第6話
『くるああああ!てめえ高田!あたしが話しかけてんだから0.1秒で返事しろ!しばくぞ!しばくぞこら!』
視界の右下にデフォルメされた金髪の少女が表示され、無線を通して絶叫がこだまする。高田は過去の思い出から現実に引き戻された。薫は相変わらず何やら喚いている。可愛くなくなったもんだな、と高田は思う。
4年もの拘束と外科医の暴力のせいで、薫の人格はたまに切り替わる。長期間のオンライン接続による電脳境界例人格障害の一種かもしれないが、日常生活に支障は無いらしい。しかし、それも含めて高田は薫の能力を認めてはいた。おそらく特殊部隊丸ごと一つの戦力に匹敵する程のクラッカーである。実際に薫と組んだ現場ではその能力は大いに役に立った。
基幹OSに接続している人間―西部の人口の40%程度だが‐は常に薫の監視下にあると言っても過言ではない。セキュリティの突破や通信回線の傍受、視界出力ソフトの切断等は薫にとっては訳なく出来る事だろう。
高田はそんな薫の能力を認めている半面、まるで自分を見透かされている様な気もする。絶叫し続けるVRを余所に、高田の頭は過去に引き戻されていく。
薫を連れ出したその夜。高田は、「4年も拘束されていたのだから行く場所が無い、元々家族もいないので一人暮らしだ、だからお前の家に泊めろ、ただし何か変な気を起したら即座に視界を潰す」という半ば脅迫のような頼みを聞く羽目になった。高田の管轄区署は嫌だと言う。放っておいても良かったが高田の染み付いた職業倫理はそれを許さなかった。
これは、被害者の、保護だ。
高田はそう自分に言い聞かせる。ささやかな部屋に辿りつくと、薫は廊下で立ちつくした。
「そんなに、部屋、汚いか?」
「フロ入りたい」
「ああ、風呂は、そこのドア。俺は向こうの部屋で寝るから」
薫は、見たら本気で殺すと言い残し、浴室に消えていった。高田はため息をつき、ビールを冷蔵庫から出してソファに座りこんだ。テレビを点ける。大変な一日だった。「大手医療法人の社員が事故死、現場から一台の一般車輛が逃走した」というニュースが流れる。テレビに解像度の粗い写真が写しだされる。運転席にはボンヤリとだが高田が写っている。これじゃまるで自分が犯人みたいだなと高田は苦笑いしたが、すぐさま自分のその考えに凍りついた。
薫はシャワーを浴びている。浴室のオレンジ色の電灯をじっと見つめる。この光は昔、どこかで見た事が有る、どこでみたんだっけ。電灯の光を良く見る為に、顔に流れるシャワーの水を手で払った。手が視界を覆ったその時、薫は基幹OSに圧縮していた記憶のファイルを解凍してしまう。まるでテレビチャンネルが切り替わったかのように薫の視界は別の映像を映し出す。指の隙間から見える光は、オレンジから白へ変化しその白い光の中に黒い点が見えた。その黒点はみるみる大きくなり、外科医の顔になる。その顔が、ゆっくりと近付いてくる。しまった、と思ったが記憶ファイルの解凍は止まらない。薫は今や、浴室から手術室にいた。顔がゆっくりと近づいてくる。身動きが取れない。いやだ。こっちくるな。きえろ。やだ、いやだ、やだ、いやだ。
薫は抵抗しようとしたが、視界を覆っている自分の指が外科医の手の指である事に気づき、恐怖のあまり喉が詰まり、叫び声を上げる。
どこかで、猫が車に轢かれた。
テレビの前で硬直していた高田はその声を聞いた時、本当にそう思った。だがその声は浴室から聞こえた様な気もする。おい、と高田は薫に声をかけるが返事は無い。ソファから立ち上がった時。バチンとブレーカーが飛び、室内に暗闇が訪れた。浴室に声をかけ、廊下へ行き玄関のブレーカーを戻す。シャワーの流れる音だけが聞こえてくる。扉をノックし20秒待ち、返答が無い事を確認した高田はドアを開けた。薫は浴室で下腹部を抑えて座り込んでいる。おい、と高田は薫の華奢な肩を掴んだ。高田はその時、薫の下腹部に手術痕のようないびつな傷跡を見る。シャワーを止め、何も言わずに薫にタオルをかける。薫は無反応だ。自分は他人を傷つける事は出来るが、他人の心を癒す事は出来ない。自分の無力さを抱えながら、高田はどうする事も出来ず、寝室に戻った。
翌朝。高田が目覚めると薫は既に居なかった。洗面所の鏡には歯磨き粉で「ありがと」とかかれ、その下に白いキスマークが付いている。高田はタオルでそのメッセージを拭きとった。大丈夫かな、あいつ。だが今日は自分の心配をしなくてはいけない一日でもあるのだ。
署に出社して高田は、あらかじめ何もかも決まっているかの様な足取りで上司の部屋まで歩いて行った。途中で出会う人間は高田の事を認識すると、目を点にして立ち止まる。それは上司も例外ではなかった。高田は昨日の出来事の過程を正直に報告した。上司は眉を顰めて彼の話を聞いていたがVRの少女が出てくるあたりで眉は八の字に変化した。見事な変形であった。高田は構わず話をし続け、外科医が死んだのは正当防衛である事を主張し、上司の返答を待った。上司はまるで遠くにある看板を見るかの様な顔つきで高田の事をじっと見つめる。高田が自分がいつのまにか300メートル後方に移動したのかと疑問を抱き始めた頃、ようやく口を開いた。
「その件については、こちらも了解している」
それだけであった。なら結構、と思い高田は退室しようとしたが呼び止められた。
「未だ待てよ。要するにだ。俺が今からする話は、お前が昨日の晩にした事に対して何だが」
「いえ、自分では無く、運搬車両が奴を」
「まあ聞け。先方は、つまりは被害者の家族や医療法人の事だが、カンカンに怒っている。それと同時に深く悲しんでもいる。テレビでもその様子は散々写っている。」
「あんな奴が身内ってだけでも悲しくなってくると思いますが」
「いいか、お前は元々組の摘発を行う為に潜入していた。が、組とグルの医者を殺して尻尾を巻いて、俺の部屋に逃げ込んできた。違うか?そもそもお前が保護した人物は何処に居った?いつもなら懲戒免職どころか殺人で逮捕だ。だが今回はいつもより少しややこしい」
「・・組が俺に意趣返しすると?」
「ちがう、そうじゃあないんだ。先方としては、今回の事は事件では無く、事故として扱いたいらしい。要するにそう言う事だ。お前がその・・何だ、お前の無意識化におけるリビドーの権化を見たのだが何だか知らんが、兎に角お前は大立ち回りを演じ、哀れなる社員の一人の命を奪った。そういう筋書きを最初要求してきた。が、奴ら急に引っ込めやがった」
「何も見なかった事にしろ、こう言う事ですか」
「お前は昨晩何も見なかったし、おまけに今日、大金を得て満足する。そういう話にしたいらしい」
「金をやるから黙ってろと?」
「大まかに言うとそうだ。一人の死の真相を追求して法人全体の存在が無くなる事は避けたい、こう言う事だ。別の言い方をするなら、身内の恥を金でもみ消す、とも言える。しかしだ。連中はもう一つ、別の要求をしている」
「何ですか」
「お前の退職だ」
こうして高田は警察の職を失った。金を受け取るか受け取らないかで散々揉めた後(結局受け取らなかった)、退職するかしないで大いに揉めた。が、それはもはや決定事項であった。重度のオンライン接続による精神障害につき業務を遂行する事は甚だ困難に思われる、というのが署の下した最終決断であった。