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とってもネガティブで暗い話です。そして酒乱の描写が多いのでご注意ください。
──セルジューク朝の時代、イラン(ペルシャ)にて──
自分が酒を飲むようになったのはいつからだったかと、ウマル・ハイヤームは酒場への道を辿りながら考える。
言うまでもないことだが、イスラム法では酒を飲むことは禁じられている。いかに不真面目なとはいえ、一応はイスラム教徒であるハイヤームにも当然その禁忌は課せられているのだが、彼はすでに長いこと、毎週酒を飲むのが日課であった。
酒場は異教徒の居住区にある。イスラム教徒は酒が禁じられているので、酒場を経営しているのは基本的にユダヤ教徒やキリスト教徒のような異教徒である。
実際の対応は人によって異なるとはいえ、イスラム法では異教徒は常にイスラム教徒より下の立場であり、イスラムを批判したりイスラム教徒の上に権威を振るったりしてはならないとされているので、イスラム教徒の間では異教徒はトラブルを避けるため、なるべく目立たないようにひっそりと生きている。しかしこの異教徒の居住区では、彼らも多少は羽根を伸ばして生きているように思えた。
そしてそんな街の雰囲気に、自らも多少気が楽になるハイヤームは、やはり自分はとうてい良きイスラム教徒とは言えないらしいと思うのであった。
「あなたは、なぜ酒を飲むようになったの?」
と、顔なじみの酌人が酒を注ぎながら言った。このサーキィは2年前からこの酒場で働いている。サーキィの中には少年が多く、中には客相手に売春させられている者もいるというが、このサーキィは女性であった。
ハイヤームは言う。
「なぜとは?理由がいるのかね?」
「だって、あなたはイスラム教徒なのでしょう?本当はお酒を飲んではいけないのではないの」
「そうだな…。今までこのようなことを話したことはないが、どうせ夜は長いのだし、そのきっかけを話してみるか。
当時私は15歳だった。人の言う人生の春、人生の最良の時であったわけだ…」
***
若きハイヤームは、友人のハサン・サッバーフと共に、地元の学者のもとに通って学問を学んでいた。コーランやハディース、イスラム法やアラビア語などのイスラム諸学、それに数学や天文学に、語学や論理学など様々である。学問をしたくてもできない人も多い中、恵まれた立場だと言えるだろう。多くの人がそうであるように、彼らもまた、高い位に上り、できれば王宮で宮仕えでもしたいものだと思っていた。先生はハイヤームに言った。
「君はここで学業を終えたら、何になるつもりかね?」
「そうですね。まだ決まってはいないですが、何か人の役に立つことをしたいと思います」
ハサンが言った。
「それなら、法官を目指したらどうだ。法学は得意だろう」
「法官か…」
先生が言った。
「そうだな。法官は世の中で常に必要とされる役職だしな」
ある時、裁判と処刑の様子を見に行ったことがあった。
被告は姦通の罪で訴えられている男だったが、連れてこられた時からすでに取り乱して、大声で無罪を訴えていた。
「嘘だ!こんな罪はでっち上げだ!本当は原告のあいつのほうが、あの娘を強姦したんだ!その罪を俺にかぶせようとしてこんな罪をでっち上げたんだ!」
原告は言った。
「何をいい加減なことを言いやがる。良きイスラム教徒の名誉を傷つけて、さらに罪を重ねるつもりか?こっちには証人がいるんだぞ」
イスラム法では、姦通の罪には四人の証言が必要である。原告は四人の証人を呼んでいたが、彼らは一様に被告の罪を証言した。法官は他の証拠も調べたが、結局彼らの証言をくつがえすものは出てこなかったので、被告は有罪と決まった。被告は叫んだ。
「嘘だーっ!!あいつらはグルになって俺をはめているんだ!あいつには証言してくれる仲間が沢山いるが、俺にはいない。それを分かっているから俺に罪を被せたんだ!俺は何もやってない。信じてくれ!!」
法官は言った。
「罪を確定するための法学上の要件は満たしている。くつがえすことはできない」
姦通の罪には石打ちで処刑されると決まっている。罪人は布でぐるぐる巻きに縛られると、地面に掘った穴の中に半ば埋められた。彼はその間もずっと無罪を訴えていた。
「嘘だ!嘘だーっ!本当に罪を犯したのはあいつらのほうなんだ!!すぐそこに、本当の罪人がいるんだぞ!信じてくれーっ!!証人が四人いるから有罪だなんて、そんな馬鹿なことがあるものか!!」
処刑人が言った。
「アッラーの法を誹謗する気か?今の罪の上にさらに背教の罪を重ねたりしたら、もう言い逃れできないぞ。もしお前が本当に無罪なら、死後に天国に行けるだろうよ。そう悲観するな」
「嫌だーっ!!やめてくれ、助けてくれーっ!!せめて石打ちはやめてくれ、ひと思いに首を斬ってくれ!!俺は本当に無罪なんだ!信じてくれ!助けてくれーっ!アッラー!アッラー!!」
彼はなおも叫び続け、人々が彼に石を投げつけている間も叫び続けていた。
石が当たるうちに布の上に血がにじみ、流れ出し始め、体の形が少しずつ石に打たれて崩れていく。そして少しずつ少しずつ、肉も骨も砕けていく。彼はなおも叫び続けていたが、次第に何を言っているかわからなくなり、少しずつ声が弱まっていき、ついにはけいれんするばかりになって沈黙した。
罪人は最後にはグズグズの肉塊になって穴から引き出された。彼がいつ死んだのかはわからなかった。
原告と四人の証人はせせら笑って言った。
「情けない野郎だ。大それた罪を犯しておきながら泣きわめいて死にやがって、意気地なしめ。まあ、あの野郎はこの後さらに地獄に落ちて、これよりもっと恐ろしい苦しみを永く永く受けるだろうよ」
ハイヤームは体ががくがく震え、抑えようとしても抑え切れなかった。のどがカラカラに渇いて、何度も唾を飲み込んだ。
そんなハイヤームを横目で見て、ハサンが言った。
「大丈夫か、ハイヤーム?」
「だ、大丈夫だ…。これくらい何ともない」
「そうだろうな。法官になれば似たような判決を何度も下さなければならないわけだから、これくらいでびびってるわけにはいかないだろう。
ところで、明日は女のほうが処刑されるらしいが、明日も見に来るかい?もっとも女の処刑は人気があるから、明日は人が大勢集まって見られないかも知れないが」
「い、いや。やめておくよ…」
それ以来、ハイヤームは法官になることはあきらめた。代わって、彼は数学や天文学に打ち込むようになっていった。転変常無きこの世の事柄とは違って、天上の事柄は常に変わらない規則正しさを持っている。彼はそのような世界に慰めを見出していたのだった。
さて、先生の友人がたまたま帝国の宰相となったので、そのつてで、ハイヤームとハサンも王宮に推薦され、その才を認められて宮仕えすることになった。ハサンは帝国高官の地位に上り、ハイヤームは学者として仕えることになった。
願ってもない出世であったが、ハイヤームの心は晴れなかった。何をしていても、あの処刑の光景が忘れられず、心に影がさしているようであった。
そんなある日、彼は己と同じく宮仕えする廷臣が、酒場に行っているという噂を聞いた。まさかそんなことが…と思ったものの、その人物のあとをつけてみると、彼は本当に酒場に行き、酒を飲んでいた。ハイヤームが驚きつつ酒場の隅に座っていると、少年のサーキィがやって来て言った。
「何を飲みますか?」
「いや、私は…」
「ここに来るのは初めてですか?それじゃ、まずはこのワインをどうぞ。気に入ったら、また注文して下さい」
「…」
ハイヤームは目の前の杯を見つめて少しためらったが、その香りに惹かれて飲んでみた。それが始まりであった。
酒を飲んでいると、あの処刑の光景が少しずつかすんでいき、気にならなくなっていった。罪を犯しているという感覚も、一線を越えてしまうとあまり気にならない。むしろ、この酒場に集う人々との間に、一種独特な絆が生まれたようにさえ思えたものだ。
例の廷臣はハイヤームに気づいたようだったが、何も言わず、小さく乾杯のしぐさをしただけで、あとは己のほうに向きなおって杯を重ねていた。その控えめな気安さに、彼は慰められたものだ。
酒場の向かいには娼館もあった。彼はそこにも行ったことがあるが、こちらのほうはやがて行かなくなった。
春をひさぐ女についてはろくな評判を聞かなかったが、実際に会ってみると彼女らは意外なほど優しくて慎ましかった。しかし時に、ひどく悲しそうな様を見せることがある。ある時、一人の娼婦が見慣れない薬を飲んでいるのを見て、彼は訊いた。
「それはなんという薬だい?」
「阿片ですよ。お客さん」
「阿片?」
「薬の一種ですよ。昔は大麻を使っていたんですけど、もうそんなものでは自分をだまし切れなくなってしまいましてね…。それでこいつに手を出したのが運の尽きでさ。
お客さん、あなたはこんなものに手を出しちゃいけませんよ。そうでないと…、私みたいになっちゃいますよ」
そう言って彼女は悲しげに笑った。ハイヤームはそれが忘れられず、やがてそこには行かなくなった。
***
「…そんなわけで、私は酒場に通いながら、相変わらずなにくわぬ顔で宮仕えを続けていた。もっとも、そうして隠れて酒を飲んでいたのは私だけではなかったと思うがね。
で、私は王命を受けて、他の天文学者と共に新しい暦を作って献上した。これは33年に8回の閏年をおくもので、従来の暦より正確なものだった。この暦は計算が面倒なので採用されなかったが、新しい数学の解法を見つけたり、恒星表を作った功績が認められて、私は毎年、年金をもらえることになった。そのおかげで、今もこうして酒が飲めているというわけさ」
「そうですか。そんな偉い方だったんですね。無礼な態度をとってきてすみませんでした」
「いや、いいんだ。どうかここでは、ただのウマル・ハイヤームでいさせてくれ。私はそのほうがいいんだ」
「そう…。
でも、それにしてもあなたは、こうして酒を飲んでいては天国に行けないかも知れないと思ったりはしないの?」
「そうだな…」
***
ハイヤームは以前、法学者に尋ねたことがあった。
「イスラム教においても、酒を飲むことは啓示の始めのころには禁じられていなかったのに、それに対する刑罰がむち打ち80回というのは厳しすぎるのではないでしょうか?」
法学者は言った。
「いや、これはアッラーの叡智の現れなのです。酒を一度に禁じなかったのはこの習慣を徐々にやめさせるため、刑罰を設けたのは人に悪を禁じ善をなさしめるためです。
それに現世ははかないものですが、来世こそは不滅の宿。この世での行いは善悪いずれにせよはるかに大きな報いとなって返ってくるのですから、比較的わずかな悪といえども軽んじてはなりません。そのことはハディースでも述べられています。すなわち、『地獄で受ける最も軽い罰について』のハディースではこう述べられています。
『地獄で最も軽い罰を受けている者とは、業火の燃えつく二つの靴を履かされて、そのために脳が茹でたぎっている者である。その時彼は、自分ほどひどい罰を受けている者はいないと思うだろうが、実は彼は最も軽い罰を受けているのである』とね。
それにまた、コーランの中ではこのように言われています。『アッラーの下し給うた聖典によって裁きをせぬ者は全て無信の徒であるぞ』とね。そういうわけですから、我々はこのイスラム法に従わねばなりません。そうしてこそ悪から守られるのです」
「そうですか…」
かつてハイヤームは、人は厳しい規律によって品行方正になるものだと思っていたが、やがて必ずしもそうとは限らず、むしろ厳しい規律のもとで生きている者は、騙したりごまかしたりするのがうまくなることがあるのに気づいたものだ。それは他人に対しても、自分に対してもそうである。
***
ハイヤームはサーキィに言った。
「確かに天国に行けないかもしれないと思うことはある。しかし罪を犯すのがならいになってくると、そういう感覚も次第に麻痺してくるものだ。あるいはむしろ、麻痺させるために罪を犯しているのかもしれないが。
それに、ハディースでもこう言われているではないかね。『誓って言うが、汝らの中には、善行を積み重ねてあと少しで天国行きというところまで行きながら、運命に引かれて悪行に走り地獄に落ちる者がいる。また中には、悪行を積み重ねてあと少しで地獄行きというところまで行きながら、運命に引かれて天国に行く者がいる』とね。
もし私が地獄に落ちる定めなら、せっせと善行を積み重ねたところで何になろう。そんなものはいずれ崩されてしまうのだから。そのような不確かな死後の楽土を望むよりは、むしろこの世で酒を飲み、この世を楽土にするのが良いのだと、私は思うね」
と言うと、ハイヤームは四行詩を詠んだ。
この世で杯重ねつつ
この世を楽土とするが良い
死後の楽土へ行くことは
叶わぬ夢かも知れぬから
「あなたは、詩も作っているの?」
「そうだ。もっともこれはただの趣味で、宮廷詩人というわけじゃないがね。宮廷詩人ともなれば、王を讃える詩なんかも作らねばならぬ。私には荷が重いことだ。
…ところで、私はともかく、君はどうなのかね。君は何教徒なのかね?」
「え…、私?」
「そうだ。酒場で働いているくらいだから、イスラム教徒ではあるまい。ユダヤ教徒なのかね、キリスト教徒なのかね?」
「私の信条など、どうでも良いことではないの?」
「そんなことはないさ。宗教にはそれぞれタブーがあるからな。相手のタブーに触れないためにも、相手の信条を知っておくのは大事なことだ」
「そう…。それなら…、私はゾロアスター教徒なのだけれど…」
「ほう、ゾロアスター教と言えば、我らの祖先の信仰だな。それじゃ君は、生粋のイラン人というわけだ」
「そんなことは…、イラン人なのは、あなたも同じでしょう?こうしてペルシャ語を話しているのだし」
「まあそうだがね。ところで、ゾロアスター教の教義とはどんなものなのかね?私も詳しくは知らないのでな」
「いや、私は…私も少ししか習わなかったから、詳しくは…」
「ほう」
ハイヤームは、彼女がこの話題を好んでいないのを見て、言った。
「ところで、君の名はなんというのかね?」
「私は…、いや、私は生まれてすぐに両親が死んで、その後酒場で使われていたから、子供の頃からサーキィと呼ばれていたの。だから私は本当にサーキィという名前なのよ」
生まれてすぐに両親が死んだなら、誰にゾロアスター教の教義を習ったのか?と思ったものの、彼はそれ以上追求せずに、言った。
「そうかね。本当に酌人なら、まさに私にとっては運命の相手といったところだな。さあサーキィ、酒を注いでくれ。この世にしばしの楽土を開いてくれ。私はその時に魅せられているのだ」
そう言って、彼はまた詩を詠んだ。
さあハイヤーム楽しめよ
酒と美女とを楽しめよ
全て無くなるものだから
せめて有るのを喜べよ
そして杯をあおって、また詠んだ。
もう一杯を飲み干せと
君が差し出す杯の
我は奴隷であることよ
そのひとときが忘られぬ




