ヘタレ高校生、小学生女子にバカにされる
男が(人間的に)成長するきっかけは沢山あると思いますが、その中でも女性の存在は大きいですし、物語のネタとしては王道ですよね。
いわゆるボーイミーツガール物の作品でございます。
定期的に連載予定ですので、可能であれば最後までお付き合いいただきたいと思います。
この作品を読んで人間が成長する事に、その快感にちょっとでも酔いしれて頂けたら幸いです。
---プロローグ---
ひゅー
ざぼん。
――あ……また始まった。
ぶくぶくぶく……
ひんやりと冷たい水の中。
アタシは身動きが取れないまま、いつもの様にどんどん沈んだ。
周りは真っ暗ら。なんにも見えない。
アタシは一人ぼっちで沈んでいた。
それはもう、長い長い時間沈んだ。1時間くらいかな?ううん。もっと長いな。
「あー」
最初は寂しくて怖かったけど、今はもうすっかり慣れた。
そして、いい加減飽きてきた。
寝よう。
………………
………………
パチっと目を覚ますと、そこは壊れた建物ばかりの場所だった。
がれきだらけのいわゆる廃墟。
こんな景色を見て、心が落ち着いてしまうアタシはどうかしてると思う。
だって、ここはアタシが住んでる街だから。
いつも賑やかで、い彩りのお店が立ち並ぶこの街は、あらゆる色身を失って、まるで死んでいるように見えた。
ああ、落ち着く。
と、そこへ急に雨が降りはじめた。
雨宿りできる場所がないか、あたりを探していると、今度はケータイが鳴った。
こんな状態の時でもつながるのかと、少し感心しながら、アタシはパカッとケータイを開いた。
「…………」
で、その後、大きくため息をついた。
画面には、こう書かれていた。
『まるちゃん。最近返事くれないね。とても心配だよ。悩み事があるなら、相談にのるよ?先生にドーンとまっかせなさい!絶対解決してあげるから!』
削除した。
何をって、アドレスを。
送信者は、『そーしゃるげーむ』っていう、ケータイゲームの中で知り合った、キモいオヤジだった。
最初は、ゲームの協力プレイがきっかけで、仲良くなった気がする。それで気が緩んだんだみたいで、親にも言えない悩みを相談してしまったのが失敗だった。向こうは何を勘違いしたのか、態度が急になれなれしくなり、何度も『会おう』ってうるさかった。
調子に乗って、気持ち悪いメールをどんどん送りつけてくるようになり、今回は、とうとう自分の事を、「先生」だと名乗りやがった。
変態。キモムシ。JSナメンなよ。死ね。
コイツのアドレスをリストから削除すると、とうとう、アタシのアドレス帳は真っ白になった。
心にポッカリ穴が開いたっていうんだろうか?
一瞬だけ後悔。じゃ済まなかった。
ぶわっと、孤独感が、胸いっぱいに広がった。
「……!」
アタシの指は無意識にケータイのボタンをいじくり回し始め、さっき削除したアドレスの復旧方法を探した。
やっぱり、ダメなんだよ。
あんなヤツでも、誰とも繋がっていないのは、寂しい。
こんなの、こんなの耐えられるワケない。
なんでアタシだけ、こんな寂しい思いを、しなくちゃならないの?
誰か!
アタシと仲良くしてよ!
コッチ来てよ!
コッチ見てよ!
アタシに……気付いてよ!
アタシは、頭の中がグチャグチャになって、どしゃぶりの雨の中、思いっ切り走った。
街の外まで行きたいのに、元々は道だったところを、瓦礫があちこち塞いでいて、まるで迷路の様だった。ひょっとしたら、オバケとか悪魔とかが、わざと邪魔してるのかもしれない。そう思うと、たまらなく怖くなって、アタシは、逃げる様に走った。
とにかく街の外まで。ううん、違う!
アタシを、助けてくれる人のいるところまで、行きたかった!そうして、ひたすら走って。ついに、街の外までやってきた。
ここまで来れば、きっと誰か人がいる!と思ったら、そこは街の入り口だった。
「そんな……ウソだろ」
やっぱり、いつもと同じだった。
アタシが力のかぎり叫んでも、全速力で走っても、いくらここから逃げ出そうと思っても、結果は――運命は変わらなかった。
走ってる間に大泣きした涙は、いつの間にか止まり、アタシは笑いが止まらなかった。こんなに気持ちが乾いた大笑いは、生まれて初めてだった。
気がつくと、アタシは崩れかけたビルの一番高いところまで、登っていた。
もう、覚悟は決まっていた。
この苦しさから逃げ出す方法は、もうこれしかなかった。
その時だった。
――あきらめるな!
「えっ」
足下より遥か下の、瓦礫にまみれた地面を見つめていたアタシの頭に、誰かの叫び声が振りかかった。
ガバッと空を見上げた。
でも、そこには鉛色に染まった、空しかなかった。
涸れたと思っていた涙が、また流れ出した。瞬間、足がもつれて、アタシの体はビルの外へ流れてしまった。
けど、落ちる恐怖よりも、アタシは、アタシを呼ぶ相手を、死に物狂いで探した。
「誰えーっ?」
アタシは力の限り、心の限り、声を張り上げて呼んだ。
すると、アタシのことを呼ぶ声の主は、アタシよりももっと大きな声で叫んだ。
「円袴―っ!」
夢は――そこで終ってしまった。
---プロローグ・了---
「ハデにやられたな」
ぶっきらぼうにボソッと呟いたのは、御木本だった。
普段は無口なのに、自分から口を開くとは、めずらしい。
今のおれの顔は、それだけ酷かったんだろう。
西山に殴られた自分のアゴを、そーっとさすってみる。
「ッ!」
少し触っただけなのに、ズキッ!と、激痛が走る始末だった。
――今は二人、部活が終わって帰る途中。
御木本 鉄とは、小学校が同じで、ついこの前、入学したこの晴櫻学園で、小学校卒業以来、3年ぶりに再会した。しかも偶然が重なり、二人ともアマチュアボクシング部(通称:ボク部)に入部。当然、帰る方角が一緒なので、いつもこうして二人で帰るんだが、今日のおれの足取りは重かった。
「自分からスパー挑んだクセに最初のパンチでKOされるなんて……ここまで何も出来ないなんて、思ってもみなかったよ」
スパーは、おれから仕掛けようとして、パンチが当たる射程距離まで間合いを詰めようとした。が、相手のフットワークはとても早くて追いつけなかった。おれは必死になって、なんとか射程距離まで詰めようと追いかけまくったんたけど、間合いに入り込めず、とうとうこちらの体力が先に尽きてしまった。そこにスコーンと一発もらったのだった。
KO――。
これ以上ないってくらい、屈辱的な負け方だった。
それはもう、恥ずかしすぎて、死ねた。
すると御木本が、聞いてきた。
「これから部活どーすんだ?」と。
「……」
核心を突いた質問に、今度はおれの方が無口にならざるを得なかった。
だけどおれは観念して、腹をくくった。
「……ん。悔しいけど西山との約束通り……ボク部辞めるよ」
「……」
「元から運動がからきしダメな俺が、ボクシングなんてやってちゃいけなかったんだよ」
ついに言った。
敗北宣言。
物心ついた頃には人並みはずれて運動オンチだったおれ。でも中3の受験の時、たまたまTVをつけたらやっていたボクシングの試合を見て、チャンピオンに挑む挑戦者の戦う姿に感動すると、おれは初めて強くなることについて真剣に考えるようになった。
そうして高校に入ってアマチュアボクシング部に入部した。
気合は十分。新作ゲームを初プレイする時よりも、だ。
こんなおれでも必死に練習に食らいつけば、飛躍的に力が付いて強くなれるハズさ!
が、現実はそんなに甘くなどなかった。入部して初日の練習で痛感することになる。
まったくといっていいほど練習についていけなかったのだ。
わかっているようでいて、経験するのとしないのとでは、その理解度は天と地ほどの違いだった。決定的だったのが、今日のスパー。入部して1ヶ月半。ホントは初心者のおれにはスパーリングなんてあまりにも早かったのだけど、わがままを言って西山とやらせてもらった。
その際にヤツと負けた方が退部するという賭けをしていた……というワケだ。
おれは、御木本の反応を待った。
彼は、一体なんて言うだろうか?
はたして返ってきたのは、意外な返事だった。
「続けろよ」
「ああ――。
って、えっ?」
一度相槌を打ち、また、思いっきり耳を疑って聞き返した。
「入ってまだ一週間だろ。ニシに色々言われたんだろうが気にすんな。続けようか辞めようか悩んでる時こそ強くなるチャンスだ」
「御木本」
おお……。
おおお。な、なんだ、この心の底から湧き上るような高揚感は?
さっきの無様なスパーを間近で見ていたはずの御木本が、ボク部の期待の星と言われているあの御木本が、まだ強くなれると、このおれに言ってくれている。だ、ダメだ。ダメだ!そ……そんなことを言われたら、、、
「――そ、そうだな。俺……もう少し続けてみよっかな」
思わず顔が引きつり、ニヤケそうになるのを堪えながら、答えた。そりゃもう必死に取り繕ってなるだけ平静に答えた。
そしたら無愛想が板についてるはずの御木本の顔が、少し柔らかくなった。
「ああ」
御木本は短く答えた後、「それと早良……」と、少し言い淀んだ。
「俺の事は『鉄』でいい。ガキの頃、そう呼んでたろ」
御木本は普段の小声ではなくスパッと通る声で言い切った。
そっか。確かに。俺と御木本が初めて会ったのは小3の頃だったか。その時は『汰郎』、『鉄』って呼び合ってたっけ。
「オッケー!じゃあおれの事も昔みたいに『汰郎』でいいよ」
あの頃の懐かしさがこみ上げてきたせいか、嬉しくなってきた。
鉄は「ああ」とぶっきらぼうに、だけど満足げに答えた。
「じゃあな。汰郎」
「バイバイ!」
おれ達はそれぞれ帰り道が別々になるところで別れた。
そうだ!帰りに商店街に寄って書店でボクシングのトレーニング本を買おう。
家に帰ってからも効率の良い自主トレをすれば、みるみる内に成長して西山の奴をブッ倒せるかもしれない!
おれは拳を握り締め、目の前に仮想西山をイメージした。
特にヤツの顎を。
今日一発も放つことが出来なかったパンチを、奴のアゴにぶつけた。
ズキィッ!
「~~ッ」
パンチを撃った反動が自分のアゴに伝わった。
商店街を入って半ばまで歩くと、『書店』が見えた。
近年の書店の大型化が進んだ上、さらには電子書籍という本のデジタル化の波に、中小規模の店が軒並みつぶれていく中で、今なおしぶとく生き残っている個人店だった。おれが生まれて初めて本を買ったのもここだったんだよね。それからも、本を買う時は大体ここを利用している。
「おや、タロちゃんじゃないかい。久しぶりだねえ」
店に入ると、声をかけられた。
この頭髪の大部分が白髪の人懐っこそうなおばあちゃんは、この店の主人でおれが子供の頃からずっと一人でこの店を守っていた。
「あ、こんにちは」
「どうしたんだい、その顔?ケンカでもしたのかい」
「あ、いや、その、大丈夫です」
心配してくれるおばあちゃんに対し、おれはついぶっきらぼうに答えてしまった。
この人は、子供の頃からおれを可愛がってくれていて、今でも同じ様に接してくる。でもこちらとしては、それが堪らなく恥ずかしい。
まるで小学校低学年の男の子でも相手にしてるような接し方なのだ。
いくらおれが童顔だからって……。っとにもう。
そんな気恥ずかしさがあって、すぐにおばあちゃんから視線を外してしまった。
おっと、そんな事より今はボクシングの本だよ!
金ないし、安くて内容が充実してる奴を探さなきゃ。
で、ボクシングの本が並んでいるブロックに来て見た。
さっそく1冊手に取った。
「『ボクシング・アルティメットマスターMAX・』税込み680円……か」
これはスゴイぞ!と言い過ぎるあまり、そこそこ充実した内容であってもそれほどありがたみを感じることはないであろう典型的なタイトルだった。
特筆すべきは値段が最も安い!これに尽きた。
もしハズレ本であっても安いし後悔は少ない。
それにどの本も内容的にはそこまで差があるようにも思えなかった。
よし。この本にしよう。
「おや?タロちゃん、ボクシング始めたのかい?そっか。その怪我はボクシングだね」
「ま、まあ」
またしてもぶっきらぼうな小声で答えてしまった。
「タロちゃんももう高校生なのねえ」
おばあちゃんは大して気にするでもなく、話はじめた。
まいったな。
この人は昔から人懐っこい性格でおしゃべり好きで、相手の空気なんて読まずにペラペラ話しかけてくるのだ。
「そういえばお父さんの転勤で、ママも一緒に今は京都に住んでるんでしょ?。一人暮らしなんて大変ねえ。怖くないタロちゃん?」
「平気ですよ、」
今ンとこは――そう言いかけた。
実はおれの家は現在両親が家を空けており、一人暮らし状態が続いていた。
まだひと月も経ってないけど、両親がいることのありがたみを痛感する日々だった。自分がどれだけ両親にすがって甘やかされて育ってきたか。
しかしもう高校生だ。
この程度の事で寂しいなんて思うわけにはいかなかった。
だって、
強くなると心に決めたんだから!
ああ、でもそんなことより!
一体どうやってこの会話を終えようか?
下手に話を止めてしまったら、おばあちゃんを傷つけてしまいそうだ。
なんか上手く気の利いた言い方はないだろうか?と――その時、おれの足元に財布が落ちていることに気付いた。
それは子供が持っていそうな可愛らしいピンク色の財布だった。
「おばあちゃん、これ。財布が落ちてたんだけど」
ピンク色の財布をおばあちゃんに見せる。
「あら?アラアラアラ!やだよ、ちょっと。さっきの子のかしら?」
おばあちゃんがレジの向こうから、身を乗り出して言った。
「さっきの子?」
そういえばさっきおれがレジに来る前に、小学生の女の子がいたような気がする。
「タロちゃん、さっきアナタの前にお会計した小学生の女の子、見てたかしら?」
やっぱりそうだった。おれはコクッと頷く。
「赤毛の髪をこう、大っきな黄色いリボンでツインテールに垂らしてた子。その子の物だと思うの」
うん。言われてみれば、そんな感じだった。
「多分飛咲小の生徒だわ。悪いけど探してこの事を伝えてくれないかい。今ならまだ追いつけると思うから」
「え?」
ちょっと待った。
それはいくらなんでも、いきなり人探しをしろと頼んでくるのはいかがなものだろうか?
メンドくさい!
けど、この人の頼みを断るのはおれにとって後味がよくなかった。
まさかこの店に来て、こんな展開が待っていようとは。
「わかりました。えっと……赤髪で、大きな黄色いリボンにツインテールの女の子ですね」
「よろしくお願いね」
おばあちゃんの依頼を受けたおれは、急いで店を出ると、商店街を行き交う人垣をかき分けて走った。
飛咲町の商店街は、住宅街まで一本道だ。
おれは少女の特徴を思い出して目を凝らした。
赤い髪のツインテール!
大きくて黄色いリボン!
小学生の女の子!
もう時間は夜7時を回ってる。街灯や店の明かりで照らされてないと中々人を視認しづらい。
「あ!」
今、少し前方にピンク色のランドセルを背負った女の子が見えたぞ。
もう一度その辺を注視する。
いた!
その子は赤い髪をツインテールに結ってあり、大きな黄色いリボンをつけている。
ビンゴだ!
少女の服装は、ラベンダー色を基調としたフード付きのロンTに、白のコーデュロイのショートパンツ。それから黒いニーソックスとピンク色のシューズを履いていた。
そして、脇に大事そうに抱えているのは逸見書店の紙袋に包まれた本だった。
小学生といっても3年生か4年生といった中学年っぽく見える。
間違いない。確かにおれの前にレジで会計をしていた女の子だ。
おれは急いでその女の子に近づいて肩をポンと叩いた。
すると女の子はビクッと驚き、反射的にこっちを振り向いた。
その反応にちょっと違和感を感じた。
驚き方が大袈裟。なんていうか、防衛本能が働き過ぎだろっていうカンジ。
赤い髪がまるで燃えさかる炎の様に揺れてパチッと視線が合った。
綺麗な目だ。
少女は赤紫の暖光をたゆたわせた大きな瞳を見開き、おれをじっとガン見していた。
おれも思わずハッと息を呑んでしまっていたけど、すぐに本来の目的を思い出した。
「えっとー、お嬢ちゃん。さっき書店で財布落とし――」
「キャー痴漢ー!」
……は、は、はい???
「チカンチカンチカンチカンーーーッッッ!」
女の子はあろうことか、とんでもない事を大声で叫んだ。
当然、周りの人達の視線が一斉に自分に向く。ちょ、ちょっと待って。違う。違うぞ!
女の子はダッシュでおれから逃げた……かと思いきや、クルッと振り返り、またしてもダッシュでこちらに戻ってきた。
「あ、」
もしかしたら誤解が解けたのかもしれない。
「ざッけんじゃねーテメー!」
「ぐおっ!」
おれは思いっきり悲鳴を上げて、うずくまった。少女がおれの脛を蹴りやがったのだ。
信じらんねえ。なにしてくれてんだコイツ。
激痛に必死に耐えながら少女を見上げると、おれの事をまるで汚らわしいモノを見る様な冷たい目付きで見下ろしていた。
待て。そんな目で見るな。何もしてないのにグサグサ刺さるっつの。
そして少女は極めつけに「死ね」と、最上級の憎悪がこもった言葉を吐き捨てた。
「な……」
まるでホンモノの刃物で刺されたような殺傷力。
単なる言葉がこんなにも人の心をえぐることができることを、おれは生まれて初めて体感した。
そして少女はおれを一瞥すると、今度こそ本当に走り去って行った。
もう唖然とするしかなかった。
そりゃ、いきなり肩を叩いて声をかけたのは少し無神経だったかもしれない。
だけどあそこまで怒ることはないだろ?
こっちは善意で財布を返しに来ただけだっつの。とんだ災難だよ!
「ザワザワ……ヒソヒソ……」
「ん?」
ふと我に返ると、周りの人達が自分を囲ってヒソヒソ話しを始めていた。
まるで痴漢現場の犯行現場を取り押さえたみたいな、イヤ~な空気が流れていた。
これはマズイ。このままだと本当に犯罪者になりかねないぞ。
おれはサーッと血の気が引き、すぐさまその場から脱兎の如く逃げ出した。
あのクソガキィ。絶対とっ捕まえて、こらしめてやる!
濡れ衣を着せられそうになり、怒り心頭のおれは少女の後を追いかけた。
商店街を抜けたら住宅街に入った。
おれの家もこの辺を通り過ぎたところにある。
が、少女の姿はどこにも見当たらなかった。
人通りも少なくなっているので、見過ごしたという可能性は低い。
となると、もしかしたら少女はもう家に帰っているかもしれないな。そうなるともうお手上げであった。
「あーもう!どこにいるんだよ、あのクソガキ」
怒りをぶつける対象もなく一人で憤慨していたその時、奇跡は起こった。
赤髪の少女が少し先の十字路の横を通り過ぎる姿をおれは見逃さなかった。
しかも少女はこちらに気付いていない。
「よしっ!」
この辺の地理は十分熟知しているおれは先回りして、電柱の影に隠れて少女が近づいてくるのを待った――。
少女が電柱の横を通り過ぎる――今だ!
「さっきはどうも」
「――!」
突然おれが現れたことに、少女は驚いて声にならない悲鳴と共に飛び退った。
「さっきはよくもヒドイ目に合わせてくれたな。きっちりお返しさせてもらうからな」
なんか小悪党みたいで決して気持ちがいいものではないケド、わざと脅すように言った。幸い周りに人気は無く、少し懲らしめてやるには十分時間はある。
世の中にはシャレで済む事とそうでない事があることを、ちゃんと理解してもらわなきゃならない。
ところが。
「はあー?しつっこい奴。まだヤラレ足りないの?」
少女は少しもビビってない。それどころか逆に火に油を注いでしまったらしくて、物凄い剣幕でニラんでこちらににじり寄って来た。
「あ、あれ?」
これ、マズくね??
マジになってるよこの子!
さっきまで煮えたぎっていたおれの怒りのマグマはどこへやら。
すっかり少女の気迫に押されてしまい、おれは慌てて手で彼女を制した。
「ま、まま、ま!待って、待って!」
「?」
「き、キミさ。さっき、逸見書店で本を買った時、財布を忘れていってないか?」
「えっ?」
思いがけない言葉を聞いた少女は、慌ててポケットの中やらランドセルの中を探した。
「ん?ない!本当にないぞ!」
少女はようやく、自分が財布を落した事に気付いたみたいだった。
「財布はお店で預かってるから、後で行ってみるといいよ」
そう告げると、おれはどっと疲労感が押し寄せてきた。
これでようやくおばあちゃんの依頼完了だ。
まったく。この一言を言うためにとんだ苦労をさせられたもんだ。
もうこの子への仕返しなんてどーでもいいから早く家に帰って寝よう。
おれは踵を返しこの場を去ろうとした……のだけど、急に少女が呼び止めた。
「ちょっとまてよ。誰が帰っていいっていった?」
は?
つっけんどんな物言いにおれは少しムッとして、少女の方を振り返った。
振り返ってギョッとした。
女の子はとても小学生の女子とは思えないワルイ顔になっていたのだ。
え?え?なんだこの空気?この関係……?もしかしておれ今……からまれてる?
それもまさか、小学生の女子に??
「二千円」
少女はニヤリと片頬笑みながら、おれに向かって指を二本立てた。
「二千円でいいや。財布に入ってたのも二千円だったし。さっきアタシの体に触った分、それで許してやるよ」
女の子の馬鹿げたこの発言に、おれは少しキレた。
「はあ?何言ってんだ。触ったのは肩だろ。変な言い方すんなよ!」
「アタシのことジロジロ見てたろーが!テメーがどんだけエロい目で見てたか、わかんねーのかよ?」
「そ、そんなワケあるか!誰がおまえみたいなガキなんか、」
思わず声が上ずってしまった。
可愛いと思ったのは確かだったからだ。
程好く日焼けした小さな顔には、ところどころスリ傷があって、一見したらまるで男の子みたいなんだけど、丸みを帯びた頬から、キュッと絞られた顎への輪郭のラインは、とても理想的なラインを辿っており、TVでよく見る芸能人と比較しても全く遜色のない、ハッキリいってかなりの美少女だった。だけどそんなやましい気持ちなんかこれっぽちもない……はずだ。
うう……なんか意識すればする程、頭の中が混乱してきた。
その様子を見て少女は可笑しそうに笑った。
「ニヤニヤ」
「なんだニヤニヤって。人は笑う時ニヤニヤなんて言わないぞ」
「ニャーニャー」
「そりゃ猫だ!」
「あはははは!」
ゲラゲラ笑う少女。
くっそぉ。完全におちょくられてる。
すると、少女がいきなり飛びかかってきた。
「うお!」
襲い掛かってきた少女はおれの肩を掴み、それを軸に回転するとおれの背後を取った。
「あ!」
狙いはおれのバッグだった。
少女は肩にかけていたバッグを素早く奪いとると、そのまま中身を物色し始めた。
「なんか金目のモンはねーかなー♪」
「こ、コラ!返せ!」
おれは少女に飛び掛った。
が、少女は突っ込んでくるおれをまるで柳の如く、軽やかにかわした。
なんだ今のは?さっきのジャンプといい、並みの身体能力じゃないぞ。
「きゃは♪オニーサン、ボクシングやってんの?
おっ、本物のボクシンググローブ!かーっきー♪」
少女はおれのグローブを嬉しそうに眺めると、ズボッと自分の手にはめた。
「よし!アタシ、これもらおーっと」
「何言ってんだ。ふざけるのもいい加減にしろ!」
「んだよー、ケチくさいなー。イイじゃんグローブくらいー」
少女は唇を尖らせながら、じっとおれのことを見た。
そのしぐさがちょっと可愛いくて困った。
「オニーサン、ボクシング始めたばっかりでしょ?」
「え、な、なんで分かるんだ?」
「トーゼン!アタシ、何でもわかっちゃうんだから」
ズバリ言い当てられてしまって驚くおれに、少女はドヤ顔で話を続けた。
「オニーサンってさヤバすぎるくらい運動オンチでしょ!そんなヤツがボクシングなんてやれるワケねーじゃん。このグローブだってオニーサンが使うよりアタシが使った方が絶対喜んでくれるぜ」
「…………っ」
悔しいけど、少女が言ってることは正しいと思った。
でも、それを澄まし顔でスルーできる程おれに余裕はなく、感情が顔に出てしまったらしい。
「あ、オニーサン!今、超ムカついてるでしょ?いやーん、コワーイ。許してー♪」
おれが怒ってるのをわかっていながら少女はなおも挑発を続けた。
「でも殴っちゃダメよ。お巡りさんにい・い・つ・け・ちゃ・う・ゾ・☆」
そういって、少女はゲラゲラ笑った。
おれは、我慢はもう限界だった。
「いい加減にしろよ、おまえ」
おれは拳をギュッと握り締め、出来る限り感情を抑えて答えた。
すると少女はつまらなさそうに、嘆息した。
「ふん。なーにいってんだか。殴れるワケねーし。だって話しててワカっちゃうんだもん。アンタは根っからの臆病者だ。人とケンカするのが恐くて恐くてたまらない、ネクラで虫唾が走るウゼェキモオタなんだよ!」
ここまで言われて、それでもおれは色々考えた。けど、
………………………………………………………………………………………………………………だめだ。
完全にキレた。
小学生?女の子?犯罪?警察?……そんなモン関係あるか。
「ん?殴んの?いいよーホレホレ♪」
少女は悪びれるどころかさらに火に油を注がんばかりに、自分の頬を差し出しておれを挑発してきた。
もうダメだ。これ以上何も考えらンねぇ。止めらンねぇ。
「死ね」
おれは吐き捨てるように呟くと、少女の顔面を思いっきりブン殴った。
殴られた少女は枯れ枝のように吹っ飛んだ。
拳には少女の頬を殴った感触がハッキリ残っている。
「は……はははははははは!」
笑いが止まらない。
爽快!
超爽快!
「どーだ!ザマーみろ!思い知ったかこのクソガキッ!」
おれは溜まりに溜まったストレスを一気に吐き出し、その快感に酔いしれた。
しかしそれはほんの僅かのことであった。
正気に戻ったというか、
脳内のアドレナリンが治まると、一瞬にして罪悪感が体を駆け上った。
目の前には思わず引いてしまいたくなるような、凄惨な光景が広がっていた。
「あ……あ……」
恐る恐る少女に近づく。
派手に吹っ飛んだ少女は、地面に突っ伏したままピクリとも動かなかった。
非力な自分のパンチ如きで人が死ぬなんて思ってないけど、まさか……まさか……サーッと血の気が引く音が聞えた気がした。
まずは彼女の意識があるかどうか確かめるんだ。
いや。それじゃもし意識がなかったらどうする?
待て待て。
そもそもこの子がグローブを取ったのが悪いんだろ。お前は悪くない。
思考の混乱はなおも続いた。
じゃあ、これでグローブは無事取り返したから、後はどうするんだ?
はっ、そうだ。そうだよ!事の発端は、おばあちゃんに頼まれたからじゃないか。だったらこの子のことは、おばあちゃんに頼んでもらおう。それがいい!
「だっておれは悪くない!」
思わず口をついて出た。
後から冷静に振り返れば、その時のおれは思考の正常性は失われ自分の都合の良い様に解釈することに歯止めがきかなくなっていた。
その時、倒れていた少女がムクリと起き上がった。
「!」
立ち上がった少女の顔を見て、おれはゾッと背筋が凍った。
あんなに綺麗だった左の頬が、赤く、痛々しく腫上っていた。
「ぺっ」
少女は口に溜まった血を吐き捨てると、口を真一文字に結んでおれを睨んだ。
さっきまでの、あからさまにからかう様な雰囲気は消え、怒りに満ちた表情で、ゆっくりこっちに近づいてくる。その殺気ともいえる気迫に呑まれ、おれは足がすくんで一歩も動けなかった。少女はおれの襟首を掴み、力任せにおれの顔を自分の高さまで引き下ろした。
「ウザい。消えろ」
少女のその言葉を聞いた後、おれの意識は真っ白に飛んだ――。