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スイートパンクと黄色いカプチーノ

作者: 柴谷れな

 港へと続く山間の狭い林道を左に曲がると、いきなり視界に黄色い車体が跳び込んできた。あわててブレーキを踏み込むと僕のレンタカーは、まるでクラウチングスタートのようにフロントを沈ませた後、再び跳ね上がり停車した。

 黄色いボディと黒いルーフの、玩具のように小っぽけなスポーツカーは、あきれたことに狭い道路の真ん中にのんびりと停車している。ちょうど満腹の虎模様の猫が、こちらに背を向けて昼寝でもしているみたいだ。

僕はハンドルを抱え込んだ腕に、無精ひげをうっすらとたくわえた顎を乗せて、目の前のスポーツカーの小さなリアウインドウ越しに、車内を窺ってみた。ツーシーターの運転席にも助手席にも人影は見えない。

 ひとつため息をついて、僕はハンドルに左頬を押しつけると、目蓋を閉じた。フェリーの出港までにはまだ二時間ほどある。だけど一時間前には港に着いていたかった。何しろ船の旅なんてあまり経験がなかったからね。


 離島の山奥で生い茂る木々に囲まれて、森林浴を楽しむ黄色いカプチーノは、まあそこそこ絵にはなる。だけど、生憎、先を急ぎたい僕としては、道がふさがれて通れないのはとても困る。

この島のいたるところに生息しているらしい山羊のほかには遠慮する相手もいないので、僕は長いクラクションを二度鳴らしてみた。

「早く出てこい。怒らないからさ」

呟きながら、今度は首を伸ばし、今では生産されていない目の前の軽自動車のナンバープレートを確かめた。練馬ナンバーだ。

「…遠路はるばる」

東京からこんな離島まで黄色いカプチーノに乗ってやってきた、いかれた人間を想像しようとしたが、もちろんまったく見当なんてつかない。

 蝉の声が不意に止んだ。いきなり訪れた静寂に僕はちょっとうろたえ、周囲の杉の小立に視線を泳がせた。その瞬間、僕は左目の端っこで何やら動く黒い影を捉えた。カプチーノに視線を戻すと、助手席と運転席の間に人影がある。

 スーパー軽自動車の右の扉が開き、黒いハイソックスの膝小僧が、左右一緒に行儀良く出てきた。黒いエナメル靴のラバーソールがくたびれたアスファルトを踏むと、ひと息あってから、ようやく上半身が這い出てきた。黒いショートヘアをふんわり巻き髪にした、セルのサングラスをかけた小柄な女の子だ。

彼女はほっそりとした両手を空に伸ばして一度大きく深呼吸をした。それから僕の方を見ると、にんまりと笑って見せた。するとまた蝉が鳴き始めた。

「うぬ」

僕は思わず声を漏らす。蝉の声に囲まれた山奥で、目の前にいきなりキューティパンクな女の子が現れたら、誰だって多少はビビる。彼女と彼女の黄色いスポーツカーは、埃っぽい背景の中で、僕の目には雨上がりのようにクリアな存在に映った。

 肌とほとんど同じ色で境界のはっきりしない唇の端で、銀色のピアスが揺れて光る。何事か呟いたようにも見えたが、唇の動きだけで読み解くことは、僕には出来なかった。

 車から出ようとする僕を彼女は驚いたように右手で制した。そして僕の車のナンバープレートのあたりを見ながら近づいて来た。僕は僅かに開けたドアを再び閉め、その代り運転席の窓をいっぱいに下げて、彼女の姿をまじまじと眺めた。

 タータンチェックのミニスカートに銀色のスタッズのあしらわれたレザーベルト。黒白のストライプのTシャツの前で、細い銀色のチェーンが交差して揺れている。首には黒いリボン付きのネックベルト。両手で赤い皮ジャンを抱え込むようにして近づいて来る。

 彼女はバックミラーの辺りで立ち止まり、首を小さく傾けて僕を見た。

「あの」

サングラスの上から裸眼を覗かせて、彼女は云った。

「フェリーに乗りますか?」

細いけれど、しっとりとした濁りの無い声に僕はちょっと驚いた。

―その声帯、生まれて初めて使ったのか? と訊ねたい衝動にかられたくらいだ。

「なに?」と、僕はいくらか乱暴に応えた。色々不意をつかれて、気持ちで十分に負けてたからね。せめてもの抵抗だ。

「君、免許持ってる?」

「・・・・・・」

口をへの字に曲げて、彼女は不機嫌そうな表情になった。

「乗るの? フェリー」と、今度はため口で、訊いて来た。僕の口調にあわせたってことだ。

「乗りたいね」と、僕は応じた。

「そこの黄色いカプチーノがどいてさえくれたらね」

 サングラスの上から覗く彼女の瞳を見て、僕は一瞬、鼻の奥に刺激の強い、例えば花粉の匂いを嗅いだときのような痛みを感じた。彼女の浮世離れをした印象のせいだ。ちょっと尋常じゃない造形と云っていいのかも知れない。あっさりとした顔立ちの中で、際立って魅力的に感じられる黒い瞳。田舎の小島で、こんな女の子と会話する権利を、僕は一体いつの間に手にしていたのだろう。つまりその時点で、既に僕にとって彼女の存在は(スペシャル)別だったわけだ。

誰だって多分、ちゃつみを間近にしたら、似たような気持ちになるに違いない。そう。馬鹿げたことに、彼女は名前を「ちゃつみ」と名乗った。もちろん、本名なんかじゃないさ。

「…わかった」

そう云うと、ちゃつみは右手でピストルを作り、僕の側頭部に押し当てた。それから、

「車をどかしてほしかったら、金を出すんだな」と、僕の耳元で小さく囁いた。

ぼくは思わず笑って、

「何だ。山賊だったのか」

「ふん。ちょっと借りるだけよ。この子のミルク代」

彼女はそう云うと、胸の前に抱えていた赤い皮ジャンを開けて見せた。黒い子猫が顔を覗かせた。小さな桃色の鼻先と唇をひくひくさせている。彼女が左腕だけ、ずっと胸の下から動かさずにいたのは、革ジャンの陰で子猫を抱いていたせいだった。

「それと、あの子のお食事代ね」

彼女は細い顎先で、カプチーノを指し示し、

「フェリーに乗ったら、まとめて返すよ」と云った。

「フェリーにATMなんか無いだろ」

ピストルを突きつけられたらしょうがない。僕は財布を開いて札を数えた。

「ATMだらけだよ。フェリーってさ」

ちゃつみはいきなり僕の財布から2万円を摘み出し、

「一緒に来ればわかる」と笑顔で云った。

「ちょっと待った」

僕は、目の前を飛行する2万円の端っこをかろうじて指で掴んで、

「メアドと電話番号。とりあえず借用書代わり」と真面目な顔で云ってみた。

「…ふーん」

彼女は右手でサングラスを外し、運転席の窓に顔を近づけ、僕の瞳を覗き込むようにして、

「いいよ」とゆっくりとした調子で、呟くように答えた。

 それからまんまと二万円をせしめた山賊みたいな彼女は、カプチーノに乗り込み、エンジンをかけると車を滑らせ始めた。

マフラーと、ひょっとしたら吸気系もいじってあるようだ。ノーマルじゃ考えられないエンジン音。リアウイングもオリジナルには無い装備だ。

 一体全体、彼女がどうやって改造カプチーノを手に入れたのか、僕としてはとても興味深かったけれど、とうとう彼女から聞き出すことは出来なかった。僕は彼女の車のテールランプ―高橋留美子の漫画に出て来るオフザケ目にも似た、ユーモラスなテールランプを見ながら、港へと続く林道を下って行った。

途中でちゃつみはエンジンを切り、下り坂と重力を頼りに車を走らせ始めた。彼女がかなり切羽詰っていたのは確かだ。

―やばそうだね

僕がメールすると、

―めーるするな!

と返信が来た。


やがて島の中央を横切る林道は終わり、僕らは海岸沿いの平坦な道路に出た。ちゃつみは再びエンジンをかけ、左にごつごつした黒っぽい磯を見ながら、島の外周を時計回りに走った。

―いつ来たの?

左の側溝にあやうく車輪を落としそうになりながら、僕が苦労してメールすると、

―きょうのあさきて、これからかえるとこ。

と、あっさりと返してきた。

「”けさ”って打てよ。タッチ数節約」

僕は心の中で呟いた。

 ちゃつみの返信はとにかく早い。片手でとても素早く打つ。その代わり、ほぼひらがなだけなので、とても読み難い。僕としては電話で話した方が手っ取り早いし、何より彼女の声が聞きたかったのだが、生憎、電話はお金を貸す条件から洩れたらしく、使用を禁止されていた。

 今朝のフェリーで到着したばかりだというのに、ちゃつみはたちまち金欠でガス欠におちいったばかりか、島の何処かで黒い子猫まで拾ったあげく、僕からお金を巻き上げさっさと帰ろうとしていた。

 ようやくシェルのサービスステーションが見えた。反対車線沿いだ。彼女は右のウインカーを出して、そのままスタンドの出口から進入を試み、アルバイトぽい男の子の店員を慌てさせてから、ようやく指示通りの向きで給油機の前に停車した。

僕は反対側の車線に車を停止させ、窓越しにスタンドの様子を窺った。店員がふてくされたように、ゆっくりと彼女の車に近づくのが見えた。

―ついでにそいつに猫あげちゃえよ

僕は車から彼女にメールしてみた。

 彼女が窓を開けると、店員の表情が変わるのが遠目からもわかった。僕はちょっと笑った。ちゃつみの黄色い車を離れる前に、店員の男の子は僕の方をちらっと見た。

―すてねこ みたく のたれじね

 スタンドボーイに注文を終えた彼女からの返信だ。

―その猫、名前ある?

―レスポにしようかな

―レスポールか?

―うん

―ギター弾きそーだね

―かもね

―島には何しに?

―さいとしーいんぐ

―うそだろ

―じゃあ ただきただけ

いくつ歳?

―うまれたばっかかな

―猫じゃなくて

―あたしあしたはたち

―おや。おめでとう

―いらないから ばかみたい

 給油を終えた店員が、再びちゃつみの運転席に近づいてきた。それから彼はお釣を取りに引き返す間際に、また僕の方を見た。

―いくらだった?

―だいたい5000だねぃ

 ちゃつみはお釣を受け取るとエンジンを掛けた。それから誘導をまるで無視して、給油機を回り込むようにわざわざスタンド内でユーターンすると、右往左往する男の子をしりめ目に、今度は入口から道路に跳び出してしまった。

 僕は苦笑いを浮かべ、ほぼ満タン分ハイオクを呑み込んだ計算の、彼女のカプチーノを追いかけた。

―ちょっと運が無かっただけさ。

 茫然と佇み、僕らの車を見送るスタンドボーイに、僕は心の中でお悔やみを云った。ちゃつみが林道で車を停めて山賊行為を働いていなかったら、僕ではなくて彼が彼女にお金を―あるいは、もしかしたらガソリンを―強奪される幸運にあずかった可能性は高そうだ。ガス欠寸前の車に乗っていて、ガソリンスタンドを見逃す筈はないからね。

 だけど、僕がその日、スタンドボーイよりもツキがあったとしても、それは本当にほんの少しだけにすぎなかったのかも知れない。


 港に到着すると、僕らはいったん待機所に車を停め、歩いてフェリーのターミナルビルに向かった。ビルの構内は夏休みの親子連れや、団体客で賑わっている。あまりメジャーとは云えないけれど、この島にはそれなりの歴史があって、時にはテレビの時代劇に名前が登場することだってある。つまり、最寄の地方都市やその近県からの集客力なら十分にあるということだ。

 構内のチケット売り場で、僕らは『二等船室乗船券付き自動車航送チケット』ってやつを購入し、ちゃつみはついでに、売店でミルクとミネラルウォーターを買った。これで彼女の財布は再び、ほぼ空っぽになったわけだ。だけど、彼女はそんなことぜんぜん気にしてはいなかった。買ったばかりのチケットや彼女の赤い革ジャンや手続きに使った車検証や、とにかく面倒臭そうなものを当たり前のように全て僕に持たせると、彼女は待合室のベンチに腰掛けた。それから、黒いペーパ製の中折れハットに入れてきたレスポ 猫に、(てのひら)でミルクを与えるのに、すっかり夢中になった。

「ATM。お金おろしたら?」

僕は構内の隅に設けられた地方銀行のATMコーナーを見つけて、彼女に提案した。彼女は顔を上げると、僕の指し示す方向をちらっと見た後、再びレスポ猫に視線を落とし、

「あたしはフェリーで返すって云ったの」と独り言のように呟いた。

 僕は彼女の隣にそっと腰を下ろすしかなかった。怒る気にはなれなかったけれど、どう云うつもりなのか、さっぱり見当がつかなかった。

 ちゃつみがレスポ猫にミルクを飲ませ終えると、ちょうど出航の三十分前だった。僕らは次々とターミナルビルから乗船を始める客の群れを離れ、小走りに車に戻り、とっくに動き始めていた乗船車両の列の最後尾に車をつけた。


やがてフロントガラス越しにフェリーの船首部分が大きく見えて来た。

うえすとこーらる。

白い船首に黒くひらがなで書かれた、僕らが乗り込むフェリーの名前だ。


まるでピノキオが鯨に呑み込まれるみたいに、ぱっくりと口を開いた船首から船内に乗り入れ、係員に誘導されるままに車を停めると、僕のレンタカーの停車位置は、彼女のカプチーノの真後ろだった。

ちゃつみは車から出ると後部トランクを開け、重そうなギターケースを引っ張り出した。そして、トランクを閉めてから僕を振り向き、ついてくるようにと顎で促す。彼女は右手にギターケースを持ち、肩から黒いポシェットをぶら下げて、レスポ猫を入れたペーパーの黒い中折れ帽を左手に、客室へと続くエスカレーターに足を踏み入れた。

 エスカレータを降りると、いきなり三階の豪華なエントランスホールに出る。就航したばかりのウエストコーラル号は、二時間半程度の船の旅にはもったいなく感じられるほど豪華な内装を誇っていた。おまけにどうやら就航記念日らしく、ホール中空には万国旗、ぴかぴかの壁にはポスターが飾られている。

「まるでウエストコーラルホテルだ」

ホールの壁に架けられた船内案内図を見ながら僕は呟いた。後部デッキの下の階にはステージ付きのパーティーホールも設けられているようだ。今日はどうやらそこで、就航記念日のイベントも予定されているらしい。

ちゃつみは僕を無視して、迷う風も無く、エントランスホールの中央階段を上り始めた。そして、その後十分近く、僕を引き連れて四階と五階の船内客室部をうろつき回った。つまり、実際のところ、彼女はかなり迷っていた。

「やっぱり、ここかな」

やがて彼女は、船室に飽きた乗客が集まって来る後部甲板の白い壁の前で立ち止まり、僕にはにかんだような笑顔を向けた。わずかだけれど、両頬が上気して、少し緊張しているようにも見えた。

 ちゃつみが陣取ったのは、ちょうど船尾部分に並べて備え付けられた、4脚の白いベンチに対面する位置だ。甲板には、もう既に数組の家族連れが潮風に吹かれに出て来ている。左舷側のベンチのあたりでは、中年の男性客の団体がビールを飲み始めていた。夕方五時前だったけれど、夏の太陽はまだまだ高い。船尾に夕日を望むまでには、二時間ほどは必要に違いない。

 ちゃつみは壁を背に跪くと、右にミネラルウォータのペットボトル、左にレスポ猫を入れた黒いペーパハット、そして彼女の前にはギターケースを置いた。それからそっとギターケースの蓋を開き、中から良く手入れされた様子のアコースティックギターを取り出す。そのままギターを抱え込み、ミニスカートにしては無造作な感じで、彼女は胡坐をかいて座った。それから、ポケットからハンカチを取り出すと、ペーパーハットの上に、つまりレスポ猫の上にぽいと被せた。まるで、ハットのマジシャンのように。

 外したサングラスを、蓋を開けたままにしたギターケースの中に放り込み、ちゃつみがチューニングし始めると、親子連れや団体客がチラチラと彼女を見始めた。僕はやや離れて、彼女の左側、右舷の木製の手すりに背中を圧しつけ、彼女の様子と乗客達の動きを交互に眺めた。

 ギターの弦に視線を落としている彼女の長い睫毛が細かく震えている。乗客達は興味津々な様子だったが、彼女を遠巻きにしたまま誰も近寄っては来ない。

 カポタストをセットし、チューニングが終わると、ちゃつみは確かめるようにコードをいくつかストロークした後、ペットボトルに手を伸ばした。ミネラルウォーターをひと口飲み、それから落ち着かない感じで左右に視線を泳がせ、僕を見つけると、ほっとしたように微笑んだ。そしてそのまま、僕の上空に視線を移し、ゆっくりと鼻で息を吸い込みながら目蓋を閉じた。

 それから彼女は目をゆっくりと開きながら視線を落として行き、目の前の甲板を数秒見つめた後、思い切ったように演奏を開始した。

 僕は思わず息を呑んだ。

 出港前の港に停泊する夕暮れ近いフェリーの後部甲板で、彼女が十二弦の生ギターで爪弾き始めたのは、1970年代のアメリカのロックバンドのしっとりとしたイントロだった。僕は彼女の意外な選曲に虚を突かれ、そして不覚にも、思わず胸を打たれた。

 ホテル・カリフォルニア。―僕が始めて聞いた彼女のギターと歌。

サムピックで弾くクリアで、切なげなギターの音色が甲板に流れ始めると、乗客達の声にならないざわめき揺が彼女を包み込んだ。しばらく息をつめて、遠巻きに、彼女を見守るように、静かにイントロを聞いていた乗客達。だけど、イントロが終わり、

― On a dark desert highway

と、彼女が歌い始めると、堪え切れなくなったように、数人が小さく短い歓声を上げた。

 客室から出て来たばかりの若いカップルが、最初にちゃつみの前にしゃがみ込むと、それからは堰を切ったように、乗客が彼女の周りに集まって来る。人垣が出来てしまうと、さらに多くの大人達や子供達、男性客や女性客が立ち止まり、彼女のギターと声に聞き入り始めた。

 何事かと覗き込む子供達は、彼女の黒と白、赤とシルバーで構成された、わかりやすく愛らしいファッションにすっかり夢中になった。男達は彼女の膝上までのロングソックスとミニスカートに惹かれ、女達は彼女のあっさりとした顔立ちと、それとは不釣合いな強い意志の感じられる目元の織り成す不思議なコントラストに惹かれ、そして最終的には誰もが彼女の声に魅了されていくのが、僕にはわかった。

 決して大きく張り上げられることはなかったけれど、不思議にゆとりと力強さが感じられる彼女の声は、耳に心地良かった。控えめで嫌味の無い、とても澄んだ声だ。

所々、音程をつけずに歌う、彼女の囁きのような、呟きのようなフレーズ。例えば、

― He said や

― Since 、それから

― and she said は、何度でも繰り返し聴いてみたくなるほど、とても魅力的だった。

― We are programmed to receive

(「ぼくらはただ運命を受け入れるようにしかできていない」)

と囁くように歌う彼女の声を、僕は今でも忘れることができない。

まるで威嚇する子猫のように小さな白い前歯を剥き出しにして、

― But they just can't kill the beast

(「うちなる獣を手なずけるなんて誰にも出来っこない」)

とちゃつみが歌う時、誰もが彼女のような表情で歌ってみたいと思ったに違いない。もちろん僕も例外じゃない。彼女は明らかに、偶然を支配する神秘的な意思によって選ばれた人間だった。

― You can checkout any time you like

― But you can never leave!

(「いつでも好きなときに(ここ)テルをチェックアウトしていいさ。だけどここ命から逃れ去ることなんて決して出来やしない」)

最後のフレーズ詞が終わり、彼女は長いギターソロに入った。アコースティックギターで、エレキギターのようなチョーキングは難しい。だけど彼女はビブラートを上手く使い、生ギターらしい繊細で柔らかな、とても雰囲気のある終奏を弾きこなし、演奏を終えた。

短い静寂の後、乗客達の拍手と歓声がちゃつみの小さなからだ体をすっぽりと包み込んだ。その途端、出航の合図が船内に響き渡り、スクリューを激しく回転させて、ホテルのようなフェリーがゆっくりと岸壁を離れ始めた。

五歳くらいの男の子が彼女の前に進み出たかと思うと、しゃがみ込み、千円札をそっとギターケースの中に入れた。ちゃつみは男の子に微笑みかけ、その笑顔のまま、子供を使者として送り出した若い母親に小さく会釈をした。母親はほっとしたように笑みを返し、任務を終えて帰って来た男の子を抱き上げた。それを機に、躊躇っていた乗客達が、ギターケースに紙幣や小銭を放り込み始めた。

砂浜の波のように寄せては引いていく観客に、小さく微笑みと会釈を繰り返していた彼女が、不意に僕を見た。そして笑顔のまま、彼女は細い顎を数センチだけくっと上げて見せた。

子供っぽく自慢気な様子が可笑しくて、僕は口をへの字に曲げ、下唇を突き出した笑顔を作って見せた。僕は多くの乗客達の中で、誰よりも彼女に近いことがとてもうれしかった。

 ちゃつみの言葉の通り、フェリーの中はATMだらけだった。それも彼女専用の。ATM扱いされているとは知らない乗客達は、彼女の控えめだけど印象的な笑顔に、照れながらも満足そうだった。もちろん彼女に悪意なんてない。ちゃつみは何でも冗談っぽく喋りたいだけだったからね。

ようやくキャッシュ・ディスペンサーの列が途切れると、彼女はミネラルウオーターをひと口飲んだ。それから観客達の期待に満ちた視線の中心で、考え込むように、しばらく遠ざかる島影や、左右の海原、フェリーの船尾から吐き出される白い航跡や、宙を飛び回るカモメ達を落ち着かなげに眺めていた。そして不意ににっこりした。

「…カントリー・ロード」

彼女は呟くと、出だしをアカペラで歌い始めた。それはアニメ映画で使われた日本語の歌詞だった。

 結局これで、彼女は家族連れの乗客の心をすっかり捉えてしまった。アカペラが終わり、ギターが伴奏を始める頃には、彼女を囲む人垣の最前列が子供達で埋め尽くされた。

ちゃつみのマーケティング戦略は大成功と云って良いだろう。ホテル・カリフォルニアでおじさん達をメロメロにし、カントリー・ロードで子供と母親の心をすっかり掴んだのだから。ギターケースはまるでお正月の神社の賽銭箱のような有様だった。

―小銭は持ち運ぶの大変だろうな。

 僕が余計な心配をし始めた時だった。ちゃつみの左後方に置かれた中折れ帽がもそもそと動き、レスポ猫がハンカチの下から小さな黒い顔を覗かせた。それからしばらく、レスポ猫は帽子の中で跳びはねているだけだったが、カントリー・ロードが終盤にさしかかった頃、とうとう帽子から転げ出てしまった。そして、そのままの勢いで、悪戯子猫は甲板を、客室入口の方へ駆け出した。

僕はあわててレスポ猫を追いかけた。すると、白地に黄色い水玉のワンピースを着た小学生くらいの、ショートボブの女の子がレスポ猫を拾い上げるのが見えた。

ほっとして、僕が女の子に話し掛けようとした時、ちょうど、ちゃつみの演奏が終わった。拍手と同時に、

「ちょっと、いいですか」

事務的で低い男の声が聞こえて来た。

 振り返ると、ちゃつみを取り囲む人垣を掻き分けて、白い制服のフェリーの乗務員が二人、彼女の元へと近づくのが見えた。それからそのうちの一人が腰をかがめ、彼女の耳元で何やらひそひそと囁いた。

やがてちゃつみは納得したように頷くと、ギターケースのお金をポシェットにつめ込み始めた。お札も大量の小銭も全部だ。ギターを専用のクロスで丁寧に拭き、ケースにしまい込む。それから中折れ帽に手を伸ばすと、はっとして立ち上がり、きょろきょろと周囲を見回し始めた。

「何か?」

乗務員のひとりが彼女に訊ねた。

「・・・・」

彼女は乗務員を無視して、結論から云うと僕の姿を捜し始めた。ようやく目が合うと、「レスポ」と声を出さずに口の形で伝えて来た。なかなか賢明な判断だったと思うよ。この上、猫まで無断で持ち込んだなんて知られたら、貨物室に閉じ込められて、一生出れなくなるかも知れないだろう?

 僕は彼女に頷くと、「まかせて」と口パクしながら、右手の拳で自分の左胸を二回叩いて見せた。彼女は失礼にも、眉を寄せて不審気な表情をうかべ、その上、頸までひねった。

乗務員に促されて、ちゃつみは怖ろしく重くなっているに違いないポシェットを肩にかけた。それから彼女は、ギターケースと中折れ帽とペットボトルを持ち、まるで荷物に引き摺られるように、乗務員の後に従って船内に消えて行った。

ちゃつみだけじゃない。ふと気づくとレスポ猫も、抱き上げたワンピースの女の子も、何処にも見当たらなくなっていた。僕は途方にくれて、後部甲板をうろついたあげく、備え付けの白いベンチに座り込んだ。ちゃつみが頸を傾げたのは、的確な反応だったってことだ。もっとも、フェリーは謂わば密室なわけで、捜せば必ず見つかるに違いないと、僕は楽観的に考えてもいたけどね。

携帯が鳴った。ちゃつみからのメールだ。

―たいほされた

―知ってる

―れすぽ たのんだ

―頼まれた

―このふね いがいと ひろいんだよ

―そうなのか

 僕は見透かされたような気持ちになり、たちまち落ち着かなくなった。あわててベンチを立ち、船内へと向かう。もちろんレスポ猫の捜索のためだ。

ちゃつみがどんな状況でいるのか、もちろん気がかりだったけれど、彼女と雖も一応は乗客なのだから、あまり無茶なことにはならないだろうと僕は見当をつけていた。メールを打つ自由くらいは保証されているみたいだし、ルールがあるのなら、ルール通りに処罰されるだけだ。まさか、鮫の餌にされたりはしないさ。

 海賊船から鮫の待つ海の上に飛び出た板の上を、目隠しをされたちゃつみが歩く姿を想像して、僕は不謹慎にもちょっと笑ってしまった。彼女がアニメの主人公なら、あのいかしたパンクファッションで、まるでピーターパンのように戦うのかも知れない、と思ったからだ。

とりあえず、僕はエントランスホールのある三階から捜索を始めることにした。二階の車の積載スペースと一階の貨物室及び機関室は、当然ながら航行中は立ち入り禁止だ。もちろん、子猫にそんなことが理解できる筈もないことくらい、僕だってわかる。だけどショートボブの女の子と一緒にいるとすっかり思い込んでいたから、僕に問題意識はなかった。そうであってくれた方が見つけやすいしね。僕はどちらかというと楽観主義者なんだ。

エントランスホールの壁に架けられた船内図を、僕はあらためて確かめてみた。三階は二等船室のフロアだった。つまり、僕とちゃつみのホームスペースだ。乗船から一度も足を踏み入れてはいなかったけれどね。

 エントランスホールの中央階段を、右脇からでも左脇からでも、とにかくぐるりと後ろに回り込んで、売店横の通路を真っ直ぐに行くと客室エリアに出ることを確認して、僕はその通りに通路を辿った。

ウエストコーラル号の二等船室が絨毯を敷いた大部屋なのは標準的だったけれど、ベージュの壁に明るい証明が映えて、窓も大きく快適そうなスペースに見えた。もっとも、混雑時には定員いっぱいまで詰め込まれるわけで、横になることも出来ない筈だ。それでも、二時間半程度の航海なら、そう苦にはならないかも知れない。

子供達の夏休みも後半に入ろうとする頃だったけれど、その割りには混雑していなかった。ひとりづつ横になって寝る程度のスペースは十分確保出来そうだ。僕はフロアの中央を横切って伸びる、客室の絨毯からは一段低くなっている通路を、左右の乗船客を確かめながら行き止まりの壁まで歩いた。ショートボブの女の子の姿を見つけることは出来なかった。そのかわり、僕はちゃつみについて話す声をたっぷりと耳にした。概ねこんな感じだ。

―きれいな声だったね。

―ざらにいるよ。

―芸能人かと思った。

―うん。ちょっと特別な感じだった。

―あんなお洋服がほしい。

―ギターも良かったんじゃない。

―不安定だったよ。

―声は、でも良かったよ。

―ホテル・カリフォルニア、久しぶりに聞いたな。

―イーグルスなんてすっかり忘れてた。

―あんなのまだまださ。素人に毛が生えた程度だよ。

―イントロとか最高だった。

―プロモーションなんじゃないの。

―そうか。新人かもね。

―ゲリラ・ライブ。

―連れて行かれちゃったけど、大丈夫かな。

―あのぐらい大目に見てもいいのに。

 色んな評価はありそうだったけれど、少なくともちゃつみは三十分程度の間に、そこそこ有名人にはなっているようだった。

僕はもう一度、エントランスホールに戻り、またまた船内図を確かめた。記憶力の良い方じゃないのは認める。

四階は、三階と同じ二等船室と、加えて一等船室があった。僕はホールの中央階段を四階へと登り、吹き抜けをぐるりと囲む通路を船尾方向に回り込み、一等船室を目指した。途中で携帯を見ると、思ったとおり圏外になっていた。二時間半程度の航海中、少なくとも一時間は圏外になってしまうことは、島へ渡る時に確認していた。船内で研究できることって、こんなことぐらいだろう?

僕は一旦、四階の内部通路から右舷側の甲板に出た。もちろんちゃつみからのメールを確認するためだ。甲板だと携帯が使えるかも知れないと、ふと思ったからだ。いつだって僕は研究熱心なんだ。

舷側の甲板に足を踏み入れ、携帯が通じることを確認した瞬間、僕は彼女が船内にいる場合には、どっちみち使えないことに気づいて、舌打ちした。僕をうっかり者と呼ぶやつは多い。

その時、奇跡のように携帯が鳴った。ちゃつみからのメールだ。

「よくわからない。電波事情」

僕は呟いて、彼女のメールを開いた。

―ちょっときて

いったい何処からメールしているのか、僕は訝しんだ。

―どこ?

―ごかい とにかくまってるぜ

 五階は特等船室が4部屋と、船にたった1部屋だけのスイートルームがあるフロアだ。エントランスホールの吹き抜けの天井の上、つまり僕のいる四階のひとつ上だ。五階が四階の上にあるのは当たり前だけどね。

多分、僕と同じように甲板にいるんだろうと考えて、僕は舷側に設置されている外階段を上った。五階に着いて、甲板を一周してみたけれど、何処にも彼女の姿は無かった。仕方なく僕は船内への入口をくぐった。

右舷側から、周囲の壁に絵画の飾られた小さなホールに入り込み、左に曲がると、特等船室へと続く通路入口に、唐突な感じでちゃつみが立っていた。彼女は僕を見ると、時折、見せるはにかんだような笑顔を一瞬だけ浮かべた。でも、直ぐに眉を寄せ、小さく何度も首を振って、

「遅い」と不機嫌そうな声で云った。

彼女は本質的にとても素直なんだと、僕は思う。たまに見せてくれるはにかみ笑顔が、たったひとつの根拠だったけれど。

 五階には全く人影が無かった。二時間半の航海で特等船室でくつろごうとする人間はあまりいないと云うことだ。ましてやスイートルームなんて、二等船室の七倍の値段なんだからね。普通の人間は甲板で潮風に吹かれる方を選ぶに違いない。普通の人間ってのは、つまり庶民ってことだ。

桧那子のようなお嬢様は、多分平気で特等船室とかを選ぶんだろうなと、僕はちゃつみと会って以来初めて、桧那子のことを考えた。


「太陽帆の宇宙船の研究も楽しそうだけどさ」と、僕は云った。「たまには化石燃料使って旅行しないか。レンタカーで悪いけど」

桧那子は薄っすらと充血した目を細めて、

「あたしの前に二度とその間の抜けた顔を出すな、この裏切り者」と叫んだ。

 大学4年の春に早々とベンチャー系のコンサルタント会社への就職が内定した僕は、二年先輩で同じ宇宙工学を専攻し、大学院修士課程に在籍する彼女からしたら「裏切り者」と云えるのかもしれない。おまけに博士課程に進むための論文でのことで、彼女はノイローゼ気味だったわけだし。

 それでも僕は、ちょっと違う風に吹かれたかった。

 彼女に罵られた勢いで、僕はレンタカーを借り、海辺の地方都市からそう遠くはない山羊で有名な島を訪れ、山賊に2万円を巻上げられたあげく、今は帰りのフェリーで子猫の捜索中だ。


「さすけ。あやしげなこと考えてるな」

ちゃつみが云った。

「さすけ…って誰だよ」

彼女は真顔で僕を指差した。

ちゃつみは勝手に僕の名前を決めてしまったらしい。その上呼び捨てだ。僕は面食らってしまって、言葉が出なかった。

「今、悪そうな顔してたよ」

彼女はぼそっと云うと、左手で僕の右肘を掴んで、歩き始めた。

「こっち」

「こっちって…」

確かに、僕はその時、にやけ顔だったんだと思うよ。言い訳はしない。

 ちゃつみが僕の肘をとって招き入れたのは、あきれたことにフェリーに1部屋しかないスイートルームだった。入口の扉を開けると右に豪華な応接セットとサイドテーブル。テーブルの上には30インチくらいのテレビがおかれ、ビデオ機器もついている。正面にはシングルベッドが二つ並んで置かれ、その奥はバルコニーになっていた。部屋専用の甲板バルコニーだ。バルコニー越しの眺望は、まるでハワイあたりのリゾートホテルで云うところのオーシャン・フロント・ビューだ。

僕を入口に置き去りにしたまま、どんどん部屋の奥に向かって歩くちゃつみの後姿の向こうに、バルコニーを背にして一人の男が立っていた。ちゃつみは男の前まで進むと、こちらを振り向き、

「こちら東海さん」と、ためらう風もなく男を僕に紹介した。

 がっしりとした体育会系の体躯をした40代くらいに見えるその男は、白い健康そうな歯を見せて笑い、片手を差し出しながら、僕の前に進み出て来た。白いポロシャツにオフホワイトのジャケットを着て、短髪を後に撫で付けた男の太い首を見て、僕は大学の同期のラグビー部員が同じような首をしていたのを思い出した。

「さっき話した義理の兄の・・・」

と、ちゃつみは云った。

僕は茫然として、ラガーマンの肩越しにちゃつみの顔を見つめた。彼女はあきれるくらい自然な感じで微笑み、

「東海さんはこの船のオーナーなんですって。お義兄さん」

「東海です」

ラガーマンはそう云うと、思わず出した僕の右手を両手で握り、ひとなつっこい笑顔を見せた。それからラガーマンはジャケットの内ポケットから名刺を取り出し、僕に差し出した。

『西岸汽船株式会社 代表取締役社長 東海健太郎』

 僕は名刺を両手で受取り、しげしげと眺めた。代表取締役社長の名刺をもらうなんて、初めての経験だ。もちろん、これ以前に如何なる名刺も貰ったことはなかったんだけど。

-西なんだか東なんだか、はっきりしろよ

僕は心の中で毒づいた

「僕は名詞は・・・」

云いかけると、

「まだ学生さんなんですよね。聞きました。学生結婚。なかなかやりますね」

「・・・はあ」

僕はただそう云うしかなかった。ちゃつみがどんなストーリーを作ったのかわからない内に、うかつなことは喋れない。本当に僕の性格は名脇役だと思う。主役には向いてない。だけど、往々にして、主役の連中は脇役の有り難味に気づいていないものだ。ちゃつみはどうだったんだろうか? 彼女は、だけど、ときどきぐっとくるような表情や言動で、僕を感激させたことだけは確かだ。意識していたかどうかは別にしてね。

「そうそう」

ラガーマンが思い出したように云った。

「ちゃつみさんは、お金をお借りしているようですね」

そう云うと、財布を取り出し、

「こう云うことは、いくら兄弟間でもしっかりしないといけませんね。僕に払わせてくれませんか」

ラガーマンは財布から五枚、一万円札を引っ張り出し。ぼくに差し出した。

 僕の中のラガーマンの評価は、一気に最低ランクに落ちた。

 すると、いつの間に近づいて来たのか、ちゃつみが不意に僕らの間に割って入り、

「いいのいいの。ほら一応義兄だから、借りたと云っても、もう貰ったようなもんだし」

そう云うと、彼女はラガーマンの手から五万円を摘み取り、彼の上着の左ポケットに突っ込むと、僕の右肩とラガーマンの左肩を笑顔で二回ずつ叩いた。

 ラガーマンが名残惜しそうにしながら部屋から出て行くと、僕はほっとして、スイートルームのふかふかのソファに腰を下ろした。

「たぶん質問は無いと思うけど。そう云う事だから」

ちゃつみはにこにこしながら、バルコニーの手前のベッドに勢い良く座り込む。

「そう云う事って、どう云う事だ?」

「ちゃつみの歌が気に入ったみたい」

「ほう」

「今日の就航記念日イベントで歌ってほしいって」

「ほう」

「条件は、ゲリラ・ライブを大目に見てくれるのと、スイートルームの提供」

「…それだけ?」

「それだけだよ」

「…ギャラは?」

「ギャラ?」

「そうだよ。イベントのギャラ?」

「無いよ。そんなもん」

「そんなもんって…」

彼女は立ち上がり、僕と反対側のソファーに座ると、

「マネージャーみたいだな。さすけ」と云った。

 イベントのギャラを貰うべきかどうかは、問題じゃなかった。僕はただ、彼女に、彼女の価値をきちんと認識して欲しいと思っただけだ。それから、もしかしたら、僕が彼女の価値を誰よりも評価していることを、彼女にアピールしたかったのかも知れない。

ちゃつみは、変にまじめ顔をしている僕を見て、急にテンションが下がったように、両手の甲を太ももの下に入れて、考え込むように視線を落とした。

「いい人かな? あの人」

僕はどうでもよさそうな口調で、

「どーだろ。案外、下心満杯かもな」と応えた。

「さすけ。さすがひねくれてるな」

彼女はうつむいたまま云った。

「いやいやいや。よーく思い出してみ。援助したいとか何とか云われてないか?」

 僕はそれだけ云うと、彼女の返事なんか興味がない風に、ちゃつみの頭越しにバルコニーの外に見える水平線に視線を移した。水平線の手前を大きな波が盛り上がり、そこから数尾の飛び魚が跳び出すのが見えた。彼らがただジャンプするのではなく、ちゃんとヒレを使って左右に飛行することを、僕はその時初めて知った。

興奮して、ちゃつみに伝えようと彼女を見ると、うつむいた彼女の肩が小刻みに震えているのに気がついた。

ちゃつみが泣くと云う、想像もしていなかった事態に、僕はうろたえた。

「何かごめん」

僕は立ち上がり、ソファの低いテーブル越しに彼女の肩に手を添えようとした。

「そこを動くな」

彼女が云った。

「あ。いや。でも、泣いてるから」

僕は座るでもなく、立つでもなく、ふらふらと中腰になった。

「は? 誰が泣いてるって」

彼女はそう云うと、ソファの上にひょいと飛び乗り、

「とにかく、さすけはそこに座れい」と、右手でまたピストルを作って、僕に突きつけた。

 僕は彼女に云われるまま、すとんと腰を落とした。何度も云うようだけど、ピストルを突きつけられたらしょうがないよね?

「いい。そこ動いちゃだめだからね」

「どうして?」

「…危ないから」

「何が?」

 僕は何も理解出来ないまま、ちゃつみの顔を茫然と見上げた。少しだけ頬が紅くなってるように思えたけれど、泣いてないと云われたら、そうかも知れない。

「何が危ない? 誰が危ない?」

僕は左右をきょろきょろした。

「ふふふ。スイートに二人でいたら、危ないだろ? ちゃつみが」

彼女はそう云うと、背もたれを軽快に跨いで、ソファの後ろに着地した。彼女にはピーターパン役がいつ来ても大丈夫だ。マネージャの僕が太鼓判を押す。

「たしかに・・・」

ちゃつみは、手のピストルで僕に今度は立つようにと指示を出しながら云った。

「云われた。君を援助したいって。デビューから何から。知り合いが業界にいるとかなんとか云って」

「まじか?」

僕はラガーマンの健康そうな笑顔に、頭の中でパンチしていた。

「そそ。良い話だと思わん?」

「やめとけ。胡散臭い」

僕はホールドアップしながら、ゆっくりと立ち上がった。

「何で? 西岸汽船の社長だよ。胡散臭くないだろ。さすけより」

そう云われると、僕に返す言葉は無い。でも、ここで負ける訳にはいかないので、

「本気でそう思ってる? 下心みえみえだぞ、あのラガーマン」

「ははん」

ちゃつみは、ちょっと上を向く感じで、細い顎をくいっと突き出し、右の眉をすこし持ち上げて、

「やきもちだな。さすけ。やきもちなんだな」と、云った。

「何とでも云えよ」

むっとする僕に、今度はドアへ向かうようにと、彼女のピストルが指示して来た。

「…まさか、追い出す気?」

「任務」

「?」

「レスポ」

「あ!」

そう。僕は確かに、レスポ猫のことをすっかり忘れていた。だけど、こっちの子猫の方が、僕にとってよっぽど気がかりだった。彼女が何だか風前の灯火のように思えたからだ。

「やっぱ忘れてたか。使えんな。さすけ」

「…訊きたいんだけど」

僕はドアに向かってあとずさりしながら、

「なんで義理の兄貴?」

「説明しやすいから。関係を」

「…でも、義理でなくても」

「乗船名簿見られたら、苗字違うのばれちゃうでしょ?」

ちゃつみの顔立ちや、ファッション、話し方には騙されない方が良い。この子猫は意外に賢い。

「行って」

僕がドアの前まで辿り着くと、

「これからバンドマンと打ち合わせだから、命が惜しかったら六時にはレスポを連れて、ココに戻ってくることね」

僕はホールドアップしたまま左手の腕時計を見た。既に五時半を回っていた。

「…無理かも」

僕が五階の通路に追い出されると、

「やめる」と、スイートルームの入口から上半身だけ通路に出して、彼女が云った。

「援助、断る。マネージャーが云うのなら、仕方ない」

例のはにかみ笑いを浮かべると、彼女はドアを閉めた。まるでマフィアのように、ちゃつみは人の心を巧みに操縦するんだ。

 ちゃつみの言葉に勇気づけられて、僕は四階から再び捜査を始めた。男なんてみんな単純なもんだ。

一等船室は二等船室とほとんど同じ作りだったけれど、ひとりひとりに毛布が用意されていて、そこが謂わば指定席になっている。僕は二等船室と同じように、左右の乗船客を見ながら、端から端まで通路を辿ったけれど、何の成果も得られなかった。四階にある二等船室も、徒労に終わった。

「厄介だな」

僕はため息をついて、五階に上った。ちゃつみのスイートルームと、特等船室が四部屋あるフロアだ。船尾方向に向かって通路右側に三部屋、左側に一部屋とスイートルームだ。つまりスイートは特等船室の二倍のスペースと云うことになる。

 一部屋ずつ、ノックして回るしかないな、と僕は覚悟を決め、とりあえず一旦、通路を突き当たりまで進んだ。それから、最上部の甲板へと続く階段の手前で回れ右をして、左舷側の端の部屋をノックしてみた。返事は無い。どうやら空き部屋のようだ。その部屋の向かいはちゃつみのスイートなので、次に僕は左舷側に三つ並んでいる特等船室の、ちょうど真ん中に当たる部屋の前に進んだ。

ノックしようとした時、通路の奥、僕がついさっき五階に辿り着いたばかりの階段から声が聞こえてきた。そして僕はとうとう、あのショートボブの女の子を発見した。

「返さなきゃ駄目?」

ショートボブの子が云った。

「飼い主がわかっているんだから、ちゃんと返さないとね」

女の子の手をひいて階段を上ってきた母親が云った。

「黙って連れてくるとドロボウになっちゃうんだよ」

階段を上りきると、二人は右舷の部屋、つまりちゃつみの隣の特等船室に入った。

「灯台もと暗し」

そう呟いて、僕が子猫ドロボウの部屋に向かおうとした時、

「ねね」と後ろから肩を叩かれた。びっくりして振り返ると、ちゃつみが立っていた。彼女はバンドメンバーと最上部の甲板で打ち合わせしていたらしく、両手でギターケースを抱えていた。彼女の背後の階段を、ジーパンにお揃いのアロハシャツを着たバンドメンバー五人が次々と降りてきて、

「マハロ!」と、上機嫌で彼女に声をかけて行く。彼女は、右手の親指と小指を立てたハングルーズを顔の横で小さく振って、ひとりひとりに笑みを返した。どうやらすっかり気に入られたみたいだ。

「え。ハワイアン?」

僕が訊くと、

「みたいだねぇ」

彼女は悪戯っぽくにんまりした。

「見つけたよ」僕は多少興奮して、彼女に云った。

「何?」

「レスポの誘拐犯」

すると彼女は、またしても僕の右肘を左手で掴んで、彼女の部屋へと導き、入口横のソファーに僕を座らせた。そして、

「そこから動かないで」と云った。そして、

「新しい指令。…レスポのことは、もうほっときなさい。以上」

彼女はそう云うと、僕にスイートルームの鍵を投げてよこした。

「音あわせあるから、もう行く。さすけはちょっとここで休んでていいよ。でも、ライブは六時半からだから遅れるな。鍵、閉め忘れるな。それからレスポのことは忘れろ。じゃね! マハロ」

ちゃつみはまくし立てて、笑顔のシャカサインで出て行った。僕はソファーに座ったまま彼女の真似をして、左手で親指と小指を立てたサインを作り、しげしげと眺めた。だけど、すべての謎は、あいかわらず謎のままだった。


 イベントホールは、ウエストコーラル号の船尾に設けられていて、三階、四階の吹き抜けホールだった。客室乗務員が宣伝して回っていたおかげで、白い丸テーブルのそれぞれに4脚あるチェアにはどれも空きは無く、四階の手すりにも乗客が鈴なりの状態だった。こんなに船尾に集まったら、タイタニック号みたいに沈んじゃうんじゃないかと、不安に思ったほどだ。

 僕がホールに到着すると、待っていたようにひょっこりと舞台そでから顔を出したちゃつみが、そのまま駆け寄って来た。彼女のゲリラ・ライブを見ていたに違いない、舞台左そでの上方で、四階の手すり近くにいる観客がどよめいた。そして拍手だ。

「何だかスターだな」

拍手してくれた数名の観客の方に向かって、屈託の無い笑顔でお気に入りのシャカサインを送るちゃつみに、僕が云うと、

「…いつかは本物になるさ」と彼女は横顔で呟いた。

「席、用意しといた」

ちゃつみはそう云うと、最前列の丸テーブルまで僕を引っ張って行って、チェアを占拠していた白い制服の、たぶん勤務したての若い乗務員に、

「ありがとう」とお礼を云った。

乗務員は僕に席を譲ると、

「がんばって」と、泣き顔のようなくしゃくしゃの笑顔で云うと、去って行った。

 やがて就航記念日のイベントが始まった。前半は、バンドが定番のハワイアン・メドレーを何曲か演奏し、ちゃつみが登場したのは、後半からだ。

 ちゃつみが舞台そでからステージに上がると、すっかり彼女のファンになったらしい四階の手すり前の一団が歓声を上げた。彼女はステージ中央の背の高い椅子によじ登るように腰掛けると、隣に置かれていたギターを手に取った。

 それから彼女は、ハワイアンバンドとの打ち合わせの通り、ペティ・ブーカのアルバムから、「プリティー・リトル・ベイビー」「白い色は恋人の色」、そしてオリビア・ニュートン=ジョンの「そよ風の誘惑」、「ザナドゥ」と、次々に歌いこなした。

 いかにもハワイアンバンドらしい選曲だった。もしかしたら、ちゃつみとハワイアンバンドの妥協の産物だったのかも知れない。だけど、彼女の気取らない、素直な声は、どの曲とも良くマッチしていて、とてもキュートなライブになった。

ちゃつみが四曲を歌い終わったところへ、女の子がステージの前に進み出て来た。レスポ猫誘拐事件の真犯人だ。最前列の僕の席のすぐ前で、女の子はぶら下げてきたペットゲージをステージの上に置いた。中にはもちろん誘拐された可愛そうなレスポ猫だ。むすっとした顔をして寝転んでいる。

ちゃつみはギターを置いて、ステージ前方に歩み出た。そして、しゃがみ込むと、

「お名前は?」と女の子に訊いた。

「…うみのひと」

緊張しているのか、女の子は言葉尻で唾を飲み込んでしまって、最後のたぶん一音だけ聞こえなかった。

-最後は「み」だな

僕は頭の中で、勝手に女の子の言葉をおぎなった

 それにしても、良く聞こえる会話だな、と思ったら、あきれたことに、ちゃつみはマイクをしっかり持っていた。まるでワイドショーのインタビュアーのようだ。でも、それは彼女なりに考えがあってのことだった。

「可愛いね」

ちゃつみが続けた。

「この子、お名前はあるの?」

女の子は答えようもなくて、顔を紅くして首を左右に振るだけだ。

「じゃあ、レスポだな。レスポにしよう」

観客がちょっと笑った。

「可愛がれえ」

ちゃつみはそう云うと、女の子の頭に手を置いた。そして、立ち上がると、

「でも、ペットの船内持込は許可が必要ですからね、皆さん」とにっこりした。

また、観客が笑った。

「あそこのおじさんは、この船で一番エライ人だから」と、ちゃつみはステージから僕の隣を指差した。

 僕は隣の席を見て、ぎょっとした。ラガーマンがにやけ顔を紅くして座っていたからだ。

「あのおじちゃんに頼めば、全部大丈夫。オッケ? オーナー長」

ちゃつみがそう云うと、ラガーマンは無理やりな感じの笑顔を作り、両手で丸を作って見せた。観客が拍手すると、今度は本当にうれしそうに笑った。

「何だ、そりゃ」と、僕は小声で呟いた。

 こうして彼女のショート・ライブは、あっけないほどすぐに終わってしまった。

 最後に彼女は、もう一度、ホテル・カリフォルニアを歌った。四階の手すりの客が、大声でアンコールを求めたからだ。


― Welcome to the Hotel California

― Such a lovely place

― Such a lovely face

― They livin' it up at the Hotel California

― What a nice surprise, bring your alibis

― Mirrors on the ceiling,

― The pink champagne on ice

― And she said 'We are all just prisoners here, of our own device'

― And in the master's chambers,

― They gathered for the feast

― The stab it with their steely knives,

― But they just can't kill the beast

― Last thing I remember, I was Running for the door

― I had to find the passage back

― To the place I was before

― 'Relax,' said the night man,

― We are programmed to receive.

― You can checkout any time you like,

― but you can never leave!


―ようこそ、ホテルカリフォルニアへ。

―ここはとても素敵な場所。

―みんな素敵な人ばかり。

―誰もがここでは人生を楽しんでいる。

―アリバイを作って、楽しんでいる。

―天井には鏡。

―ピンクシャンパンには氷。

―「みんな自ら囚われの身になったのよ」と彼女の声。

―さあ、祝宴の準備は整った。

―誰もが鋭いナイフを獣に突き立てる。

―だけど、内なる獣をてなずけるなんて、誰にも出来っこない。

―僕はいつしか出口を捜して走り回っていた。

―いつかいた場所へ戻るために。

―まあ落ち着きなよ。夜警が僕をたしなめて云った。

―俺たちはただ運命を受け入れるようにしか出来ていない。

―いつでも好きなときに(ここ)テルをチェックアウトしていいさ。

―だけどここ命から逃れ去ることなんて出来やしないんだぜ。


 ちゃつみはルーフを取り外すと、トランクに仕舞って、カプチーノをオープンカーにした。ケースごと助手席に立たせたギターにシートベルトをすると、彼女はエンジンをかける。それから室内のバックミラーを調整して、直ぐ後ろのレンタカーの僕を見た。僕は運転席から彼女に笑いかけた。すると彼女はポシェットから携帯を取り出す。やがて、僕の携帯が鳴った。

-いろいろ ありがと やっとさよならできるねぇ

-また、メールしていいか?

彼女は携帯をポシェットに仕舞い込み、サングラスをかけると、それっきり、僕の返信を見る様子は無かった。

 やがて、フェリーの大きな乗降口が開いた。地方都市の不揃いなビル群と、その向こうの山並みが夕陽を浴びて輝いていたのを覚えている。ちゃつみはカプチーノをゆっくりと滑らせ、フェリーから岸壁に渡されたブリッジ降橋を渡った。僕は彼女の車のすぐ後ろをついて行った。

 やがて彼女は広い埠頭を海沿いに走り始めた。

 ちょっと岸壁に寄り過ぎてるな、と僕が思った時、ちゃつみが左手を使って、シート横に置いたポシェットから携帯を取り出すのが見えた。彼女は右手に携帯を持ち替え、その手をオープンカーから空にかざすと、僕に見えるように左右に振って見せた。そして、車から夕陽を受けて輝く海に、彼女の携帯を投げ捨てた。

 彼女の携帯はオレンジ色の大気の中をきらきらと輝きながら放物線を描き、海面に飛び込んでも大して飛沫も上げず、波紋も広げずに、海水に呑まれて消えた。

 黄色いカプチーノはそれから急にスピードを上げて、あっという間に埠頭を離れ、地方都市の街路に飛び込むと、僕の視界から永遠に消え去った。


  ----------------


春とは名ばかりの、肌寒い日々が続いていた四月も、やがて終わろうとしていた。僕が待ち合わせに選んだ日曜日は、気まぐれな太陽が初夏を思わせる暑い光の束を、午前中から若者で賑わう街角に降り注いでいた。駅前広場のモニュメントの前で、僕は綿のジャケットを脱いで、植込みを囲む低いコンクリートの壁にチノパンのお尻を浅く乗せて座った。

Tシャツ一枚になると、時折り交差点を吹き抜ける風が、頸や腕の皮膚の表面から熱を拭い去り、僕に休日の解放感をもたらしてくれた。

 初任給をもらって最初の日曜日だった。僕は家賃と一ヶ月の生活費を除いた残りの全てを財布に入れて(と云っても、仕送りを貰っている学生の方がはるかにお金持ちなんだろうけど)、約束の場所でのんびりと桧那子を待っていた。無事に修士論文が認められた桧那子は、春からは博士課程に進学していた。相変わらず、太陽帆で進む宇宙船に彼女は夢中だった。

 彼女と彼女のチームの基礎研究が、未来の惑星間移動にどの程度役立つのか、第一、そんな未来が人類にあるのか、なんてことは僕にはさっぱり見当がつかない。だけど、少なくとも桧那子はそれを信じていて、大学内の煩わしい政治的な動き、例えば奇々怪々な教授選や学部長選にかかわる駆け引きなどに、時々悪態をつき、愚痴をこぼしながらも、何とか彼女なりのやり甲斐と喜びを見出していた。

 ちゃつみはどんな未来を思い描いていたんだろうかと、時々僕は考えた。そしてその度に、去年の夏のほんの二時間半程度のフェリーの旅が、現実だったのかどうか、信じられないような気持ちになった。だけど、確かに僕の携帯には、彼女の何気ない言葉の断片がいくつも記録されているのだ。

 交差点に面したビルの壁面を覆う巨大な街頭モニターが、ソフトドリンクや化粧品、車などの雑多な広告を次々と映し出す。僕と同じように、駅前広場に点々と佇む男の子達や女の子達は、スクリーンに流れる映像をぼうっと見上げている。そして時折り、思い出したように左右を伺い、時計や携帯に目を遣る。待ち合わせの相手が現れるまで、大抵はその繰り返しだ。

 交差点の反対側。巨大スクリーンのビルの下にぽっかりと口を開いた地下鉄の入口から桧那子が姿を現した。待ち合わせの時間、丁度だった。僕は立ち上がり、交差点前の歩道際まで進み、右手を控えめに上げて見せた。すると、彼女も直ぐに僕に気がついた。だけど、素っ気なく頷いて見せただけだ。彼女は笑顔の無駄遣いが嫌いだった。だけど、時折り一緒の時間に見せてくれる笑顔は、僕をとても幸福な気持ちで満たした。

 ジーンズ姿の桧那子は、グレーのトレーナーの上からオリーブ色の軽そうなモッズコートをはおり、セミロングの髪を後ろで無造作に縛っていた。深夜に近所のコンビニにでも出掛けるような格好だったけれど、いつだって動きやすさが彼女のテーマだったんだから仕方がない。もちろん、鞄なんて持っていない。たぶん化粧もしてないし、彼女にとって必要な最低限のものは全てポケットの中にある。

 信号が青になると、桧那子はコートのポケットに両手を突っ込み、こちらに向かって駆け出した。彼女が交差点の中ほどまで辿り着いた時だった。

「いつかは本物になるさ」

記憶の底からよみがえった声が、現実に僕の鼓膜を震わせ、不意打ちの懐かしさが僕の胸を締め付けた。驚いて、僕は桧那子から、声が落ちて来た彼女の上方の、巨大モニターに視線を移した。

 セミショートの黒い髪をふんわりと巻き髪にした、あの日と変わらない彼女の顔がスクリーンに大きく映し出されていた。


 スイートパンクなガールズバンド

 ナナ・サターン

 ― NANAn␣SATURN ―

 ― guitar vocal words music ―CYAZUMI―


 ひと言発しただけのインタビュー。ちゃつみの顔の下をテロップが流れると、すぐに彼女たちのプロモーション・ビデオが始まった。

 彼女を含めて4人のバンド構成だったけれど、どちらかと云うとルックス重視の感は否めなかった。ただ、彼女の曲は、とても疾走感のあるアレンジにも恵まれて、誰もが心地よく入り込めるメロディーラインだったし、相変わらず飾らない感じでありながら、余裕の感じられる声質はやはり魅力的だった。レコード会社も大手だったので、事務所に恵まれていて上手くメディアを使えれば、それなりに人気の出そうなユニットに思えた。

 いつの間にか、僕の前に到着していた桧那子は、茫然とスクリーンを見上げている僕を見て、怪訝そうに僕の視線の方を振り返った。そして、僕の横に並んで立って、一緒にプロモーションビデオを鑑賞し始めた。いかにも彼女らしく何も云わずにね。短く編集されたビデオが終わると、

「あんなんがお好みですか?」

と、関西弁で云った。奈良出身の彼女が関西弁を使う時は、大抵い機嫌が悪い。

「どっちつかずのバンドや思うわ。可愛らしい格好して。アイドル路線か、本格バンドか。どっちで行きたいんだか。まあ、リードボーカルの子は確かに良かったわ。けど、あんまり好きやないなあ、うちは。曲もどっか惜しい感じやね」

 それから桧那子は、

「今日はせいぜい、たくさん奢ってもらうことにするわ」

そう云うと、僕の腕を取って、点滅し始めた信号と競争でもするかのように、交差点を駆け出した。

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