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今日もハイヤームがいつものサーキィと酒を飲んでいると、酒場に吟遊詩人がやって来て、琵琶をかき鳴らしつつ言った。
「おお人々よ、この地は今も諸国の内で小さからぬ地位を占めているとはいえ、過ぎし日の栄光はこの比ではなかった。かつてイスラム以前、さらにはそれより以前の時代、このイランの地はまさに世界の中心とも言うべき地であったのだ。
それははるか昔の伝説の時代、人が千年もの齢を保っていた神代の時のこと、そのかみ天下を治めておられた帝王は、その名をジャムシードと言われた。
彼ジャムシードはまことに得がたき栄誉を得た。人と生まれて彼ほどの栄華を極めた王はいない。しかしまた、彼ほどの転落を見た者もいないであろう。それはどのような次第であったか?それを今から歌って聞かせよう。題して、『ジャムシードの杯』…」
そう言うと、吟遊詩人は長い歌を歌って聞かせた。
先の王タフムーラスの
後を継ぎこのイランから
天の下治めたもうた
ジャムシード、偉大な王の
しろしめす栄えの御代は
天の下全て安らう
幸いな御代であったよ
人々は齢も長く
千年を超えて長らえ
わずらいも病も知らず
衰えも憂いも知らぬ
毒虫も毒蛇もなく
獣は人を襲わず
冬が来て寒さが人を
かがませることもなかった
争いもいさかいもなく
飢えもなく渇きも知らず
人々は満ち満ち足りて
安らかに過ごしておった
ジャムシード、偉大な王は
様々な発明をした
人々の位を分かち
それぞれに仕事を定め
衣冠など整えさせて
武具を揃えておいた
高殿を地にうち建てて
世の果てをはかり究めた
宝玉を石より出し
玉座をばこの世に立てた
また今も我らが祝う
元日、年の始めを
定めたもまた彼だった
時にかの偉大な王は
神さびた珍の御宝
杯を持っておられた
神さびたこの杯は
その中をうち眺めれば
世の中のあらゆる物を
その中に映してみせた
ジャムシード、偉大な王は
この中をうち眺めては
安らかな世の中を見て
喜んで心満ち足り
この幸を彼に給った
大神をあがめまつった
このように偉大な王が
敬神の心を保ち
慎んで過ごしたあいだ
世の中は平らかだった
だがしかし時経つうちに
恐るべきかの“高ぶり”が
かの王の心の内に
少しずつ芽生えはじめた
高ぶりとおごりに満ちて
正道を失った時
かの王はこうのたまった
“人々よ我をあがめよ
我こそは神であるぞ”と
“もし我をあがめぬならば
汝らを罪に落とす”と
人々は恐れ驚き
仕方なくこれに従う
災いが起こり始めた
わずらいと病が起こり
衰えと飢えが始まる
毒虫と毒蛇が出て
冬が来て人を襲った
いさかいが日々に起こって
人々を責め悩ました
また人の大きな悩み
戦争も起こり始めて
人々を責めさいなんだ
最後にかの恐るべき
大蛇の頭を持った
ザッハーク、邪悪な王が
地の果てに立つに至った
恐るべきかの蛇王は
都へと攻め上り来て
ジャムシード、偉大な王を
打ち破り追いやった後
自らを玉座につけて
新たなる王とはなった
その後の蛇の治世を
千年の暗黒の世を
争いと悪への愛と
奸策と邪術が覆い
人々は虐げられて
その日々を耐えて過ごした
生け贄を常に求めて
若者を日々食い殺し
大蛇のえじきとなした
かの蛇の治めたあいだ
さて時に都落ちした
ジャムシード、偉大な王は
そのあいだどこにいたのか?
百年のその長き日を
かの王は独りで逃げて
地の果てを憂えさまよい
隠れつつ過ごしておった
おお今は何を思うや
ジャムシード、偉大な王よ
過ぎし日はあれほどまでに
いやさかに栄えたものを
その時の彼の心を
我々は知るよしもない
だがついに日々の終わりに
ザッハーク、邪悪な蛇は
ジャムシード、偉大な王を
見つけ出し彼を捕らえて
都へと引き連れてきた
そしてかの偉大な王を
公の都市の広場で
鋸で二つに斬って
処刑して殺すと決めた
おお今は何を思うや
ジャムシード、偉大な王よ
在りし日はあれほどまでに
いやさかに栄えたものを
その時の彼の心を
我々は知るよしもない
ついにかの偉大な王は
痛ましくその身を裂かれ
この世から去ったのだった
ああ無情めぐる天輪
無情なる天輪よなぜ
自らが生み成すものを
もう一度打ち砕くのか
始めから作り成さねば
災いを見はせぬものを
無常なりこの世は全て
人々よ彼に鑑み
敬神の心を保ち
世の中は泡沫と知れ
この後もまだ世は続き
人々は邪悪な蛇の
治める世、暗黒の世を
こらえつつ耐えて過ごした
だがついにこの蛇王の
繁栄も終わりを告げる
天命をその身に受けて
フェリドゥーン、新たな王が
都へと攻め上り来て
槌をもてかの蛇を撃ち
玉座から引きずり下ろし
鎖にて固く縛め
地の底に封じた時に。
フェリドゥーン、新たな王は
その後で彼に代わって
新たなる王とはなった
しかしかの邪悪な蛇は
今もなお死んではおらぬ
山深きデマーヴァンドの
岩室のその奥深く
鎖にて縛られたまま
彼はまだ生きているのだ
そしてかの審判の日に
彼はまた解き放されて
我々を襲うであろう
おお神よ守りたまえよ
我々を悪しき蛇より
この後もまだ世は続き
フェリドゥーン、新たな王は
試みを受けるであろう
だがそれはまた後のこと
別の日に語るであろう
時にかの偉大な王の
神さびた珍の御宝
杯はどうなったのか?
かの王のさまよう日々に
捨てられたものであろうか
かの蛇に敗れた時に
砕かれたものであろうか
またもしや神の怒りが
打ち割ったものであろうか
人はその行方を知らず
ただそれを語り継ぐのみ
過ぎ去りし栄えの日々を
語り継ぐよすがとなった
杯よその杯よ
惜しむべきかな
「…おお人々よ、世は無常なりと心得よ。幸福も不幸も長くは続かぬもの。敬神の心を保ち、世に執着するな。
この世は、たとえ始めは宝と見えようとも、やがては苦痛となり、ついには憂き世となるものと心得よ」
吟遊詩人が歌い終えると、ハイヤームは言った。
「サーキィ、どう思うかね。ゾロアスター教徒からしたら、今の物語は?」
サーキィは言った。
「そうね…、よくできてはいるけど、正確ではないわね。本来のゾロアスター教の伝承とは違う」
「そうかね」
「でも、古代の世が理想的な世だったという趣旨は共通しているわね」
「なるほど、そういえばギリシャの古典でもそういうことが言われていたな。多くの宗教でも同じような考え方が基本にあるようだが…。
ところで、君は昔の遺跡を見たことがあるかね。イスラム以前の時代、さらにそれより前の時代の宮居の跡を」
「見たことはないけど…」
「そうかね。私は見たことがあるが、あれは実に雄大な遺跡だった…。在りし日はどれほど壮麗なものだったかと思わせる。君はゾロアスター教徒だから、そういう古代に対する憧れもひとしおではないかね?私も、もし私がその時代に生きていたらと思うよ」
「そうね…、でも…、もしあなたがその時代に生きていたとしても、やはりそこにはそれなりのわずらいや災いがあって、そしてやはり、自分が別の時代に生きていたら…と思うのではないかしら」
「なるほど、それも道理だ。遠くで聞く太鼓は音が良いというからな。
しかしサーキィ、君は何か、さっきの吟遊詩人が歌ったような歌を知らないのかね?」
「えっ…、なぜそんなことを?」
ハイヤームはほろ酔い加減で言った。
「私は本物のゾロアスター教の歌を聞きたいのだ。何か歌を知っているだろう?」
「それは…、その…、私は、せいぜい短い賛歌を知っているくらいだから…」
「構わない。ぜひ聞きたいな。それを歌ってくれよ、サーキィ」
サーキィは困ったような顔をしたが、言った。
「分かったわ…」
そして彼女は歌った。
道理が勝利を収める日
我らはついに救われん
恩寵の主に讃えあれ
神よ我は願いたり
ハイヤームは言った。
「素晴らしい。さあもっと歌ってくれ、サーキィ」
彼はテーブルをコツコツ叩いて拍子をとった。サーキィは歌った。
「道理が勝利を収める日…」
しかし、そこで急に言葉に詰まった。
「勝利を…」
「ん?どうしたのかね?」
すると突然、サーキィの目から涙がこぼれた。ハイヤームは驚く。サーキィは涙を次々にポロポロとこぼして、言った。
「あ、あれ…、どうして私、泣いてるのかしら…。フフフ、おかしいわね、こんなこと…、なんにも、悲しいことなんて、ないはずなのに…」
ハイヤームはショックを受けて言った。
「もういい!サーキィ、すまなかった、すまなかった…。君に歌わせたりなんかするべきではなかった。もういい。さあサーキィ、酒を注いでくれ。私が代わりに歌おう。そうだ、君も飲むといい。君のために酒を頼もう。どうするかね、サーキィ…」
「…アルナワーズ」
「え?」
「今まで私の名前はサーキィだと言ってきたけど…、本当は…、アルナワーズって言うの…。私…」
「アルナワーズ…」
「ごめんなさい。今まで隠して…、嘘をついたりして…」
「いや、いいんだ。いいんだよ…。
…アルナワーズ」
ハイヤームは少しためらった後、アルナワーズの肩を抱いた。
次の週、ハイヤームは酒場に向かう途中で、花屋で薔薇の花を買った。花を買うなんて何年ぶりだろうと思い、薔薇の香りをかいでから、花をポケットにしまって、酒場の扉をくぐった。
そして席について酒を頼み、アルナワーズが酒を運んで来るのを待っていた、が、運んできたのは初めて見る少年のサーキィだった。
ハイヤームは言った。
「いつものサーキィはどうしたのかね?」
少年は言った。
「誰のことですか?僕は今日入ったばかりで分からないんです」
「店主を呼んでくれ」
店主が来ると、ハイヤームは訊いた。
「いつものサーキィはどうしたのかね?」
「どのサーキィですか?」
「あの娘のサーキィのことだよ」
「ああ、あの子は死にましたよ」
「えっ…?」
「旦那は知らないでしょうがね。あの子は昔、向かいの店で働いていた娼婦だったんですよ。で、その時に大麻を使っていたんですが、それだけでなくもっと強い薬に手を出したようでね…。それが運の尽きで、薬がやめられなくなり、稼いでも稼いでも薬代に消えてしまうので、ついに奴隷の身分から抜け出せなかったんでさ。それで薬を使いすぎて、この間死んでしまったんです。哀れなものですな。
ところで、酒の注文ですか?入り用なら、新しいのをお持ちしますが」
「いや…、いいよ…。今は…、下がってくれ…」
「わかりました」
店主が下がったあと、ハイヤームはしばらく呆然としていた。薔薇の花を取り出して見つめ、また収めた。
そうしてしばらく経ってから言った。
「酒を…、酒を飲もう」
そして杯をあおった後、頭を抱えて言った。
「なんてことだ…。おお神よ、なんてことだ…」
そうしてまたしばらく頭を抱えていたが、また言った。
「酒を…飲もう」
そう言って顔を上げると、どうしたわけか、さっき空にしたはずの杯に酒が注がれていた。ハイヤームは言った。
「はて、どうしたことか。確かにさっき飲み干したはずだが…。
アルナワーズ、君が注いでくれたのかい?それとも、神が注いで下さったのかしらん」
そうして言った。
「ハハハ、私もおかしなことを考えるものだな。神が注いだなどとは…
…いや、いや、どうしておかしいことがあろうか?確かにこれは神の酒だ。これこそ私の定めだ、分け前だ!そうだ、飲もう。酒を飲もう。杯よ、お前のために乾杯だ。幸いあれ!!」
ハイヤームは立ち上がって酒をあおり、そしてテーブルに突っ伏した。そして言った。
「ああ、もう駄目だ…もう駄目だ」
杯がその手から離れて、テーブルの上を転がり、床に落ちた。杯は粉々に砕けて散った。
杯かかげ口づけて
幸いあれとささやけば
“刹那の今を楽しめ”と
ささやき返す声がする
〈終〉




