八月・海風
アントニーが消えたのは、巨鯨が現れた日の前の晩だった。だから人々は言った。アントニーは鯨になったのだと。
***
August
「母さんが泣いた」
まるで、こんな真夏に雪を見たのだと告白するように、ヴィンセントは言った。
いつも通り、これから遊ぼうと、晴れた日でも船が二つ三つしか出ない埠頭に来たところだった。学校が終わってから遊ぶ前に、ホワイトさんの屋台でホットドッグを買って、船着き場まで行って食べるのが、この頃の二人のお決まりだった。ホワイトさんのホットドッグはいくら食べても飽きなかった。
アントニーは片眉を上げて、暫く何も言えなかった。その間、熱々のホットドッグに嚙みつこうとしていた口は開いたままで、酷く間抜けな状態だった。
「母さんが泣いた」
ヴィンスはトニーに聞こえていないと思ったのか、もう一度繰り返した。トニーはLサイズの半分を一回で口に押し込んで、ヴィンスを見た。
「おばさんが。嘘だろ?」
「ホントさ」
ヴィンスはホットドッグのレタスだけを歯で抜いて食べた。彼がレタスだけ先に食べるのは、落ち込んでいる時だ。
「何があったんだよ」
「知らないよ」
ヴィンスは口を尖らせた。隣で翼を休めていた海猫とそっくりの顔になっていた。
「何かあったんだろ」
「何かあったらしいな。兄さんの間で。俺は知ったこっちゃ無いよ」
虫でも口に入ったように吐き捨てる。ヴィンスにしては珍しいことだった。この狭い街でヴィンスは、トニーとともに救いようの無いやんちゃ坊主だということともう一つ、素晴らしい親孝行者として知られていた。
確かに彼には、家出も、親の謝るような大それた悪戯も無かった。この齢で親に、親が素敵だと思うプレゼントを贈ったことがあるのは、トニー達の小さな街ではヴィンスだけかもしれない。
ヴィンスの兄のレイモンドなんて、ヴィンスとトニーには兄貴面をしていたが、弟より三つ上な癖、親に贈ったことがあるのは蛙三匹と蚯蚓をバケツ一杯にだけ。
「へえ。レイが」
トニーは二口目で全部ホットドッグを口に入れて飲み込んでから、指についたケチャップを舐めた。海からの風が、火照った指を冷たくして走って行った。
「昨日、帰ったら母さんが変でさ」
それで、どうしたんだってしつこく聞いたんだ。
その親孝行者は言った。
彼が帰った時には、おばさんは笑っていたという。だから最初は、機嫌が良いのかと思ったと。しかし違うのだ。
「何か変だなって思って、俺、どうしたって聞いたんだ」
ヴィンスはチッと舌を鳴らす。
「そうしたらさ。『何でもない』って言い張るんだよ。だからと言って、何かあったって隠す気も無いの。結局最後には話したしさ」
トニーは何も言わずに頷いた。ヴィンスは虫でも食ったかのような顔をして続けた。
「何というか、『嫌なことがあったけど、子供に心配かけたくないから黙ってる健気な親』っていうポーズを俺に見せようとしてる気がして」
ヴィンスがそこで言葉を切る。波が浮いた船を揺らして、コトンコトンと岸に当たる音がした。トニーは空を仰いだ。
「あー、そういう、ねぇ……」
「何だよ」
ヴィンスはまた口を尖らす。ピノキオの鼻みたく、伸びて戻らなくなってしまうのではなかろうかと、トニーは思った。
「ヴィンセント=フォスターよ」
トニーは胸を張って、背を丸めたヴィンスを、トニーの知る限り最も腹の立つ顔で見下ろす。ヴィンスは思い切り、鬱陶しそうな顔をした。
「だから、何だよ」
声が小型のナイフより尖っている。唯一の親友も、母さんの味方をするのか。そう言いたげな声だ。
トニーはふっと息を吐いて、ヴィンスを小突いた。
「俺ももし母さんにそれをされたら、イラっとするぜ」
ヴィンスは眉を上げて、目を開いた。肩の力が抜けて、口元の尖りが少しだけ解ける。
「……だろ?」
「ああ。隠すか言うか、どっちかにしろよって思うよな。それでお前が『何でもないんだね、分かった』って言ったら、不満な顔するんだろうし」
「そうさ」
ヴィンスの目元がふっと緩んで、それを隠すように俯いた。
海が凪いでいた。いつも静かな船着き場が、波一つ無かった。それなのに、打ち寄せる波の音が遠くからずっと聞こえていた。太陽のギラギラした光と、海鳥の声だけがうるさかった。
「行こうぜ。あとの話は、あっちで聞くよ」
トニーは膝に手をついて立ち、親指で自転車を指した。12の頃に小遣いを貯めて買った、壊れかけの愛車だ。隣に並ぶヴィンスの自転車も、負けず劣らず汚れている。
あっち、こと、北側の造船所の廃倉庫である。今も元気に稼働している工場。その裏手にひっそりとある、忘れられた小さな倉庫。二人はそこを、四六時中鳴り響く騒音を除けば、居心地の良い隠れ家に仕上げていた。
「そうしよう」
ヴィンスも立ち上がって、ジーンズについた埃を払った。傾いた杭に止まっていた鳥が、ヴィンスが立ったのに驚いて飛んで行った。
二人の素敵な隠れ家は、おそらくこの街の誰も知らなかった。大人だけでなく、ヴィンス達と同じ齢の子供でさえ。小さいと言えど、倉庫は倉庫。普通なら、二人で過ごすにはあまりに寂しい大きさだが、ヴィンスとトニーはそんなことを気にしたことは無かった。
彼らはこの、騒音に包まれた二人だけの家をとても気に入っていたし、これからも誰かを招く気は無かった。
「おい、ヴィンス」
トニーが入口の前でヴィンスを肘で小突くと、ヴィンスは口をにやけさせた。呆れてくるりと目玉を回したが、それでも口を開く。
「小さい鯨は誰のもの? 大きい鯨は誰のもの?」
トニーは腰に手を当ててふんぞり返る。
「小さい鯨は海のもの。大きい鯨は俺のもの」
ヴィンスは片眉を上げて、肩を竦めた。
「正解。これ、やる意味ある?」
「大アリさ」
トニーはにっと笑って、錆びついたドアを引いた。一歩踏み込むと、工場の機械音が、どこか遠くのものになる。外よりいくらか涼しい空気が、二人を包み込んだ。
10、いや、もっと小さい頃からの合言葉だった。他は何故か分からないが、「鯨」その言葉が入っているのはきっと、これのせいだ。
トニーは天井を仰いだ。何本もの鉄骨の向こうに、大きな二匹の鯨が悠々と泳いでいた。圧倒的な大きさと、色。何度でも見惚れられた。一つははっとするほど繊細な、青灰色の鯨。脆くて儚くて、触れれば散ってしまいそうな色。もう一つは、黒と灰。凜としていてクールで、でもやはり、触れれば解けて消えてしまう、魔法のような色。金属パネルに張り付いた絵の筈なのに、トニーはこれまで何度も、それの鰭が動いたのを見た。
「まーた見惚れてる」
「悪かったな。仕方ないだろ」
トニーは鯨から目を引き剥がして、倉庫の隅に置いてあるクッションの山に身を投げ出した。一瞬、全身の熱が心地よくクッションに持っていかれて、しかしすぐに暑苦しくなる。動く気は起きなくて、トニーはそのまま背に熱を溜め込んだ。ヴィンスは山の下にドカリと座り込む。
「はは、確かに。仕方ないな」
ヴィンスは天井を見上げて、口の端を上げた。誰が描いたかも分からない絵だ。そもそもトニーは、この絵を見るまで鯨を知らなかった。浅瀬に鯨は来ないから、船着き場の街の人間で、鯨を見たことがある者は、大人でも数えるほどしか居なかった。
二人がここを見つけた時には、この二匹の鯨は既に、向かい合ってここに泳いでいた。二人がいくつかある廃工場の中でもここに決めたのも、この鯨たちが居たからに他ならない。
工場の機械が動く音が、何重にも重なって聞こえて来た。鯨の声は色々あると聞く。もし鯨の群れがあったら、こんな声なのかもしれない、と、トニーは関係の無いことを思った。
「……で」
トニーは鯨を見上げたまま、口を開いた。
「お前の母さんの話は、何だったんだよ」
「ああ」
ヴィンスは思い出したように呟いた。膝を抱え込んで、天井の青灰色の鯨を見つめる。
「俺、母さんに、どうしたんだってしつこく聞いたんだ」
おばさんは、優しい息子の手を握って、とつとつと話した。レイの成績が相当悪いこと。その件で話をしようとしたら、彼が嫌がって石になったように黙ったこと。途中から叱るような言い方になったこと。レイが怒って、自分の部屋に閉じこもったこと。
「握られた手を見ながら聞いててさ。何かあったかい水が手の上に落ちて。ふと顔を上げて見たら、母さんが泣いてた」
ヴィンスはぎゅっと膝にしがみついて縮こまった。トニーは何も言えなかった。目が痛くなるくらい、黒い鯨を睨んでいた。
「俺、焦って。でも、何て言えば良いのか分からなくて」
「……うん」
親友が相槌を打つと、ヴィンスは膝に巻きついた腕を少し緩めた。
「どっちにしても、俺が知りたくないことばっかりだった」
ヴィンスの声が、工場の重低音に紛れるように低くなった。
兄のテストに赤で書かれる数字が芳しくないのも、それで母が兄を叱ったのも。そのことを後悔しているのも、母親が兄の育て方を間違ったかもしれないと思っているのも。全部。
「知りたくなかった」
母さんがあんな風に泣くのも。
悩める末っ子は、絞り出すように呟いた。
「……そりゃあな。知りたくないよな。そんなこと」
ヴィンスは小さく頷いて、クッションを一つ取り、それに深く顔を埋めた。
鯨の歌はただの騒音に戻って、二人を包んでいた。トニーは初めて、この倉庫があんまり広いと思った。もう少し狭ければ良かったと。そうすればきっと、トニーはきっと、もう少しヴィンスに近いところに座っていて、ヴィンスの背を励ますように叩けた筈だから。
完成できるように頑張ります。読んでいただきありがとうございます。




