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今日もハイヤームが酒を飲んでいると、いつものサーキィが言った。
「あなたは、どうして王宮の仕事をやめることになったの?」
ハイヤームは言った。
「そうだな…。それには友人のことを話さなければならない。前にも言ったハサン・サッバーフのことだ…」
***
まだ学生だったころ、ハイヤームとハサンは盗賊にあったことがあった。ハイヤーム達は二人だけで丸腰だが、盗賊は七人いて皆が剣を持っていた。
「おとなしく金を渡せば、命までは取らねぇよ」
盗賊は言う。仕方ないので、二人はおとなしく持っていた金目のものを全て渡した。
そうして彼らが分捕り物を物色している間、二人を見張っていた盗賊がよそ見をした一瞬の隙に、ハサンは彼に飛びかかった。
そして相手を地に投げ倒し、その剣を奪って刺し殺した。
「この野郎!」
盗賊達は斬りかかってきたが、ハサンは奪った剣で立ち向かい、一人の腕を切り落とし、もう一人にも深手を負わせた。
「ええい、退け!退け!」
盗賊達は手強いと見るや逃げていった。彼らが去っていった後、ハイヤームは言った。
「ハサン、よくあんなことができたな。いつもながら、お前の勇気には感心させられる」
「ああ、奪われたままで黙っているわけにはいかないからな」
「それにしても、優先順位ってものがあるだろ?わずかな財産のために命を落としては仕方ない」
「いや、俺にとってこれはただの財産の問題じゃない。心意気の問題だ。ハイヤーム、俺はな、絶対にやられっぱなしで黙ってはいないぞ。相手が誰だろうとな…」
後に二人は宰相の推薦で宮仕えするようになったが、ハサンは才気煥発にして果断な性格で、だんだんと高位に上っていった。
ところが宰相は、元は自らがハサンを推薦したのにもかかわらず、次第にハサンと衝突することが増えてきた。ハイヤームは同僚に言った。
「近頃、宰相はハサンと仲が悪いようだが、どうしたのだろう」
同僚は言った。
「そりゃお前、宰相はハサンを恐れているんだよ。ハサンが予想外に出世してきたので、自らの地位が脅かされるのではないかと思ってるのさ」
「しかし、ハサンにとっても宰相は恩人なのだから、恩を仇で返すようなことはしないと思うが」
「そりゃ、ただの友人同士ならそうも言えるだろうがね。だが王宮での対立となると、個人の思惑だけでは済まなくなってくるものさ。歴史を顧みれば、裏切りにあって破滅した者は多い。宰相だって自らの身を守るために必死なんだよ」
ある時、国の財政の報告書を出すように王が命じたことがあった。宰相はそれを作るには6ヶ月かかると言ったが、ハサンは2週間で出来ると述べ、実際に2週間で仕上げて、王と廷臣の居並ぶ前でその報告書を読み上げていた。
ところが、途中まではすらすら読んでいたハサンの顔色が急に変わり、しどろもどろになり始めた。
「ホラーサーンの支出全体は300万ディナール…、ん?い、いや違います。何?どういうことだ…?え、ええと…、確か500万ディナールで…」
王は言った。
「どうした、ハサン?」
「も、申し訳ありません。また後日、報告させて頂きます」
「そうか?別に余は今日でなくても構わんが、お前が今日で良いと言うから今日にしたのだぞ。自分で言っておいて果たせないとは、そなたらしくないな」
「申し訳ありません」
そこへ宰相が口を挟んだ。
「陛下、このような大仕事を2週間で仕上げるなど無理だったのですよ。それもこのような無能な男にはね」
「…」
ハサンは黙って引き下がったが、ハイヤームは心配した。ただでさえこのように大勢の前で恥をかくのは辛いものだが、ハサンのように誇り高い性格ならなおさらであろう。
後で聞いたことだが、この一件は宰相が仕組んだことだったらしい。宰相はハサンが仕上げた報告書を、一部は抜き出し一部はバラバラに入れ替えておいて、彼が失敗するように仕組んだということだった。
真偽の程は定かではないが、ハイヤームはハサンに直接それを確かめることはできなかった。というのも、ハサンはそれ以来王宮から姿を消し、失踪してしまったからである。
だが、本人が言うとおり、ハサンはやられっぱなしで黙っている男ではなかった。ハサンが失踪してしばらく後、ハサンが反体制派のシーア派イスマーイール教団に加わり、さらには新たな頭目になって、アラムート山の城砦の主になったと聞かされた。
後になって、宰相は暗殺された。ハサンが放った刺客に殺されたとのもっぱらの噂だった。
宰相にとどまらず、それから帝国領のあちこちで、高位高官が暗殺される事件が相次いだ。ハサンはアラムート山から刺客を放ち、政敵を暗殺させている。その暗殺者はどんな厳重な囲みをもかいくぐって、死をも恐れずその使命を果たすのだと言われ、彼らは「暗殺教団」と呼ばれ恐れられた。そしてハサンは「山の長老」と呼ばれ、一種の伝説的存在と化していった。
後になって、新たに即位したサンジャル王が暗殺教団を滅ぼそうと、軍を率いてアラムート山に進軍したことがあった。しかし決戦の日の朝、王が目覚めてみると、枕元に短刀で地に紙が突き刺してあり、その紙にはこう書かれていた。『サンジャルよ、もし私がお前の余生を重んじていなかったら、この短刀はお前の心臓を貫いていたぞ』これには王も恐れをなして軍を引き上げた。それほど、暗殺教団には勢い当たるべからざるものがあった。
しかし王宮では、ハサンが去った後もそこここで権力闘争が行われていた。宰相の暗殺にしても、実は暗殺教団ではなく、別の派閥によって行われたのだとも言われていた。
ハイヤームはこのような権力闘争に嫌気がさし、また自分が巻き込まれるかもしれないとも思ったので、年金がもらえるようになったのを機に、王に退職を願い出た。王はこれを許したが、言った。
「そなたのような優秀な学者を失うのは辛いことだ。そなたの業績の褒美に、下賜品を取らせよう。何か欲しいものがあれば言うがよい」
「いえ、すでに年金をもらえることになっておりますので、この上何か頂こうなどとは思いません」
「そうか?無欲な奴よ。だが何も与えないのでは王としてふさわしくないから、何か適当にでも選ぶがよいぞ」
「そうですか…」
ハイヤームは迷ったが、すぐそばにあった器に盛られていた果物に、金の楊枝が刺さっているのを見て、言った。
「それでは、この楊枝を頂きとうございます」
「そんなものをか?まあ良い。それでは、それを見るたび余とのよしみを思い出せよ。またいつか、お前の知恵を借りるような事態になったら、お前を呼ぼう。その時にはよろしく頼むぞ」
「浅学非才の身ではありますが、私に役立てることがありましたら、いつでも参上いたします」
ハイヤームは答えた。
***
「…そんなわけで、これがその王から賜った金の楊枝だ。もっとも、楊枝として使うのはもったいないから、こうして本のしおりに使っているがね」
「へぇ…。こんなものにまで金を使うとは、さすが王様は違うわね」
「そうだな。王宮では見るもの聞くもの全てが豪華ではあった。しかしその王も、今はもうこの世を去った…。彼より前の王たちが去っていったようにね。人の言うように、この世は人々が来ては去って行く旅宿のようなものだということだろう。確かスルタン・イブラーヒームの出家譚にそんな台詞が出てきたな…」
「そう…」
サーキィはハイヤームの出した本を見て言った。
「読んでもいい?」
「字が読めるのかね?それならどうぞ」
サーキィはページをめくり、いくらか読んだあと、表題を見て言った。
「これはイブン・スィーナーの本?」
「知っているのかね?」
「ええ、少しは…」
「そう、イブン・スィーナーの本だ。彼には私もだいぶ助けられたと思うよ…。彼の影響で、宗教を合理的に考えるようになったと思う。そうでなければ、狂信者になっていたかも知れない。
もっとも近頃は、ガザーリーとかいう遍歴行者の言説に熱狂した群衆が、イブン・スィーナーを無神論者だと言い立てて、彼の著作を往来で破り捨てたりしているから、いつか彼の著作が失われてしまうかも知れないと心配しているがね」
「そう…、そうね」
サーキィは本を置くと、言った。
「ハサンには、その後一度も会わなかったの?」
「ああ、会っていない。だがそういえば、こんなことがあった…」
***
ある時、酒場に奇妙な客が来たことがあった。彼は一ヶ月ほど酒場に来ていたが、酒を飲まず、薔薇水ばかり飲んでいた。そして誰かと話したり音楽を聞いたりするでもなく、一人で本を読んでいる。
ある日、まだ退職前のハイヤームが酒を飲んでいると、その奇妙な客が話し掛けてきた。
「アッサラームアレイクム。あなたはいつもここで酒を飲んでますが、いつも浮かない顔をしてますね。何か心配ごとでもありそうな顔です」
「はあ」
「しかし、本当はあなただって、こうして隠れて酒を飲むような生活は望んでいないのじゃないですか?もっと何か、良心に恥じない生き方があるはずだと思いませんか?」
「そうですね…そうかも知れません」
「そうですとも。だがあなただけではありません。今の世の中を憂えている人々は多い。
しかし、我々が今見るような、イスラム世界の混乱と退廃はどこから起こっているのでしょうか?それは我々が指導者を欠いているからだと言うべきでしょう。我々には指導者が必要です。それも、単なる世俗の指導者ではない、預言者ムハンマドのごとき神の恩寵を受けた指導者がね」
「そうかも知れませんね」
「一般的に言っても、人々は指導者がなくては共同体として生きて行けません。では預言者ムハンマドは、こうした常識にうとく、自らの共同体のために明確な指導者を残すことなく世を去ったのでしょうか?いや、彼はちゃんと後継者を指名していたのです。すなわち、彼は最後の巡礼の際に、ガディール・フンムにてアリーを後継者に指名していました…」
ハイヤームは言った。
「あなたはシーア派なのですか?」
「そうです。私はシーア派の宣教師です。もっとも、政府当局に見つかっては危ないので、身分を隠していますがね」
「そうですか。申し訳ないが私は…、いや待てよ。あなたはひょっとして、アラムート山から派遣されてきたのですか?」
「いえ、私は彼らとは別の派です。彼らは7イマーム派ですが、私は12イマーム派ですから」
「そうですか…。申し訳ないが、私はシーア派に加わるつもりはありません。少なくとも今のところはね」
「そうですか…、残念です。しかし、門はいつでも開かれていますよ」
宣教師が去っていった後、ハイヤームは酒をあおって独りごちた。
「ハサンよ、私だって王宮に仕える身であるのに、私に刺客を送らないのは、私たちの昔の友情を思ってのことなのか…?それとも、君が王宮にまで刺客を送っているという話自体が流言なのであろうか?分からない…。
しかし君は、なぜせめて便りを送ってはくれないのか。それとも便りを出したりしたら、私がシーア派と関係があると思われて私の身が危うくなると思って、私の身を案じてくれているのか?それとももう私のことなどどうでもいいと思っているのか…?
わからない。だがいずれにせよ、今の私たちの間に越えがたい断絶ができてしまっているのは事実だ…」
そう言って、ハイヤームはテーブルに突っ伏した。
***
「…そんなわけで、結局ハサンが失踪してから彼とは一度も会っていないし、便りもない。彼が今生きているかどうかさえ不明だ。
彼の真意がどこにあるのかは分からない…。だが少なくとも私にとって、彼は良き友だったよ。性格に苛烈なところはあったが、悪い奴ではなかった…。少なくともあの頃はね」
「そう…。あなたも、別れを経験しているのね」
「そうだな。だがそれを経験しない者が誰かいようか?
さあサーキィ、酒を注いでくれ。昔の悲しみなどは忘れてしまおう。青春ははるか遠くに過ぎ去ってしまったが、私には酒が注がれる、今この時が我が世の春なのだ」
そう言うと、ハイヤームは詩を詠んだ。
今こそ我が世の春は来た
いざ楽しんで酒を飲め
酒が苦くとも咎めるな
人生はどうせ苦いもの
そうして杯をあおって、また詠んだ。
世に春秋は過ぎゆきて
我が人生も過ぎ去った
だが悲しむな酒を飲め
悲しんだとてつらいだけ
そしてまた詠んだ。
泡沫の身で世の中を
気に病んだとて何になる
千度も言うが酒を飲め
往きて帰らぬ身であれば




