Episode:1
裏山を駆け下りた少年は、額に汗をかきながらも村のある程度が見渡せる小丘に差し掛かったところで、一息ついた。
二日も家を空けていた淋しさで、少年の目には涙が浮かんでいた。
母親が丹精を込めて作った、粉箱の底に溜まった屑を寄せ集めたそれを丸めて焼いただけのあの簡素なパンでさえも恋しく思えるほどだった。果たして、それも手元にはない。登山中に足を痛めた小柄な動物と出会い、少年は彼が思いつくばかりの応急処置をし、それでパンも食わせてしまった。少年はこの二日間を僅かにたまる雨水のみで過ごした。何せ、腹も減っていた。
この裏山は少年の父親バルギッシュが管理しているものだが、村の祭りの際などに使われるくらいで、本当のところバルギッシュ自身もそれほど詳しくはない。ただ少年は、よく村の農作業を放っておいて、簡易に作られた柵を飛び越え裏山に入っていたくらいなので、ここは彼の庭のようなものだった。彼はこの山に生息する生き物の類、また植物の類の一切を知っており、ここで“儀式”を受けたいと言い出したのも紛れもなく彼だ。
儀式とは、遥か昔からこの世界に根付いている風習で、条件は十五を満たしている少年であること。人はこのときになって初めて肉親から名前を授かり、ようやく人々に一人前として認知されるようになる。無論、女には男ほどの人権はなく、十八を過ぎてなお子供を産める見込みがない者は、生涯を奴隷として扱われる。三ヶ月ばかり前に十四を過ぎたばかりの彼にとっては夢のまた夢であったが、バルギッシュがどうしてもと言い張り、二年にも渡る交渉の上、村の長ヌヌフの了承を経て、今ここでこうしている。村や、その地域の管理者に、自分の親の名前を届け出るかわりに、条件を言い渡される。彼の場合は獰猛な肉食動物の狩猟であって、それならば裏山にもいると両親も納得した。
いつものようにして柵を飛び越え、裏山から出た少年は、広場を突っ切って村はずれにある家に帰ろうとしたが、ふと、視界の隅に映ったのが、ググダンだった。
彼は村の語り部で、語り部は代々、神話を受け継ぐことを役目に、必ず何かしらの集落の一人はいる。彼はムティファール、アステ、グラの三神のうち、ムティファールを信仰する身。その影響を受けてか知らないが、ここの村の者はみなムティファール派の人間だ。
「帰ってきたのか」
ググダンはこちらを見つけると、いちはやにそう問いかけた。その声は健康そのもので、五十を過ぎた老人のものとは思えない。髪には白髪が生えつつあるが、目は以前と変わらず活き活きとしており、全く老いを感じさせない。ググダンは面白い話を聞かせてくれるし、ときには相談相手にもなってくれる。いわば、子供たちにとってのよき理解者だった。そんなググダンは、この少年を特に評価しており、彼には隠れた才能があると、バルギッシュにこの歳で儀式を提案した本人でもあった。
少年は無意識のうちに胸を撫で下ろしながら、
「はい」
と一声だけ返した。
何か次の言葉があると期待したが、しかしググダンはそれ以上を語らず、また少年から目を逸らし空を仰ぎ始めた。いつもほど元気が無いような気はしたが人の事情に立ち入るものではない。少年は背を向けた。
「待ちなさい」
少年は待っていましたとばかりに振り向いた。立ち上がったググダンがいた。
「夜の帳が下りた」
ググダンは訳の分からないことを呟いた。さらに、少年は、目の前の老人に妙に見つめられて身を強張らせた。
この村も、そんなに広くはないものの、水は通っているし人々が生活していける土地条件、気候に当てはまっていた。最初に建設が始まったのがいつ頃かの検討さえ付かない今でも、住民たちが住み着くようになって久しい。子供が生まれ、そのまた子供が生まれ......という循環を幾たびか繰り返したのち、少年は生まれた。
四十年前に大戦がおさまってからというもの、人々は自らを安心させるがために、提唱者不詳の伝説を広めた。少年もその影響で育てられ、今では祈り無しでは毎日が不安で生きられない。そんな迷信を持っている身だ。家に帰れば真っ先に暖炉の前で手を合わせようと思い、帰る足を早めた。
真夜中のことだから、冷たい空気が傍らをすり抜けていく。そればかりか、身に纏うボロに滑り込んだそれは直接素肌に張り付き、なんとも気味が悪い。灯の類などは一切ない村の道を、少年はひとり進んでいった。
少年の家は、木の骨組みに藁を敷き詰めたような、簡素なものだった。一般な庶民のものと同じように一切の無駄なくしてつくられたそれは、しかし最低限の生活は営める。
他と違うところは、村で唯一暖炉があることくらい。父バルギッシュが手造りした石で組まれた炉は、とても暖かい......が、当然部屋は煤にまみれてしまう......。
少年はそんな家に入り込み、挨拶をした。
程なくして、母ハールルが出迎えた。彼女は目を潤わせていた。まず、泥まみれのボロを見つめ、少年の顔をまじまじと見つめた。
「おまえなの?」
「もちろん」
胸を張って答えたつもりだったが、声は震えていた。そのあと小さな声で「ごめんなさい」と言った。途端に涙が溢れ出す。
ハールルは無言で少年を抱きしめて、離そうとはしなかった。
「夜が、訪れましたな」
冷たい空気に低い声を滲ませたのは、隊長バルギッシュだった。
彼の大柄な体は、今は革鎧で覆われている。使い古した剣を手にして村長ヌヌフの元へ真っ先に押し込んで来たのは彼だった。
続いて仲間たち___村の男が九人ほど集まり、その瞬間、ヌヌフの家は“自警団”のアジトと化した。
村内では珍しい板打ちされた床に、粗末な長机が置かれている。男たちは床に座りこみ、滅多に使われないろうそくの明かりを頼りに各々の顔を見合わせていた。どれもみな、苦虫を噛み潰したよう。男どもを代表して、バルギッシュが切り出した。
「じきにどこかの村で争いが起こるでしょう。ヌヌフ殿、かつて40年前の“厄戦”でここが一番に襲われた。この記憶に違いはありませんな?」
「左様」
ヌヌフは重い腰をあげて、男たちを見回した。
各々の流で武装した男が九人。どれも屈強で、戦い方を知っている男の目だった。農作業に明け暮れる日々の中、いつ来るか分からない事態に備えるべく極秘に訓練された精鋭たち___無論、騎士団のようには行かないが、この太い腕々から振り下ろされる長剣は、決して耐え難いものではないだろう。しかし、それも常人ならば、だ。
「“厄戦”で、一度この村は崩壊した。訳は、海に近いから。“奴ら”は海を越えてやってきた。夜の帳が下りたころだった。奴らが撃退されて以来、この世界には夜が訪れなくなった」
彼は“奴ら”から先を忌々しそうに告げた。その先を想像するのは、難しいことではない。
夜が再びやってきた。
きっと今頃、大陸の人という人が同じような集まりを開いている頃だろう。
バルギッシュは心配でならなかった。今更ながら、息子を山に解き放ってしまったことに焦りを感じていた。
「合図だ!」
村の誰かの叫び声は、村中に広まった。この家にも。
男たちは我が先にと外に出た。
合図___モロ平原の監視塔から寄せられた、死の知らせ。
バルギッシュは無言で剣を握りしめて、離そうとはしなかった。
___
「何だ!?」
少年は鳴り響いた轟音に目を丸くした。これまでに聞いたことのない、耳をつんざくほどの轟音。恐らく村全体までに行き渡りそうなほどのそれは、西の方向から聞こえた。ここは北西の村___つまり、ここより西は海。海の方向から聞こえたのだ。只事ではないだろうという想像は、十四の少年にも分かった。
少年はあれから母ハールルとは別れ、一度村を出てモロ平原に向かったのだ。川に行って泥を落とそうと思い、彼女の了承も得た。そう、不運なことに、ハールルは四十年も生きてはいない。これが“夜”と呼ばれる現象だとも知らずに、霧が濃くなったか雲がでてきたかのどちらかだと思い、送りだしたのであろうことは想像がつく。
この村のうち、直接“厄戦”を体験したのはヌヌフとググダンのみだった。つまり、この場合は両者どちらか___語り手であるググダンが伝えるべきことなのだが、多くの者はさほど関心を示さなかった。それが事態を悪化させることになるとは当時想像もしなかったのだろう。
少年は水で顔をごしごしこすると、体を拭きもしないでボロを纏った。なんだか分からないが、なにかが起きている。そういう不安が彼を急がせた。半ば走っている傍らを、風がゴウゴウと音を立てて通り過ぎてゆく。かなり強い風で、気がしなっている。それこそ雷を思わせるかのような悪天候の夜だった。
自身、さほど離れたところには行っておらず、簡単に村は見つかった。丘のように隆起したところに立っていたので、村全体がよく見渡せる。無論この暗がりの中、“夜”を想定した明かりさえ備えられていない村は普段では見つけられはしないだろう。しかし少年が見たのは、有るはずのない明かり___炎だった。火災現場と片付ければそれで済む話なのに、あの轟音ときて村の西門辺りから絶えず発せられる炎。そして風に煽られて立ち上る煙。
間違いなく、なにかが起きている。それだけを念頭において、少年はただひたすらに歩を進めた。
「もう来た! 西門の方だ! 煙があがっているぞぉ!」
誰かの金切り声が、バルギッシュがこの世で最も聞きたくなかった言葉になった。
西門とは、紛れもなく自分の家の方角だ。彼の家は一番村の中心から遠いところにあり、それすなわち海に近いを意味する。
今や革鎧に長剣という出で立ちで、頭まで覆った彼はまるで一つの戦士のようだ。
村人たちは不測の事態に収拾がつかず、それと同時に現れた九人の男。言い換えればこの鎧集団がなんとかしてくれるだろうと考えるしかなかった。
まさかこの瞬間が40年前の”厄戦“のパロディになっているとは思わなかった。次第に地面を揺さぶっていた轟音も静まっていくのだが、人々は何が起きたのかと家屋からわらわらでてきた。
その中で一人、ググダンは冷静な顔で群衆に逆らって歩いていた。南門___モロ平原の方へと。
バルギッシュは男を引き連れて西門へ向かった。
物珍しそうにたかる民衆を押し分けながら進んだ。このときのバルギッシュには不安と期待___怖いもの見たさにも似た感覚が渦巻いていた。それでも揺らぐ己を抑えながら。この両者の中立に立てなかった者は自ずと自滅の道を辿ることを知っていて、それを止める術も心得ていた。
祈れば良い。不確かな神にただ祈りをささげるのだ。無論、神がいるからあれはこうなってこれはああなるなどと結果を知れる道理はない。どだい祈ったところで何にもならない。神は神として、古くより人間の安らぎ___心の拠り所として存在していたにすぎない。人々に明日を生きられる、そんな糧を、勇気を与えてくれる存在としていつしかそれは神という存在となった。しかし、今では違う。それは状況を変えるための道具でしかない。四十年前___世界が一度崩壊を辿りそうになった原因も神にあった。“大戦”が始まる前、神は三つの派に別れた。そうして最終的には、個人レベルの妄想が各々の亀裂を悪化させていった......。やがて神は、戦争を象徴するものとして一部の邪教徒にまで崇められてゆく......。それで得られたものなど、無。正義などはそこに存在しなかった。ただ、人々が正義を盾に自分のわがままを貫き通したにすぎない。それがどんな形で終わろうと。極論から言えば、正義など存在しないものなのかもしれない。この不安定な世の中で、己の居場所を確保するための人のあがき___それが“わがまま”を貫き通すこと。
バルギッシュは神を道具としてではなく、希望の象徴として見ることができた。彼が特別なのではない。万人が為せることだ。ただ、神を信じれば良い。結果構わずひたすら祈り、見、聞き、感じることで内なる存在との対話をはかる。そんな姿勢は大戦前の人々となんら変わらない、温もりをもったそれだった。この教えは彼の先祖......祖父から父へ、はたまた妻へ、最終的には息子へと浸透していった。それが彼の“わがまま”だった。
経典の第二章までを思い返していたところで、急に立ち止まった。後続の男は慌てたが、なんとか急制動をかけて事態を免れた。
「今のは、なんだ」
バルギッシュは声を低くして問うた。不安に駆られたときの癖だった。
「今の? 何かあったか?」
不思議そうに横の男が応じたが、バルギッシュはそれを無視して、列を抜けて走り出した。二度目があるなどという冗談はない。しかし、それはあった。つまり冗談ではない。
「あぁっ......!」
という悲鳴、それから鈍い音がきこえたのだった。今にも消え入りそうな声。バルギッシュはその悲鳴に応えなければいけないと思った。その女の悲鳴。確証はないが、妻ハールルのものだと感じた。
確証はやがて事実へと変わった。バルギッシュが見たのは燃え盛る家。紛れもなくついこの間まで家族三人で暮らしていた、温かみのある家。それは村の中でもっとも西門に近いところにあった。果たして、炎はさも当然というかのようにたたずんでいた。その肥え太った体を揺らせ、こんな小さなものまでも自分の糧としてゆく炎が、ひたすらに憎かった。こいつには情が無い。その瞬間、彼の脳内からは炎が、温かみのあるものではなく、全てを奪い去ってゆく悪魔としてすりかわった。バルギッシュにはまだ、それを理解して受け止めるだけの理性は残されていた。
ついにバルギッシュはハールルを見つけた。体の自由を奪われて、ぐったりと地面に突っ伏すさまを見て吠えた。
敵は、三体ともサハギンと呼ばれる半魚人の魔物だった。人型をたたえてはいたが、皮膚のかわりに無数の継ぎ目のある鱗が貼りめぐされていて、肌色は不健康というレベルではない。むしろ青___黒みがかかった青だった。鼻と耳が無いのっぺりとした顔に、紅に染まらせた眼球が埋め込まれている。だらしなく開いた口からは無数の牙が覗き、その強靭さを代表していた。
いま、そのサハギンがハールルを蹴飛ばした。
それが理性を打ち砕いた。相手には礼儀を尽くせという騎士道などに誰が構っていられようか。そもそも、自分は騎士の成り下がりでこんなところで自警団をやっているのだと自傷的になった。
バルギッシュの咆哮は野獣のようにこだまし、サハギンの注意を向かせるには十二分だ。その“敵”はハールルの細い腰を踏みつけたままこちらを見つめ、何事かを呟いた。
彼はは突進した。
両刃の剣が光を受けて光る。無論、灯の類はなく、皮肉にも燃え盛る炎が辺りを照らしていた。
「やあっ!」
武装下で素早い動きを強いられるのはかえって分が悪いかもしれない。だが目の前のサハギンは胸元を刺し貫かれ、口から泡を吹き倒れた。辺りに飛び散った体液が吹き散り、舌打ちをした。
「ひとぉつ!」
剣を掲げ、威嚇した。
だが、無闇に突進をしたせいかこちらの体力ももうない。歳のせいだと言い聞かせ、萎えかかる腰をなんとか奮い立たせる。
仲間の到着が遅いなどと考えている暇などはなく、油断している自分に気づき、素早く辺りを見渡す。
木で死角が多すぎる! きっとどこかに潜んでいるに違いないが、こうも隠れられては......!
しかし彼は微かな動きを“聞き”、半身をそらした。
直後、自分のもといた位置に青黒いヘドロが吐かれた。それがただの生理現象としての嘔吐ではなく、魔術の類が込められてていることに疑いの余地はない。
油断をしすぎた自分を叱り、飛んで来た方をみる。すると二体目のサハギンが発射準備を始めている。
今にも吐き出しそうな瞬間をみて、彼はとっさに回避した。
死角の悪さを利用すればいいだけのことだ。バルギッシュが木々の間に飛び込んだために、サハギンの目には標的が消えたように見えた。ヘドロは吐かれることはなく、喉を伝わり何処かへ戻ってゆく。その喉のふくらみは誰の目にも見えただろう。ともかくバルギッシュはそれを見て、次のヘドロには時間がかかると感じた。
直感的なことだが、実戦では運以外の強い味方はいない。それは常に一人で戦っていた身に叩き込まれていた。
大きく回り込み、サハギンの背中を捉える。咄嗟に腹部めがけて長剣が光り、その刃は腹に差し込まれた。
サハギンがもがき苦しんでいるさまを内心で嗤いながら、力を加えた。その攻撃がサハギンの肺に空気を流し込み、何が起こったかさえ理解する間も無く絶えさせる。
既にバルギッシュの額には玉の汗が浮かんでいた。ぜいぜいと喘ぎながらも索敵を怠らない。まずは開いたところへ移動しようと考えたその瞬間だった。燃えている家が目の前で崩壊した。
「......!!!」
声にならない叫びが彼を満たした。守れなかった。帰るべき場所を、あいつにとっての故郷を。
木と藁でつくられた家が長持ちするという道理はない。それもさも当然の如く、木柱が音を立てて崩れ落ちたのだ。
バルギッシュはまだサハギンがいることを思い出して、なんとか立ち上がった。が、もはやその目に生気など残されていなかった。
「ググダン!」
少年は途方に暮れていた。こんな暗がりの中、足場など掴めるものではなかった。丘を駆け下りたとき、木の幹に引っかかり泥道を転げ落ちた後では尚更気分は萎えかかり、ただ座っていた。
そんな少年の前に現れたのは、あの語り部のググダンだった。
ググダンはあの颯爽とした姿勢で歩み寄り、その長身を折り曲げるように屈んだ。
「さあ、来なさい。用意はできた」
優しいが、威厳のあるググダンの声がした。彼は胴から足までをすっぽり覆うようなローブを着ていて、腰には見たことのないような長剣を携えていた。帯にくくりつけられたそれはしっかりと鞘で覆われていた。そのほか革の鞄を背負っていて、その姿はもはやあの老人の語り部のものではなく、なんというか、ググダンという人間をありのままに体現したような出で立ちであった。目の前で手を差し伸べてくれる老人を見て、少年には強くそう思えた。
___
少年はググダンに半ば引きづられながらしばらく進んだ。そして創造神ムティファールにひたすら祈っていた。
「選びなされ」
やがて、耳元で静かな声がした。表情の読み取れない声。いつのまにかあの温かみのある手のひらの感触はなかった。そこで顔が火照るのを感じて、道中俯いていた顔をあげた。
村が燃えていた。
炎が最西の方から舐めるようにして、村全体を覆い尽くそうとしていた......。
「今なら村へ戻ることもできる。私は実はハールルに頼まれてきたのだが、彼女は『おまえをつれてトルケビに逃げろ』と言っていた」
「......なんで」
少年は絶句を返す。故郷が燃えている前で冷静な判断など、誰が下せるというのだ。彼には荷が重すぎた。かわりにググダンの手を再び握りしめると、ググダンは何も言わずに南門をあけた。普段ならば村長ヌヌフの許可がいるところだが、この混乱の中で秩序などは保たれているはずもない。
途端、むっとした熱気が降り掛かる。少年は目を覆うように手をかざして進んでいく。
村が燃えている。そして荒らされてもいる。その光景は、少年の想像をはるかに上回るほどで、もうあの日常は帰ってこないのかと絶望した。
足元には死体が転がっている。それにはかつての人型を想起させるものは何もなく、顔は潰れ、あるべきところがなく、腹に大穴をこしらえていたりした。はっきりといって地獄だった。少年はすぐに吐き気を覚え目をそらした。いま、入ってきた南門には錠がかかっていた。一人も逃げ出せていないのだ。彼は同時に堪えがたい恐怖に襲われた。
しかし通りを歩くうちにも、地獄は広がるのだ。
当然のようになぎ倒される木々。咲いている炎はまるで立ち昇る魂のように揺れ動いている。
肉屋が、ぺしゃんこになっている。フラボおばさんは優しかった......。
友人の家が、崩れている。ファグーは逃げだせたのか?
村人の心の拠り所、教会は跡形もなかった。あそこにはムティファールの像が!
「全部だめなんだぁっ!!!」
ついに堪え切れなくなった感情が垂れる。少年は走り出そうとして、「ヒッ」と悲鳴をあげた。
誰のものかすらも分からない腕が、倒壊した家の戸口からはみ出ている。それが自分の足を掴んで話そうとしない。最後の救いと思い、倒れかかった柱をなんとか除くと、その腕は既に事切れたものだった。きっとどこかに胴体があるのだ......。何かに取り憑かれたように彷徨う腕を蹴り飛ばし、そこを離れた。
少年は呆然と立ち竦んだが、決して泣くことはしなかった。ググダンは少年の肩に軽く手を添えると再び歩き出すのだった。
赤黒く染まった空を仰いで、涙を拭った。少年も再び歩きだした。
そのときバルギッシュの目には横たわる仲間たちのみが映っていた。“サハギン”を三体も葬ったあとの彼だが、この男たちの腕を疑うようなことはしなかった。“サハギン”の大部隊が攻めて来たのかもしれない可能性もある。どちらにせよ、ただ来るべき敵が来ただけだ。きっと甘えすぎた人類への報復にやってきたのだ。彼はそんなことを考えていた。
ハールルの安否を確かめにいける勇気を奮いおこした。まばたきの間も押し殺すほどに。
ググダンが語る“陰陽”という集団の襲撃であることは予想がつくのだ。
『ムティファール、アステ、グラの三神を否定する“陰陽”は、月が宇宙を創造し、太陽が生命を創造したなどとほざく連中だ』
かつてググダンが語るのを耳にしたことがある。ならばこれはなんだ?
奴らは怪物の集団なのか? もはや人ならざる者と化した“陰陽”があろうことか我らの神を否定するなどと!
バルギッシュは心の底から嫌悪した。
『ムティファールは天を、アステは地を創造したが、息子グラはためらった。両親の創った世界を汚したくなかったのだ。そのためらいがやがて人を生み、魔物を生む。人の複雑さ......それはグラの賜物。では魔物には何が残るというのだ?』
ググダンはこうも語っていた。
バルギッシュにはさっぱりわからなかったが、ググダンは言っていた。
『無、だよ』
それならば納得がいく。奴らには物事を考えられる脳が無いのだろう。だからこんな残虐なことができる。バルギッシュは行く手を阻む向かいの家の柱を、力を振り絞って押し出した。今や怒りが彼の全てを支配していたのだ。
めきめき、と音を立てた木が崩れる。腐りかけていたのだろう。ほとんどの住宅は木と藁でできていたから......それが事態を悪化させた。防ぎようがなかった。彼は言い訳を続けた。
村のことなどどうだっていい。鎧も剣も誇りも脱ぎ捨ててしまえ! 今はただ、ハールルに逢いたい......! 煙が立ち込める家内を突っ切り、ついに家へたどり着いた。嘲笑うようにくすぶる炎は、温かさを演出しているが、バルギッシュは真の温かさを知っていた。それは、彼女の手のひら......。
「ハールル! お前なのかっ!」
遂にバルギッシュは、ハールルを見つけた。かけ寄り脈を確かめると、安堵した。まだ死んではいない。しかし彼女の目は、虚ろに空を見つめるばかり。まばたき一つしていない。そんな彼女を美しいと思ってしまったバルギッシュは、自分を疑った。それでも、歪んだ感情であることを知ってなお、触れてみたいと思った。欲に耐えきれず、かつてのように優しく右頰を撫でる。すると、反応があった。血の気の失せてしまった顔に息が吹き込まれたかのように、途端に彼女の目はバルギッシュを捉えたのだ。
「バル......? あぁ! バル!」
彼女はしきりに叫ぶと、半身を起こそうとして顔をしかめた。
「よせ、下をみるんじゃない! 俺のクールな顔だけ見ていろ」
バルギッシュはせめてもの慰めと思い、言葉をかけた。何故ならば、もう、既に彼女の足は潰れてしまっていたのだ。こんなのは悲しすぎると思った。血まみれだ。あの、いつもの煤にまみれたスカートが。いくつもの穴をあけては自分で縫い直していた、あの......。とても見ていられなかった。幸い、痛覚はとんでいるのだろうか。気づいていない内に止血をしておくべきだと思い、さりげない会話を進めつつ処置を施した。
ひと段落ついたところで彼女は、
「怪物を見たわ! それから意識を失って......」
と焦るように言った。
「もう無事だ。奴らは死んだ。お前は助かったのさ! 何も心配することは......そうだ! あれは無事なのか!?」
バルギッシュは息子の安否を訪ねた。裏山も安全とは言えない。まだ山にいるにせよ、ひょっとして帰ってきていたにせよ、どちらにしても危険なのだ。
「ググダンに頼んだわ。彼は信頼がおけるから」
「ググダンにか! なら良かった。いや、しかし、彼はお前を守ってくれなかったのか!?」
「いいや。その直後に、あの怪物が西門を破ってきた。ググダンははじめ戻ってきたけれど、私が大丈夫と言ったのよ。......とても恐ろしかったけどね、ここにはこないだろうと思っていた。鍵もかけたし戸も閉めたわ。それなのに奴らは火を放ってきたのよ。そこをあなたに助けられて。ね、笑ってくれてもいいのよ」
「笑えるものか! とはあれ、お前とあいつが無事ならそれでいいんだ。残念ながらこの村はもう駄目かもしれん。今すぐにでも逃げ出そう」
いつまでもここにいるというわけにはいかなかった。心配していたことを全て聞き終えた今、彼がすべきことはハールルを医者に連れて行くことだった。
「ググダンにはあの子をトルケビに連れて行ってくれと頼んだわ。あそこは大きな町だからきっと安全だろうと思って」
トルケビとは、大陸上で最南に位置する大都市である。貿易を管轄する組合、通称“ギルド”の本部があることで有名である。
「トルケビか......そこなら医者もあるな。だが、ちと遠い......」
「医者? 医者ですって? 何かあったの?」
「い、いや! なんでも、なんでも」
声を上ずらせながら返した。しかしこの大怪我では持たないかもしれないのだ。どれほど急いでも2日はかかるというのに......。
ふいにハールルが呟いた。
「そういえば、あの子の名前......決まったのよ。ほら、“儀式”は子供に名前を与えて、一人前として認めるという日でしょう? 今日だったはずなのにねえ。あの子がいてくれれば。それはそうと、いい名前だと思うわ。あなたもきっと気に入る」
名前、か......。口を開こうとしたとき、足音が聞こえた。ハールルがハッと息を呑むのが聞こえたが、それより速くバルギッシュは剣を構えていた。一刻一刻と迫る音。鼓動が早鐘のようになり、汗が垂れる。こんな狭場では守りきれる自信はあったが、もしものときにとハールルを庇うようにして立った。
刹那、目があった。しなやかな黒髪に栗色の目......優しげを湛えたふっくらとした顔つきはハールルを彷彿とさせる。実際、そう叫びそうになったが、目の前の人物が「父さん!」と叫ぶほうが速かった。
紛れも無い、我が子だった。その後ろには長身のググダンが控えている。
「父さん!」
叫ばれてそれは確実になった。息子だった。彼はバルギッシュの大柄な体躯に小さな体をうずめ、堪えてきたかのように涙を惜しげなく出し切った。バルギッシュは驚いたがすぐに手の剣を落とし、彼の頭に手をやった。普段のときのように、泣き出すさまをみっともないと叱ることはできなかった。このときばかりは目の前の少年を男としてではなく息子として見た。
ググダンはそれをあたたかい目で見届けてから、ハールルの方に目をやった。よかった、無事みたいだ。と思ったのも束の間、足がミンチになっていることに気づいた。そして、それを庇うようにして立っているバルギッシュ......。ああ、そばにいてやるのだったなと後悔するのだが、それもまた束の間のこと。
「ググググ......熱い......足が焼ける......ぁぁぁ!」
ハールルが、体を折り曲げてのたうちまわる。無論、焼けているわけではない。既にこのあたりの炎は消えかかっていた。痛覚がとんでいたのだと分かり、絶望した。これでは、生き地獄だ......! 下半身を失うほどの耐え難い痛みを後になって倍に感じる羽目になるとは!
「ハールル! 下を見るなと言ったろうが!」
「母さん......!?」
しかしググダンは何もせず___できずに見ていた。二人が必死に声をかけ、手をあて、泣き叫ぶのをただ見ていた......。
やがて家が崩壊する。朽ち果てた柱が、ついに重みに耐えきれなくなったのだ。ググダンは二人を引きずるようにして移動させたあと、ハールルの方に向かったが、音を立てて崩れ落ちる屋根に慈悲などなかった。
ハールルは死んだ。
溢れ出たコバルトの悲しみが、地面を汚してゆく。