二人の距離(3)
「ふう……ちょっと疲れたな」
優奈はそう呟くと、予備校の玄関を後にして夜の街に歩き出した。
夏休みの夏期講習から引き続き、彼女は今、週三回現役予備校に通っている。
優奈の志望は教育学部である。
ただし先生になるつもりかというと、それはまだわからない。
そもそも、まだ大学生にもなっていないのである。それは、まだ先の話と言えた。
でも、と彼女は思う。
メグは医学部に挑戦することに決めたようだ。「お医者さんになる」と彼女は言った。
なりたいではなく、なると。その決意が、かっこいいなと思う。
やっぱり彼女は、かっこよくて、強くて、優しくて、素敵だ。だから、彼女が御薬師くんの恋人でいてくれて、よかった。
本心で、そう思うのだ。
「あ~あ」と、優奈は一つ溜息をついた。
御薬師くんみたいに素敵な人が、他にもいないかなあ?
いるわけないか。と自答しつつ、優奈は空を見上げた。
静かな住宅街の道から見上げた空に、大きな月がかかっている。
もうすぐ満月かな?
と思った瞬間、優奈は覚えのある感覚に襲われた。
ガコンという音がして、缶ジュースが落ちてきた。
山岸は自販機の取り出し口に手を伸ばして、それを取り出す。その場でプルタブを開けて、ゴクンと一口飲んだ。
「ふう。うまい」
残暑の残る9月。夜だといってもまだ暑い。
冷たいジュースは暑さと勉強で疲れた体に心地よかった。
「ったく。家になんにもないんだもんなあ」
夜中、勉強中にのどの渇きを覚えて冷蔵庫を漁ったが、適当なものがなにもなかった。
いや、さっきまで麦茶があったのだが、すでに自分で飲み尽くしていた。
これから沸かしてもすぐに飲めないと思った彼は、夜の街にジュースを買いに出たのだ。
コンビニに行こうかと思ったが、それより家の近くの公園の側に自販機があることを思い出した。家から5分もかからない。
ジュースを丸飲みして、傍らの空き缶入れにぽいっと捨てた。
「さてと……」
戻るか。と思って道を見渡したとき、なにかがきらっと光ったような気がした。
「ん?」
暗い街灯の照らす先を目を細めて注意して見た。光はすでになく、ただ誰かが歩いてくるように見えた。
「あれ?」
その服装が、自分の高校の女子の制服だと気が付く。いや、それ以上に……
「え? あれ? まさか?!」
暗い道をこちらにやってくるその女子生徒は長い髪に白い肌、日本人形のような整った顔立ちを持つ、彼の見知った女の子だった。
「竹宮さん?」
それでも半信半疑で呟く。
彼女、なんでこんなとこ歩いてるんだろう?
同じ中学出身じゃないから、近所じゃなかったよな? あれ~?
そんなことを考えている間に、もう間近まで彼女は近づいていた。
山岸は、その偶然に少し感謝しつつ、躊躇いがちに声を掛けた。
「よ、よう。竹宮さん……こんばんは」
声を掛けられた優奈は、しかし、すぐに返事をしなかった。ただ立ち止まって山岸を訝しげに見つめた。
山岸には、その瞳が、なんだかぼんやりしている気がした。
「竹宮さん?」
もう一度声を掛ける。ようやく優奈が口を開いた。
「……誰です?」
「え?」
山岸はビクッとした。予想しなかった答え。それ以上に、予想しなかった初めて聞く声だった。
人違い?
頭の中で、その可能性が浮かぶ。
けれど、目の前にいる少女はどう見ても優奈だ。自分が好きになった女の子としか思えない。
「えっと、た、竹宮さんだよね?」
探るようにもう一度聞いた。
「あなたは?」
聞いたことのない優奈より高い声が、そう聞き返す。小首を傾げた表情も、自分の知っている彼女のものと、どこか違う。
やっぱり、別人なのか?
山岸は、そう思いながら質問に答えた。
「山岸。きみの友達のはずなんだけど……」
ふいに目の前の少女が微笑んだ気がした。それから目を閉じる。
なんだ? と思ったときには、少女は再び瞳を開けた。
「あれ? 山岸くん? なにしてるの?」
いきなり目の前の少女が彼の名前を呼んだ。びっくりした山岸は口走った。
「竹宮? 竹宮さんだよな?」
「え?」
優奈が怪訝な顔をする。
「そうだけど……」
「はあ~」
脱力したように山岸は座り込んだ。
「どうしたの?」
上から覗き込むように優奈が聞いた。
「どうしたってなあ」
山岸は軽く頭を抱えながら、
「俺が聞きたいよ」
「え?」
「なんだか、竹宮さん、おかしかったぞ。俺のことすぐわからなかったし、なんだかいつもと声まで違ってた」
「あっ」
優奈はそれがなぜだかわかった。
入れ替わってたんだ。もうすぐ満月だから。
「あ、ああ、そうだった? ごめんね。たぶん、ぼんやりしてたからだよ。あたしって、そそっかしいから」
優奈は焦りながらそう言った。
すぐに山岸から離れた方がいい。またいつ入れ替わるかわからない。
「あ、じゃあ、帰るね」
その態度を山岸は少し不審に思った。
それ以上に、そんなぼんやりしてて大丈夫なのかと心配になる。夜だし。
「俺、送っていこうか?」
「え?」
「もう遅いし、ぼんやりするほど、えっと、疲れてたりするんだったら、あぶないだろ? だいたい、なんで、こんな夜中にこんなとこいるんだ? 竹宮さんの家って、このあたりだっけ?」
矢継ぎ早の質問に焦った優奈は、とにかく答えた。
「あ、えっと、予備校行ってたの。大丈夫、そんなに疲れてないし、一人で帰れるから、じゃ、じゃあ、さよなら」
それだけ言って、優奈は山岸の傍らを駆け抜けた。付いてこないでと祈りながら。
幸い彼は追ってこなかった。駅の明かりが見えたとき、優奈はほっと一息ついて、それから重大なことに気づいた。
山岸くんの記憶を消した方がよかったかな? 変に思われただろうな?
でも、もう遅い。後からその部分だけ消すなんて出来ないよ。
だけど、たぶん、少しだけだったから、ごまかせたかな? それなら、いいけど……
そう思いながら、もう一度空を見上げる。
月は雲間に隠れていた。
山岸は、去っていく優奈を追えなかった。
なんだか焦っているように見える彼女。けれど、それ以上聞くことは出過ぎたまねのような気がした。ところが……
部屋に帰って勉強を再会しようとしたが、脳裏にはさっき見た優奈の姿がプレイバックのように現れる。
なにか光ったのに気づいて振り返ったところから、まるで別人のような優奈の声と表情。
そして、優奈の焦った仕草、走り去る背中。
その一連の場面が何度も繰り返す。山岸は、到底勉強など手につかなかった。
なにがあったんだ? 彼女になんかあったのか? どう言うことなんだ?
山岸にはまったくわからない。同じ疑問が頭の中を回り続ける。
優奈の表情を思い出すと、なんだか、やばいことのような気がしてくる。
自分の知らないやばいことに彼女が巻き込まれてるんじゃないか?
だから、あんなにぼんやりして……いや、もしかしたら、俺を知らない振りしたのも、わざとなのかも?
逃げるようにいっちまったのも、俺を助けるため?
もしそうなら、俺は……。
その夜、山岸や、なにやら決意を固めたようだった。