第1話
右半身に感じるひんやりとした冷たさと、カビ臭い湿った空気。
ダメ押しにとつねった頬は痛みと一緒にこの状況が紛れもない現実だと伝えてくる。
「……異世界、トリップ?」
石でできている冷たい床と壁に、鉄格子(本当に鉄かは判らない)……私の現在地はどう見ても牢屋です、本当にありがとうございました。
まあ、冗談はさておき。
数ある異世界トリップのお約束、状況整理と装備確認をしよう。
状況…はそれなりにヘビーなので後回しにして、まずは装備かな。
「学校帰りだったし、大したものはないんだけどさぁ…。ま、しないよりはマシか。ええと…セーラー服にスカート、ローファーと…あ、ポッケに飴入ってた、ラッキー。あーとーはー…靴下と下着しかないやぁ」
…これ、やばくない?
心臓がとかとかと早鐘を打ち始めている。
いくら現実味が薄かったとは言え、私の置かれたこの状況で今まで泣き叫ばなかったことは褒められるべきではないだろうか。
「いち、転んだら光る魔方陣に飲み込まれた。に、気づいたら神殿か何かそれに近いとこで神官っぽいお爺さんたちと騎士なのかな…そいつらに囲まれてた。さん、何か話してたけど言葉が解んなかった。よん、」
あはは、何だよこれ、笑うしかないじゃん。
「……よん、騎士にお腹殴られて気絶。ご、起きたら牢屋。今ココ!」
何パターンかある異世界トリップの中でも、最悪なパターンが脳裏をよぎる。
何か目的があって異世界人を召喚したはいいが、条件にそぐわない(魔力が低いとか美人じゃなかったとか)、もしくはその世界で禁忌とされるもの(髪や目の色、服装だとか)だったとか……これで、送還されたり城下町とかに捨て置かれるならまだいい。
でも、私は、多分……。
ああほら、ガチャンガチャンと金属が擦れる音と共に足音が聞こえてきた。
『…**、**********!!』
『***…****、***』
やっぱり何を言っているのか解らない、解らないけれど……少なくとも、私にとってプラスになるようなことは絶対話していないことだけは表情で解った。
ねえ、夢ならさ、醒めてよ。
私、何かした?
そりゃあちょっとくらいの嘘はついたこともあるし、今朝なんてお母さんに向かって「生んでくれなんて頼んでない!」なんて思ってもないのに口走っちゃった。
でもさ、こんな目に合わなきゃいけないほど悪いことだったの?
牢の扉が開かれ、無遠慮に手が伸びてくる。
まだ、死にたくない。
「…やっ、やだぁあああ!! 嫌、こっちくんなってば! ちょっ、痛いっ……は、放して、放してよ……!! …死にたくないぃ……っ!!!」
ひどいこと言ってごめんなさい、お母さん。
お母さん、助けて。
×××××
「…………、……」
端的に言おう、私は処刑されなかった。
あの後、一際煌びやかな鎧を装備していた騎士のところまで連れて行かれ、ボロ布を着せられたあげく彼に連れられてひっそりと息を潜めるように待機していた馬車に乗せられた。
そしてその馬車に揺られて着いたのは、春を売る店、つまり娼館だった。
騎士の中でもだいぶ偉い立場であっただろう彼は始終不服そうな顔で独り言を言ったり、苦々しい顔で私を馬車に押し込めていたから彼としては不本意な行動だったのだろう。
どれだけ私に死んでほしかったんだか……はっ、ざまあみやがれ。
私はごろりと寝転がりながら、夜の空を見上げた。
まあ、鬱蒼とした木々で星なんて見えなかったが。
思い返してみれば、娼館での扱いもなかなかにひどいものだった。
まず歯を抜かれた。お客のナニをしゃぶる時に邪魔になるからだ。
そして足の腱も逃亡防止のために切られた。しばらくは発熱したり膿んだりしたが、切り落とされなくて済んだだけまだ良かったほうなのだろう。
お客からは、現代と違ってこちらではSM用品なんて発達してないのか、それともあえて使ったのかは知らないし知りたくもないが……乗馬用だと思われる鞭や煙草での根性焼きが辛かった。
ああ、荒縄で首を絞めながらのプレイで気絶した時は本当に死んだと思ったなぁ。
しかし、中には言葉さえ知らない私に簡単な言葉を教えてくれたお客さんがいて、その人はあそこで一番ひどい扱いを受けていた私を憐れんだのか、手持ちの薬を塗ってくれたりもした。
「……………、ぉえふっ……けふ、ふふっ……」
不健康そうな黒っぽい血が土を汚す。
あまりに近い死の気配に、いっそ笑みすら浮かんだ。
衛生管理もろくにされていない店で、私は当然のように病気にかかり「もう売り物にならない」と判断されて捨てられた。
魔物とやらが跋扈しているらしいこの森へと。
「は、ははっ、あはははははははははははははは!!!」
こんな世界、大嫌いだ。
みんなみんな、死んでしまえ。
あのお客の優しさなんてその場しのぎでしかなかった!
だってあいつも私を抱きやがった!
結局は見苦しかっただけなんだろう、傷だらけの体じゃお前のが勃たないから!
「はは、は…………ぅ、げぇええっ!」
ぼたぼた、ぼたぼた。
流れるのは血だけじゃない。
悲しくて、辛くて、悔しくて、怒りで、頬を熱いものが伝っていく。
……本当は、解っている。
あのお客は悪くない。私が勝手に被害妄想しているだけ。
前の私が読んでいた本とかでは、ああいうのは私が好きで身請けするためにお金を貯めている、とかっていうふうに相場が決まっていた。
私もそれを期待していたこともあった……でも、現実的に考えてみろよ、ありえねえだろ、そんなこと!
むしろいまだに期待を捨てきれない自分に腹が立つ。
「……あ、」
きた。
暗いし視界も霞んできたからよく見えないけれど、赤い目が8つ、無表情に私を見つめている。
カシュン
カシュ
カシュ カシュシュ
カシュン
カシュ
何かを擦れあわせているような耳慣れない音。
なのに、私はこの世界にきて初めて、穏やかな気持ちでそれを聴いていた。
「……うん、いいよ」
私が覚えているのは、そこまでだ。