恋する金魚
コバルト短編小説新人賞で、選外だった作品です
「そいつ、オンナ経験ロクにないんだろ? 手ェ出しちまえば、早いんじゃねーの?」
私の上司は、耳をほじりながらそうのたまった。私は淡々と答える。
「できるならとっくにやってます」
そういうと上司は爆笑して
「格好いいねえ、お前は本当に。そのあっさりして思い切りのいいところが大好きだぜ」
そんなに思い切りのいい事を言っただろうか。私は首をかしげるが、上司はツボに入っ
たのか、まだ笑っている。
ここは、寂れた小さな礼拝堂――と見せかけた我らのアジト。上司は偽装として神父の
衣装を身に纏ってはいるが、その身から漂う俗っぽさは拭えない。
しかし、手を出すとは、どうしたものだろう。私がいた娼館では、まだそこまでの知識
を身につけるには至らなかった。私がかろうじて知っているのは、教養、マナー、淑女の
たしなみ、そんなものだ。娼婦の武器を知る前に、古巣の娼館は戦火で大勢の従業員とと
もに焼けてしまった。生き残りの私は、あてもなくさまよっていたところを、この上司に
拾われたのだ。私は、その事に感謝し、この礼はどうしたらいいのか、というような事を
言えば、上司は返事代わりにひらりと片手をひらめかせ、雑談をふってきた。
「今十六で、娼館の娼婦見習いだった? へえ、客とらされる前に店が焼けたんだ。そり
ゃよかった……のか微妙だな。俺その店知ってるぜ。すげえなお前、高級娼婦になるとこ
だったんだ。ところでお前、すげえ赤毛だな。一般受けはしないかもしれんが、俺は赤
毛、好きだぞ。結構赤毛好きってやつ、他にもいると思うぜ。――ところでお前、この先
行く当てあるのか? ない? じゃあさお前、ひとつ仕事してみる気、ないか?」
世界のためにな、とその発言は妙な言葉でしめくくられる。私はあやうくその勧誘を聞
き流すところだったが、理解する前に反射的に頷いた。なにせ恩のある身だ。年齢不詳の
その怪しげな男の言われるままに、私は、某国の将軍の息子の元へと行くことになった。
それを仮にA国としよう。私のいた国は、B国とする。A国とB国は戦をし、A国は勝
った。B国は負けた。ちなみに、この上司はB国の将軍の息子だそうである。
そしてその仕事がなんだったかといえば。
「A国の将軍の息子が召使いという名目で愛人を募集している。行ってきてくれないか」
驚かなかったと言えば、嘘になる。だが、いつか体を売ると覚悟して生きてきた身だ。
一度はそこから逃れられたと思っていたが、要するに私はそういう星の下に産まれてきた
のだろう。どうせ行く当てもない。私は即答する。
「わかりました」
一拍の静けさのあと、上司は片頬をゆがめるように笑った。
「……お前はよく教育されてきたんだなぁ。誰かを好きになったことは、あるのか?」
言葉とは裏腹に、その口調には何かを非難するような響きがあったのは気のせいだった
だろうか? 誰かを好きになったことなど、あるわけはない。心を渡さず、相手の心を奪
え。それが、私が教え込まれてきたこと。心を奪われるなど、愚か者のすることだ。
「ありませんよ、そんなもの」
私の口ぶりがおかしかったのか、上司はそれを笑った。それが少し憐れむようだったの
が引っかかったが、この上司の言動など気にしても仕方がない。そう思うことにした。
「――今日の仕事はもう終わった。あとは自由にしていろ」
「はい」
そういったいきさつで『若様付きの召使い』になってから、今日で七日を数える。若様
は簡単な身の回りの世話を命じてから、早々に私を解放するのが、おきまりの流れのよう
になっていた。この頃には、私はなぜこの若様に愛人候補が必要だったのか、おぼろげな
がら理解するようになっていた。
もう少し若様について説明を加えるならば、彼はもてないわけでは決してないだろう。
それどころか、その気になれば令嬢や人妻とだって、火遊びが思う存分楽しめるはずだ。
横顔を見上げれば、まず目に飛び込んでくるのは、深緑色の鋭い眼差しだ。開け放たれ
た窓から、吹き込んでくる風が彼の艶やかな黒い髪をなぶる。一言で言えば白皙の美貌。
「――何を見ているんだ」
若様は私の視線をとがめるように不機嫌な声をあげたが、先輩娼婦のヒステリーになれ
た私には、そんなものは風のささやきのようなものだ。
「相変わらず綺麗な顔でいらっしゃると、見る度に思います」
若様の眉間に深い皺がよる。なぜ顔を褒めると怒るのか、それは私には不思議だ。美貌
を褒めれば、先輩娼婦達はみんな喜んだのに。最初は叱責を受けたが、この頃は諦めたの
か若様は何も言わなくなった。今日はその代わり彼はそっぽを向いてこう言った。
「俺もお前をはじめて見たときに、思ったことがある」
「――? 何がですか?」
「まるで金魚の尻尾のような髪だとな」
「…………」
今はきっちりと結い上げているこの髪は、若様と初めて会った日は頭のてっぺんで一つ
にまとめただけだった。この赤毛は、さぞや金魚の尾のようにゆらめいていたことだろ
う。私がむっと口を閉じると、若様はしてやったりというような顔で部屋を出て行った。
「いつか絶対に押し倒してやるんだから!」
処女にあるまじき事を歯ぎしりと共に吐き捨て、私はやる気を新たにする。
だが、その前には難関が立ちはだかっていた。
「ああ、アンタが新しい若様の愛人? よろしくな」
情報を集めようと他の召使いに挨拶に行けば、彼らは誠によくしゃべってくれた。
「そりゃ旦那様達だって心配するさ。一粒種なんだよあの若様は。それが女っ気が全くな
いなんて、跡継ぎは大丈夫かって話さね。だからあの手この手で女に興味を持たせるよう
に仕向けてんのさ。しかも、あの趣味に夢中ときてる」
……なるほど。召使いをやとってでも、子供を産ませようとするわけだ。しかし。
「趣味とは?」
「そのうちわかるよ。イヤでもね」
趣味とはなんだろう。疑問を残しながら、執事の登場によって雑談は打ち切られる。だ
が色々な話をきくうちに、前からなんとなく感じていたことを、私は確信するに至る。
若様は、ぶっきらぼうで冷徹にみせていて、その実、根は潔癖――いや、夢見がちな御
仁なのだ。何せ幼い頃には
「僕は運命の女性と巡り会って、結婚するんだ」
とよく言っていたらしい。
乙女か。そんな感想を、私は辛うじて飲み込んだ。言わば、彼の女っ気のなさは、裏を
返せば夢見る処女のようなかたくなさなのだ。
上司に報告を終え「手ェ出しちまえ。夢の世界から引きずり出して、現実を教えてや
れ」とろくでもない命令を受けてから、虎視眈々と私はその機会をうかがっていた。
そして、その時はついにやってきた。
最初は素っ気ない対応しかしてこなかった若様も、だんだん警戒がとけていったのか、
少しづつ若様が私に用を申しつけることも増えていった。これで、隙を見て押し倒し、用
を遂げてしまえば私の仕事は完了するであろう。元来、花街で育った私は、そういう経験
がなかろうとも、それを命じられれば諾諾とそれに従うように教育されてきていた。なの
で、頭ではそういう事に全く抵抗はない。
昼餉が終わり、その後に茶の用意を頼むのが、若様の日課。今日も私はポットにお茶を
なみなみと入れ、瀟洒なカップと共に部屋へはこぶ。部屋の扉をあけると、今日はいつも
と様子が違っていた。中には誰もいない。外から吹き込む風が、私のスカートの裾をなぶ
る。開け放たれた窓は、天井から床まで大きく切ってあり、外へ出入りが可能なものだ。
「若様? どちらにおいでですか?」
外出でもしたのだろうか。そう思いながら庭を見渡すと、そこに彼はいた。広い――広
すぎるほどの池のほとりで、熱心に水面を覗き込んでいる。あたりには、誰もいない。
「お茶の支度が出来ましたよ。部屋に入りませんか?」
こんなところでは押し倒せやしない。その本音は飲み込み、私は精一杯蠱惑的に若様に
微笑んでみせる。
「後で行く」
だが、若様は私の顔など見もせずに、池を見つめたままだ。一体何を見ているのだろ
う? 興味を覚えて、私も庭に出ると、池を覗き込んだ。
「――? 金魚ですか?」
そこにいたのは、何匹もの金魚だった。赤黒白金、色とりどりの金魚が水中をゆったり
と泳いでいる。
「ああ、綺麗だろう?」
珍しいことに、基本不機嫌そうな若様の横顔は、今はほころんでいるように見える。
「――そうですね」
私のいた娼館にも、金魚がいた。見栄えがいい、その理由の他に、金運がよくなる、そ
ういう験担ぎもあったからだ。そういう理由で客商売をやるところでは、金魚をよくおい
ていると聞いたことがあった。
「お好きなんですか?」
あまりに熱心に見つめているので、そう話をふってみると意外にも好感触の答えが返っ
てきた。
「ああ、好きだ。金魚をみていると、落ち着くし、癒やされる。しかも、色が色々あるだ
けじゃなくて、体型も様々だ。見てみろ」
言われるままに観察をすると、なるほど、目が出ていたり、尾びれの形が違っていた
り、金魚にも個性があることがわかってくる。好事家は、その些細な違いも大きいのだろ
う。そう思いながら、昔娼館で聞いた話を私は思い出した。
「金魚って、そういえば高いんですよね。金魚で身代を傾けた方もいるとか。まさに貴族
の趣味ですね」
「そうだな。確かに、珍しいものや美しいものは、値がつり上がることもある。まあ、そ
ういう御仁がいるから、こっちもありがたいんだけどな」
「――はあ。……?」
聞き流しかけて私は首をかしげた。今の言葉、おかしくなかった? まるでそれは、こ
の若様が金魚を商いにしているような……。
私の表情を読んだのか、若様はにんまりと私に笑みを向けた。今まで見たこともない表
情。なぜか私はどきりとする。
「俺はいつか、この金魚を家業にしようと思っているんだ」
「――は、え?」
将軍家の、若様が?
なんと言ったものかわからなくて、私は無言で若様をみる。その横顔は、覚悟を決めた
ように静かなものだった。
「うちの国の、昔の産業を知っているか?」
「え? ええと……泥炭の輸出でしたか?」
頭の中の知識を必死で引っ張り出してみたが、よく知ってるわけではない。この国は土
地が痩せているので、昔は泥炭の輸出、後はジャガイモなんかを作って細々と暮らしてき
たらしいとは聞いている。だが近年軍隊を整え、よその国を併呑することによって国を豊
かにしてきたと――。
「金魚だよ。この国は、農業にむかない。鉱物資源も限られている。それで、知恵を絞っ
て、ようやく金になる産業を見つけた。それが金魚だったんだ。うちも昔は、金魚を育て
て商っていた。この広い池はその名残だ」
「そうだったんですか……」
なぜ、そんな事を話してくれる気になったのだろう。そう思いながら、私は優雅に泳ぐ
金魚を見つめる。
――では、若様はこの将軍家はいったいどうするつもりなのだろう?
「で、今週の収穫は?」
「若様の趣味がわかりました。これは貴重な情報かと。あと、将来それに関連した仕事を
したいそうです」
「聞くまでもねーよ。金魚だろ」
「……なら情報の共有をしておいてください。あともっとやる気を見せて下さい」
勢い込んで言ったものの、とんだ恥をかいてしまった。上司は全くやる気がない。暇つ
ぶしに仕事をしているといわんばかりの態度は、こっちのやる気も激しく削いでいく。
「しょうがねーじゃん。俺、この仕事に乗り気じゃねーし。戦争に負けたからって、相手
の弱みを掴んでやりかえそうなんて、それじゃいつまでたっても終わりになんねーよ」
「じゃあなんでこの仕事してんですか」
相手に影響されて、つい私も口調がぞんざいになる。だが上司は気にした様子はない。
「うちの親、将軍な訳ね。王族すじで、力もある。で、嫡男の俺の腹違いの兄貴が先の戦
争で死んだからって、弔い合戦をするつもりな訳。でも、明日くたばってもおかしくない
ようなジジイでさ。そんなジジイが悲愴な顔して、もうお前しか頼るものはいないとか言
いながら色んな計画を押しつけてくる訳よ」
「親なら、イヤだって言えば簡単に断れるんじゃないですか」
ふっと上司はため息のような笑いを漏らした。
「俺、愛人の子供でさ。オヤジに顧みられた事ないんだよ。で、すっげー嫌いだったんだ
けど、現金なものでさ、お前しかもう頼れないって言われると、聞くだけ聞いてやるかっ
て思うんだよね。その中身が、将軍家の息子を籠絡して情報を得ろなんてものでもさ」
私は何も言えなかった。親子とは、そういうものなのだろうか。気がついたときには親
がいなかった私には、その感情は想像することしか出来ない。
「だからさ、悪いんだけど付き合ってやってよ。ジジイがくたばるまでさ。適当に命令こ
なして、適当に報告して、計画が進んでると思わせときゃ、ジジイは満足だからさ」
「……はい」
頷くと、上司はほっとしたように頷いた。この人は、本当は私など話すこともできない
ような身分の高い人に違いないのに、たまにとても人間的で気さくな様子を見せる。
「じゃあ、これからもそんな感じで頼むわ。あと、若様のことはもう、お前の好きに動い
ていいから。適当に報告だけしてくれ」
「――は」
頷こうとして、私は考え込んだ。好きにしていい? その言葉は、私の今までの人生で
全く与り知らないもので、それはどう考えても困難な事にしか思えなかった。
若様のことを好きにするって――どういうこと? もう愛人にならなくてもいい? そ
れとも、愛人になった上で、色々と動くべき?
固まって汗を流しはじめた私に、上司は今度ははっきりとため息をついた。
「まあ、お前の課題はそれだな。あっさりして気持ちの切り替えが早そうなところが気に
入ったんだが、お前は、その生い立ちの呪縛を早く解かんとな」
「呪縛、生い立ちの呪縛……?」
呪文のように唱えても、答えが見つかるわけではない。娼館が焼け落ちた時から、私は
自由の身になったと思っていた。だが、呪縛とは――?
若様の服を洗濯しながら、私はその事を考え続ける。若様に手を出すのは、とりあえず
先送りにしている状態だ。喜ばしいことに最近は、若様に話しかけられる事が段々増えて
きていた。隙あらば押し倒そうという下心が薄らいできたのを、若様は本能で察したのだ
ろうか。冗談や軽口も、たまに混じるようになってきている。そんな扱いは私は今まで男
性に受けたことがなかったので戸惑うばかりだったが、若様はそんな様子も面白がって、
「顔まで真っ赤にして、まさに金魚だな。ほら、口をぱくぱくさせてみろ」
そう言いながら私の髪をひっぱったり、赤くなった私の頬をつついて困惑する様を意地
の悪い笑顔で見下ろしたりしている。
「子供かよ。まあ、十八歳でも潔癖なまでに女経験がないなら、まだ情緒がガキのまんま
なのかもしれないな」
愚痴混じりの私の報告に上司は、苦笑と共にそう言葉を返した。
若様の金魚も順調に増えてきている。それと比例するように若様の笑顔も増え、最近は
身の回りの世話を私に全て任せてくれるようになっていた。忙しさは増したが、娼館では
得られなかった安らぎと、充実感を私は感じるようになっていた。それを自覚すると共
に、ある一つの懸念が頭から離れなくなる。この『仕事』が終わったら、私はどうしたら
いいのだろう。上司の口ぶりでは、ここでの仕事はそう長くはないようであった。
(もし本当に若様の愛人になったら、私はずっとここにいられるのかしら)
私は、金魚の世話をする若様の後ろ姿を見ながらそんな事をぼんやり思う。
「何をじろじろ見ているんだ」
まるで頭の後ろにも目があるかのような若様の反応に、私は飛び上がった。この人は、
たまに恐ろしく鋭い。
「ふん、俺はこれでも一応、武芸は一通りこなしてきたからな。気配には敏感なんだ。お
前のすることなんかお見通しだ」
得意げにそうのたまう若様は、子供っぽさが見え隠れする。他の人の前でははるかに落
ち着いた態度なのに。これは私だから、素を見せてくれているのだろうか。
そう思うと、胸のあたりがくすぐったくなり、鼓動が早くなる。
この人を抱きしめたい。唐突にそう思ったが、怖くもなった。
それを、もしこの人が嫌がったら、私はどうしたらいいのだろう。
そんな事を考える自分に、私はとまどいを感じた。そういえば今まで、私はこの人の気
持ちに配慮したことなんてなかった。その事に気づく。同時に、考えても仕方がない。私
はそう割り切りたかった。それが私の任務だ。気持ちより、結果が大事。
部屋に誘って、体を寄せて、潤んだ目で若様を見つめながら、かき口説いてみたらいい
じゃない。そうすればきっと――。
「――若様」
「なんだ?」
答える若様の声が最初に会ったときよりだいぶ優しくなっていることは、私の気のせい
じゃないと、思いたい。
さあ、部屋に誘って、そして。
私は、若様の服の裾をつかむ。だが、言葉は何も出てこない。
「――すみません、なんでもありません」
そう言って、私は踵を返して走りだした。心臓が早鐘のように打っている。顔や耳の先
が熱い。
「……これ、なんなのかしら」
途方に暮れた私は、庭の隅でへたり込んだ。これじゃあ、任務は果せそうにない。
――私は、どうすればいいのだろうか。
「若様付の新しい召使いですか?」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸がすっと冷えた。執事は淡々と話し続けている。
「ああ。若様付の召使いに、ただ身の回りの世話をしているだけの者は必要ないのでね」
そうか。私が考えていたより、この家の、若様に女をつくらせるという企みは切羽詰ま
ったものだったのかもしれない。私は悠長に構えすぎたのだ。
「だが、お前の仕事ぶりは悪くない。これからは、奥向きの仕事にまわれ」
「――あのう、もう一度、機会をいただけないでしょうか?」
思わずそう口走った私に、執事は軽く目を見開いた。無理もない。自分だって驚いたの
だ。思えば、誰かのいいつけに反論したのは、これが初めてかもしれない。
彼は見透かすような目で私の目を見つめると、ふいと目をそらした。
「残念だったな。もう時間切れだ。次の召使いがもう採用されているんだよ」
「そんな……」
ふいに胸が苦しくなった。若様は、私と同じようにその人を扱うのだろうか。目をきら
きらさせて、金魚の話をするのだろうか。
「次の世継ぎが早く必要なんだ。栄えある将軍家を元の金魚屋なんぞにしようとしている
嫡男など、廃嫡しろという方が親族内に多くてね。しかし家督を親類に譲るなら、旦那様
は若様の子供を立派に教育して後を継がせたいとお考えになっている。理解してくれ」
口調は冷淡だが、その説明は、私のような端の召使いに話すには、少し内情を話しすぎ
ていると感じるほどだった。この人は私の心を見透かしている。自分も知らないそれを。
「――はい」
私は、そうとしか答えることが出来なかった。胸は痛みを訴え続ける。なぜこんな痛み
を感じるのか。任務は、失敗しそうだな。そんな事を思い、私はぼんやりと上司の顔を思
い浮かべた。
新しく来た若様づきの召使いは、黒髪の美しい少女だった。私は窓からその姿を垣間見
て、思わずカーテンの陰に隠れてしまった。
若様は、相変わらず池を眺めていた。少女はそこに小走りに走って行く。仲むつまじい
様子などをもし見てしまったら、この胸がどうなってしまうのかわからない。ただでさ
え、今もきりきりと痛んでいるのに。
なんとか仕事を終えて、今日も私は冷たい寝台に体を横たえる。この屋根裏部屋には私
しかいない。若様付の召使いというのは特権であるらしく、個室を用意してもらえた。も
っとも、その特権から滑り落ちた私は一両日中には出て行かなければいけないのだが。静
けさにかえって意識が乱れ、思い出すまいと思っていた若様の顔が頭をよぎる。
(やっぱり、手を出しておけば良かった)
そうしたら、彼はどんな顔をしただろうか。こんなふうに会えなくなるなら、さっさと
誘いをかけておけばよかった。思っても仕方のないことを思い、私は体を反転させる。そ
の時、扉が遠慮がちに叩かれるのが聞こえた。
「――?」
戸惑いながら扉をひらく。そこに立っていたのは、新しい召使いの少女だった。私は何
を言っていいのかわからずに固まる。そんな私を尻目に、少女は扉の隙間から体を滑り込
ませ、私に向かってにっこりと微笑んだ。
「大丈夫よ。私はあなたの味方」
「味方――?」
何をいっているのか。戸惑う私の耳元で、彼女は低い声でささやいた。
「私は、あなたと同じ国の出身。志を同じくする者よ」
「あ、そう、若様を殺すため、ねえ。うちのオヤジに言われて来たと。くたばる前に一矢
報いようと思ったのかね。君は先の戦争で家族を殺されたから、その復讐も兼ねて、と」
上司は、煙草を吸いながら、どうすっかなあ、と独りごち、
「ま、腹くくるしかねえか」
とため息をついた。そうして、部屋の奥から並々ワインの注がれたグラスを二脚持って
くると、その一つを少女に渡した。
「まあ、お近づきのしるしってやつだ」
グラスが打ち合わされる澄んだ音が響いた。私はぼんやりとそれを眺めている。少女は
それを飲干し、その指先がそっとグラスを机に戻すと同時に、その体は力なく頽れた。
「え――?」
戸惑う私に、上司は底のしれない表情を浮かべた。
「――昔話をしてやるよ」
先の戦争で、斥候として上司はA国との国境付近に配属されていたそうだ。そこは戦争
で最も激戦地区だった。A国の兵の服装を奪い取り、彼は情報を集めながら、一人でも多
くの兵を消すことを命じられていた。
「兵士や一般人の死体がごろごろ転がっててさ、ひどい場所だった。あんなとこ送られる
んだから、俺は死んでもいいような扱いだったんだろうな」
しかし彼は戦場を生き延びた。そこである人物と出会う。
剣を手にした敵国の男は、まだ少年のようにも見えた。物陰で銃をかまえる上司はわず
かにためらったが、ため息と共に引き金を引こうとした時、少年のつぶやきが聞こえた。
「……運命の人に出会う前に、死んでたまるかよ」
思わず気勢が削がれ、上司は構えをときかける。その時、気配を察した少年と目が合っ
てしまった。
「我が国の兵士か。よかった、大丈夫か?」
幸か不幸か、上司の服はA国の兵士である少年と同じ物。安堵したように話しかけてく
る少年に銃を向ける気をなくして、彼は少年と言葉を交わしてしまった。そして彼は、そ
れが敵国の将軍の息子だということを知る。
「戦場に来る前は、張り切って、周りがとめるのもお構いなしに先陣を希望したんだ。将
軍の息子としてそうあるべきだと思ってた。戦場で一人でも多く兵士を屠るのが務めだと
――しかし、兵士以外の人間が、こんな風に巻き込まれていくなんて、思いもしなかっ
た。この少女だって、未来があっただろうに」
横たわる少女の死体に少年は体を震わせる。上司には見慣れたものだった。だが、少年
にはそうではない。繊細な心に傷を負わせるには、それは十分な材料だっただろう。
「戦争なんてもう嫌だ。昔のように少しくらい貧しくなっても、金魚を売って、人に綺麗
だと喜んでもらえて暮らせるようなそんな生活に戻ればいい。俺は国へ帰ったらそのため
に力を尽くすつもりだ」
一度経験した贅沢は簡単には捨てられないだろう。そんな現実的な台詞を上司は飲み込
み、代わりの言葉を発した。
「そうなればいいな。――この世界のために」
戦場では色々な感情が摩耗し、麻痺していく。数え切れないほど人を屠ってきた自分に
改めて気づき、上司はぞっとした。
(自分のような奴は世界の害でしかないが、この少年はそうではない。言うなればあるべ
き世界のための人間だ)
上司は少年を眩しく見つめ、立ち上がった。
「運命の人に会えるといいな」
別れの言葉代わりにそう言って、ふとある事を聞いてみたくなった。
「お前の運命の相手って、例えばどんな?」
少年は赤くなり、ぶっきらぼうに言葉を返す。
「例えばだが、綺麗で、浮き世離れしていて、見ていると癒やされる……金魚みたいな」
「……金魚。妙な趣味だな」
どんな女だか想像もつかない。ぱっと思い浮かんだのは、赤毛だった。水に揺らぐ金魚
の尾。それを思いだしたからかもしれない。
「後は、真面目で働き者で、苦労も耐えられる女性だということはない」
「――よりよい世界のために、お前がそんな相手と出会えることを祈っている」
少年が夢を叶えた世界は、もしかしたら自分みたいな奴にも居心地がいいんじゃない
か。そんな事を思い上司はその場を後にした。
「俺は今の世界の何もかもに倦んでいたのさ」
俺は国へ帰る。お前は後は自力で頑張れ。
それが上司の最後の言葉だった。それ以来、少女も上司も、姿を消してしまった。私は
相変わらず屋敷につとめ続けている。
数日後、若様が私のもとにやってきて、こうのたまった。
「話はつけた。とりあえず、お前は俺付きに戻れ」
私は困惑したまま、彼をみあげた。どこにどう話をつけたというのか。唐突すぎて、話
が見えない。だが、若様付きに戻れるのは、私にとってとても嬉しいことだった。笑顔を
見せる私に、若様は満足そうな顔をする。
「新しい召使いのことだがな。もう行方をくらませたからどうでもいいんだが、俺はあの
女を側にも近寄らせなかったんだぞ」
まるで操をたてたとでも言いたげに得意な顔をする若様に、私は吹き出した。それが気
に入らなかったのか、むっとした顔で若様は私の髪をつまんだ。
「金魚の癖に、俺を笑うなんて生意気だ」
「生意気な金魚はお嫌いですか?」
私の言葉を受けて若様は、そっぽを向いた。
「……綺麗でよく働き、俺を癒やしてくれるものを嫌いになるわけはない」
その言葉が私の耳に届くのは、その少し後のことだった。