わない。
その認識と評価で正しい。
非常に正しいのだけれど……。
「飲み会のときも万券出し渋りやがるし。ホント、意識高いだけで使えねーの。そりゃ結婚もできねーわ。なんでウチはあんなのをよそから連れてきたんですかねぇ」
本人が離席中だからといって、いくらなんでも言いすぎだ。
――でも、ノリさんはこういう場面でも、ぴしゃりと叱れない。
叱らないのではない。
叱れないのだ。
叱ってしまうと、課そのものがガラガラと音を立てて瓦解してしまう気がするのだ。
だから、部下殿が「それじゃあ、失礼します」と立ち去る姿を見送ることしかできない。
情けない。
そう感じるより早く、苦笑いが込み上げてくる。
あくまでも自分は潤滑油。
あるいは、周りを動かすための歯車。
これまで、その役割に徹してきた。
徹するしかないのだと、あらためて自分に言い聞かせる。
なあに、いまに始まった話ではない。
この先も、きっとやっていける。
自分が我慢すればいいだけなのだから。
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関係部署とのミーティングが長引いてしまったせいで、普段より遅い帰宅となった。疲れが溶けた「ただいまぁ」を言いながら靴を脱ぎ、リビングダイニングへと向かう。奥さんがしくしく泣いている場面に出くわした。ダイニングチェアの上で、すんすん鼻をすすっているではないか。感情の起伏が激しいところはあるけれど、涙を流している姿を見るのは数年ぶり。ノリさんが「ど、どうしたんだ?」とどもってしまうのも、やむを得ないのである。
「今日、学校に行ってきたの」
「学校? どうしてだ?」
「担任の先生に呼びだされたのよ。娘さんからいじめに遭っていることを打ち明けられました、って……」
目を見開き、言葉を失った。
あれだけ気の強い娘氏に限ってそんな、まさか……。
ノリさんは鞄とストールをテーブルに置き、ネクタイをゆるめつつ奥さんの向かいに座った。
「いまは? どうしてるんだ?」
「晩ご飯も食べずに部屋にこもってるわ。二月くらいまえからおかしかったのよ。銭湯に誘っても、乗ってこなくなったの」
「銭湯?」
「スーパー銭湯よ。あなた、そんなことも知らなかったの?」
「俺に言ったことはないだろう?」
「じゃあ、いま言いました」
「開き直るなよ」
「週に一度は車で迎えに行ってあげて、帰りに寄るのよ。ナイロンタオルを使って、背中を思いっきり洗いっこするの」
姉妹みたいに仲がいいことは、ノリさんもよく知っている。でも、そんな話はほんとうに初めて聞いた。
「えぇ、えぇ。そうよね。あなたは私たちには興味がありませんものね。パッとしない会社だし、給料も安いし、出世ももう無理なんでしょうけれど、仕事が大好きですものね」
ノリさんは驚愕した。奥さんの目に自分はそんなふうに映っていたのかとびっくりした。たしかに、仕事の話はできるだけ家庭に持ち込まないようにしている。奥さんは詳細を知る立場にない。だからといって、それが夫の気持ちを酌もうとしなくてもいい理由にはならない――だろう?
とはいえ、へこんではいられない。なにより父として、ここは毅然と対応しなければならない。居住まいを正した次第である。
「あいつは? なにか言ってるのか?」
「学校、辞めたいって」
「辞めてどうするんだ? 大学は?」
「最初から美大なんてダメだったんだって、投げやりになってるわ」
ほんとうに、投げやりなことだ。
いじめと美大への進学はまるで関係がない――はずだ。
「わかった。俺が話してみるよ」
「意味がないことをして、どうする気?」
「意味がないとはなんだ」
「ないのよ。ないの。ちゃんとわかって。馬鹿じゃないなら理解して」
矢継ぎ早な言い方に、目のまえがちかちかした。
「俺たちは家族だろう? 俺は父親で、おまえは母親で、娘がいて、それで――」
「それで、なに?」
「……いや」
つづける言葉が見つからず、ノリさんは口をへの字にして押し黙る。
「私、あの子を連れて実家に帰ろうって考えてるの」
「……は?」
さすがに唖然とさせられた。
いくらなんでも急すぎる決断だ。
そもそも話が飛躍しすぎではないか。
もっとほかにちゃんとした解決策が――。
「おとうさんもおかあさんも、そうしなさい、って」
「ちょ、ちょっと待て。待ってくれ。だったら俺はどうしたら――」
「あなたには仕事があるじゃない。ここに残るしかないじゃない」
きちっと働いて、最後まで私たちを養え。
あからさまにそう告げていることと同義だ。
ノリさん、泣きたくなってきた。
身を粉にして家族に尽くしてきた結果がコレ、か……。
「あなたは優しいけれど、優しいだけのひとなのよ」
奥さんは立ち上がると、冷たく言い切った。
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奥さんと娘氏がいなくなって……。
桜が散って、夏が過ぎて、紅葉を迎えて、雪がちらついて……。
自らを取り巻く環境が変化し、世の季節が移ろいでも、ノリさんはそのままだった。
朝にはきちんと起きて、食パンを焼いて、ヨーグルトを食べて、コーヒーを飲んで、歯を磨いて、スーツに着替えて、ネクタイにディンプルをこしらえて、トイレには二度入って、家をあとにして、満員電車に揺られ、出社する。
ただ、夜、ベッドに横たわると、ときどき泣くようになった。
ノリさんが初めて会社を無断欠勤したのは、その年の二月の末のことだった。
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ノリさんは動物園にいた。まだまだ小さい双子のパンダを、屋外放飼場の最前列でぼんやり眺めていた。もこもこしていて、ぬいぐるみみたいだ。最近はえらく高いところまで木登りできるようになったとニュースでやっていたけれど、いまは二頭でもちゃもちゃとじゃれ合っている。かわいい、はっきり言って。
子どものころからパンダが好きだった。小学生のときの授業中、よくノートに絵を描いた。白と黒だけでできているところに途方もなく惹かれた。だって、はっきりしている。白か黒しかないのだ。ホント、はっきりしている。
自分ははっきりしない子どもだったなあと、頭のなかで当時を振り返る。はっきりしない子どもだったからこそ、はっきりしている様が羨ましく、もっと言うなら、美しく感じられた。
パンダがさっぱりとした生き物だという評価は、いまでも変わらない。
そう、パンダは潔いのだ。
その一方で、俺たちは……。
なあ、パンダのお二人さん?
世の中はな、人間は――ニンゲンはな、はっきりしないことのほうが、ずっと多いんだぞ?
なにが正義でなにが悪というわけではないんだぞ?
なにが正しくてなにが間違いなのか、そんなもの、わからないことのほうが、ずっとずっと多いんだぞ?
ニンゲンは、それはもうたいへんなんだぞ?
ノリさんの両の目尻から、涙がすべり落ちる。
ダウンジャケットの袖で拭う。
次から次へとあふれてくる。
――そのとき。
いきなりおしりをバシッと叩かれた。
びっくりして、左を振り向く。
中学生か高校生か、娘氏と同じくらいの年格好の女のコがいた。睨みつけるような目で、パンダのほうをじっと見つめている。黒いキャップに真っ赤なスカジャン、下はジーンズ。ピンク色の風船ガムをぷくぅとふくらました。それがぱちんとはじけると、見上げてきた。いたずらっぽい目、笑み。
「ねぇ、ニッポンのオヤジさん、ずばりあなた、このあと死ぬつもりでしょ? たとえば電車なんかに飛び込んだりして」
「えっ」
言い当てられたことに目を見開いた。
二の句が継げない。
女のコは「ほら当たった。大正解っ」と得意げに言い、にっと笑った。
「オヤジさんは運がいいね。安心しなよ。わたしがきっちりカイゾウしてあげるから」
カイゾウ?
改造、か?
死のうとしている俺を改造?
いったい、この女のコはなにを言って――。
「まあ、ここじゃなんだからさ、なにか食べながら話そうよ。もちろん、オヤジさんの奢りで」
行こう!
ノリさんの右手を引いて、女のコは豪快な足取りでぐいぐい進む。
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食堂の野外卓で向かい合った。
ノリさんはカレー、女のコはミートスパゲティ。
「うんちの香りが漂う園内でカレーとは、オヤジさん、さてはМだね?」
女のコはにかっと笑った。特別、美少女というわけではないけれど、つくる表情がいちいち人懐っこく、とてつもない愛嬌がある。えくぼもいちいち愛らしい……のだから、少年っぽいところも含めて十二分にかわいい少女だと評価をあらためた。
ノリさん、まるで食欲はないのだけれど、スプーンでカレーをすくって一口食べた。
とてもおいしく感じられ、気づいた。
そういえば、昨日からなにも口にしていなかったっけ……。
「質問があるなら、遠慮なくどーぞぉ」
ミートソースが口の端についているのを教えてあげようかと思い、やめた。
なにか訊こうとして、やっぱりやめた。
顎を引き、ただただ苦笑を浮かべる。
「その笑い方、よくないよ。自分を無理やり納得させようとする苦笑いだもん」
年端も行かぬ少女に、どうしてそんなことがわかるのか。
だけど、はなまるの正解だから、さらに苦笑は深くなるわけで……。
ノリさんは押し黙る。
女のコは食事を再開、フォークに巻きつけたスパゲティを口へと運ぶ。
「オヤジさん、わたしね? 明日から入院なんだぁ」
「入院?」
「そ。また入院」
「また?」
「よぉく見て? わたしの顔色、イマイチでしょ?」
言われてみると……うん、たしかに。
「調子がいいときはフツウの学校に通って、わるいときは院内学級なの。たぶん、ううん、絶対に長くは生きられないの。自分のことだから、よくわかるの」
驚き、ほどなくして俯いたノリさん。
「ん? どした、オヤジさん? って、あー、ここで泣くのかぁ。なに? ソッコーでわたしのことがかわいそうになっちゃった?」女のコは「あははっ」と快活に笑った。「どうせならしっかり泣いてよね。ひとのために流す涙ほど尊いものはないんだし。ねぇ、それって間違ってる?」
全然間違っていない――と思う。
でも、ノリさんは涙を拭う。
自分は男だ。
ニッポン男児だ。
ニッポンのオヤジだ。
昭和の時代から、それは気高い動物であると定義されている。
かなり滅入り弱っているとはいえ、そう簡単にめそめそ泣いてはいけないのだ。
そのくらいの矜持は、残っているのだ。
「さて、ではここで、一つ問題です」女のコは右手の指――白くて細くて長いきれいな人差し指を、頬の隣でピッと立てた。「わたしにはチカラがあります。神様からのギフトです。それっていったい、なんでしょーか?」
今度は突然、なにを言いだすのか。
当然、わかるはずもないからかぶりを振ってみせる。
「わたしには、生き物のセイノトモシビが見えるの」
「セイノトモシビ……?」
「生命の炎だよ。オヤジさんのはもう小さい。消えかかってる」
冗談を言っているようには見えないし、口調も確信に満ちあふれている感がある。
「せっかく生まれてきたんだから、自殺はナシ。ぜぇぇったいにダメ。細かいことは気にするな。小さなことも忘れちゃえ。もっと大切なものが、世の中にはある」
女のコはつづける。
「この動物園だって、そう。この街だって、そう。この国だって、そう。ほかの国だって、そう。この世界だって、そう。そういうのを全部まるっと飲み込んで、この星は回ってる。その原動力は、なにかわかる?」
ノリさんは「わからない」と首を横に振った。
すると女のコは、またにかっと笑って。
「そんなの決まってるじゃん。生きとし生けるものの愛が、地球を回してるの!」
勢いよく立ち上がった女のコは、「えいえいおーっ!」と右の拳を突き上げた。「愛が、地球を回してるの!」と大きな声で重ねた。わたしの言っていることは大正論で、誰もそれを論破できない。そんな力強さを思わせるまばゆい光が、その瞳にはある。
鼻の奥がツンとなった。
ふたたび下を向く。
ひとには見せられないぐしゃぐしゃの顔をしているという自覚が、ノリさんにはある。
そして――。
「人生、これからこれからぁっ! オヤジさんの冒険は、まだ始まったばっかりじゃない!!」
その声に、言葉に反応して、ゆっくりと顔を上げる。
そしたら、女のコの姿はもうなくて、見当たらなくて……。
更地になったスパゲティの皿と、空になったオレンジジュースの容器だけが残されていて……。
どこからともなく、「じゃあね! がんばってね!」とだけ耳に届いて……。
数秒ではなく数分ものあいだ、まばたきだけをくり返した。
くり返した先に待っていたのは、うれしいような、たのしいような、くすぐったいような、とにかく前向きな気持ちだった。
「――よしっ!」
勇気凛凛、すっかり元気を取り戻したノリさんは、両手でどかんとテーブルを叩いた。離れた席でお弁当を食べていた家族が、そろってびくりと肩を跳ねさせた。小さな小さな男のコは泣きだしてしまった。ノリさんは慌てて椅子から腰を上げ、ぺこぺこと謝罪する。動物園にまで来て頭を下げているぞと、自分で自分がおかしくなった。
二人分のトレイを持って、それをカウンターに返却した。
今度はビールを注文した。
その場で一気にごくごくと飲み干した。
なにをするにも遅すぎるということはない。
女のコが、そう教えてくれた。
迎えに行こう。
きちんと三人で話をしよう。
その結果としてもうつながることはできないのだと知ったら……知ったら……知っても――諦めてたまるか。絶対に連れ帰ってやる。また一緒に暮らすんだ。また家族をやるんだ。それ以外の答えは必要ないし、認めない。
食堂から出たところで、両手でメガホンをこしらえた。
天を仰ぎ、煙のように消えてしまった女のコに「ありがとう!」を伝えた。
雲一つない青空に、女のコの笑顔が浮かんでいた。