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ルバーイー  作者: しのぶ
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3

 今日もハイヤームが酒を飲んでいると、いつものサーキィが言った。


「あなたは、酒をやめようと思ったことはないの?」


「あるとも。そして実際やめていた時もあった。あれは私がすでに退職した後のことだった…」


***


 ある日、酒場に新参の客がやって来た。彼は見慣れない粗末な服を着て、以前会ったシーア派の宣教師(ダーイー)と同じように、酒も飲まずに薔薇水を飲んでいた。宣教師と違って本を読んではいなかったが、ひとしきり唱名(ズィクル)を唱えていた。酒場だというのにこのようなイスラムの信心行を行っている人は珍しい。

 ハイヤームが酒を飲んでいると、その男が話し掛けてきた。


「あなたは、酒を飲んでいても心が晴れないようですな。何か悩みを持っているように見えます」


「はあ」


「しかしあなただって、心の内ではもっと別の生き方を求めているのではないですか?隠れて酒を飲むような生き方ではない、良心に恥じることのない生き方をね」


「あなたは、シーア派の宣教師ですか?」


「いや、私はスーフィーです」


「ほう」


 スーフィーとは、イスラムの神秘主義者のことである。基本的にイスラムは戒律に従って生きることが主な実践であるが、神秘主義者は神との直接の接触を求める人々であった。

 スーフィーの中には神との直接の接触を求めるゆえに、従来のイスラムの型にとらわれない型破りな言動をする者がおり、そのためもあって正統派なイスラム法学者からは異端の信仰と見なされる向きが強かった。もっとも、スーフィーの言動は個人や集団によって違い、型破りな者から戒律を遵守する者まで様々であった。

 イランは特に神秘主義の一大中心地であり、民衆からは少なからぬ支持を集めていたが、このためもあって正統派の影響の強いアラブの人々からは、ペルシャ人の信仰は疑わしいものと見なされる向きもあった。


 スーフィーは言った。

「あなたには神秘家の素質がありそうだ。あなたも神秘道の修行を積めば、己が本当に求めるものを見出せるでしょう。よろしければ、我々の道場(ハーンカー)に来てみてください」


「そうですな…」


 ハイヤームは少し迷ったが、神秘主義については今まで知らなかったわけではなく、一定の親近感を感じてもいたので、ものは試しと道場に行ってみることにした。


 ハイヤームは神秘主義の師匠の下について神秘道を学び、かつ実践した。


 正統派は聖典を文字通りの意味にのみ限定してとらえ、立ち入った解釈を過ちの元と考えて避ける傾向があるが、神秘主義者の間では一般に聖典に隠されたより深い意味を求めて、文字通りの意味を越えた解釈をする傾向がある。それは聖典に限らず、彼らが現実に対して持っている態度でもあった。

 現象として現れているこの世の背後には神秘の領域があり、それこそ現象よりも真実な世界なのである。そしてその神秘の領域に記された神の跡をたどり、ついには人は神に至る。その道は長く険しい道ではあるが、行くだけの価値はある。それを知らなければ、人はただ表面に現れた現象に翻弄されるばかりで、悟りに至ることはないであろう。この難道をたどり往き、高い境地に達した神秘家こそ、この世の裏にある神秘を悟った者たちなのである。

 このような考え方は正統派の法学者からは異端として排斥されようとも、少なからぬ人々を引きつける魅力があった。


 さてハイヤームは、この神秘道の基本として克己と禁欲を自らに課し、酒を断ち、イスラムの義務も真面目に果たすようになった。長いことさぼっていた礼拝や断食も守るようになった。自分が酒をやめられるとは思っていなかったハイヤームだが、酒をやめてしばらく経つと、心が清々しく軽くなったように思えた。そしてこのような実践なら、自分にも続けられるのではないかと思うようになった。


 しかしながら、そんな中でもハイヤームは未だ何かが不完全だと感じていた。神秘主義者の教説には確かに親近感を持つものの、自らの求めるものと同一ではないように思われた。また相変わらず、酒を飲みたいという願望を持ってもいた。


 ある時ハイヤームは家の中で瞑想していたが、酒が無性に飲みたくなってきた。その時は断食期間中だったが、酒を飲むよりはよかろうと思って、薔薇水を飲んだ。


 そうしてしばらく瞑想していると、黄昏時、日がかげり、窓の外が暗くなった。


 その時ハイヤームはせき込んだが、せき込んだその瞬間、口の中から小さな黄色い狐が飛び出して来て、床に降り立った。


 ハイヤームは驚いて言った。

「何だ、お前は!?」


 狐はハイヤームを顧みて、ニヤリと笑って言った。

「私はあなたに誰よりも近しい、あなたの眷族ですよ」


 そう言うと狐はハイヤームの足もとに駆け寄り、足に組み付いてきた。ハイヤームは恐怖を覚え、立ち上がるとその狐を踏みつけた。


 ところが、この狐はどういうわけか、踏みつければ踏みつけるほど大きくなってくる。初めは子猫くらいの大きさだったものが、犬くらいになり、子牛くらいになり、ついには牛くらいの大きさになった。ハイヤームは恐れて叫んだ。


「何者だ!?お前は何なのだ!?」


 狐は笑って言った。

「神は私をひねくれ者の(さが)に造られたので、私は踏まれれば踏まれるほど強く大きくなるのです」


 そう言うと狐は組み付いてきて、ハイヤームは押し倒された。そしてその狐は巨大な体ながら一瞬にしてハイヤームの口の中に入り込み、彼は狐を飲み込んだ。


 その狐が入り込んだ後、ハイヤームはひどく酒が飲みたくなってきた。そしてハイヤームは家を抜け出すと、また酒場に向かい、中に入って酒を飲んだ。

 久しぶりに飲む酒は実に美味かった。そうして彼が酒を飲みほろ酔い気分になっていると、隣に誰かが座って、言った。


「やあ、今晩は」


 隣を見ると、神秘道の師匠がいた。師匠は言った。

「誓いを破ったな、ハイヤーム。隠れて飲む酒は美味いか?」


「あ…師匠…違います。これにはわけが…」


「ええい、貴様は破門だ!どうとも勝手にするがいい!」


 そう言うと師匠は去って行った。


 ハイヤームは後を追おうと思って立ち上がったが、思い直してまた座った。そしてまた追加の酒を注文すると、夜が更けるまで飲み続けた。


「やはり私には、こちらの方が性に合っているようだ」


 ハイヤームは独りごちた。


***


「…そんなわけで、酒を断つにはいたらなかった。神秘主義の影響は今もあるし、神秘道には一定の親近感を持ってもいるが、私の求めるものではなかったわけだ」


「そう…。でも、その道場の人達には悪いことをしたようにも思えるわね」


「そうかもな。だがアリストテレスも言っているではないかね。『我々の敬うべき人は多くいるが、真理のほうはもっと敬われるべきもの』とね。私には彼らの教説に触れても、なお納得できないものがあったのだ」


「そう…。でも酒を断てなかったのはよくなかったかも知れないわね」


「そうかもな。だが酒を断つことが良いことなのかどうかだって分からないがね」


「なぜ?」


「例えば、殺人や強姦はどんな宗教でも罪とされているだろうが、酒はイスラム教では禁じられていても、ユダヤ教やキリスト教やゾロアスター教では禁じられていない。仏教では禁じられているらしいがね。それにそのイスラムにしても、初期の啓示では禁じられていない。広く受け入れられている禁忌なら普遍的と言えるだろうが、このように限定的なものなら、それは特定の状況でのみ通じる禁忌だろうと思える」


「そうね…、でも酒自体はともかく、酔っ払うことは多分一般によからぬこととされているのじゃないかしら。だからそれを防ぐために酒が禁じられているとも考えられるのじゃない?」


「そうかもな。だが狐が言うように、こうしたことは禁じられるほどかえって盛んになる場合があるように思える。現に私はその禁忌のせいでかえって酒飲みになってしまった…いや、たとえイスラム教徒でなくても酒飲みになっていたかもな。だが致し方ないことよ。それが私の生まれついた(さが)だもの。神がそのように定めたのだ、どうにもならぬ。

さあサーキィ、酒を注いでくれ。しかつめらしい道学者の言うことなど捨て置くがいいさ。これが私の人生だ」


 そう言って、ハイヤームは詩を詠んだ。


土から出来た身であれば

土の汚れは避けられぬ

神の定めし(さが)なれば

変えようとても変えられぬ


 そして杯を傾けて、また詠んだ。


我を酒乱と言わば言え

異端邪説と言わば言え

我はどうにもなりはせぬ

どんなに人が咎めても



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