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はじまり

 婚約がなかったことになった。

 相手の話によると、すべてわたくしが悪いのだそうだ。

 ――コレット・ハーベスト侯爵令嬢へ――。

 わたくしへ届いた手紙には、形ばかりの謝罪と、わたくしを非難する文章が書き綴られていた。いかにも怒りを抑えていますと言いたげな、なんとも迂遠な書き回しだった。


 いわく、お前は傲慢な人間である。己の豊富な魔力と貴族の権力を傘にきて、人を見下すのもいい加減にした方がいい。


 いわく、お前は冷たい人間である。このような女が傍にいる未来を想像できない。お前は可愛げのない人間だ。それよりももっと魅力的で優しく愛らしい、国母に相応しい女性を見つけてしまった。


 とのことだ。これを初めて読んだ時、わたくしはうまく理解できなかったのでうっかり五回ほど読み込んでしまった。

 そもそもこの手紙の主が「国母」を意識するのは早計だとか、そういう細かいことは気にしないことにして――、まず彼が見つけた女性とは、学園で有名な男爵家の令嬢だろう。そういえば、彼女の立場をわきまえない行動が目に余って、わたくしはいくつかの忠言をしたことがある。それは先輩としての心遣いのつもりだったけれど、彼らにとっては、違ったらしい。

 わたくしは自覚もなく、彼女を虐めていたらしい。


 家族が集まるダイニングにて、わたくしは父親に問われた。


「コレット、どういうことかな、これは」

「わたくしにも分かりませんわ。お父様、あれは本当に……どういうことなのでしょうね」

「……今は、ゆっくり休みなさい。次の縁談は、もっと良い相手を見繕う」

「ありがとうございます」


 第二王子に婚約を破棄された女なんて、ろくな縁談がないだろう。父だって承知しているはずなのに。

 わたくしは切り分けたステーキの断面を眺める。ほのかに赤く、肉汁がじわりと溢れて、ソースに絡む。

 吐きそうになった。


「すみません。食欲がなくて……。残りはケーニスにあげてくれる?」

「かしこまりました」


 使用人が頷いた。飼い犬にあげるには少し贅沢かもしれないけど、捨ててしまうよりはいい。ソースを落として塩分さえ抜いてしまえば大丈夫。


「コレット……」

「大丈夫ですわお母様。わたくしは大丈夫です」


 心配してくれる両親や兄に礼をして、わたくしは部屋に戻った。


 

 わたくしは二日間、学園を休んだ。

 両親も何も言わなかったから、その優しさに甘えて、ベッドの上でぼんやりと過ごした。

 第二王子ロラン様。――わたくしの元婚約者。彼は元々あんな性格だっただろうか? そうだったかもしれない。今となってはもう、あの人の背中しか思い出せない。だってここ半年は、ろくに目線すら合わせていなかった。


(わたくし、何をしてしまったのかしら……)


 手紙には、男爵家令嬢のリリアーヌさんに壮絶な嫌がらせをしたとあった。わたくしはそのようなことをしたかしら。わからない。


(……大丈夫よね)


 きっと大丈夫。また明日から、学園に行ける。わたくしのお友達も、先生方も、きっとわかってくれる。


(というのは、希望的観測ってものかしら)


 わかってる。

 貴族社会は煌びやかで、いつも誰かの醜聞を探している。誰かを蹴落とすことこそ貴族の嗜み。彼らが掌を返す速度は、きっと音の速さをも超えるに違いない。


(明日からは本格的に、針の筵かしら)


 わたくしはベッドを出た。


「お嬢様、お体は……」

「大丈夫。少しさっぱりしたいからお湯を浴びるわ」

「かしこまりました」


 メイドたちの手を借りてお湯を浴び、ドレスを着た。これはわたくしのお気に入りだ。メイドが気を利かせてくれたのだろう。この屋敷には優しい人がたくさんいる。


 心を慰めようと、わたくしは馬車である場所へ向かった。

 領内にある森だ。生命力が高い木々が林立していて、とても深い。その奥へ奥へ、わたくしとあと一人しかわからない目印をたどって、その開けた場所に出る。

 真っ白な花が群生している。

 恥じらうように俯いた花弁が儚げな、スノーフレークの花畑。高い木々が広々と伸ばした枝葉によって、落ちる木漏れ日はほろほろと柔く、けれど暖かだ。

 誰にも踏み荒らされたくない、大事にしていた秘密の場所。


 そこに、あの二人がいた。


 ロラン様と、彼の新しい婚約者――リリアーヌ。

 わたくしは咄嗟に、木に隠れた。二人の世界にいる彼らは、わたくしになど気づかない。


「良く似合っているよ、リリア」

「あ、ありがとうございます……」


 ロラン様がおもむろに摘み上げた花を、リリアーヌの髪に差した。

 美しい彼らは、幻想的な風景の中で、この世の幸福を体現している。


「リリア、僕のリリア。やっと君を手に入れられる。もう怖いことなんて何もないよ」

「わたし、こんなに幸せでいいのかな? こんなに、……だって、なんにもない、のに」

「そんなことはないよ。僕の傍で笑ってくれればいいのだから」


 爽やかな風も、優しい緑の匂いも、あたたかな木漏れ日も、彼らに汚されていく。


(言ったじゃない。ここのことは秘密だって、他の誰にも教えてはいけないって)


 幼い恋心によって、わたくしはここをロランに教えてしまっていたのだ。大好きな彼を案内して、それを彼も喜んでくれて、それなのに。


(なんで、ここにいるの)


 胸が痛い。頭が真っ白なのに、息苦しさだけがある。

 わたくしの存在を、心ごと踏みにじられた気がした。


 馬車に戻って、帰宅の旨を告げた。結局こんなところに何をしに来たのか、御者は訊ねてこない。わたくしの都合に振り回してしまったのに。

 がらがらがら。ごとん、がらがら。時折石を踏みながら、馬車が走る。

 山肌の道に入ってしばらくした時、馬車が突然止まった。

 外を見る。

 前方で、身なりの悪い集団が、御者を殴り殺していた。




 低いところで雷が鳴っている。

 灰色の雲はとても重そうで、こちらにおっこちてきそうだった。手を伸ばせば届きそうだと思って、すぐに不可能だと笑う。

 わたくしは崖の底にいた。

 ならず者から逃げて、落ちてしまったのだ。岩場に体中を何度も打ち付けて、腕が折れている。ぼたぼたと大きい雨粒が全身に降りかかってきて、大岩に潰されてしまった下半身だけがやけに温かい。……熱い。けれど体中の血液から、体温が抜けている気がする。

 わたくしは横向きに倒れていた。左頬を地面に擦り付けていて、きっと傷がすごいことになっている。皮膚がなくなってしまったかしら。少なくとも跡が残る深さだ。これではもう、社交界には行けない。

 雨が冷たい。

 遠くに雷が落ちる。

 寒い、凍えてしまいそう、お腹が空いた、誰か、誰か、近くにいないの?


(……いいえ、誰もいないわ)


 最も近くにいる知人といったら、あの二人だろう。

 今も二人で仲良く、どこかで雨宿りでもしているのだろうけど。


 ――ああ。


 わたくしは、ふひゅう、とおかしな呼吸をした。肺か喉が壊れている。

 あの二人の笑顔が、脳裏に思い出される。


(……大丈夫、平気よ、これしきのことで、わたくしは)


 両親に、ここまで育ててもらった恩を返さなければ。生きて帰らなければ。


(平気よ、きっと帰れるわ。ここに落ちてよかったじゃない。ならず者に身を汚されてはいないのだもの)


 だから平気よ、平気、大丈夫、大丈夫。

 傷ついてなんていない。

 婚約破棄なんてすぐに忘れてあげるわ。

 あの二人は結ばれる運命だったのよ。わたくしが好きなロマンス小説みたいに。

 運命の二人が結ばれるには物語が必要で、物語には悪役が必要で、それがわたくしだっただけ。


「……、……。」


 ひゅう、……ひゅう、

 呼吸がだんだん、なくなっていく。

 白くぼやけていく頭の中に、あの二人が思い出される。


(だいじょうぶ、秘密の場所なんて、また探せば)


「…………、……っ」


 大丈夫なのに。


「……ひっ、……く」


 わたくしは一人でしゃくりあげる。涙は雨と一緒になって、地面に垂れ流されていく。

 拭ってくれる手はない。


(やだよ)


 死にたくないよ。こんなに寂しいところで、独りぼっちで死にたくない。

 しにたくないよ。




 目を閉じて、再び開いた。

 最初に見えたのは、わたくしをぽかんと見つめる、美しい男性だった。


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